プロローグ

私は全国紙に大学を卒業とともに入社、幾星霜・・・

昨春(2004年4月末)定年退職した。

様々な思い出が去来する。20代半ば過ぎ広島支局に勤務すること3年。

地元有力紙の記者諸氏らと特ダネ合戦に明け暮れた。

  選り抜かれた中国地方の"雄"の面々・・・。風貌は残念なことではあるが、もう朧になっている・・・。

でもお互いに若い血潮を傾けた懐かしい思い出は焼きついて鮮明に蘇る。

当時の諸氏には悪いが・・・。

 闘いは双方の記者の数から勘案するとむしろこちらの方が戦果の上では勝っ ていたような気もする。

 むろん、あるスクープで完全に敗北した苦い思い出も鮮明に記憶の中にある。

 あっという間に3年の歳月が経った。私は副知事であった竹下虎之助(後に知事に)さんに挨拶に伺った。

 大阪本社編集局の流通経済部に行く内示をもらったあとの早春のある日のことだった。

木下さん、少し待っていてください」と竹下さんは出てゆかれた。

 そしていただいたのが宮沢弘知事と竹下副知事連名の「餞別」だった。私はやや驚き、恐縮したが感謝し、頂戴した。

 今、思っても取材されるお二人からすれば私という当時の記者は「功罪相半ばする存在」であっただろうと思う。

お2人の寛大さにこころ打たれたのだった。

 後に新潟県知事になられた金子清企画室長に広島駅で見送っていただいたのもなにかしらついこの間のような気がする。

 さてこのような言い方をすると自慢話のように思えて気恥ずかしいが、もう過去を振り返ることも許されよう。

時代がかった言い方をすればこのころは「武士」(ますらお)であった。

 しかし入社から地方に出るまでの見習い的な内勤の折は「文人」ともいえようか。家に帰ってからは小説ばかり読み耽っていた。

先輩諸氏には文学青年とみられていたようだ・・・。

  「まぁー、あいつはだなー、言ってみれば青臭い文学少年みたいなものだなぁー」と思われても不思議ではなかった。

 大学で専攻した経済のことなど全く忘れてそんな小説の世界にのめり込んでいたのだった。

 今から思えば尊大そのものではあるが、記事よりも物の語りを書こうとひそかに思っていたような記憶がある。

 1971年11月の文芸春秋臨時増刊号、明治・大正・昭和日本の作家100人」(定価430円)を購入しており、不思議なことにまだ手本にある。入社まもなくのころである。

  もうどこの頁も黄ばんでしまっているが、表紙には錚々たる作家の顔が・・・

前月に没した志賀直哉写真による伝記が掲載されている。

 だが実際は、この時は想いだけで書く能力など全くなかったと、今ならよく分かる。

 が、当時は職場仲間で本を貸し借りして読後感などを話し合った記憶は鮮明に残っている。

 おや、この人はこの程度しか読みこなしてないのかと内心自信めいた心が過ったこともあった。

 取材記者から36、7歳ごろまではその延長で走り続けた。が、躓(つまず)いた。

 慢心もあっただろう酒に溺れ、少し、肝臓をやられた。しかし食事がほとんど喉を通らなくなっていたのだった。青二才の私は苦悩し、しょげかえって停頓した。ともあれなんとか苦境を脱出した。

肝臓はもちろんのことながら今は完全だ!

 物書きの端くれでもと望むなら、このあたりで辞めるのも選択肢としてあったのかもしれない・・・。

 しかし、その選択をしなかったのも大いなる命万事につけ非力な私を押しとどめたのではないかと今でも本気で思っている。

”酔い”から覚めたころから縁あって共著の本を含めて6冊を上梓した。

  だだ簡単に上梓といっても社業となんら関係のない書物を仕事の傍ら書くということは、組織の上ではかならずしも好ましいことではなかったことをいまさらながら思うのである。

社の方は実に寛大だった。

 内規で大阪本社編集局長の許可と東京本社出版局長の同意が必要であったが、いずれも迅速で適切な対応をしていただいた。

 提出した企画書に対して社の方からは一度も注文らしいものはなかったのが不思議に思うくらいだ。

 当時感謝する言葉を吐けなかった自分の未熟さを思い恥いっている。

 ここで紹介するのは処女小説である「生生流転と近刊の如来が弁護してござるーー暁烏敏 『小説』満之・涙骨・・・」終の棲家となる自然と歴史の里、交野市を歩き回って書き綴った「交野探訪(エッセイ)である。

20代のころは文学というよりは小説中心の読書に過ぎなかった・・・。

 しかし、ここでは仏教、歴史、文学、思想、哲学など私なりに勉強した成果を少しは折り込めたと思っている。後、数年は再び黙してひたぶるに勉学に励み、その上で納得のいく作品を上梓できたらと思っている最近の私である。

 そのときまでは、このウェブサイトを活用して近況を報告致しますのでどうぞよろしくお願い申しあげます。

(2009年11月30日)

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 『世界はインドで回っている』幻冬社ルネッサンス新書版≫をこのたび出版致しました。

 今回の未曾有の大震災『東日本大震災』の惨禍から立ち上がる被災地などのみなさんの温かいにメッセージになればと思っております。

 多くの言語、地域により様々気候・風土を持つインドの姿を過去にさかのぼりながら、宗教・哲学、そして文学、世界で最も洗練され、精緻な文法を持つサンスクリット語、インド生まれのヨーガ・・・

 最近急拡大、近代化され高成長著しいインド経済など様々な角度から「インドの今昔」を浮き彫りにしました。

 『交野探訪』(エッセイ)に次ぐ著作になりますが、今回の著作、 『世界はインドで回っている』インに進出した企業関係者のみなさんやヨーガに親しむ方々大学生のみなさんなどインドに興味と関心を抱かれているすべての方々を対象にしています。

 ヨーガ(ハタ・ヨーガ)に取り組んでいられる方々にも参考になればと思い、ハタ・ヨーガにつてもかなりのページを割きました。

 またインドでお暮らしの方々やこれからインドを訪れられる方々にも多角的によりインドを知る手だてとなるようにも工夫を凝らしました。

 つまり、どこの章をどなたに読んでいただいてもインドを知る助けになるように努めたのがこの本です。

 さて昨年11月末に後、数年はひたぶるに勉強に励み、その上で次なる作品を手掛けるとの思いを書きました。

 この後、2010年4月から7月まで私はサンスクリット語の基礎講座を大谷大学の聴講生として同大に通いました。

 週1度の授業でしたが、すべての授業に出席、サンスクリット語の基本的な事柄を世界最難関といわれる文法を中心に学びました。

 こうした中で90分の授業に耐える体力づくりの一環としてほぼ毎日、50分ほどのヨーガを自宅で行うことにしました。

 これまでの私のヨーガの取り組みは単なる情性に過ぎなかったことを思い知りました。

 一つ一つのアーサナ(宗教体操=坐法)をゆっくりと、丁寧にしかも呼吸の仕方にも工夫しながら取り組みました。ほぼ100日間、毎日取り組んだものですから、授業が終わるころには、かなりの効果が出てきたのを実感致しました。

 ハタ・ヨーガの指導と普及にまい進された佐保田鶴治氏の「ハタ・ヨーガは宗教であり、それは未来の世界宗教になる運命にある」との意味もかなりの部分において賛同できるようになりました。

そこで 『世界はインドで回っている』の章の一つにヨーガの項目を取り入れることにしました。

 肝心のサンスクリット語の授業ですが、授業さへ出席すればなんとかなると最初のころはきやすく思っていました。

 しかし、しだいにこれは巷間いわれるごとく難解極まるということが分かり出し、その日から教科書をより噛み砕いたような私流の『サンスクリット語ノート』を急きょ、作り出しました。

 そのような努力の甲斐があり授業のほぼ半分が過ぎようとしたころ、ようやく「難解なサンスクリット語もこうしたら自分でも独習できるのでは・・・」ということが、突然分かりかけてきたのでした。授業は教科書の3分の1程度で講座を終了しましたが、先生の山本和彦氏の熱心、かつ丁寧な説明に励みを覚えたのが、私にとってはよかったと思います。

 山本先生のような優れた学者に偶然、お会いできたのは幸運だったとつくづく思うのです。

 それと私が30年近く宗教、とりわけ仏教に親しんできたことも新作、 『世界はインドで回っている』を書く上で助けになったことは言うまでもありません。

出版の暁にはどうかよろしくお願致します。

 さて 『世界はインドで回っている』の原稿をあらかた書き上げた上で私は2010年10月27日から同年11月28日まで一カ月間インドプネ市に滞在インドの小旅行を愉しみ、私なりにインドの見聞を広めてくることができました。

  さらに 『世界はインドで回っている』の刊行後は『インド日誌(随想)』(仮題)を出版する予定にしています。その後は文学作品として「インド」と「日本」を舞台にした小説を書き上げることにしています。

 この文学作品は相当構想を練り上げる必要性を感じておりますので刊行は、3、4年後になる見通しです。

これを以て小生の『インド3部作』にする所存です。

ご期待ください。

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 さてここ10年間ほど温めていた偉大な漢字哲学者、白川静に関する著作2冊の執筆準備に『インド3部作』と並行して取りかかり、『インド3部作』の刊行を終了した時点ですぐに執筆に取り掛かる。

 場合によっては『インド3部作』と並行して可能ならば早期に執筆することも考えられる。

その@は『白川静から我々は何を学び取ったらいいのかーー』

そのAは『白川静物語』(私流儀の小説スタイルで≪『交野探訪』で採用した≪虚実皮膜の手法≫

 このように白川関連の本を2冊刊行することを目標に掲げたのは、90歳だった白川にこう言われた経緯がある。

 「木下さん! 貴方にその気があれば僕のことを書いていただいて結構ですよ」と言われたのある。

 しかし当時はまだ新聞社の現役のころで時間的な制約がある上、ちょうどそのころ天才宗教家、清沢満之の一番弟子で異色の僧といわれた曉烏敏の小説の原稿は仕上がっていたのだが、出版社探しに追われていた。

 むろん、巨人、白川静に迫るにはやや勉強不足であったし、力不足であったことも事実である。

  しかしどうやら新聞社を定年して7年の歳月を経た今ならばなんとか努力次第では白川静を描けるのではないかという思いが湧いてきたからである。

 @は白川の中国文学の弟子に当たる作家、高橋和巳『我が解体』のなかで赤裸々に哲人、白川像をえぐり出したように主に白川人間的魅力に迫りたいと思っている。

 Aは@を踏まえ、『交野探訪』で用いた≪虚実皮膜の手法≫でノンフィクションとフィクションを行き来きさせながら『白川静物語』を綴ろうと思っている。

ご期待ください。

 (2011年6月12日)