悠々と生きる」宮坂宥勝著(大和出版

 密教学の大家であり、密教僧としても最高峰に立つ人。難しい密教経典を説き明かすのではなく、極めて今日的な問題をとりあげながら、深く、かつ広いこれまでのご自身の体験を踏まえつつ、明快に語り継ぐさまは、身も心も洗われる。

 宮坂先生は今、京都・智積院の最高の位に就かれている僧でいらっしゃる。こて先で現象(現実)のさまを取り上げて物の語りを書く人も昨今多い。「それはそれでよいのでは」と私も思うが、宮坂先生なら「それも曼荼羅(マンダラ)。結構ではないでしょうか。画一的な生き方の是非が各分野で問い直されているのですから−」とおっしゃるだろう。

「でもね!生きとし生けるものすべてが救われるにはどうしたらいいかを根源的に問い直すときにきていますから、そうした視点もお忘れなく・・・」と言われるだろう。

先生のインド体験から始まる独自の語りは実に説得力がある。

 宮坂先生は一般的に言われる閉塞状況を根本的に打破するには”人間中心主義”からの脱皮が不可欠と言われているようだ。そしてそこに新しい文明が生まれるとも取れるが、菲才な私などには理解が及ばないところがあることも事実だ。

 しかし、語り尽くせないほど示唆に富んだ書であることは言うまでもない。

 (今から12年ほど前に宥勝先生を長野県岡谷市の照光寺に訪ねました。子息で住職の宥洪氏にもお会いした)=2011年3月記す。

      ・・・◇・・・◇・・・◇・・・◇・・・◇・・・◇・・・◇・・・

,宮坂先生は2011年1月11日、満89歳で遷化。

謹んで哀悼の意を表します。

 改めてこの著作を読んでみると、この書評を書いた段階では私が理解し得ていないことが多くあることが分かった。

 先生が学僧として偉大なる生涯の中で『インド』体験が最も印象に残ると語られている。

 とりわけ、インドは『日常を時間で区切るようなことはしない』とした上で彼らにとって『時間は悠久の彼方から流れてきて、無限の彼方に流れ去るものであり、大して気にとめる必要がないものなのである』(55頁)は、なるほどそうだと思った。

 宥勝先生はこの著書のなかで何時間も列車を待っていたがなかなか定刻を過ぎても列車は一向に現れない・・・。

 でもインド人客は『悠然と構え』で不平すら一切、語らない、と述べられている。

私のインド体験でも同じようなことが・・・

 ムンバイ発の飛行機のフライトを確か2時間余も待ちました。インド人の方々は『悠々』とした態度で待っていたのは印象的であった。

さらに密教『奥義』も分かりやすい文体で語り尽くされていると思った。

 宥勝先生は毎朝、檀家の人々らを対象に『阿字観』の修法を実践、指導をなされたという。

そしてこう語られていたのが印象的だった。

 「私には宇宙の秘密の根源に触れるにはまだ、まだ」と謙遜されつつも 『自分が宇宙の一部であり、宇宙そのものとしてこの世に生成し、やがて去っていくということである。こうしたことがごく自然に受け止められるようになってきている。こういう感性が深まっていけば死の喜びを喜びつつ、この世を去っていけるようになるのかな、と感じだしているところである』 (173、174頁)。

 『人間がこれまでの歴史で繰り返してきたように、現在は人間を梃子にして乗り越えられるような状況では、もはやないのである。(中略)価値観の根本的な転換が必要である。そうでなければ、地球は確実に破滅し、人間存在の基盤は崩壊するだろう』 (182頁)

 『宇宙中心主義こそ、地球の未来を開く唯一のものだ、と私は確信しているのである』 (184頁)などと結ばれている。

この時、宥勝先生は71、2歳前後ではないかと思う。

生きる力(真言宗智山派宗務所)著者 眞保龍敵

露とおち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢(太閤秀吉)

たままつり けふも焼場の けぶり哉(芭蕉)

頓(やがて)死ぬ けしきも見えず 蝉の声(芭蕉)

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声(芭蕉)

 冒頭の句はかの信長の後を継いで天下統一をなし遂げた秀吉の辞世の句といわれています。

 千利休を切腹に追いやり、また秀吉の晩節を汚したといわれる愚挙、朝鮮への2度にわたる出兵。

 確かに信長の意志を継いで楽市、楽座の徹底など国内体制の基礎がためには評価すべきところがあることは言うまでもありません。

 が、その愚挙により、秀吉の政治経済体制は弱体化。死の床に就く彼。脳裏に過ぎったものは果たして・・・。

 栄華を極めし彼も齢(よわい)を重ね、体も心も弱り、複雑な心境がこの句に映し出されているのではないでしょうか。

 恐らく秀吉には「死」という概念が晩年に至るまで彼自身には希薄ではなかったかと言うのは言い過ぎだろうか・・・。

ところで芭蕉の三句。

芭蕉の行動には様々な説がありますがここでは割愛します。

 彼は常に「死」を抱きながら国内津々浦々を行脚したのではないでしょうか。

 「色は匂えど散りぬるを わが世たれそ 常ならぬ 有為の奥山けふこえて 浅き夢みじえいもせず」(空海)

 このあたりの諸行無常の理を知悉していたのが、芭蕉であることはこの三句を見ただけでも容易に理解できます。為政者と俳人の違いこそあれ読者の皆さんはどうご判断されるでしょうか。

 ところで信長。辞世の句など寡聞にして知らず。でも、でもですよ。「人生五十年 けてんのうちに較ぶれば 夢幻の如くなり云々・・・」と桶狭間の戦いの前に謡いましたね。

 その後、信長が繰り出した天才的ともいうべき戦略の数々は芭蕉のように「死」というものを常に抱きながらおらばこそできたのではないでしょうか。

ここまで書くと書評のいきを逸脱しているでしょう。

 そこでこの著書のなかで子規の句にも「おやこんな句があったのか」というのを紹介して書評に替えさせて頂くことにします。

つまり、この本は様々なことを想像させる内容のある良書と言えるだろう。

護摩堂に さしこむ秋の 日あしかな(子規)

殿のともし(灯)火細し 夜の雪(子規)



「ヒトは躾で人となる」岡田武彦(登龍館出版)

今の混迷の世に子供をどう教育するか・・・。

あれやこれやの議論や意見が賑わせている。それは当然のことだろう。

 「銀もこがねも玉もなにせんに勝れる宝、子にしかめやもという古歌がある。

 陽明学者として有名な碩学、岡田武彦・九州大学名誉教授が読者の目線に立ち教育の、いや子供の躾の必要性を説く本が登龍館から最近出版された。貝原益軒や禅に通じる静座を超克した(兀坐=ごつざ)の必要性などを判りやすく解き明かしておられる。

 明治生まれで長く教育に携わっている方だけにどこを読んでも説得力がある。知識だけを詰め込む安易でしかも画一的かつ想像力の劣化を促すだけのなにものでもない暗記主義教育終焉を端的に示されているような想いに駆られるのが素晴らしい。

戦後教育が欠落していたところをものの見事に指し示しておられる。

 つまり、知識以前に必要な事柄が随所に表現されている。物知りだけでは、これからの時代は生き抜けないだろう。この書は、将来を見据えた子供の躾、教育の在り方を様々な角度から捉え、示唆に富んでいる。

 私なりの解釈をあえてすると、「生き抜ける」 「抜けない」という処世訓などという次元を超えた人間が本来持たなければならない根源的なものを読み取ることができる。それには読者諸氏の味わい尽くすという努力も必要のようだ。その意味でも一読を勧めたい。

今の時代に求められている良書の一つであろう。

 

『悟りと解脱 』 [宗教と科学の真理について] 玉城康四郎著 (法蔵館)

 とにかく言えることは「梵我一如」なるものは私のような凡俗の者には今の段階では西嶋師や吉本さんらのこうした言質を足がかりにし、かつ自らが久遠に等しく修していかねばならぬものであろうと思える・・・

(2009年大晦日の生活エッセイ参照)

 その考察と実践は後に譲るとして辻の「ウパニシャド」の114頁にこう書かれている。

 「ウパニシャドの奥義は実に、心寂静ならざる者に、授けられてはなならのである・・・」と結論づけている。

 凡夫の私が少しく思惟を巡らせてもそのように思える。辻はそのように言い切る前に以下のように論述している。

それを概括する。

 『寂静ならざる者、精神統一せざる者などは、アートマンを識得することがない。欲望を去ることは業の根絶を断つに等しい・・・』と。

 さて今、蹟学で東京大学などで教鞭を執りながら、座禅をしたり、静坐などにとりくむなどして仏道の実践者として知られている玉城康四郎(敬称略)の最晩年の著作「悟りと解脱」(法蔵館)を読み進めている。

その中の一節を紹介する。

 『(私)は64歳から、約15年間は、いわば歓喜と絶望とのあざなえる縄のごとく、(略)ただ業熟体に苦しみ、悩み、業熟体を行じてきたといえよう。

私はその折々の心境を、短句、あるいは我流の詩形で記してきた。

 ところが78歳の12月14日、ふと気がついてみると求め心が脱落してダンマ・如来が顕現してきた。

 83歳の誕生日を迎える一カ月前、ダンマ・如来は通徹のあまり、私の全人格体から限りなく大空間に向かって放散されるようになった』

 私はこの文を読んだ瞬間、これこそが玉城康四郎という逸材に顕現したまさに「梵我一如」の一つの姿ではないだろうか、と想像したのだった。

以上の文章はそっくり2010年6月18日の生活エッセイに書いたものである。

玉城の書評にはぜひ必要であると判断したからである。

 極めてレベルが高い。しかしおもわずぐいぐいと引き込まれていくような迫力がこの本にはある。

 なぜならば上記のエッセイの中でも触れているが、蹟学、玉城が悩み、苦悩、歓喜、法悦、また苦悩、絶望・・・。

 そして最晩年についに到達した自身が如来(ダンマ)と一体(合一)した大歓喜の発露に私は、偉大なる玉城におもわず畏敬し、こころのうちで拍手を鳴らし続けていた。

 玉城の学者としての緻密な学問的集積もさることながらこの本の凄みは並みの文学者、作家では到底なしえないような深い自己凝視に私はおもわず唸った。

 『60歳で東京大学を定年となり、仙台の東北大学に移り、定年まで三年を過ごした。その間に、ブッダから業熟体について教えられたのである。

 業熟体とは、宿業の身ということである。限りなき時間、無明・我執によって輪廻し、迷いつづけて、いま、ここに現われている私自身であると同時に、生きとし生けるものすべてである。

 この一個の私自身であると同時に宇宙共同体である。この業熟体にこそ、ダンマが顕わになるのである。

 ブッダは後に、このダンマを如来とも名づけた。如来は法身である。すなわちダンマを自らの体となすものである。

 従ってダンマも如来も、形なき寿(いのち)そのものであり、同じことである。しかし、如来とあると、われわれにいっそう親しく感じられる』(同著、第1章より)

 1999年刊の玉城の遺稿ともいうべきこの本はともかく最近の私を感動してやまなかった本の1冊なのである。

さらに味わいながら読みこなす所存である。

(2010年6月19日)

 

 

『呪の思想』 白川静 梅原猛対談ー神と人との間ー(平凡社)

 白川靜[敬称略)が私に語った懐かしい言葉が蘇ってきた。

 (平成12年春、白川先生満90歳になられるほぼ2週間ほど前だったと記憶している)

 白川邸を訪ねた私に白川は持ち前の響きのある大きな声ながら終始丁寧な口調で私に語り続けた・・・。

 「梅原君だけにはぜひ立命館に帰ってきてほしかったんですよ・・・。法然の本などを(法然の)墓の前で読んだりとかね・・・当時から人物でしたね・・・梅原君はね・・・」

 これは確か私が新聞社に入社した翌年に巻き起こった大学紛争時のことを語られたときであった。

 (そうか・・・、白川先生も当時から梅原先生を高く評価なさっておられたのだ・・・)と想いながらもせっかく貴重な時間を割いて私のような若輩ものに会ってくださったのだから今日は様々なことをお聞きするまでよ・・・と思っていた。

 「その場合、梅原先生にどんな期待をおかけになっておられたのでしょう」という質問を一瞬、呑み込んだのだった。

 一応、それは一つのミステリーとして我が胸にしまっておくか、いずれ機会があれば梅原(敬称略)に直接、尋ねれば済むことではある・・・。

 さてこの本は次のように一言、二言断言してもよいほどの素晴らしい本である。

 「今夏、もし 1、2週間も猛暑が続いて好きな散歩ができなくてもこの一冊を再読しておれば知的好奇心が次から次と湧いてきて一日はあっという間に過ぎゆくだろう」

「いやさぁー、今年の残り半年はこの本で愉しくすごせるかもな!」

こだわるようだが、白川が期待した梅原立命大復帰の件である。

 はたせるかな梅原はこのことをよく覚えており、この白川の期待に応えられなかった梅原がこの時の贖罪(罪ほろぼし)するため、梅原自身が企画してできたのがこの対談のようである。

 日本を代表する超蹟学が互いの頭脳をフル回転させながらの対談であるから、私が手放しで前述のように述べても決して誇張でないことは1、2時間この本に接するだけでお判りいだだけよう。

 さて書評としてどこをとりだすかおおいに迷うが、私がこのウェヴサイトのトピックス欄で書いた「天理教」の中で触れた高橋和巳のことに関するお2人の対談を概括することにした。

 (白川が京大の吉川幸次郎に頼んで高橋を立命に呼んだと語ったことは「天理教」の中で書いた通りである)

白川: 採用の資料に「捨子物語」を持ってきて。あれはまあ読みづらい小説でねえ、弱ったなあ(笑)

編集部:作品はどうでしたか。

白川:あれは小説の文体でないなあ(笑)

梅原:甚だ、或る意味で、拙劣だ。それは「悲の器」でも、文章として決していい文章ではない。やっぱりそういう、何かなあ、人生を柔らかく捉える、そういう感受性が欠けてるな。

 やっぱり小説でも理詰めの・・・特にその、男女関係が書けないんだ。作家は男女関係書けんとね。彼は書けないんだ。

白川:論文は良かったよ。それで四人向こうから送ってきた中で、僕は高橋君を選んだ。

梅原: 私が高橋の存在を知ったのは「立命館文学」。思想の動向が書いてありましたが、すごい文章書くなと。キラキラしてましたよ、そのころから、才能は。それはやっぱり大したもんだ。

白川:だけど、小説には向かん(笑)。

梅原:でも「邪宗門」がいちばんいいんですけどね。

白川:論文はね、六朝期の文学論だったけどね、やっぱりそういう論理的な文章は鋭かったね。

 およそ以上であるが、お2人とも高橋の小説に対しては辛口であるが、こと論文に対してまた学者としての才能については実に高い評価をされている。

 高橋は心底、白川を尊敬していたことは彼が学園紛争の最中に書いた小文でも明らかである。

高橋の文はもう朧になってはいるが次のような内容のものだった・・・。

 「紛争息ぬ学園なれどS教授の研究室だけは我れかんぜずとして帳の闇に煌々とした灯あり・・・云々」(木下が思い出して文語調で書けり)

≪その小論とは:『わが解体』という高橋書物の中に収まっていいる。紙幅の関係で私なりに要約してみるーー

以下のようだ。

 立命館大学で中国学を研究されているS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、それまでと全く同様、午後11時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。(略) ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜遅くまで蛍光がともった・・・≫

高橋のことが長くなりすぎたが、梅原が白川に尋ねた。それに白川が応えた。

それを紹介して書評の〆としたい。

梅原: 中国史の中に登場する人物では、誰がいちばんお好きですかね。

白川:蘇東坡かな。

(注) 蘇東坡(1036-1101年)は北宋の詩人・政治家・書家である。東坡居士。蘇の長子であり、弟のとともにそれぞれ大蘇、小蘇とも称される。

 (2010年6月19日)

 

『親鸞と道元』五木寛之立松和平

「親鸞と道元の立場は大きくちがう。それにもかかわらず、宗教の根本精神において両者は火花を散らせてスパークする一瞬がある。

 それは究極の救いと悟りを、人間と宇宙の深い闇を照らす光として直感している点である。

 親鸞は『無碍光』(むげこう)という。道元は『一顆明珠』(いっかみょうじゅ)という。

 両者はそこに全宇宙とが光にみたされる瞬間を思い描くのだ・・・」

 これは五木言葉である。

 五木だけでなくおそらく立松も同様の考えを持っているという共通認識のもとで双方の見解が幾重にも織りなしてしている。

 「親鸞」も「道元」も両氏が繰り広げる議論のなかで自然と「親鸞」「道元」の姿が明確ぬ浮かび上がってくる。

五木は浄土教思想を以下の3つの段階で表現している。

@:「泥中にあれど花咲く蓮華かな」(お願いします

A:「泥中にありて花咲く蓮華花かな」(お任せします

B:「泥中にあれば花咲く蓮華かな」(ありがとうございます

Bの泥中にあってこそというのが(浄土門)の最後の到達点だと五木は語る。

 つまりすでに救われているというところまで信仰が深まってくると、ただ「ありがとうございます」というだけになるのだ。

 立松「妙好人」が持つっている確かな信心の深さをとりあげて「彼らは念仏をしながら、ただひたすら『ありがとう』といいつつ報恩に感謝すると言っていると補足した。

 このように「道元」についても五木から的確な意見が開陳されるから、「親鸞」「道元」もその実像を知る大きな手掛かりを提供するこの本は貴重である。

 さらにまた二人の作家の仏教にたいする蘊蓄(うんちく)が学べるのだから読んでいて愉しくなるのである。

 (2011年1月25日)

 

『親鸞と世阿弥 思うままに』 梅原猛著(文藝春秋)

この著作はまずあとがきから読むといい。

あとがきを要約する。

 「わたしは来年(2011年3月)で86歳になる。身体の衰えは否定できないが好奇心はますますさかんになるのをどうしようもない。世阿弥と親鸞の仕事をあと3、4年で終え、次に本職である哲学の本を書きたい。

最近、西洋哲学に対抗する新しい哲学の原理を日本の伝統思想の中に見つけることができたと思っている

哲学の仕事は90歳を超えてからの課題になると思うが、それを完成させるために、もう10年ほど呆けることななく生き永らえねばなるまい」

と結んでいる。

 私は碩学、梅原の願いが叶うようひそかに祈りたい気持ちが自然と湧いてくるのを禁じ得ない。

 なぜならば、氏が教授をしていた大学の生徒であり、学部が異なるため当時の私は梅原の研究者として活躍する評判を聞くだけであった。

 ところが新聞社の現役のころ処女小説生生流転」を書いたとき、電話一本でこころよく引き受けていただいた

 当時私は大学で専攻した経済学とか新聞社の仕事とも全く関係のない『唯識学』を独習しており、先祖を素材に書いた。

 唯識学といえばすぐ頭に浮かんだのが梅原であり、三島由紀夫の晩年の輪廻転生の物語「豊穣の海」が実は氏の研究成果を素材に書かれたものであることを知っていた。

 そこで私とすればもう蛮勇を奮って氏にはしがきを依頼した。梅原から過分の推薦文を頂戴した経緯もある。

 さらには後で知ったことであるが、氏は幼いころ実母を病で亡くしており、おそらく氏は実母の顔をご存じない筈であろう・・・。

 私も生母の顔を知らない。梅原とほぼ同じ1歳半の時、生母は旅立った。

 また氏は伯父のもとで養育されている。この点でも私と同じ境遇におられた。

 こういうことから氏がいかに偉くても根本のところでの「梅原」に寄せる感情は一向に変わらないところがある。

 氏はよく「ルサンチマン」(ニーチェ)のことばを使われる・・・。氏の哲学の全貌を理解しきっているわけではないが、氏の「ルサンチマン」を私なりに理解しているつもりだ。

 この著作は氏のこれまでの思索の長い道程が平易なことばで本音で書かれてあり、氏の思想の成り立ちや内面をうかがい知ることのできる貴重な著作になっている。

梅原ファンなら必読の書であると言える。(2011年2月15日)