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「交野探訪」拾い話

(一即一切、一切即一)

木下勇作

<星と緑と歴史の里、交野を歩く>

@明智光秀のことに触れる。あの天才、織田信長を京都は本能寺で殺(あやめ)た人物として名を馳せ今に伝わる。彼のことは『交野探訪』の中でも 取り上げたが、郷土史家、和久田薫さんからお聞きした印象に残っている話があるのだ。

 巻末に年表がある。上に日本・世界を下に交野歴史を掲載している。

 この交野年表は和久田さんの全面的なご協力の下で出来上がったものだが、和久田さんがおっしゃった光秀にまつわる言葉が、こころを過ぎる・・・。

 「木下さん、信長を自裁におい込み、討ち果たした後、光秀交野にある機物神社に詣で 祈願していますね」

何を祈願したのだろう、明智光秀・・・

光秀機物神社に初穂料を奉納したのが1582年6月9日・・・。

 彼はこれからの戦いに勝利し、その後、天下を統べることがでるきるかどうかについては確たる自信を持ちえていなかったとみる。

 光秀は天才、信長を夜襲に近い形で倒したことについて内心では少なからず動揺てしていた筈である。

 光秀は、いうならば、道徳律の高さ、教養の深さにおいては他の武将の追随を許さない存在ではあった。が、戦国の世を終結させ、天下統一に向けて疾走しなければならない武将としては、それゆえに甘さを並存していたのではないかと愚考する。

 そうした光秀なら同神社では戦勝祈願もさることながら、むしろ信長鎮魂を願ったのではないかと思えてならないのだ・・・。

 また光秀は、この4日後(1582年6月13日)の山城・山崎の戦いで秀吉軍(4万余)に自軍(1万4000)で勝利し得るという確たる戦略をもたないまま戦いに臨んだのではなかろうか・・・。

 つまり血縁になった細川幽斎親子などから戦いの協力を得れなかった光秀なのだから・・・。

 大いに落胆したに違いない・・・光秀の無念の表情が浮かぶ・・・。もはや光秀は、山崎での勝利を半ばあきらめていたのではないかとさえ思えるのだ。

 光秀という武士は、残念なことではあるが、優秀なる参謀たりえても所詮、「天下人」になれる器量の持ち主ではなかった。

 しかし、このような謀反を起こすことなく天下泰平の世にもし光秀が生き得たとすれば、明晰なる頭脳を駆使して大いなる働きをしたであろうことは間違いなかった。

「実に残念なことではあった・・・」

 光秀信長を討ち果たした後、とめどなく、とめどなく後悔の念が胸いっぱいにひろがったのではなかろうか・・・天下人としての己が力量のなさをいやというほど味わったのであろう・・・。

 私見としては、光秀は日本史上、「実に惜しい漢」であった、と指摘しておきたい。

 「交野探訪」158Pの年表にあるほか、光秀のことも本文に書いている。また、この「本能寺の変」に気を揉む交野の長(おさ)、平井氏の思いにも触れており、想像を巡らせれば面白く読んでいただけると思う。

 さて「交野探訪」をお読みいただければお分かりいただけるかと思うが、交野市は妙見宮のからみで「光明真言」「虚空蔵菩薩真言」「薬師如来真言」「不動明王真言」などかなり多くの真言を書き込んでおります。

 私のこれまでのささやかな真言密教の勉学を生かせたという意味では内心ほっとしている。

でもそこは独学の悲しさでもある・・・。

 「この真言は、はたしてこれで正確なのだろうか」とふと思案したとき、よく相談にのってもらったのが、種芸種智院大学教授であられた山崎泰広さんだった。

 氏とは新聞記者のときから幾たびも会食をともにしていただき、打ち解けた雰囲気のなかで真言密教について教わったのであった。

学問とともに「行」に真剣に取り組まれている方である。

(2004年2月3日)

 

A:地元で「交野探訪」を120冊、取次店=(卸)から仕 入れ、120冊を引き受けていただいた柿木さん経営のネヲ書房に2月6日お礼の電 話を入れた。

「はい、ネオ書房です」。電話の声は柿木さんのご令室。

 「木下といいますが、有り難うございます。沢山、私の本を引き受けていただ きまして・・・」

「主人が言っていましたが後、3冊残すのみで全部、売れ切れました」

私のこころはは感謝の気持ちと嬉しさでいっぱいになった。

「主人は改めて発注しなければと言っていました・・・」

 「あの、残りの3冊は私が買います。私の持分は25冊でしたが、ぜひ、お贈りしなければならない人がまだ、まだ、ありますので・・・」と喜びとともに慌てて注文した。

 そのほか交野、枚方市市域の数店の書店でも予想以上の売れ行きを和久田さんに伝え、共に喜びを分かち合った。

 和久田さんが、郷土史家とし蓄えられた知識を惜しみなく提供してくださったことは、この欄でも紹介したが、とっておきの秘話紹介しよう。

 拙宅に一部屋 だけある畳敷きの部屋で2回、ゲラ直しの共同作業を執り行った。

1回目は約2時間。2回目約3時間だった。

いずれも休みなしのぶっ通しである。

 初回のときは家内が気を利かして小用を足しに出られるだろうと便所をきれいに掃除していた。

が、無用だった。ずーと正座で通された・・・。

 2回目ともなれば、ある事例の表現についてさらに根を詰めて検証する。ある箇所で2人とも考えあぐねた・・・。

 それも2時間を少し超えたころだった。沈黙すること10分近く・・・。私の頭脳もフル回転、恐らく和久田さんもそうだったと思う。

 「どうだ!木下さん!これでいったらどうだ!木下さん! どうだ!どう だ!・・・

思わず迫力のある和久田さんの声が部屋中に響きわたった。

 「ええ、それでいきましょう」と私も自然といつもより大きな声を発したが、とてもとても、和久田さんの気迫には、ほど遠かった。

 私は思ったものだった。やはり、平安時代からしっかりとした系図をお持ちの武辺者であり、妙見宮の宮司を務めた家柄である。このときの和久田さんの表情は正に武将の顔だった。

 和久田さんは販売する書店まで気を使ってくださった。ネオ書房もその一つである。私は交野の人々の気概と紐帯(ちゅうたい)の凄さに感動したのだ。(2004年2月6日)

 

B:取材というよりもこの題名のごとく交野地域のあちこちを探訪した。その昔、京や奈良の宮人らが、この地を訪れ、残した歌が至るところに掲げてあるのを発見した。

 「またやみん交野の御野のさくら狩り、花の雪散る春 の曙」。この本の中で紹介した藤原俊成の歌だ。

機物神社には、紀貫之の歌碑がある。

「一年に 一夜と思えど たなばたの 逢い見む 秋の限りなき哉」

 貫之は稲穂の黄色に染まる交野の里を遊猟に訪れた時、いつも、愛の契りを結んでいる機織娘との恋を歌い上げた。

 貫之を待つ女ごころは、切なく焦がれ、時には貫之に訴えたであろう・・・その哀しさを・・・。でも機織娘の情愛を歌人である貫之の感性が見逃す筈がない。

二人の愛は逢うたびに深まっていくのだった・・・。

 織姫牽牛が天の川に架かる逢合橋年に1度の逢瀬を愉しむ七夕伝説ーー。

恋歌・・・恋歌・・・。

「狩くらし棚機つ女に宿からん 天の川原にわれはきにけり」(在原業平=伊勢物語)

「天の川とほきわたりになりにけり 交野の御野の五月雨の頃」(続後撰集)

「これやこの七夕つめの 恋わたる天の川原の鵲(かささぎ)のはし」(中務 内侍日記)

このほかにも交野の機娘との逢瀬を詠んだ句はまだまだあるだろう。

 さて「交野探訪」に書いたように江戸末期、交野の愛染律院に数年間仮寓 し、平井家と交流を深めた大田垣蓮月尼も交野の美を歌い残した。

 万世の春の始めと歌うなり こはしきしまのやまとひとかもと・・・。私はこの歌が大好きだ。すっかり気に入ったのだ。 

私は渾身の力を奮ってこの歌の解釈をした。

「我ながらよくできた・・・・」

 書き終ってから大きく深呼吸をした。のびやかな気持ちのよい安堵に満ちた欠伸が自然と噴出してきた・・・。

 (自然は移ろう。一年という単位(刻)でとらえるのではなく、かぎりなく、かぎりなく、とうとうと続き、繰り返す自然の営み、摂理・・・。そのひこまとしてまた春が巡ってきた・・・。私は歌うのだ。その営みの始まりを祝して・・・以下略)「交野探訪」118−119頁。 

 この歌の解釈で苦心したのが、かぎりなく、かぎりなく、とうとうと続き、繰り返す自然の営み、摂理・・・その営みの始まりを祝して・・・」である。

 華厳経の説く、一瞬の中に永遠が含まれているという「一即一切、一切即一」(「一切」とは宇宙のことである。今春は「一即」とみてよかろう)の世界を表現したかったのである。

 交野の里が醸し出す自然の美は、古代から近世までも、そう今も息吹続けているのだ。(2004年2月8日)

 

C京都・祇園で芸妓さんらを囲んでよく歌われるのに「月づくし」がある。

 「東山では 春の月

 「四条河原の夏の月

 「通天橋の ネェ 秋の月

 「金閣銀閣 冬の月

春、夏、秋、冬と表情を少しずつ変えるを眺めるのは興趣を覚える。

 「交野探訪」の拾い話しのことでどうして祇園の唄が出るのだろうと、読者の皆さんは思われるだろう。私も拾い話しを書いていて何故か、おお、なにやら「交野づくし」になっているなぁーと私の交野贔屓(びいき)もなかなかなものだ、と妙に感心する。

でも私だけではない。

 確か三重の方から代官としてやってきた遠藤氏は、任期を無事務め上げ、郷里に帰ってから改姓した。

 「遠藤」から「星田」姓に・・・。交野に対する望郷の念やみがたかったのだ。

 星、緑、水、桜、四季折々に彩りを添え変えてゆく三宅山連峰・・・、猪、鹿、兎、狸、雉(きじ)など様々な鳥獣などを交野の里から愛(め)でた・・・。

 こよなく愛した自然と動植物などが・・・遠藤氏のこころの中を駆け巡ったに違いない。  

そう、月づくし 交野づくしなのです。

月づくし・・・」「交野づくし・・・」。(2004年2月10日)

 

D:今回はぐっと真面目な話になる。私は、中年以降に なってこの「真面目」という言葉が好きになった。 ところが、あの漢(おとこ) は真面目でなぁ!

 もしくは真面目すぎるのじゃーという偏見に満ちた言葉を聞 くにつれ、複雑な思いに駆られるときがある。

つまり、あまりいい意味で使っていないからである。

 人間本来、「真面目」で なければ、ならないのである。このような言辞で評する人物の立脚する処を私は かえってお訊ねしたいぐらいである。

 ある会社組織の中とか、その組織に属していたとする。その人物は、例えばあなたの上司としよう。

 この場合、多面 的な考察が必要であるが、一般論として「あの漢、もう少し、柔軟に振る舞えば胡麻をすれば・・・よいのにのうー」という ような謂いに使われる傾向がなきにしもあらずと思うのだが・・・。

 しかしながら、人間というものは弱い、誰でも弱い、無論、私も弱い。だか ら、嘘でも褒められたりすると、嬉しくなるのも判らなくはない。でも、でも、 である。そんな、こんなで人生を送ってしまっては、少し残念ではなかろうかと思い出したのだ。

 繰り返すが、中年以降になってのことだ。無常、迅速のこの世である。仕事にしろ、遊びにしろ、何事でも真面目で真剣でなければならないと思うのだ。

中途 半端が最も好くないないと思う。

 さてここらあたりで「交野探訪」に触れる。103Pに書いている。私が交野の里を 散策、探訪していた時、ふとある寺の掲示板に書かれ感歎した次のような言葉もそのことを物語っている。

 大切な今日という一日に不平をいう余裕などないである。つまり、真面目真剣に生きよということではないかと思った。

さらに言う。

父母未生以前の本来の面目と言葉(言い回し)がある。

  私流に判り易く説明すると、分別(ふんべつ)を使ってまぁーこれくらいのとこ ろで折り合いをつけたらいいじゃないかと場当たり的な言辞、行動に執すると、 一時(いっとき)は凌げてもいつもそうはいかなくなるのではなかろうか・・・・。

 この禅の言葉のなかにある「面目」真面目(しんめんもく)で今ふうにういうならば真面目(まじめ)となるだけのことなのである。

 人生哲学の応用問題、課題ではあるが、真面目で真剣に生業に励み、遊びや趣味でも真剣に取り組 むことが肝要である。

さらにこの寺の標語と同じようなことを言っている高僧の言葉を紹介してお く。

 「今は今、すでに今、老いても病みても今は今・・・」(記憶で書いているので 正確でないかも)=金子大栄師。くどいようだが、大栄師のこの言葉は「人間たるもの常に(いかなるときでも)永遠の今に切ることの大切さ」を説いておられるのである。

 金子大栄師の上記の語りより詳しい文章が私のウェブサイトの中から偶然、見つかりましたので以下に記します。(2009年12月29日)

 「今は今 己(すで)に今 今現在説法の今は今 於今(おうこん)十劫の今も今  塵点久遠の今深く 呼吸の間も今ひろし 老衰しても今は今 病みてありとも今は今 思い出に耽りても今は今 明日を語りても今は今、どうあろうとも今は今・・・(略)(金子大栄

大栄師のお言葉の実践となるときわめて難しい。

読者の皆様、ともにがんばりましょう。

(2004年2月11日)(2009年11月28日)

 

E:この本の巻末に交野の歴史を載せ、日本・世界歴史と並行して 読めるようにしたのは、著者が言うのもなんだが、よかったと思っている。郷土史家、和久田薫さんの全面的なご協力を仰いだ。ここでは14世紀に的を絞る。

 1333年徒然草成る。同年、頼朝から始まった鎌倉幕府が滅亡(瓦解)した。1336年、室町幕府始まる。1392年、南北朝合一。1397年金閣寺建立。

さて交野では・・・。

 1309年星田新宮山八幡宮地、水、火、風、空を表す石塔建立。1336年、星 田の和田助忠助光兄弟、楠木方に味方するとある。1352年、交野の郷士は楠木 正儀に従い、尊氏兄弟らと戦う。

この和田助忠助光は、和久田さんの先祖である。

 この年表には表記していないが、1339年、南朝の後醍醐天皇が52歳で薨去している。

 この時期は日本史の中で大きな転換期の一つである。これに和田兄弟ら交野の郷士が大きく関 わっていることは注目に値する。

 私は数回以上の和久田さんとの対談や電話での話しから、和久田さんの中に武辺者の凄さを感じ取ったものだった。

 交野の文化は「優雅」の内に「剛」を包摂しているとも言える。 (2004年2月12日)(2009年11月28日)

 

F和田文子・・・。私が小学2、3年の担任の先生である。

 今は、粟井文山と号し、水墨画の世界では岡山県下はもとより、全国的にも知 られる女流画家である。

 私は小学1年のころより、絵では自分でいうのもなんだが、学級の中では一番上手かった。

 で、文子先生が岡山大学教育学部(美術専攻)を卒業と同時に私が通っていた福田小学校(邑久郡邑久町内の小学校の一つ=廃校)に赴任された。

「交野探訪」でもそのころの思い出を書いている。

 文子先生はどの教科にも情熱を込められていた。が、美術専攻であられたから、よく学校傍(そば)の土手や吉井川の川原まで写生に連れて行いっていただいた。

私は、腕白そのものであったし、いつも遊びにほうけていた。

 写生に出掛けても、 まぁ、遊び半分であった。でもいつの間にか他の生徒より、立派な絵をものにして文子先生によく褒められたものだ。

 55歳になった時、小学校の同窓会を地元有志の方々が隣の町の牛窓で開いてくれたので参加した。

 文子先生と五年生時の担当佐藤先生(男性)が出席され、皆、お2人の先生と思い出話しに花を咲かせた。

 とりわけ、私は文子先生とは絵の話しを中心に話しが尽きなかった。それ以来、年賀状のやり取りが続いている。

 2004年2月12日、新聞社勤務を終えて帰宅 したら先生からの封書あり。封を開いてみると、待っていた本交野探訪がまだ着かないという内容だった。

で、すぐ電話・・・。

「今日いただきました・・・」と先生。

 私はホッとし た・・・・。2人の会話は30分以上続いた。会話が進むうち先の同窓会では言えないよう なことも浮かび、話し込んだ。

 私は間もなく、世にいう定年を迎えるが、さてさて如何なる日々を過ごさんかと期待が膨れあがってくるのだ。

 交野探訪でも触れた富岡鉄斎の世界を学習してもよし、 大田垣蓮の歌に親しむのもこれまた意義深かろうなどと思っているのだ。

そう富岡鉄斎の絵に倣っていっちょう墨絵でもやっちゃうかな・・・。

 自慢 話しになるかもしれないが、中学2年の時、私を育ててくれた伯父の満に言った。

「わしゃー、画家になるでぇー」と一度だけ訊いたのだ。

「それは、ええけど、中々、飯を食えんぞ!」と言われた。

私は、その一言で即座に断念。

 む、そうだなぁーと少年なりに思ったからだ。当時、柔道部と美術部、書道部に入っており、とりわけ、柔道絵画力を入れた というか愉しんだ。

 模擬テスト用の授業は大嫌いであった。私の感性が強烈に拒絶したのだ。

 2年次、3年次と級長(ホームルーム長、生徒会の書記、副会長)を仰せつかっていたがどうも授業は嫌で仕方がなかった。

 「おもしろーねー」 であった。だから 小学校時代が懐かしいのだ。その次に大学時代か・・・。

もう一度、文子先生の話に・・・。

 和田は交野の和久田さんと同じ系統に属す る。和久田姓になったのは、分家して東と西に分けたため、間に久をお入れになったのだ。

 昨夜のお話では、文子先生も神職家系であったといわれ納得した。 正に不思議なご縁ではある。                                                  (2004年2月12日)

 

 

天理の里 つれづれ草

木下勇作

<運転手さんと会話弾む>

 平成15年(2003年)9月4日のお昼過ぎ、奈良市内のホテルに着いた私は、カウンターに鞄を預けて、すぐさまタクシーで天理大学に向かった。

 「ええ、20分ぐらいで着きますよ」と運転手さん。私は開放感覚えてきたのか、少し饒舌(じょうぜつ)になっていた。運転手さんは昭和18年(1943年)生まれ。私より一つ年上。この運転手さんと結構、気が合ってか話が弾んだ。

 「ええ、還暦ですよ。でもね、私、 たばこを1日3箱は吸っております」

 「ほう、お元気なのですなー。奥様からよく文句が出ませんね」と感心というか半ばびっくりして私は言った。

 と、即座 に「家内は私なしには生きていけないくちですから・・・」(ほう、なんという自信だろう)と半ば呆れたが、性格が明るくて特段に陽気なのだ。

 お住まいはどこですかとは聞かなかったが、天理市民なら陽気暮らしを旨とする天理教の教えを学んでおられるのかと思ったものだ。

 しかし3箱というのは、多過ぎると思い、おっせっかいとは思ったが、「私は、30本近く吸っていますが、定年後は一箱にすることを家内に宣言し、了解を得ているのですわ。あなたもまず2箱にし、慣れたところで1箱にされたら奥様、きっと喜ばれますよ」

 「はい、はい、先生、言われるとおりに努力します。ええしますとも・・・」。(運転手さんが私のことを先生というのは、行き先を天理大学で開催されている日本宗教学会学術大会に参加すると言ったからだ)。

 「ところで先生、この天理市の人口は約10万人ですが、そのうち90%以上が天理教の信者なのですよ」。(先生、御存知でありましょうか)という語感と親切心が交ざったような口ぶりで言われた。(お、そうか。それも道理だな。ここは天理教の街、天理市なのだからと改めて思った)。

 「そうでしょうね。私は大阪府下に住みながら、奈良市にはよく出掛けるのですが、不思議なことに天理市は初めてなのですよ。今日は学会参加のついでに真剣に天理教を学びに来ました」などと会話を愉しんでいたら、間もなく広い空間にいかにも天理大学、天理教団という特色のある建物が甍を並べるように立ち並んでいるのが車窓から突然見えてきた。

研究発表のある研究棟の前で運転手さんに礼を言い、車を降りた。

 「いらっしゃいませ。ご苦労さまです。ご苦労さまですーー」という学会のお手伝い(ひのきしん)をする学生さんの爽やかで明るい声が一斉に木霊した。

 私は、気持ちよく受付を済ませ、あらかじめ聴講を決めていた演題が発表される教室にそっと入った。

 

             研究発表が終わると神殿参り

 

 もう、何人かの方の発表が終わっていて粛々と演題に基づいて研究成果が披露されていた。

聴講者は興味のある演題が終わると、さっと席を立ち、ほかの教室に回る。

 私はこの教室で発表される演題だけを聴くことにしていたから席を離れるのは喫煙室に休憩に行くときだけだ。途中ながら4人の研究成果を聴き終えたところで、この教室の発表は終了した。

 ふと腕時計を見ると、午後4時半ごろであった。「おう、懇親会が始まる午後6 時までには1時間半あるなぁー・・・」と確認してから、研究棟のほぼ西北にある神殿まですたすたと歩いて行った。夕方近くであったが、この日は残暑がやけに厳しかった。

 15分ほどで神殿の境内に着いた。手水で儀式に則り、心身を清めてから私はゆっくりと歩を進め、神殿前に進んだ。

 私は案内役をしている2人の若者信者に軽く会釈し、神妙に神殿に上った神殿は厳かで静謐な雰囲気が広い畳み敷きの空間いっぱいに漂っていた。

 私は、残念ながら正座ができない。失礼とは思ったが、半跏座で座った。数分そのままの姿勢で座っていたら左右から女性の妙なる調べが、ゆったりとしたリズムで流れてきた。

 おや、この旋律は、どこかで聞いたことのある節回しに似ているなぁーと、思いながら、言いようのない、安らぎを覚え暫し聞き入っていた。

 おう、<ねむりなさいまぁーせー、ねた、こー の・・・>の母親が子供に聞かせるあの懐かしい子守唄の調べに似ているのではないかと思った。

 彼女らがどのような歌詞で歌い、唱えているのか、はっきりとは掴めない。「あしきをはらうて・・・だろうか」と、私は思いを巡らせていた。彼女らの歌声にうっとりと、聴き惚れていた。

 一瞬、「うんそうだこれはきっと「母なる歌」だと確信した。そうだな、きっとな、と思いつつ、私はいつの間にか神秘な世界に誘われていくような気がしてきた。

私は生母の顔を知らない。私を産んで1年4カ月で肺を病み、旅立った。

 私はふと亡き母か、私を育ててくれた伯母がこのような静かでゆったりとしたリズムで子守唄を歌ってくれたのだと思うと、幼いころの幻影がとめどなく脳裏に浮かび上がってくるような思いがしてならなかった。

 生母や伯母に対する追慕の念にかられた私は、急に厳粛な気持ちになり、途中から正座に座り直した。私は神殿にここちよく響きわたる「母」の慈愛の調べに暫し、耳を澄ました。

 ふと我に返った私は満ち足りた気持ちになり、座をそっと離れ、軽く一礼してから、ゆっくりと神殿を降りた。

 

             青年信者からみかぐうたの冊子もらう  

 

私は案内役の若者の一人にこころ弾ませて訊いた。

 「女性信者の皆さんが歌われていた歌詞は、はっきり掴めなかったのですが実に素晴らしいですね。母の歌ですよね。あなたも御存知でしょう。冊子でもあれば、いただきたいのですが・・・」。

私は若者の顔が一瞬、ぱっと明るくなったような気がした。

 「お待ちください。すぐ持ってまいります」と若者は詰め所かどこかに駆けていき、すぐに私のところに戻ってきた。

 彼は「これです。どうぞ御遠慮なく・・・。「みかぐらうた」と、申すのです」と若者信者は溌剌とした声で言った。

  「哀愁に満ちてはいても歌そのものが朗(あか)るいですね。ゆったりとした節回しは、いまのせかせかした雰囲気に流されがちな私どものこころを和らげでくれる感じがしますね」と私は応えた。

 「ええ、いま、子守唄に似ているとおっしゃられましたが、ある節だけを選んで実際に子守唄として使っておられる方もいらっしゃいます・・・」

 (うむ、そうだろうな、神聖な『みかぐらうた』でも愛しい我子をあやすには別に教祖、みきさん(おやさま)は、お怒りにはならないだろう。おやさまは、大いなる母ともいえるだろうし・・・)。

 私は、若者に丁寧に礼を述べてから親睦会が開かれる天理大学のキャンパスに向けて軽やかに歩を進めた。

 

             天理大学生にみかぐらうた習う

 

 夕暮れ前の天理の街はまだまだ暑かった。汗ぐっしょりのシャツを着たまま発表のあった研究棟の前に戻った。接待(ひのきしん)をしている学生君らが後片付けで、まだ数人が居残っていた。

 ところで「ひのきしん」の意味だが、天理大学の購買部で買った書籍で初めて知った。日(ひ)は、時間のことで、「きしん」は、文字通り「寄進」のことである。だから己の時間を他人のために寄進するという意味なのだ。

 私は、シャツの前のボタンを上から2つ外し、汗が引きシャツが乾くのを待った。ここから懇親会が開かれる会場には歩いて数分ほどかかる。まだ30分ほど時間があった。10分近く長椅子に座っていたら汗もしだいに引き、シャツもどうやら乾いた。そこで男子学生の一人に私は声を掛けた。

 「あのね、神殿に参ったところなのですがね。そこで『みかぐらうた』を聞き、冊子をもらったのですが、君、歌えますか」。学生君は、にっこりと頷いてすぐ歌い出した。

 「あしきをはろうてたーすけたーまへ てんりわうのみことー」。これを21回歌い(私の彼から聞いた記憶)、次のフレーズに入るのです、と丁寧に説明してくれた。

  「あしきをはろうてたーすけせきこむ いちれつすましてかーんろだい」と彼は歌い終えた。青年らしい見事な「みかぐらうた」の調べがここちよかった。

  「君は何年生、おう3年生か。卒業したらどんなことをしたいのですか」と、彼の澄明な調べの余韻を耳朶(じだ)に宿したまま訊いた。

 「はい、新潟の郷里に帰って父が務めている分教会の仕事を手伝い、ゆくゆくは跡を継ぎたく思っています」ときっぱりと応えた。

 私はいたく感心し、こころのなかで「みかぐらうた」を歌い、明るい彼の表情を思い浮かべ、親睦会場に向かった。

 

                  親睦会場の広さに驚く

 

 早歩きだが、予想通り、数分そこらで会場に着いた。定刻の午後6時だった。受付を済ませて2階の会場にそっと足を忍ばせた。

 と、私の足は止まり、「む、これは!」とびっくりした。広い、広い会場が目の前に広がっている。これまで親睦会やらパーティーといわれるもので、こんな広い会場に参加したのは私にとっては、初めてだと一瞬、思った。

 やや、大げさだが、一種のカルチャーショックだった。さらにこの大部屋は、畳敷きだった。従って数え切れないほどの卓袱台(ちゃぶだい)のような丸いテーブルが大部屋いっぱいに並べてあり、もうほとんどのテーブルには参加者が座っておられる。

 実に壮観なのである。これならば、江戸時代、つまり徳川幕府のころ、諸国の大名が時の将軍に謁見する広間に匹敵するかもなぁーと、想い、想いをさらに巡らせた。

 親睦会は学会の総会が終わり次第、定刻よりやや遅れて始まったが、これまで参加した親睦会より、挨拶される方々の声にもなにかしら、意気込みと張りがあるようにも感じられた。

 「乾杯!乾杯!・・・」の音頭とともに各テーブルでは、用意されたすき焼きの匂いとともにやがてあちこちで賑やかな談笑の渦がどっと広がった。

 私が座ったテーブルでも酒やビールをつぎあいながら話が弾みに弾んだ。私を含めて4人のテーブルでは2人の方が明日、研究発表されることも判った。

 神学専攻の教授の方から発表内容をお聞きし、なるほど、なるほど・・・と思わず肯くことが多かった。しかし、そうだろうかなと思うこともあったが、とにかく勉強になった。

 遠藤周作深い河(ディープリバー)や上洋治神父の話もできた。ついでに禅とキリスト教の対話に関する著書(秋月龍眠師との対談)がある八木誠一のお考えについても氏にお聞きしたかった。

 ひのきしんで接待役の天理大学の女子学生が我々の食事にいろいろと気を配ってくれたのもありがたいことこのうえなかった。散会の夜9時近くまで心地よい酔いが体中にほろほろと広がった。

 私は覚えたばかりの「あしきをはろうてたーすけせきこむ いちれつすませてかーんろだい・・・」と、ゆったりとしたリズムで歌い、ここちよい酔いに身を任せていた。

 

                みかぐらうたがこころ和ます

 翌日は学会への聴講参加は午後1時半ごろからと決め、私は大学研究棟を素通りし、直接神殿参りをした。午前10時半ごろだっただろうか。

 遠方から参られた信者さんらしい10人ほどの方々が神殿を背に記念写真に収まっておられた。時間にもよるのだろうが、この日は前日に比べ神殿参りをされる信者の方が幾分多いように思われた。

 今度はホテルをチェックアウトしたので着替えや本などの入ったかなり重たい鞄を提げていた。神殿に参り、「みかぐらうた」をもう一度、ぜひ聞くのだというこころでいっぱいだったから、さして重たさは気にならなかった。

 前日と同じ要領で神殿のほぼ中央後ろに端座した。私の左前方で家族全員と思われる数人がおられた。全員で「みがぐらうた」を独特な手振りとともに祈り、歌う調べにここちよく私は耳を澄ませていた。

 家族の絆は深まり、また、おやさまともつながりを深められたのだろうと、想像していた。このご家族が敬虔な面持ちで立ち去られた後だったと思う。やや前方に20代前半と思われる夫婦が1歳ぐらいの赤ちゃんを連れて「みがぐらうた」を歌っているのにふと気がついた。

 私も若いころそう思われたかもしれないが、この若いご夫婦、赤ちゃんをよく育てられるのだろうか、と私はやや心細い気持ちを抱いて彼らを後ろから、そっと眺めていた。

 彼らの歌を聞いて間もなく「おう、大丈夫だ」と納得した。彼らは、この一瞬、一瞬にみきさん(おやさま)に守られているという強い信念を抱くのだろう、と思えてきたからだ。

 私はこの教団についてさらに理解を深めた気持ちになり、感謝の一礼をした。そして大股で境内を一回りしてから、天理参考館に足を延ばした。

               

                天理参考館の展示に感嘆

 

 「天理参考館」・・・。私は、この学会に参加して受付でもらったパンフレットを見るまで天理教団関係施設にこのような素晴らしい施設があるとは夢にも思わなかった。   

 この館は昭和5年(1930年)天理教代2代真柱中山正善さんが創設した。海外布教を真摯に行うには、外国の言葉を知るだけにとどまらず、国々の生活文化に対する理解を深めなければならないという高邁な理想が込められている。

今回、私が見たのはメキシコの手作業による織物の数々と朝鮮半島中国の出土品だった。

 織物は、我が国をはじめ先進国の多くが大量生産の発展に伴い、しだいに失っていった手作りの味や生活感覚が横溢する生活用品がずらりと並ぶ。

 メキシコの方々による見事な品々が国は違っても生活の匂いが織り込まれた品々に私は思わず目を見張った。

 親から子へと代々受け継がれている彼らの土着の着物などを通じ、豊かな生活文化が直に感じ取れ、正善さんの卓見に思わずこころの中で敬意を表した。

 また朝鮮半島と中国の展示物の背後には年表が張られてあり、日本の年代を重ね合わせてみると、その時々の日本とのつながりが浮かび上がり、興味深く鑑賞できた。

 例えば聖徳太子が遣隋使を派遣したころの中国の出土品―。使節団が味わった当時の中国文化が強烈な迫力で私の想像力をかきたててくれた。私は暫し、足を止め、展示物に我を忘れて見入った・・・。

 

           天理の相談所見学で理想の医療を想う

 次に立ち寄ったのが、地元のタクシシー運転手さんから「凄いですよ、天理市の病院は。なにしろ総合病院ですからね・・・」と聞いたその病院だ。

 私は、待合室に入れてもらった。が、その前に病院の名前に触れなければならない。「(財団法人)天理よろず相談所病院が正式名称なのだ。いわば「よろず相談所」なのだ。

 受付付近にいらっしゃった看護師さんに「実は、天理大学で日本宗教学会の大会がありまして参加した者ですが、いろいろと天理教を学びにも参りました」と私用の名刺を渡し、挨拶していたのだ。

 「ここに相談にみえられるのは天理教の信者や天理市在住の人ばかりですか」とお聞きしたら「いえ、遠方から一般の方もおいでになります」 とのご返事だった。  

 早速、院長にお会いし、様々なことをお聞きしたい想いに駆られたが、事前にアポイメントを取っていないのでマスコミに所属している者としては、 仁義に外れると思い、やむなく断念した。また院長や副院長の要職にある方は、お忙しいと思ったこともあった。

 ところでなぜ要職にある先生にお会いしたいかと一瞬、思ったのは、「よろず相談」の内容だ。私がお訪ねした時は、お昼前であったが、「天理よろず相談所」は相談を受けにいらっしゃっておられる方で満杯に近いほどだった。

 しかし皆さん、一様に安心したような面持ちで静かに時間待ちされておられ、しかも明るい表情をした方が多い印象を受けたからだ。

 我が国では、その昔、大きな寺院施薬院とか、悲田院など「診療所」施設を持っていたのだ。僧の中には、かなりの医術を心得ていた人物がいた。

  「オンコロコロ、センダリ マトウギソワカ」という真言の主、薬師如来が片手に薬入れを持っておられるのが、そのことを端的に物語っているのではないかと思う。

 今、医療ミスなどが盛んに問われている。この原因は一言では語れないが、ひとつには仏教と不可分の形で存在した頃の病を得た人を思う慈悲のこころ」が失われたことにあるような気がする・・・。

 「嫁にやるならお医者さん」とかいう風潮が一時期、流行(はや)ったことを私は苦々しく思った記憶がある。

「医道が廃れゆく」なにものでもない流行言葉ではあった。

 私はそんなことを思い、ここでは理想的な形で医道が行われているのではないかと、満足感と期待を寄せながら「天理よろず相談所」に後にした。

 

                天理大学生と私の大学生時代

私は軽い空腹感を覚えた。

 発表のあった研究棟まで戻った。学生さんらが集うラウンジのようなものがあったように思ったからだ。何か昼食ぐらい取れるのではと、ラウンジに入った。

 なるほど弁当らしきものを食べている学生さんも見掛けたが、持ち込み弁当のようだし、ぐるっと、部屋の中を見渡したが、食事処のようなところは見当たらない。

 私はパソコンで何か調べものをしている一人の男子学生に「大学の食堂はどこでしょうか」と訊ねた。

  「はい、前の通りを右に折れて十字路を左に曲がり、まっすぐ歩かれますと、すぐに大学食堂が見つかります」と、ハキハキとした口調で丁寧に教えてくれた。

 おう、ここの大学の学生は、会う学生すべてが青年らしい素直さと誠実さを持っているなぁーと妙に感心した。

 40年ほど前の関西や東京の大学ではみられなかった清々しいパーソナリティーを持っているのではないかと私の学生時代を思い出していた。

当時は優越感が闊歩していたか、冴えない表情が俯き加減に歩いていたようだった。

 また時代を先取りしたかのようなヒッピーかぶれのような諸君がいたかと思えば、政治問題にやけに敏感で何々闘争があればどこにでも出掛ける学生もいた。

 そのころの世相を反映していたといえばそれまでだが、天理大学の学生諸氏のパーソナリティーが素晴らしく、また好ましいと思ったのは、私が年輪を重ねたからかもしれない・・・。私は食堂でカツカレーと野菜を美味しくいただいた。

 午後の研究発表が終わり、天理駅までのタクシー待ちをしていたら、隣の幼稚園かもしくは小学校から懐かしい歌が聞こえてきた。おう、もう授業の終了時間だなぁー・・・。

  「夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘がなるー おーててーつないで みなかえろー 烏といっしょに かえりましょう・・・」のメロディーだと私は思った。

 かくして1泊2日の学会参加と天理教を少しでも学ぼうという私の当初の目的は、満足感とともに終了した。

 

                 天理の里に関わった文人ら

                     高橋和己

 また今回、天理の里を訪問したことで、これには驚いたということを正直に語らなければならない。いかに多くの著名人が天理の里にかかわりを持っていたかを知ったのだ。

 まず若くして往かれた作家、高橋和己についである。私は大学時代、そして新聞社に入って間もなくのころ、氏の著作を人並みに読んでいた。

 やや生硬な文章ながらなぜか若者のこころをとらえる力作が多かった。さらに高橋のことを言えば、中国文学の権威であった吉川幸次郎の学問の上で「弟子」に当たるのが高橋だ。

 また立命館大学の名誉教授で90歳を超えられた今も執筆と研究を続けられている漢字哲学者ともいえる白川静先生が吉川に「ぜひ、私のもとに高橋君を・・・」と依頼、命館大学に高橋を呼んだのだ。このあたりの消息を御存知の方はあまりおられないだろう。

 実はこの話は、私が白川邸にお訪ねし、白川先生から4時間近く様々なお話をうかがった時、先生の口から直接おき聞きした。

 その時、私は電車の中で読もうと、かなり以前購入していた吉川の本「この永遠なるもの」(西谷啓治との共著)を持参しており、これを見られた白川先生が私に高橋のことをお話してくださったのではないかと思う。

さて話は高橋のことになる。

 私が天理大学で行われた大会2日目に参加した時に購入した天理教と文学者」(梶山清春著)によると、高橋は京都大学を卒業後、母の勧めで天理教の修養科に籍を置いたという。

 高橋は「私の文学を語る」で対談者の秋山駿氏に「天理教の経典は面白かったのですが手踊りはどうしても体が硬直して踊れなかった」(木下要約)と述べておられる。

 梶山氏は(高橋)は、母の思いに一時は服したものの、強固な自我がそれ (天理教)を拒絶したと述べている。

 私は高橋が関心をもっていた宗教の中で大本教をモデルにした小説「邪宗門は、こんな時に生れたとみる。大学紛争が巻き起こった時期だった。

が、高橋は結腸癌を患った。

 病の床に伏す高橋に母上は「どうぞ、親神様お助けを。38歳の次男でございます。我が身になりかわりましての御加護を・・・。

 「悪しきをはらい、助けたまえ、天理のみこと・・・」と、唱えながら我が子の回復を祈った。氏は高橋について、母の手厚い看護には感謝しながらも天理教には心底から信じ切れなかったのではと高橋を評している。

 私も高橋は生涯、論理的思考を貫いた強烈な個性の持ち鋭い感覚で自己主張した作家だったと思う。

 白川先生は高橋のことを私にお話される時、こころなしか、寂しげな表情をみせられたのだった。私は宇佐晋一博士から誰人たりといえども人生を送る上で宗派を問わず、宗教は絶対不可欠と教わり、還暦を来年春に迎える今でもそうかたく信じている。

 

                      吉川幸次郎

 

 ところで高橋の師であった吉川幸次郎(1904−1980年)は2代目真柱、中山正善さんと親交が深かかった。

 高橋が天理教とかかわったのは、熱心な信者であった母上からの勧めであったようだが、私には大学時代の師の影響も働いたのではないかと思える。吉川は幾度も天理図書館に出向いた。

 また京大仲間の小川環樹や学生を伴って天理の里に行った時、正善さんと参考館などを称える46行からなる7言歌行の漢詩を書いているほどだ。

 その中で正善さんを称えた箇所を紹介すると「清浄為称教真柱 (略)如(略)在龍虎」(人のこころを清く美しくすることを教えとなして真の柱と称す正善さんは、正に世界に光を放つ龍虎の如く在)=木下訳=とあり、これに続き、施設の素晴らしさを吉川が漢詩で敬意と感謝を込めたのだ。

 吉川は天理教の教え、正善さんの素晴らしい人柄に惹かれるとともに参考館に展示されていた中国の品々に深い関心を寄せたのではないかと思える。

 また鶴見俊輔(1922 年ー)は、みきさんが江戸末期、お伊勢参りをする大勢の庶民が「えいじゃないか、えいじゃなか」と歌い、踊りながら伊勢神宮まで遊行するさまからヒントを得、陽気暮らしを洗練化、高度な宗教にしたと評している。

 また京都大学教授だった会田雄次も天理教を大本教、金光教、黒住教などとともに好意的に評論をしている。

 

                     柳田国男

 

 柳田国男(1875−1962年)と和辻哲郎(1889−1960年)の2人を取り上る。最初に柳田。氏は民俗学で貢献、名をなした人である。

 東京帝国大学を卒業後、農商務省に入省した官僚であったが、柳田は官界の中で上昇志向に情熱を燃やすには、あふれるような才能と知性があり過ぎた。

 大正5年(1916 年)、柳田は官界にいて貴族院書記官長を務めていたころ、橿原神宮からこの地を訪れている。柳田は民俗的かつ宗教的な感動を覚えたのか天理教に関する「見聞記」を著わしているのも後年、民俗学者として大成する才をうかがわせる。

 「(「中略)天理教徒は其長年の忍耐力を積み上げて丹波市を小エルサレムにして了つた。400畳を敷くと云ふ一室の中央に、幅一間の渡り板が神殿まで通っている。(略)2組3組の参拝者が来て座り・・・(略)」。

これは私が天理の里訪問で直接、垣間見た信者さんらの姿を髣髴(ほうふつ)とさせるものがある。

 しかし私ごときには想像もつかないような問題意識が柳田の頭脳の中を駈け巡った。「神棚は北向きでよく分からないないが少し仏式を加味した構造である」と見抜くなど、瞬時に天理教の一面を理解した柳田の頭脳の冴えを感じる。

 また柳田は昭和26年(1951年)秋、この里で開かれた日本宗教学会学術大会で講演しているのだ。私は、これを知った時、柳田に対して思わず親近感を覚えずにはおれなかった。

 

                 和辻哲郎>と<梅原猛

 

 次に和辻である白川静先生とともに碩学の名を馳せている梅原猛先生は、いわゆる西田幾多郎に始まる「京都学派」の中で和辻に最も好意的でしかも敬意を表しつつ高い評価をされている。

 梅原先生は、日本ペンクラブ会長を今の井上ひさしさんに譲るまでその任にあり、癌と闘い、そして打ち勝ち、持ち前の豊かな想像力と鋭い分析力で直面する諸問題に発言、主張し、同クラブの存在感を一層、高められた功績は大きい。

ところで梅原先生が今お住まいの邸宅は、和辻が住んでいた家である。

 私は、なぜここに居を構えられたのか、これまで何回もお訊ねしようと思いながらつい忘れてしまうのだ。私なりに梅原先生の哲学思考から推察して当然だろうと思っているからかもしれない。

和辻には有名な「古寺巡礼」がある。

 これは奈良の名刹を巡り、和辻の感性で古都の印象を書き綴ったものだ。この時、和辻は29歳という若さであった。

 梅原先生の数々の著作は、人並み以上(あくまでも 主観的認識であるが・・・)に読んだ。哲学者と呼ばれるにしてはお2人とも文体が軟らかいところが似ていると思う。和辻を語るつもりが、梅原先生について述べるような形になってしまった。

 と、いうのは、小説としては私の処女作の小説「生生流転」に無理やり序文をお願いし、実際書いていただいた経緯がある。

 さらに今、日本宗教学会会長されている島薗進先生(現東大教授=当時助教授)にも文章をいただいた。なにしろ最初の小説でかなりの意気込みもあったことも事実だが、自信のなさの反映でもあったような気もする。

 今、この小説は、出版元の廃業に伴い、絶版になっている。が、しかし、古書店ルートで入手可だ。今から思えば生硬な文章や拙い表現もあり、かなりの注文点はあるものの、一応よく書けていると言い切っておく。

 とまれお2人には、今でも感謝している。島薗先生には今回の学会でほんの10秒足らずの会釈だったが、顔を合わせた。

 私の小説「生生流転を語るときには元中外日報社社長、本間昭之助さんと当時の編集局長、竹田賢信さん(現教界通信社長)にお世話になったことも思い出す。

 私がなにげなく中外日報に投稿したエッセー風文章の掲載を決めていただいたのは、本間さんだと竹田さんよりお聞きした。

 そんな経緯もあり、中外日報という伝統のある紙面にこの小説が連載されたのたのは、今から思えばなんという僥倖だろうと・・・。

 さて和辻・・・。

 「古寺巡礼」の取材のため、列車が 三輪から奈良向かう列車のなかから見た天理の里を眺めたのだろう(梶山氏著書 参考)、天理の里につての印象記があることを知った。

 輪山に近いこの地から(教祖、みきさん)が出たことは少なからず興味を刺激する。わたくしの天理教に関する知識はわずかに2、3の小冊子に過ぎないが、教祖の信仰は恐らく本物であったろうと思われる」(木下抜粋要約)と「古寺巡礼」に書かれているのだ。

 書斎にある和辻の「古寺巡禮」(岩波書店刊)を開いた。56刷を重ねている。1990年4月10日発行とあるから、少なくとも10年以上前に購入したことになる。

 目次に三輪山、丹波市257Pとあるではないか。改めて読むと、ルポふうな書き方である。やがて汽車は方向を變へて、三輪山の麓へ近づき行く。古代神話に重大な役割をつとめてゐるこの三輪山また特に大和のやまらしい・・・」から天理の里へとつながる。

 おみき婆さんが三輪山に近いこの地から出たことに注目した和辻の着眼は、凄い、の一語に尽きるが、和辻の天理教観がうかがえて興味深い。

 

                     三島由紀夫

 

 私はいささか驚いた。あの三島由紀夫が天理教に大きな関心を寄せていたのである。三島の伯母のひとりは熱心な天理教信者という。三島は伯母に伴われて天理教の教会本部に参拝したことがあるのだ。

 『陽気』(昭和36年8月号)の「三島由紀夫―宗教と文学を語る」の中で伯母の人柄に触れるとともに天理教の感想を述べている。梶山氏の文を基に紹介する。

 「私の伯母という人は、親類中一番幸福な人なのです。明るく朗らかで、物欲というものがない。私はこういう伯母の楽天性を通じて、天理教は非常に明るい宗教だと思うのです。(略)夫は大連の市長をしていたが、亡くなり、終戦となって内地へ引き揚げてきたのです。非常に思い遣りの深い人で、自分のことはほっておいても他人のお世話をせずにおられない・・・。伯母の気持ちは単なるギブ・アンド・テイク式の考えからではないと思う」などと語っている。

 また三島は保田与重郎(1910−1980年)=奈良県桜井市生れで戦後の日本浪漫派の論客=からもかなりの天理教の知識を得ていた。

 三島は「保田氏が天理教は生活の上で原始的な人間の喜びを実践していると言う。私もそう思うのですが、天理教は他の宗派のように近代人に威圧を加えない。他の宗教は皆現世否定の思想が根本に流れている。現世肯定の上に成り立っている唯一の宗教です。天理教は日本に生れた最も日本的な宗教で、将来に可能性のある明るい宗教だと思う」(木下要約)とも語っているのだ。

 ところで三島にとって最後の大作、「豊穣の海」の4部作の場面に円照寺小説では月修寺)を舞台にしている。

私も宇佐博士との共著、「とらわれからの解脱」の中で文学・仏教の欄に三島を取り上げている。

 「法相宗月修寺の根本経典は、唯識の開祖世親菩薩の『唯識三十頌』云々・・・」と語り、輪廻転生の核になるとの解釈もある阿頼耶識に言及しており、三島の唯識学についての詳しさに驚愕した。

 当時、私も唯識にかなりの関心を寄せており、唯識学を基に私の先祖を素材に小説「生生流転」を上梓したのだった。

 梶山氏は三島がこれまで伯母などを通して関心を寄せていた「月修寺」から数キロしか離れていない天理の里に想いを巡らせていたならば諫死という自裁はなかったとみている。

 ところで私は誰の著作か、あるいは新聞記事で知ったのか、記憶は定かでないが、確かある著名人が三島がもし、ヨーガに関心を寄せ、実践していたら、あのような出来事は起こらなかったという見解を興味深く読んだ。

 実に実に、誠に誠に惜しいことではあるが、類稀な天才三島は豊かな知性と文才、さらには強烈な思想とが相俟って諫死の形を取る宿命にあったのだろうか・・・こればかしは誰にも判らない・・・。

 だが・・・だが、である・・・私の正直なところをいうと、三島に(確か同じ年の梅原先生と2人で今の日本と行く末について論を闘わせてほしかった今でも心底から思っている。

 

                     小林秀雄

 さてこれで最後の紹介者にしたいが、忘れてはならない人物がいる。戦後の文壇のなかで大きな影響力を持った文芸評論家の小林秀雄だ。

 小林は日本の文学界に大きな光芒を放ちながら、昭和57年(1983年)3月、この世を去ったが、天理の里とも大きな関係があった。

先の大戦中、小林は私の聞くところによれば、沈黙、沈潜の時期を過ごしていた。

 が、そんな時、小林は天理教とのつながりを深めていた。昭和19年(1944年)、小林は天理の若者と痛飲し、歓談した。

 私の推測で言い切ると、小林は暗雲立ち込める戦況に欝とし過ごすなか、ふと平和な街、天理の里を訪れ、陽気な教義に触れてみたくなったのではなかろうか。

 さらにまた氏の母親は、高橋と同じように熱心な天理教信者であったから少年のころ、万事につけ、朗らかであった母の姿を思い出したのかもしれない。

 高橋と違って小林は天理教の教えにすんなりと入っていったのだ。これは若かった高橋とは異なり、文芸の分野で既に名を馳せていたなど文人として成熟し、広い視点から、天理教の教義に親しめたのではないかと、私には思える。

 2代目真柱、正善さんともしだいに親交を深めて小林は東京帝国大学の同窓であった今日出海今東光の兄で文化庁長官を歴任)と、ある全国紙の紙上で対談し、正善さんとの親交の深さと昭和42年(1967年)秋、急に旅立った正善さんを偲び、高い評価と敬意を表明している。

 文壇の中にあっては、辛辣な批評を加えた小林だけに興味を覚える。私は、今覚えているだけでも3、4冊小林の本を書斎に持っているが、わけても分厚い大作「本居宣長が印象的である。

 私がこの本を手にした30代の頃は、宗教には多少の関心を寄せていた程度で、天理教については、ほとんど知識がなかった。神道の一つである天理教に小林が深い関心を寄せていたことを知り、改めて小林の「本居宣長」を改めて味わってみたいと思っている。

 

                    私の天理教観

 

 この辺で教祖、みきさんの説いた天理教について私が短期間で学んだことについて蛮勇をふるって説明させていただく。

 教会本部の諸先生方には無礼極まる態度であると、お叱りを受けるかもしれない。まず、その点を前もってお詫びした上で教義というよりも私の天理教観を直感的に述べたい。

 これまで紹介してきた偉大なる学者や文学者らが批評している通りなのだが、神殿での「みかぐらうた」の哀愁に満ちながらも底に朗(あか)るさも湛たえ、ゆったり流れるようなリズムに教えが凝縮されているのではないかと思う。

 「おお、これは、母の歌だ。教祖、みきさんが作った大いなる母の歌だ」と私が感じ取ったことでもある。

 あの国民作家、吉川英治(1892−1962年)も「みかぐらうたは、純真な童心を呼び起こさせ、大人でも親に抱かれたようなやすらぎを覚える(梶山氏著書、木下要約引用)と言っているから、私の見方も多少は的を射ているとみていいだろう。

 「陽気ぐらし」の基である「みかぐらうた」を仏教の世界から眺めてみると、宗派を超えて存在する御詠歌のような旋律を持っているような気がするのが不思議でならない。

 しかし「みかぐらうた」は祝詞であり、天理王の命に捧げる感謝の歌であるということも知悉しておく必要がありそうだ。

 ところで教えの中に「体はおやさま(神様)からの『かりもの』であって自分のものではない。こころこそ己のものなるぞ」というところに注目したい。

 私の視点が天理教の教えとやや異なるのかもしれないが、自分のこころは己自身分別(ふんべつ)とか知性によって合理的に自由にあやつれるものではないということである。

 だから天理教は「ひのきしん」という己の時間を他人のために捧げ、しかも体を動かすことにより分別心を拭い去ることで、こころの自由を得え、次第に法悦と安らぎを感じ、遂には大安心を得るのではないかと思う。

私の俄か勉強ではあるが、天理の里の訪問でそう直感したのだ。

 

                    中山みきの布教活動

 

 最後に教祖、みきさん(おやさま)について紹介する。寛政10年 (1797年)4月18日、大和国山辺郡西三昧田村(現天理市三昧町)の前川家の長女として生を享ける。文化7年(1810年)9月15日、13歳で中山善兵衛のもとに嫁ぎ、1 男、4女を授かる。

 彼女は天保9年(1838年)10月26日朝5ツ刻(午前8時)親なる神様の魂が自身に入り込み、「陽気ぐらし」の啓示を受けたのだ。

 長男、秀司がおやさまのはたらきを助け、信仰の足固めに邁進する。慶応2年(1866年)ごろからみきさんは、布教、救済活動を本格的に始めた。

 明治になってからみきさんに対するさまざまな弾圧が加えられたが、逆にみきさんの布教に対する信念は一層、強固になるばかりだった。この間、3女の息子、眞之介が中山家に入籍、第一代真柱となる。

 明治20年(1887年)陰暦正月26日、みきさんは旅立った。

 みきさんは、幼いころより、人並み優れて慈悲深い女性であったが、とりわけ高僧のような修行をしたわけではない。

 名門の庄屋の出身とはいえ、神の啓示を直接得たという極めて稀な教祖誕生である。

 やはり、和辻が語るように古代神話が伝えられる三輪山の近くだけに神秘的な雰囲気を今に伝えているような気がする。

 足早に天理紀行を書き綴ってきたが、一応これで了とする。私は、今後ともより天理教に対する理解を深めなければとの思いは募るばかりだ。

 

                       <参考文献> 

 

  天理教と文学者(梶山清春、天理やまと文化会議)

  とらわれからの解脱(宇佐晋一、木下勇作、柏樹社)

  古寺巡禮(和辻哲郎、岩波書店)

  そのほか関連仏教書及び、天理教関連書籍。

 

 

四条畷神社詣 <楠木一族を想う>

 

 「青葉茂れる桜井の 木の下蔭に駒とめて 忍ぶ鎧の袖の上(え)に 里のわたりの夕まぐれ 世の行く末をつくづくと 散るは涙かはた露か」正成涙 を打ち払い 父は兵庫に赴かん いましはここ迄来たれども 我子正行(まさつ ら)呼び寄せて 彼方の浦にて討死せん とくとく帰れふるさとへ」−−。

 あの 有名な「青葉茂れる桜井の」の歌詞である。私は、10月5日、家内とと もに楠正成(大楠公)の長男、正行(小楠公)を祭神とす四條畷神社に参っ た。

 長い坂に続きおよそ100段の石段を上り切ると、神社は、周囲の山に囲まれ るように静かな雰囲気の中に現れた・・・。

 私は、儀式に則り、手水で身を清めてから 社殿に向かい、2拝、2拍手、1礼をし、正行公に礼拝した。

 社殿の中では、禰宜 が祝詞を上げ、ご家族らしき数人が祈祷を受けられておられ、2拍手では音を出 さなかった。次にその横にある御妣神社(みおやじんじゃ)にも同じ様式で拝礼 した。

この神社は正行、弟、正時を父の遺志を継げと、励ましたお母上が祭られている。

 一通りの礼拝を済ませてから、暫し、四條畷神社の中で「青葉茂れる桜 井の」をこころの中で歌い、反芻し、1336年初夏の湊川の戦いに向かう正成が子、正行に諄々と語り掛ける姿を想像していた。

 

正成(まさしげ)は床机に腰を掛け、嫡男、正行(11歳)に言った。

 「無念ではあるが、この戦、足利尊氏側に利あり。わしの具申した戦略が直接、後醍醐天皇に届かなかったのじゃ。負けるのを承知で尊氏に挑むまでよ。わしはな、 弟、正季とともに後醍醐天皇のおんために戦う所存ぞ。そちは、ここから郷土に 帰り、母上と暮らせよ・・・」

 11歳の正行は、涙ながらに訴えるように語る父、正成のこころがぼんやりとではあったが、判ったのか、大きく肯き、桜井駅 (大阪府島本町)で父と別れ、僅かな供とともに郷土に向かった。

 正成足利直義が率いる数千の大軍に僅か700騎で迎え撃った。善戦したものの、次第に敗色 が濃くなっていった。「やんぬるかな、正季。ここまでじゃのう」と、正成は悔 しさをにじませて弟、正季に言った。

 正季「無念なり、兄上。7生(ひちしょう)まで人間に 生まれて朝敵を滅ぼす所存なり・・・」と兄、正成に応えた。遂に2人は、互い に刺し違えて自刃したのだった。このころ、正行は母のもとで弟らとともに事の 成り行きを見守っていた・・・。

 

 この戦いに勝利した尊氏は、持明院統光明天皇(16)を擁立、即位させ るという、挙に出た。

 「む、尊氏、うぬはそこまでやるか!そしてやつの弟、直義!」と内心、尊氏らの辣腕に驚きを隠せなかった。

 しかし尊氏は、事の成り 行きから、大胆な行動を執ったのだが、こころはちぢに乱れていた。(わしの執 り行いしは、果たして「正」なるか・・・正成のみせた至誠のこころがありやなしや)とこころが疼きに疼い・・・。

 そして出家・・・、表舞台には、自分の代わりに弟、直義 を総大将に据えたのだ。こうして後醍醐天皇は、劣勢を余儀なくされ、神器は光明天皇に正式に手渡された。

 そしていわば「軟禁状態」に置かれた後醍醐天皇は 楠木一族らの助けを借りて、奈良・吉野に潜幸した

 この脱出劇を進めたのは、 北畠親房った。親房の嫡男、顕家(あきいえ)=21=も後醍醐天皇の懐刀であ り、今流でいうと「期待の星」であった。ついでに話すのだが、顕家の子孫が交野の里にその後、流れてきたことは「交野探訪」の中で述べている。顕家の英姿も私なりに書き込んだ。

ここに南北朝の時代が始まるのだ・・・。

 

後醍醐天皇も後に引けなかった。

 「和州吉野郡に移住し、かさねて兵をあぐるところなり」親房に書状を送ったのだ。

 もとより、親房は、賛同するだけでなく後醍醐天皇の支えになろうと子、顕家とともに忠誠を誓うのだった・・・。

 「一天両帝、南北京」の南北朝時代が始まった。

 1392年の両朝の合一(統合)まで室町幕府・北朝対南朝勢力との間で半世紀にも及ぶ戦いと緊張が続くことになる。

 父の先兵となって指揮を執っていた顕家1338年5月高師直軍との戦いで思わぬ敗戦で討ち死にした。

 私はこの剣術、軍略に長けた若武者(わかむしゃ)が、 何故、師直軍に数度の戦いの末、敗れたのか、暇ができたら、私なりに分析してみたいと思っている。

 ともか顕家は、敗れたのだ・・・。「先非を改められず、太平の世に戻す努力がなされないならば、(臣、衆)共に陛下の下を辞して山林の中に身を隠すでありましょう」(原文を木下要約)と後醍醐天皇に諫奏(かんそ う)している。

 この諫奏文から推測すると、楠木正成にも通じる潔(きよ)い性 格の持ち主であることが想像できる。

 敗戦は、この諫奏文を書いた一週間後のこ とである・・・。戦略については、顕家に勝るとも劣らない師直に虚をつかれたに違いないと思うのだが、軽々には、今の私には断定できる知識を持ち合わせていな い。

今後の課題である・・・。

 

 強烈な個性の持ち主、後醍醐天皇奈良・西吉野村(賀名生)の行宮で薨去(こうきょ)したのだ。

時に1339年8月16日のことであった・・・。

 後醍醐天皇「骨はたとえ 吉野の苔にうめるとも、魂魄は常に北闕(京都)の天をのぞまん」との強い意志を込めた遺言を残した。

享年52歳・・・

 訃報が畿内を駆け巡ったのはいうまでもな い。北朝側の主要な人物の中ですら驚きと寂寥感すら感じたのだった。

 生前に天皇の地位を義良親王(後村上天皇=12)に譲った。嫡男、顕家を失っていた北畠親房の嘆きはことのほか大きかった。

 この年の秋、親房は南朝が正統としてあの有名な「大日本は神国」で始まる「神皇正統記」を世に出したのだ。

 まさに 「巨星墜つ」の余波を鎮め、南朝の正統性を訴えた親房の心情も判るような気がする・・・。

 これは有名な話である・・・。卓越した禅僧、夢窓疎石は吉野にいるはずの後醍醐天皇鳳輦(ほうれん)に乗って亀山行宮に入る夢を見たという話がある。

 この夢から2カ月も経たないうちに後醍醐天皇は薨去した。夢窓疎石の書がある。「夢中問答」がそれだ。

 私もこの書を手にし、一時、読み込んだだことがある。 足利直義の質問に答える形を取っている。難解であるが、疎石の凄さがうかがえる。

 尊氏直義は話し合い、後醍醐天皇を弔うため天龍寺を建立することを決め、その造営費を得ようと、元に商船を派遣する。

 これにより、金5000貫を得、 造営費が奉納されたのである。後醍醐天皇と対峙する形になった足利兄弟が、天皇の怨霊を恐れたためとの説もある

 1345年天龍寺の建立がなり、落慶供養が執り行われ、足利幕府の威信を高揚した。無論、疎石が初代管長に就いたのである。

 

 さて父、正成と涙の別れをした楠木正行・・・尊氏から送られてきた父 の生首を見た正行は、一瞬、顔を背け、慄(おの)いた。弟、正時も同じだっ た。

 怯んだのだ・・・。まだ11歳の少年であったから、武将の子といえども当然だろう。が、暫くして正行は、負けを承知で勇敢に戦地に向かった父の英姿が蘇って きた。

父は偉い・・・

 「私は、その父の子、父の無念を果たしたい。いや、果 たさないでおくものか!」と次第に燃えるような青年武将に育っていくのだ。

 これには、母の叱咤激励もあった。父の亡骸を目の前にし、うろたえていた少年、 正行に「父上の遺訓をよもやお前はお忘れではあるまいのう。正行殿」と武道に 励めよと母の言葉は厳しかった・・・。

それ以来、正時とともに日夜、武道に励んだのだ。次第に頭角を現し、南朝軍の将帥になったのだ。

 1334年正月、正行は正成 の13回忌を機に遂に挙兵したのだ。この報を聞いた北朝側にも一瞬、緊張が走っ た。

 

 これより先、正行は昨夏から行動を開始、北朝軍と戦いを進め、徐々に南軍の総帥としての力を振るい出していた。

 大坂の住吉・天王寺の戦いで勝利を収 め、「正成の子故、中々やるな。各々、油断は禁物であるぞ。こころいたせ!」 と高師直らは軍臣らに檄を飛ばした。

 正行の挙兵の報を耳にするや数万の大軍を結集し、正行軍をとり囲んだ。これに対して正行軍は、3000の兵。

 正行は(う ぬ、これらの兵の力をどのように動かすかに勝利の帰趨が懸かっている。父上ならどうする・・・)戦略を練りに練った。

 (む。いつに、わしの気迫、勝利する という信念にかかっている。これがどう臣下・兵にいかに伝わるかだ。もし、こ れが少しでも欠けたるときは負ける・・・)と、己自身を励ます正行。

 正行は吉野の里にいる後村上天皇に会いに行くのだ。「勝ち負けは、現況では我が軍に不 利ではございますが、この正行、決死で戦いに臨みまする」と言い切った。

 決戦 場となる四条畷にとって帰るなり、戦いは始まり、熾烈さを極めた・・・。

 が、 刻(とき)が経つにつれ、戦況は、正行軍の配色が濃くなる一方になった。「やんぬるかな、もはやこれまでか・・・」と観念した正行。

 「かえらじと かねて 思へば あずさ弓 なき数に入る 名をぞとどむる」の辞世の句を詠む。一度は高師直に攻め込んだが、替え玉に翻弄され、勝利の道を完全に絶たれた正行の頬 に涙が伝った。

弟、正時と刺し違え、殉死したのだった・・。

 私はここまでの南北朝の鼎立というか争いを頭に描きつつ、四條畷神社界隈を家内と散策した。錦秋に染まる山々の風情ももう少しすると、愉しめるだろうと秋の到来にこころ弾ませていた。

 同神社の近くに和田賢秀の墓があった。 が、普通の墓とは違って神社風の佇まいをした境内の中にあり、思わず祈りを捧 げなければならないような雰囲気を漂わす。

 賢秀は、楠木正行らと従兄弟(いと こ)の関係にあった。楠木兄弟が殉死した後もこの武将は、尊氏兄弟や高師直らに果敢に挑んだことで有名である。

 敵から致命的な深手を負ったまま、相手に噛み付き、睨み付けたまま息絶えたという勇猛な武将であった。

 地元の人は賢秀を 「歯噛み様」として祀り、尊崇の念を抱いている。境内に賢秀の墓に寄進した五輪塔に刻まれた名前の姓は楠木姓であった。

 帰宅してから和久田さんに電話をい れたところ、「同じ和田でもうちの先祖とは直接関係のない方なのです」と和久田さん。でも和田一族は南朝方に就いたことはほぼ間違かろう。

 まだ四条畷神社詣 <楠木一族を想う>は書き足りないがひとまずこの辺りでとする。

 何時の日か南北朝関係の本でも書くチャンスがあればその参考資料にしたい・・・。