![]() |
||
私は全国紙に大学を卒業とともに入社、幾星霜・・・。 2004年4月末、定年退職した。 様々な思い出が去来する・・・。20代半ば過ぎ広島支局に勤務すること3年・・・。今でも私の原点の一面はこの時代にあると言っても過言ではない。 地元有力紙の記者諸氏と特ダネ合戦に明け暮れた。選りすぐられた中国地方の"雄"の面々・・・。30代、40代の中堅・ベテランの凄腕・・・敏腕記者揃いであった・・・。 風貌は残念なことではあるが、もう朧になっている・・・。 でもお互いに滾るような若い血潮を傾けた懐かしい思い出の数々は焼きついていて鮮明に蘇るのだ。 てまえかってな回顧かもしれない・・・いまさらながら闘いの戦果をあえて問うてみた・・・。 む、む、む、これは確かに難しい・・・というよりはむしろ野暮な問いであるかもしれない・・・。 地元有力紙の総合的な取材力は抜群に凄かったことはいうまでもないが・・・(われらは少ない戦力にもかかわらず)おう・・・あの問題では、このニュースに関しては・・・完全に勝利したなぁーと誇らしげに思ったこともこころを過ぎる・・・。 そうだったなぁ・・・。 内務省時代からの優れた官僚で自治事務次官の職を全うされその後、広島県知事になられた大物知事の宮沢弘さん(宮沢喜一元総理のご舎弟)に言われたことがあった。 あるニュースで私が大勝利した後の記者懇談会で私の杯にお酒をやさしく注ぎながら、「えぇー、ご苦労さまですね、今日は・・・、ところであなたのあの記事ですねー、(いいにくいのですがねー)、それがもとで木下さん、後でこんなxxxことがありましてねぇー」とやんわりと牽制球をなげてこられた。 28歳の私は「そうゆうこともあるんだなぁー」とに記事の持つ影響力を神妙に感じとったものだった。 それから1年後、3年の勤務を終えて大阪本社に帰任することが決まって竹下虎之助副知事(後に知事に)ご挨拶にうかがったら「木下さんちょっと待っていてください・・・」。 隣の知事室からもどってこられた竹下さんから知事・副知事連名の選別の入った熨斗袋をちょうだいしたのだった。 (竹下さんは1981年から3期、 12年間、知事を務め、広島県の発展に貢献された。2008年ご逝去、84歳。謹んで哀悼の意を表します) 当時の私という記者は取材される側のお二人の立場からすればきっと功罪相半ばする存在であったに違いないと今でも想う。 にもかかわらず、その寛大で励ましのご餞別にはこころから感激した。 大阪本社に帰任する私を広島駅で見送ってくださったのは自治省から出向しておられた企画部長の金子清さんだった。 金子さんさんは後に自治省審議官を経た後、新潟県知事になられたお方だ。 新聞記者のまさに青春時代だった広島勤務の思い出は尽きないのだ・・・。 このような言い方をすると自慢話のひとつのように思えてきて誠に気恥ずかしいが、もう過去を振り返ることも許されようか・・・。 時代がかった言い方をすればこのころの私はまさに「武士」(ますらお)であった・・・。 しかし入社から広島に転勤するまでの見習い的な内勤の折は「文人」とでもいえようか・・・。 仕事を終えて家に帰ってから食事もそこそこに好きなお酒をちびりちびりとやりながら小説ばかり読み耽っていたのだった。 社の先輩諸氏は「あいつはまぁーいってみればだなぁー文学少年の類だよなぁー、どうしょうもねぇーやつやなぁー」とあきれておられたかもしれない・・・。 大学で懸命に頑張って勉強した経済学のことなどいつのまにかすっかり忘れてしまっていたのだ・・・。 今から思えば尊大そのものではあった。記事よりも物の語りを書こうなどとひそかに思っていたような記憶がある。 入社してまもなくの1971年12月の文芸春秋臨時増刊号、明治・大正・昭和「日本の作家100人」(定価430円)を購入している。別に大切にしたような記憶はないのだが不思議なことにまだ手元にある。もうどこの頁も黄ばんでしまっているが、表紙には錚々たる作家の顔が載っている。 実際、この時は想いだけで書く能力など全くなかったと、今ならよく分かる。 が、当時は職場仲間で本を貸し借りして読後感などを話し合った記憶は鮮明に残っている。 「おや、この人はこの程度しか読みこなしてないのか・・・」と内心自信めいた心が過ったこともあった。 取材記者として自分ではなにかしら自信満々・・・あたかも肩で風を切るがごとく走り続けていたような不遜な思い上がりがあった・・・。 そう・・・、いってみれば広島時代には持ち合わせていたはずのいい意味の謙虚さをかなたに捨て去っていたとも言えるだろう。 自前で新地(梅田)の周辺に2個所(一つは高級な部類、もう一つは並のスナックバー)の拠点を確保して一人前の記者であることを・・・む、む、む、いまから思えば恥ずかしくて言いたくはないのだが当時はそれを誇示していたようなところがあったことは否定できない。 所詮は未熟そのもののような存在であった。 とにかく飲みまくったといっていい・・・。つまり、増長していたとしかいいようがない。 だから当然の如く躓(つまず)いた・・・。つまり、すってんころりところんだのである。 いまから思えば慢心故に・・・そう酒に溺れて、少し、肝臓をやられた。飯が全く喉を通らなくなっていたのであった。(まぁー、これで記者生命は終わりになるかもなぁー)と若さゆえの焦りと長嘆息・・・の日々であった。 もちろんのことながら今は「完全体」である!! ここでは詳しく触れないが、隠喩的に"酒"を使って表現すると、その"酔い" から覚め、新聞社の組織の上での挫折から完全に這い出ることができたと思えるようなるのには少なくとも数年はかかったように思う。 つまり、社の中での生き方を探し出すということであった。 当然のことではあったが、ありていに言えば社内での様々な欲望を一切、抛擲することだった。 でもである・・・定年退職して5年が過ぎた今、こころして思えばそのように気負っていた私に対して新聞社の先輩や同僚や後輩諸氏の多くが 私に概ね好意的であったということが脳裏に蘇った・・・。 そう、そのことにいまさらながら気が付いたのだ。 おのが不明を恥じる・・・。 勤務しながら、社業となんら関係のない本を上梓するなどということは本来ならあまり歓迎されないことであったのである・・・。 当時、そういう意識が不覚にもやや欠落していたといわざるを得ない。 でも社は私の書いた本(企画書)に対して大阪本社編集局長の承認と東京本社出版局長の同意が必要であったが、社の方からはなんら注文らしい注文は一度もなかった。 適切な審査の上、迅速なる承認と同意をすべての本でいただいたのであった。これはもう感謝しても感謝しきれないほどありがたいことである・・・定年後、ようやくにして心底から理解できたのだ。 こうした社の寛大で好意とも思える対応がもしなかったとしたら、私は今頃、寒空の下で身震いしていたかもしれない・・・。 だから大いなる命が万事につけ非力な私に対してこれまで背後から支援のそよ風を送り続けていたとしか思えない。 そうしたなかで私は共著も含めて現役時代に6冊を上梓することができた・・・。 ここで紹介するのは処女小説である「生生流転」と近刊の「如来が弁護してござるーー暁烏敏 『小説』満之・涙骨・・・」と終の棲家となる自然と歴史の里、交野市を歩き回って書き綴った「交野探訪」(エッセー)である。 20代のころは文学というよりは小説中心の読書に過ぎなかった・・・。 しかし、ここでは仏教、歴史、文学・思想など私なりに勉強した成果を少しは折り込めたと思っている。 今の私は後、数年はひたぶるに勉学に励み、その上で納得のいく作品を上梓できたらと思っている。 でないとこれまでの6冊の著書を上回るような作品は書けないことを身をもって自覚しているからである。 そのときまでは、このウェブサイトを活用して近況をご報告致しますのでどうぞよろしくお願い申しあげます。 (2009年12月17日)
|
||