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ドラマ「新選組」26:勇が誠実さに加え勇敢、勇猛な漢(おとこ)に完全になったような気がした今回のドラマ。動乱の時代を疾走する私の期待する新選組の局長、勇だ。 勇のこころなかの髑髏が一気に焔を吹いた。鬼になった漢の声が轟いたのだ。 「失礼ながら言わせてもらいますよ。内山さん!大きな時代の流れを掴むことなく己の権力を笠にきて利欲に走っている貴方のような人が幕府の中にいる限り、幕府はいずれ滅びる」(著者要約) 勇は相手を鋭く見据えた。 彼には思惑や立場を超えて今の国難を乗り越えるべきであるという強い信念が芽生えていたからなおさらだ。 大きく見開いた双眸は輝き、自信に満ち溢れ、貫禄も一段と増した。 内山は大坂町奉行のやり手の与力。自ら新選組を潰すと豪語していた漢であった。土方らの調べで内山は相場で商人らと結託して利権をほしいままにしていたことが判明したからである。 「百姓の出のお主らが何とする・・・」(同)という内山の侮蔑の言葉も勇のこころの底に眠っていた若き頃の屈辱心を呼び覚ましたこともあっただろう。 武士魂を忘却しつつある内山と「武士以上の武士道(魂)」をこれまで抱き、 求め続けてきた勇の対比も興味深く見ることができた。 「正々堂々と内山に恥ないような勝負をしろ!」(同)と土方に初めて正面切って命令した。逞しさを増した新選組局長、勇らしさを端的に示した一瞬だ。 駕籠から出てきた内山を土方、沖田らが中心になって短銃を構える内山をついに鋭い立ち回りで討ち果たした。 私は思わず画面に引き込まれた。 緊張が走る斬り合いの場面と交錯させながら勇に好意を寄せる芸妓の秀麗な舞い。それに合わせ哀愁をも含んだような音曲が流れ出した。 立ち回りの中で斬る者、斬られる者のこころ、命令を下した勇のこころを無言のうちに伝えているような気がしたのだ。これまでの殺戮場面とは違った趣を醸し出したのは効果的であった。 今回、勇が堂々とした統率者になったことが随所でうかがえた。 当然ではあるが、随っていく隊士らの表情も生き生きと頼もしくなってきような気がした。 鴨の強烈な個性が目立った時代から、勇の時代になった。 誠実さに加え、己自身で時代を洞察し、猛々しく生き抜く武士以上の魂を抱いた 「鬼」となり、溢れるような勇の個性が一気に踊り出てきたようだ。 今後のドラマ展開が益々愉しみになってきた。(2004年7月4日)
ドラマ「新選組」27:「直前、池田屋事件」のドラマであったが、今回は沖田総司から触れる。沖田の人気は祇園などでも剣の腕前の凄さと爽やかな隊士として次第に人気が高まってきた。女性に何かと惚れられる沖田を藤堂が羨ましがり、 沖田と同じようにもてたいばかりに自分が沖田だと芸子の前でつい名乗ってしまう。 藤堂は沖田と年齢がさして変わらず若い。それだけにこころの中でライバル心を持っていたのだった。勇の前でその悔しさを訴える。 「何、お前は沖田にない良さを持っている。それを信じろ。おれが判らせてやる」(著者要約) 勇はきっぱり言い切った。 これまで藤堂は沖田に友情も寄せてはいたが、こころの中でなにかにつけ引け目を感じているという伏線もあった。が、この勇の言葉に教育的箴言、教訓を見た気もした。時代の大きなうねりの中で生きる若者も今と同じくこうした悩みは持つのは当然である。 吉田松陰は高杉晋作には晋作の長所を見いだし、伊藤博文には周旋に優れた個性を認めそれを延ばす教育をした。 博文は明治維新後、首相を務めるなど様々な局面で懐の深い老獪な手腕を発揮し、明治の政界で重きをなした。晋作は近くこのドラマでも顔を出すだろうが、 維新の偉業を達成する一つの起爆剤となるような大きな働きをした。 人にはそれぞれに持ち味と運命(役割、定め)がある。 『交野探訪』でも少し述べた。 この頃、交野の村里の寺に仮寓していた女良寛ともいえる大田垣蓮月尼の下を青年らしい恋愛などもあっただろう、様々な悩みなどを聞いてもらうため訪ねてきたという若き新選組隊士や勤皇の志士らのことを少し触れた。そのことを一瞬思い出した。 「皆さん、ほんにご苦労さまでございます。時代の定め、貴方の定め、その定めに随い、思う存分お生きなさいませ(中略)」と蓮月が語り掛けた。 また勇が藤堂に語り掛けたことはもしかしたら自分に言い聞かせたことでもあったのではないかとも思えた。 (土方の少々のあくどい駆け引きをものともせずやってのけるそんな術(すべ)は今の自分にはない・・・。が、土方にはない鬼に今こそなってやる。局長としてこの乱世を生き切る) 涙顔の藤堂を眺めながらそんな思いが勇のこころを過ぎったとみるのは私の読み過ぎだろうか。 余談が過ぎた。ともかく次回は池田屋事件、真に感動する鬼、近藤勇の凄みのある演技を楽しみにしたい。(2004年7月11日)
ドラマ「新選組」28:池田屋事件(1864年夏、時は祇園祭りの宵宮)・・・。 「ひっとらえろ!」貫禄十分の勇が吼えた。 長州藩士を中心とした勤皇の志士らが京に火を放ち、街を混乱に落とし入れ、天 子を抱くという大陰謀を嗅ぎ付けたからだ。 全体として大変見応えのあるドラマ展開であった。事件の内容は皆さんよくご存知なことと思うので割愛する。 これは「戦(いくさ)だ」と闘志を燃やす勇。 「様々な思惑を超え京の町を救い、天子さま、将軍家をお守りする我々の行動に 一点の曇りもない」(著者要約)。 勇の目は自信に光輝いていた。勇は勝利した。 前回のドラマなどから私が予想した以上の出来栄えのいい場面が多かった。 いちいち取り上げないが、なりより己の生き方に対する自信に裏打ちされた 「鬼」に完全なった勇の演技が光った。視聴者の多くも堪能したのではないかと 思う。 今回のドラマから益々勇らの活躍の場は広がりをみせる。 ここまできてドラマの詳細を追ってこの欄で紹介するのもやや単調に思えてきた。 これから長州側の反撃があるのだが、今後、毎回書き連ねるのではなく隊士の個性などをドラマで気が付いた勇らの生い立ちや時には勤皇の志士らの個性を私の独 断ながら「折に触れて」紹介してみたいと思う。 勇も鬼になり、新選組全体も若き鬼の隊士集団になり、歴史の渦の中で互いの志 を貫こうと、勤皇の志士らと滾るがごとく熱い血潮を傾けていくだろう。益々興 味津々の場面が展開していくことだろう。私もこの番組の脚本家、出演者に拍手 を送りながら勉強方々、ドラマを愉しむことに専念していくことにした。これでひとまずこの28回までのスタイルを終える(2004年7月18日)
新選組関連=永倉新八。新選組・2番組長。維新後、明治、大正4年(1915年)1 月5日没し、77歳まで生き抜いた。 松前藩士、永倉勘次の息子。永倉は沖田総司とともに新選組の中では1、2の腕 前。永倉には「新選組顛末記」という著作がある。 最後は、近藤と袂を別つ。しかし、近藤が処刑された東京・板橋に新選組殉教 者の碑を建立したことでも有名。度胸満点な剣客だった。1番隊、組長の沖田が 労咳のため早死にしたのと好対照である。 今でも沖田の方を知る人のほうが多いようだが『忘れちゃなりませんぞ、新八 さんである』である。
閑話:読者の皆様、久し振りです。暫く休養を取っておりました。今、現役時代 に買い求めた浪曲を流しながらキーをたたいております。『NHK浪曲18番』に 収められた一曲です。東家菊燕が唸る『悲恋の明烏』です。曲師は木村友香。 テンポの良い流れの中で小気味良いバチがアクセントをつける。意味を探るのでなくただ流しているだけだが、自然とこころが高揚してくる。 浪曲といえば私が幼稚園に通っていたころか、その前であっただろうか、隣の本家が招いたのだろうが、浪曲師が声を張り上げていたのを思い出す。当時は、ラジオでも頻繁に浪曲が流れていたものだった。 今、菊燕の浪曲を耳に流していると、往時の幼年のころを思い出す。それよりも、少しだれ気味になっている己の心に弾みと活をいれてくれる。 浪曲、演歌、民謡の節回しはどこかで重なるような部分があるのではないかと思う。現役時代、本を編集局の喫煙室で、そう、あの齋藤孝さんの『声に出して読みたい日本語』を自分流に読んでいたら、「そらまた木下さんのお経(読経) が始まった」と言いつつも結構愉しんでいていた同僚の表情も思い出す。 しかし、皆さん、演歌などの生みの親は仏教の『声明」であったという説もあるのだから標準語慣れしている我々には非日常の世界に浸ることのできる一瞬でもある。 また英語など外国語はこうした日本語のバライヤティーを理解しつつ学んでほしいと今でも思っている。 (2004年9月30日)
閑話:これだけ野球ファンを魅了した男が戦後あっただろうか。イチロー、米大 リーグ、マリナーズ外野手(30)。1920年に達成したジョージ・シスラーの257 安打に日本時間10月1日午前に後1安打と迫った。残り試合は3。 歴史的瞬間を見ようと、全米、日本だけでなく世界各国の野球ファン待ちわびている。 私は野球に精通したものではないが、10行で有名実力者の性格など特徴を書けと言われれば。長島さん、ゴジラこと松井、王さんなどは書けそうなきがする。 ところがイチローとなったら、皆目判らない。昨夜のテレビ番組で少年のころ から「スパイク、グローブなどを大切にし、合宿などでも頭近くに置いて眠っていた」などと当時の監督が語っていた。野球をこよなく愛し、好きで、好きでたまらない野球少年であった。ただこれぐらいならどこにもおりそうな野球少年で はないか。 凡人の私などでは理解の及ばない人間離れした超人としか想えない。 彼はあまり喜怒哀楽を表さない。熱狂するファンやマスコミの取材熱にも淡々と している。こんなことが30歳の青年にできるのだろうかと驚嘆するばかりである。 武士であえて言えば、武蔵と小次郎の良いところばかり集め、現代に生まれた寵児としか思えない。訊けば独特のストレッチを欠かさずやるなどからみれば 『二刀流』を編み出し、千の稽古を「鍛」となし万の稽古を「錬」となすと言い切った武蔵、『燕返し』を過酷な修練のもとで編み出した小次郎を想起するのだ。 読者の皆さんはどう思われますか。えーい、講釈はどうでもよろしい。記録達成した金色に輝くイチローの勇姿を早くみたいものだ。頑張れイチロー!(2004年10月1日)
閑話:頭では理解していたことが漸く(よう)やく判ったような気がする。この世を生きる上でもっと大切なことは、体験であるということである。体験、体 験、体験なのであるが超体験というものがあるということを・・・。 前回書いたイチローを武蔵と小次郎になぞらえたが、この2人とも超体験の人であろう。なら、超体験者としてイチロー名前が挙がるのはいうまえもない。体験と超体験は西田幾多郎の哲学用語を使用すれば『非連続の連続』ということであろう。 『色即是空 空即是色』も『非連続の連続』ですねと、西田哲学の碩学に直接電話でお訊ねしたら「そうです、その通りです」と即座に応諾のご返事をいただいたことを思い出す。 『色即是空・・・』にはここでは深入りしないが、なんで体験に絡むイチロー などの話に西田幾多郎の難解な哲学用語が出てくるのかと怪訝(けげん)な気持 ちを持たれる向きもあるだろうが、私の私見を述べれば次のようになる。 体験を工夫に工夫を凝らし、何回も繰り返すうち体験の質が内部変化し、最初 のころの体験の特色を持ちつつ、より高次ななにものかがその人柄やその人の技 量として具現化、身に備わるのではないかと思う。 イチローの場合でもやはり持って生まれた資質が鍛錬、鍛錬の積み重ねの中か ら世界のイチローに飛躍させたのではないかと思う。 これがイチローの『非連続の連続』の世界である。 誰でも持ち味は違うが、その持って生まれた持ち味を生かし、練習に練習を(体験に体験を)重ねれば人並み以上どころかそれ以上の力量をどんな世界でも開花 させることができるのではないか。 イチローのような華やかな世界でなくたって大工さんや左官屋さんなどのあま り目立たない職人の世界だって『非連続の連続』は平等にあり、素晴らしい人物 になれると私は信じたい。 でも、でも今日か明日はイチローが金色に輝く瞬間を見て喜びたい。おや、お や、今回もイチロー談議になってしまった。(2004年10月2日)
閑話:現役を定年で離れて暫くは新聞を丹念に読まないばかりか、せいぜい見出 し、または1日10分程度、さらには全く読まないで積読ですぐに翌日はお蔵入り となるようなケースが夏ごろまで続いた。 長年の新聞社勤務の反動で体全体が拒絶反応を見せたのではないかとさえ思っ たものだ。夏を過ぎて9月の後半になって漸く体も頭脳の方も少し働き出した。 見出しを見てもおよそのことは内容が判読できるようになったような気もする。 しかし現役時代のように1頁1分で速読するというような気概などとは消え失 せ、以上のようだが、それでも当面はこれでいい、定年後生活をのんびりと味わ えばいいと自分でも納得している。 さてそんな読み方のなかでも面白い記事が目に飛び込んできた。 「定年後社員を再雇用する企業が加速してきた。日揮は10月から希望者全員を 再雇用、阪急百貨店も65歳再雇用制度を導入する」という記事だ。これは、当然 の動きだと思う。年金受給が62歳になったり、65歳になったりする御時世である。その空白期を埋めるというだけでなく今後一段と進む少子高齢化社会。労働 力の低下は必然だ。ならば、仕事の好きな方を希望に応じて再雇用する意味は大 きい。 賃金は現役時代の6、7割でいい。高い技術と知識、豊富な経験は企業文化を維 持する意味でも大きいのではなからろうか。定年後、半年近くになって漸く年金 生活にも慣れてきた。が、金よりも時間を愉しむというのも中々難しいものだ。 ま、不規則勤務からの開放感を味わっている今日だ。 地域文化と融和して生きるのもいい、企業の中で再度貢献するのもいい、民間 移譲が叫ばれる今日、各企業も定年者の希望に沿った労働力活用策の工夫も意味 のある大きな社会貢献とも言えなくはないと思うのだが・・・。(2004年10月2日)
閑話:「やった。ついにやった!」 「イチローが84年前の記録を破り新記録達成だ」 私は衛星放送で初打席から見た。初打席でいきなりヒット、シスラーの257 に追いつき、この日、259安打を記録した。シスラーの娘、孫らからも祝福さ える場面もお大写しに。恐らく内外の野球ファンは喜びかえったに違いない。 イチローにも爽やかな喜びの笑みが顔面に広がった。イチローのにこやかな表 情を見たのは久し振りではあった。青年らしい顔が初々しかった。 アメリカのメデイヤのインタビュー。 「これまでの野球人生で最高の一瞬だった」と目に感動の涙を微かに潤ませな がら答える。チームメートが一斉にグランドに出できて祝福されたのは殊のほか 嬉しかった。 「プレッシャーから抜け出すことはできない。そのプレッシャーを背負ったま ま立ち向かうしかないと思います」 日本人記者団での発言。 これはまさに達人らしい素晴らしいことばだった。やはりただものではないおプ ロェッショナルな偉大な野球人であることを証明した。 「残りの2試合で10打席ですから、一打席、一打席を大切にしたい」 ここまできたら265ほどまで記録を延ばしてほしいものだ。 イチローの頑張りは内外の青少年にも夢と勇気を与えるに違いない。(2004年10月2日)
閑話:昨日(1日)についで今日も妙見宮に参った。 現役のときと変わったというところは、大祓いを唱え、観音経などを御堂の中 で唱えるのではなく熊手を持参して参道の落ち葉をかき集めることであった。 なにしろ初めての経験だから落ち葉かきも上手くはいかない。それまではでき るだけ、願いを込めて熱心に、しかも上手く祝詞や経を唱えることにこころを砕 いていた。が、ある日、そう3カ月ほど前だっただろうか、ふと「これでいいだ ろうか、狛犬を雑巾で拭いたり、参道を箒(ほうき)で掃いたりする方が先にこ なければならないのではないか」と思ったのだ。それから祝詞、経とくるのでは ないだろうかとの思いに駆られた。 それ以来、珍しく体調を崩したこともあって宮から自然と遠のいていた。だか ら久方ぶりの参詣だった。それでも経典や神道祝詞集を持って参詣するのとはこ とばではうまく表現できないが感覚が違うのだ。 祝詞を唱えるのと落ち葉拾いという行為などには不可分の関係があることは頭 では理解できるのであるが、これが自分の中で同位に位置づけることができたと き、氏子として一段と信心、信仰心が増したと見るべきだろう。 今日、宮の中央の祖霊社に熊手を持って出掛けたとき、中年のご婦人は一心に 御百度参りをしていた。拙著『交野探訪』でも御百度参りのことは触れたが実際 にお参りする姿を見たのはこれで2度目である。こんな熱心な信者の方が交野に はいらっしゃるのだと改めて思ったものだった。思わず熊手を持つ手に力が入っ た。(2004年10月3日)
閑話:定年が近づいたころ深夜の宅送りの車の中で運転手さんとの会話の中で自 分に言い聞かすように「定年退職したらたばこは2箱から1箱にする。そりゃそう でしょう入る金は半減するし、働かないで家でゴロゴロしていてみなさい、いく ら理解のある奥さんだって角出して怒るぜ!」と家内の顔を思い浮かべながら何 回ともなく言ったものだった。 が、現実はどうか。止まらない、止められない、かえって増えているような気 がする。家内は知らん顔で何も不快な表情を見せない。 むしろ、(定年で寂しいんでしょう。仕方ないわ)と何も言わない。でも親戚 や親父も60歳ごろからたばこを止めているのを知っている私はさすがに健康のこ とを考える。そんな折、いまプロ野球参入で話題を呼んでいる楽天市場でニコチ ンやタールなどをカットする商品を見つけた。 にんまりとした私は早速に購入することにした。40年ほど吸い続けているのを いまさら止めるなんて人生に潤いがなくなるだけとの思いも湧いてきた。 とにかくパソコンのキーを叩いていたら自然と手がたばこの箱に動き出すのだ から仕方があるまいといいわけをしている己のこころの中で複雑な思いが広がっ ているのも事実なのだが・・・。 (2004年10月3日)
閑話:閑話:「私は定年退職者です。いわば何々会社の社員をリタイヤして今は無職で 自由人です。はっきりいえば真面目ながら無頼の徒ですなぁー」との意思表示か、会社をリタイヤした人は帽子を被る傾向にあるのではないか、と思うときがある。 私に限ればそうだが、今日もスーパーや百貨店やバス、電車の中で見かける私 ぐらいの60代とおぼしき男性などの多くもその表情をちらりと窺うと帽子をそ のような意識で被るのではないかと思った。 私は要領が悪いのでまずツバのついた帽子を2つ5、6月ごろ買った。結構値 のするものだった。が、散歩をするのもこれかあれ、歯医者さんに通うのもこれ かあれ、買い物にいくのもあれかこれ、次第にこれでは熟年者として野暮で芸は ないなぁーと思い出していた。 それで今日(3日)家族で久し振りに昼食をとろうと街に出た。そのついでに スーパーで食材を買いに行ったのを幸いに衣料部門で丸くかたどっていて後ろの 部分が少し上によじってあるカジュアルぽい帽子を2つ買った。 (む、む、む、求めていたのはこれだったのだがなぁー)と納得して買った。 一着はその場で値札などを取ってもらって被ったら、(おう、いいじゃん、中々 いいじゃない)と自分でも納得した。 これだと電車に乗ったり、集会にでも被っていけるとスーパーの鏡で自分の姿 を見て満足した。定年後のおじんくささが少しは和らぐではないかと、何か変身 したような気分になり、私はこころが和み、元気をもらったような気がした。そ うだなぁー、年をとるほどカジュアルなしかもカラフルなものがいいなぁーと 思ったのだ。(2004年10月4日)
閑話:経典を読んだり、解釈したりするよりも例えば禅の世界、その他あらゆる 宗教でも行や体験の方を重んじるような気がする。妙見宮に今日(3日)も出掛 けた。熊手を持って・・・。箒は宮の各所に置かれてある。 私は宮に親しみと畏敬の念を感じて以来、祝詞や真言を覚えて『交野探訪』に も書いたようにこころの中で唱えるようにしていた。山頂にある堂の中だけは例 外であるが。 が、ここ3日ほど続けて熊手を持って妙見宮の参道や宮内の落ち葉を掻き集め て感じたことだが、堂内で大祓いなどの祝詞や観音経を大声で唱えるのとは前に も書いたが、ことばで表現することのできないような爽やかで静謐(せいひつ) な信仰心が体全体に拡がり、沁み込んでいくような感慨を覚えた。まだ3日間だ けでもしかしたら思い過ぎかもしれないが・・・。 話は良寛のことになる。 彼が若いころ、岡山県玉島の円通寺で師、国仙について禅の修行に打ち込んでい たとき、正法眼蔵(道元著)など難解な本を親しんでいたようだ。そんな折、国 仙は一に石曳け、二に土運べと良寛に説教した。 それは国仙が仏典の解釈に追われ肝心の体験を通じた禅の神髄を掴みそこねる のではないかと危惧したからであろう。この師のことが了解できたのはある先輩 僧、仙桂の姿と師のことばが、同寺を去り、晩年になって郷里、新潟の国上山に 五合庵を構えたころふと彼の脳裏の中で重なったのではないか。 先輩僧に向けて次のような詩を良寛は残している。 仙桂和尚は真の道者 顔は古にして 言は朴なる客 30年 国仙の会に在り 参禅せず 読経もせず 宗文の一句を 道(い)わず 園菜を作って 大衆を供養す 当時、我 之に見れども見えず 之に遭い 之に遭うも遭わず 吁嗟(ああ)今 これは倣わんとするも得べからず 仙桂和尚は真の道者 良寛は新潟の長者の息子で若いころも自分で作物も作った経験もなかったろ う。良寛の風貌をみても学問の徒(若者)であったろうし、円通寺でも托鉢、座 禅、学問をしただけのような気がする。「・・・倣わんとするも得べからず」 という最後の句は晩年でもうそんな体力もないという良寛の嘆きが潜んでいる。 (わしにできることは村の無邪気な子供らと手毬をついて無垢(むこ)なここ ろを通じ遭うのが愉しみ、名利など無縁の世界に生きる。三升の米と一束の薪が あればいい。仙桂さんのようにはいかぬが、初めて自由な己の世界と居場所を見 つけた) 良寛の呟きである。 話がややそれたようだが、お宮さんの神道の世界でも同じだ。私も10日に1回 は堂内で祝詞や観音経を唱え、後は不器用者だが熊手と箒を持って宮内の落ち葉 拾いや掃除をしよう。良寛が慕った仙桂の真似ごとでも・・・。(2004年10月4日)
閑話:イチローが最終試合で2本安打、大リーグ年間安打数を262に伸ばし新記録 に有終の美を飾った。金色に輝くイチローの姿に酔いしれた。これまで苛烈な努 力で培った技能がいっきに開花した。 今年の夏から秋にかけ列島をこれでもかこれでもかと襲ってきた今年の台風。 自然災害とはいえ、被害者にこころすれば痛む日々が続いた。さらにあまたの醜 悪な事件や国際政治の軋轢の数々にうんざりしていた庶民の私などはイチローの 頑張りはこころを和ませ、また大きな勇気を与えてくれた。イチローが今年の最 大のヒーローではなかろうかと思うのは私ばかりではあるまい。 「有り難うイチロー」と惜しみない拍手を送りたい。 イチローは人種を超えて人類に貢献したと言ってもいい過ぎではあるまい。それ は各国のメディアがトップニュースで取り上げたのが証明する。日本のアナウン サーだけでなくいずれの国のアナウンサーも声に張りがあり、歓嬉で高揚してい た。 私は思うのだ。次のようなアナウンサーの声を・・・。 「前畑頑張れ、前畑頑張れ」というビデオ放送で見た日本アナウンサーの熱狂し た実況だ。しかしこれは水泳で一位になった彼女と日本のものだった。 しかし、どうだろうイチローの場合。国を超え、人種の区別なく、また野球に 詳しいかどうかでもなくすべての人の琴線に触れるものだったと私は思いたい。 それは人間がひたむきに汗を出し、努力し、その成果を結実させる姿をイチ ローに見たからだろう。 ともかくイチローさんに改めて感謝したい。(2004年10月5日)
閑話:最近見つけた定年後生活術の一端を紹介しよう。HPにもすでに書き立ち上 げている天理教の「みかぐらうた」が書斎に静かでゆったりとしたトーンで流れ ている。 意味などどうでもよいと言い切ると教会関係者の方々にお叱りを受けそうだ が、今ちょうど午前零時である。もう1時間もすれば床に就く。その前にキーを 打っているが、小さい声に絞っているので隣近所にも家族の部屋にも届かない。 キーを打つのも自然とそのゆったりと典雅な神楽歌の調子に合わせて多少緩や かであるが、静寂の中にいるようでこころ和らぐ。眠りに落ちる前のひと時を愉 しんでいる。 では昼はどうかというと、浪曲を流している。昼だから少々、音が大きくなっ てもいい。浪曲の音(ね)は様々と変化してふと名調子が耳に入ると、急にキー を打つ手に弾みがつく。疲れて文章の流れに詰まったときなどは、浪曲の世界に 身をおけばいい。前回にも触れたが、こころが弾み、元気が体全体に横溢(おう いつ)してくるのだ。 ともかくこの「みかぐらうた」は孤独感を和らげてくれ孤高の至福に身を遊ば せることもできる。 そんなひと時を過ごしてから熊手を持って近くの妙見宮に清掃に出掛けるのもい い。昨日(4日)は行き帰りの時間を入れて約1時間を掛けた。散歩も兼ねるのだ から有意義なひと時とはいえないでしょうか。(2004年10月5日)
閑話:これは『交野探訪』を書いていたころからの念願であったのだが、今日 (5日)和室に神棚を正式に設えた。 友人の佐々木久裕妙見宮宮司に来てもらってこの間買った神棚を設える方位な どを勘案した上で塩を使ってお清めをしてもらって神棚の中央の扉に伊勢神宮の お札、その右に星田神社、左に妙見宮のお札を入れてもらった。 次に一連の祝詞を上げてもらった。その順番は身禊大祓、大祓、伊勢内宮神前 祝詞、伊勢外宮神前祝詞、稲荷祝詞である。私の右で唱える宮司の厳かな声は室 内に木霊した。 無論、お神酒、米、塩、榊、蝋燭(ろうそく)の置き方なども丁寧に教わっ た。 佐々木宮司によると、妙見宮の信者の半数は毎日、お祈りをされているようだ。 私も交野市の人々の信仰心の厚さに驚きとともに感動した。母方の祖母の信仰心 の深さを思い出した。 戦後、日本人の多くは、とりわけ私の年代ごろから神仏を崇めるこころを喪っ たようだ。学校教育が激変。暗記主義中心で受験一本やりの大学合格を最終ター ゲットにおいたものであった。私の次の世代はゆとり教育に入るのであるが、そ れが日本文化の根幹をなす神仏を尊ぶというスピリットには向かわなかった。 それは当然のことであろう。親たる私どもの多くがそうした精神的背景を持っ ていないのだからいくら学校教育にゆとりを持たせても子供たちに教えることが できないのだ。 毎月送ってもらっている関西師友会今月号に大阪天満宮宮司の寺井種伯さんが オランダに留学したある女性の話をとり上げておられ、戦後教育の欠落していた 側面を手厳しく論述されていた。ホームスティ先の人々からバライアティーと深 みを持つ日本文化の知らなさにあきられされたという。能は、お茶は、文楽はな どのその女性の無知さにオランダ人が驚いたというのだ。これなど格好のたとえ 話だと興味をもって読んだ。 3年ほど前になるが、白川静先生は私に向かって「貴方、当用漢字だけで古典 が読めますか。読めないということは、それだけ日本人のパワーが殺がれ(剥 奪)されているのですよ」と言われたこととも通底していると思う。 神棚の設えで様々なことを思った今日一日であった。(2004年10月5日)
閑話:熊手持っての妙見宮詣で。今日は夕暮れ近くになった。 久し振りに団地からバスに乗り、電車に乗り継ぎ枚方に出向き所望していた本 を買った。腹が幾分減ったので枚方駅近くのカレー店でヒレカツカレーを食べた りしていたから予定より帰宅が遅れたのだ。 昨日、和室に神棚を設え、私にすれば、まあいってみれば正式に星田神社の氏 子になり、また妙見宮を私どものお守り社になってもらったからには、たとえさ さやかなりとも宮に奉仕活動をしなければならないとの思いはより高まった。 夕暮れの宮内は鳥居を潜(くぐ)るともう薄暗かった。すでにどなたかが箒を 使ってきれいに清掃されていた。それでも後から舞い落ちたのだろうか落ち葉が あったので熊手で2カ所ほど掻き集めた。 ついでに祖霊社前での参拝は欠かさなかった。十願延命地蔵菩薩の前では「オ ン・カカカ・ビサンマエソワカ」と唱えながら家内安全などを祈願した。 帰りしな、ふと我に返ると、様々な虫さんたちが様々な声を上げて静寂の夕暮れ の社の森の中で一斉に合唱しているではないか。 人間どもが帰った後は我々がこの社にお祈りし守るのだとも言いたげに思えて 私はなにかしらほっとしたような安堵感のような安らぎを覚えた。 「チロチロ、ジーチロ、ジーチロ、ジーチロ、チロチロ・・・」 鳥居の前で一礼してから家路に就く私の足は軽やかであった。(2004年10月6日)
閑話:昨夕、食事前に初めて佐々木宮司に教わった通り、身禊大祓、大祓詞、伊 勢神内宮神前祝詞、伊勢外宮神前祝詞、稲荷祝詞、天地一切清浄祓、十種大祓を 唱えた。ただ六根清浄大祓は抜かした(忘れていた)が一応手順通り執り行っ た。 唱え終わった後の爽やかさは特別のものであった。後、神々に捧げていたお神 酒をいただいたが何かしらいつもの酒とは違った感じをするのが不思議でならな かった。家内が台所で息子と一緒に夕食の準備をしている間に和室を開けっ放し て唱えていたから廊下を通して聞いていた筈だ。口には出さなかったが、何か感 じ取ったのだろう2人ともいつもより顔が輝いていたような気がする。 やはり、家庭にもこうした神とつながり、守られているという気持ちを抱くこ とは一つの家文化として大切だとつくづく思ったものだ。現役時代にはあまりに も忙しかったのもできなかった理由の一つであろうが、まだ機が熟していなかっ たというのが正確であろう。 妙見宮の堂内で唱えるだけの自分の所作に疑問を抱いて約3カ月、熊手を使っ た奉仕活動中心に切り替えた心境の変化が自然と神々によって私にもたらせられ たと思いたい。(2004年10月6日)
閑話:このところ熊が民家や街に繰り出し、人身事故になったり、人間様の方も 猟友会なども繰り出して撃ち殺したり、小熊の場合は麻酔銃などを使って生け捕 るなどの熊にまつわる事件が相次いでいる。 家内も今夕、勤め先から帰りしな「3件も熊が出たというニュースを車の中で聞いたわ」と驚き、夕餉の食卓では熊の話が中心になった。何か天変地異の予兆かもとの話が出たが、私も息子も判らん、「判らへん」いうことでうやむやに なった。 福井や滋賀県などこれまでの報道では西日本が中心だ。今夏の暑さが厳しかっ たため、熊の生息地が食料不足に陥った「熊さん」が腹空かしてお出ましになっ たという報道もあったが、その原因をより詳しく報道したのを読んだり、聞いたりしたことはない。 マスコミで働いている現役諸君、ちょいと動物学者などに詳しく取材して記事 や放送で詳述や、捕獲作戦などの映像だけでなく原因究明の詳しい報道を望みたい。 私は今、熊ならぬ「熊手」を持って妙見宮の清掃奉仕活動をしている。「熊さん、熊手のよしみでそっと私にだけ教えてよ」と願いたいところだが、叶わない。 この地球上を棲家としているのは、人間さまだけではない。熊さんも人間に勝る能力を持っているかもしれないのだ。(2004年10月7日)
閑話:定年後の年金生活にも少し慣れてきたようだ。過日、良寛のことに触れた が、華美、美味、贅沢を慎めば、結構味わいがある。 しかし、私のような凡人には良寛のような境地には中々達することはできない ことも判った。何事も中庸がいい。現役時代のようにタクシーなどを頻繁に使わ ず、徒歩やバス、電車の利用を増やす。すっかりタクシー利用を止めるのではな くその組み合わせ方に工夫を凝らす。 電気の利用も不必要な部屋には夜は使わない。これについては故大平首相が自 宅では少年ころ親から受けた躾からか首相になっても家人が消し忘れていたら自 ら消していた、とある本か何かで読んだ記憶がある。教養が深くしかも朴訥な風 貌を思い出す。 概して明治、大正生まれの日本人は元々貧富に関わらず贅沢な出費は控えたように思う。 このような資質をなくしたのは大量消費礼賛の高度成長期ではなかったかと思 う。我々世代前後からだから大いに内省を加えなければならない。 また水の利用についても工夫を凝らす。偉い禅僧は水さえも無駄なく使い修行 の要諦の一つとしていた。私は禅、禅と15、6年前は言いながら神髄を掴んでい なかった。風呂の使い方一つでかなり出費は抑えることができるのではないか。 車代、電気代、水道代の3つだけを取り上げたが、何事もケチケチになるのは 私にはできない。庶民らしい「中庸」だ。その世界をより広げる努力をしていけ ば人としての品位も少しは上がるかもしれない。(2004年10月8日)
閑話:台風22号が列島を駆け抜ける最中、京都・東山山麓にある「洛翠」で恒例 の京都例会が開かれた。私が少し早めに「洛翠」に着いた時には風はなかった が、小雨がぱらついていた。 が、井上ひさし会長の特別講演など一連の例会が終わるころには小雨もぴたり と止み、琵琶湖を模して作られたという池の前に広がる洛翠庭園で園遊会がいつ ものように和気藹々の内に執り行われた。 東西のペンクラブ会員がグラスを手に交流を深めた。 井上ひさし会長に挨拶を忘れてしまったり小中陽太郎さんの貴重なドキュメンタ リーを見逃したりしたのはうかつであったが、眉村卓副会長、中西進副会長、阿 刀田高専務理事とお話できたのはよかった。 また上方研の井沢ご夫妻らとの談笑も愉快であった。 「これまでの世界観が変わります」と囲碁を学ぶことの意義を大変な説得力を もって進めてくれたUさんのお話は印象的であった。 悪友のTさんに誘われて東京からきた会員の泊まり部屋に入り込んでの酒盛り も面白かったが、食欲の秋の理(ことわり)通り、私は急に腹が減ったので独り 抜け出し、京阪3条近くの若者向きのレストランで食して家路に就いた。 帰りの電車の中で平和の尊さ、憲法9条を守る蓋然性を22条2項との関連性な どを真摯に説かれた井上会長の話を心地よい酔いの中で思い出していた。久し振 りの非日常の世界を愉しんだ一日であった。(2004年10月9日)
閑話:何と15年ぶりに我が家の植木に肥料を過日行った。それだけ生業とした新 聞社の仕事などが忙しかったこともあろうが、私をはじめ家族が植木の手入れに 無知であったということの方が正鵠を得ているだろう。 「水やりもろくろくしなかったわねー」とう家内のことばがなによりの証拠。 しかし毎年10月初旬には市のシルバーセンターの方に依頼して手入れだけはして いたが・・・。 今回は定年後、暇ができたので2人いらっしゃった方々の手入れ裁きなどを見 ながら話し込むことができたので様々なことを教わった。 以下、Tさんから教わったことを列挙する。手入れを怠った我が家の無知さぶ りが証明できるが、私のような愚か者は読者の皆さんにはいらっしゃらないとお もうが、もしかしたら中にはご参考になるやもと・・・。 @全体的に肥料不足。特に家の前の生垣は不足しており、肥料として『油粕』 『虫食い防止のための石灰』をやること。 A東側の植木2本は枯れかけていたので抜き、新しい植木に入れ替える。入れ 替え時期は2、3月がいいということで実際、抜いてもらった。この理由は肥料不 足もあろうが、岩盤が下にあり、根が広がりにくくなっており、地上に張り出し ていた。従って木は目隠し程度にかなり大きくなっていたが1本の葉は9割方枯 れ、もう1本は7割かたそうであった。 B来年初春には木を買ってきて植えるが、岩盤の下に根を張るように深く土を 掘り植えることとする。 C南の庭には一部、蟻が根元に巣を作って根の部分を弱らしていたということ がTさんの調べで判ったので油粕と石灰を混ぜ入れた。 息子が買ってきた『油粕』と『石灰』の袋を持ち運びながらスコップを取って 使って家内と一緒に汗を流しながらやっとやり終えた。 ほっとして夕焼けが広がり、次第に帳が下りる様を眺望、庭に感じ取っていた ら「ああこれが終の棲家になる我が家だなぁー」と己が家に愛着を改めて感じ 入ったものだった。(2004年10月13日)
閑話:最近、漸く午前8時から9時に起床する朝方の生活に慣れてきた。午後6時 近くに新聞社に出勤するのが週に3回はあったほどに不規則勤務・・・。 無論、朝9時半ごろ出勤というのもあったが、心身は「恐らくこの人は、いつ が朝なのかどうなっているのだろう」といささか驚きながら付き合ってくれたの ではと思っている。 「やっと普通になれたな。しばらくリビングの部屋で休ませてくれるもの」とこころの底から聞こえてくるようだ。 薄手のカーテン越しに和らいだ陽光が差し込む明るい部屋の中で、コヒーを飲 みながら新聞に目を通す。ふっと我に返ると、半年近く前の私の姿が目に浮かぶ。 夕方出勤の場合は、まだ就寝の最中にあり、朝出勤の場合は慌ててタクシーを 呼んで電車に駆け込み、今は編集局でミーティグを終え、仕事のスタンバイのこ ろかと思う。 が、もう完全に異なった世界に生まれ変わったような感慨を覚え、改めて真の意味で熟年を走り出したようで思わず大いなる命に感謝する気持ちがこころの底 から湧いてくるのだ。(2004年10月14日)
閑話:証 証 証城寺 証城寺の庭は ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い おい等(ら)の友達ァ ぽんぽこ ぽんの ぽん 負けるな 負けるな 和尚さんに 負けるな 来い 来い 来い 来い 来い 来い みんな出て 来い来い来い 証 証 証城寺 証城寺の萩は ツ ツ 月夜に花盛り おい等は浮かれて ぽんぽこ ぽんの ぽん 野口雨情作詞 中山晋平作曲 の『証城寺の狸囃子』の歌詞である。 何で狸囃子の歌なんだろうかと読者の皆さんはお思いであろうが、私は就寝前の ひと時30分ほど独りで、あるときは家内と一緒に散歩する。 決まって彼女は「あれ狸の親子 また狸よ」と散歩中に語り掛けてくる。 実際、ほとんど毎日のように狸に出くわす。私は猫やろか狸やろか暗がりでよ く判らないときがあるが、狸は猫より少し痩せているような気がする。狸は人の 気配を感じると、山の方にさっと逃げる。家内のようにさっと峻別できなくても この行動で判別できる。 家内の説明に納得した。 「犬の餌をそっと別けてもらうために来るのだわ」 恐らくそうだろう。山を切り開いて造られた団地だから、元々狸らの棲家であっ たから不思議ではない。また犬が狸に家に入られてもそれで吼えることは全くな い。 しかし、よくよく考えてみれば犬の先祖は狼であるからその昔は同居していた から何か通じるものを持っているのだろうかとも思う。回覧板が時折、家々に 回ってくるが狸に関する苦情とかは一度も拝見したことがない。 私どもの住む団地の住人は狸囃子のごとくに愛狸家であろうとも言えなくはない。 私だって今日は子供のころに歌った『証城寺の狸囃子』をふと懐かしく思い出す くらいだから嫌いではない。 熊さんの出現が毎日のように報道されるが、中には生け捕りにしてから山に返 したという報道もある。熊を致し方なく射殺したという報道よりもほっとする。 昔、その昔の縄文時代は熊の肉をいただいて熊の霊を祈り祭ったという。 日本人は熊さんにはお世話になったのである。狸ちゃんの話が熊さんになった が何事も共生、棲み分けがいいに決まっている。(2004年10月15日)
閑話:今日は久方ぶりに家族3人で待ち合わせて枚方の大型寿司店で夕食を取っ た。待ち合わせ場所のちょっとした認識違いで時間が予定より、30分ほど遅れたが、私はその合間を縫って枚方の書店地域一番点の野村呼文堂駅前店をふらりと立ち寄った。 同店はいまだに交野市の水嶋書房交野店と共に『交野探訪』を平積してくれていており、いつの間にか店長のOさんとも親しくなった。 正直にいうと以前より、やはり、この本のお蔭で親近感を覚えたのだ。そんな思いもあって自然と足が向いたのだ。私の本を確認し、贈呈用に自分の本を一冊買った次第だが、ふと見ると別嬪(べっぴん)の女性が表紙に載っている『和楽』の別冊が目に飛び込んできた。躊躇(ちゅうちょ)なく購入した。 新聞広告でこの本のことは知っていたが、京都特集で大徳寺が掲載、梅原猛先 生の解説が載っていただけでなく私が大学一年生の一時期、下宿していた大徳寺の塔頭の一つである龍源院の庭の写真と絵解きがあったのもあった。 読者の皆さんには初めて告白するが、3カ月ほどで方丈様(住職)にお叱りを受けて放り出されたのだ。いわば放逐であった。確か門限が9時か10時であったような気がするが、私はかなり門限破りをしでかした。 掃除も下手なりにやったし、一度は拝観料をいただくお手伝いもした記憶もあるが、厳粛な雰囲気と規律を重んじる名刹で遊びほうけて門限に間に合わず、ぴたりとしまった大きな門に向かって「開けてくれ!開けてください!」と何回も 深夜に大声を上げれば当然の処分である。 ついに住職の怒りが爆発したのだ。観念した私は次の下宿を探すまで一週間 待ってほしいと懇願、なんとか見つかったので悄然として寺を後にしたのだった。 今でもその場面が蘇る。苦くも懐かしい青春時代のひとコマである。 龍源院の近くに小説『如来が弁護してござる』の準主人公として登場する真渓涙骨翁(中外日報社主)が仮寓していた瑞峰院があり、今から思えば翁がまだ仮寓 していた時と重なるのではないかと思う。 同小説を書いていた時は、この苦い体験を思い出さなかった。主人公の暁烏敏 師の思想、行動の軌跡を追うのにあまりにもこころが傾斜しすぎていたからとしか考えられない。今日の外食時には話題にしなかったが、家族には2、3度は話していたのに7年もかけて漸く上梓したのにもかかわらず全く結びつかなかった。 今ならちょいと自分を余談話で登場させれば味付けができたとかえすがえす残念に思っている。(2004年10月15日)
閑話:私の母校、立命館大学ESSの43年、42年、41年、40年合同の同窓会が16日、駅前のホテルで開催され、私も参加した。約50人が一堂に介し、旧交を温めた。 年代によって自己紹介を兼ねたスピーチにもそれぞれ特色があり、興味を覚えた。我々43年組から一人ずつ、簡単なスピーチをするのである。現役時代なら英語でやるのであろうが、日本語である。 それでいい。英語を仕事で今も駆使されている方もあろうが、私は日本語派である。その理由は、この欄で幾度も書いた。私は今でも現役時代の70%ぐらいのスピーキングの力は保持していると思うが、スペルは完全に忘れてしまったといっていい。 41年組、40年組がやはり、歳の重みかユニークであったがとりわけ参加人数の最も多かった41年組が特に印象に残った。軟派を自認する方が多かったが、体験豊富で今でも様々な形で活躍されていた。まだ現役で働いておられる方もいたし、本格的に座禅をやったり、プロ級の個展を開かれたりしている方、ユーモア を交えて病を克服された体験を超然、淡々と語られる方などがおられ懇親ムード を一気に高めた。 43年組は私のように定年したものもいたが、現役の方が多く、しかも一番若手 であるから、スピーチもやや生真面目過ぎたような気がした。42年組は参加者も少なかったからか、私どもと同じ傾向のような気がした。60歳になったら、年はあまり意識する必要はないと思うのだが、やはり年を重ねただけの差は否めないと思った。 とまれ2次会も含め、酒のほろ酔いも手伝ってからか、青春時代が一瞬蘇ったような思いに駆られた一日であった。(2004年10月18日)
閑話:再び、熊さん。熊さんの列島出現多発に触れる。私がこの欄で捕獲騒動のことだけでなく、多発の原因の背景を報道してくれないと駄目だと要望していたら漸く新聞でちらほら見え出したのは、当然といえば当然のことながら、なるほ どと頷ける内容のものもあった。Y紙と宗教専門紙、T紙などである。私の意見 も加えると、およそ次ぎの通りになろうか。 @=近年は安い輸入材に押されて林業は衰退、国内の自給率は18%。高度成長 に伴う列島都市化に伴う山間地帯の過疎化、高齢化にある。杉、桧などは人手が 足らず間伐されないまま、放置された結果、林床に太陽光線が届きにくくなり、 熊の植物となる草や潅木類が茂らなくなった。以前から熊の人の住処に出現していたが、今年はこうした現象が極限に達し、冬眠を控えた熊が生存をかけて食物 漁りに一挙に村々に食を求めに繰り出した。 その意味では、熊多発現象は国策問題としてとらえると言えないだろうかと思 うのだ。生態系に歪が出てきたといわれて久しいが、図体は大きいがやさしいと いわれる月の輪熊だけにもっと深刻に考える必要があろう。 A=観測史上最多の9個台風の列島来襲に伴う風雨でストレスが高まり、森の 中での生活に動揺した。 私はやはり@が根本原因で腹を空かした熊が我慢できなくなり、台風の余波も 受けて村落、街に繰り出したと見るべきであろう。台風23号が今日にも列島を縦 断、さらに24号も発生したという。まさに熊さん受難の日々が続くが@のごとく 過疎化対策にさらに力を入れるべき時期にきていると言えるだろう。(2004年10月20日)
閑話:同じ新聞社に勤務していた先輩、Kさんから短歌集(季刊誌)が過日、送 られてきた。25Pほどの薄手ではあるが中身はかなり濃い。同季刊誌で枢要な立 場にあるKさんは父に代わり育てくれたお母さんの歌が最近多い。 「もうなにも頑張ることはないんだよ 母の湯飲みを丁寧に拭く」 これなどKさんの母に対する恩愛が滲み出ている。 「真夜中に目を覚ましては部屋を見る母は施設に預けたはずを」 「母の居ぬ部屋で拾ったメモ帳を形見のように丹念に読む」 これまで同じ家に住んでいた母を養護施設に預けたKさんの心情が直に伝わって くる。 氏は今66歳。 「満州から子供3人連れ帰り安堵したのか60年後に」の歌もある。氏は恐らく 4、5歳のころ母に手を引かれながら日本に帰国した。お母上は90歳を超えられて おられるようだ。 時代の故か氏のお人柄か、戦後生まれの世代からこのような親に対する尊崇と 感謝を抱くこころが稀薄になったような気もする。我々世代、子供世代は・・・ とふと反省をするこころ過ぎるなり。(2004年10月20日)
閑話:台風一過・・・。いつもの通り午前中妙見宮に熊手を持って団地に近い裏 参道の石段を上り、表参道に抜けた。台風が通過した後だから(木々は大丈夫だ ろうか・・・)と思いながら宮内に足を踏み入れたが、さしたる影響はなかっ た。 弱った小枝がところどころに落ちていた程度で23号の被害は全くなかった。宮 のご威光が働いたのかもなぁーと思った。2年ほど前であったろうか、雷を伴う 台風だったと思うが佐々木宮司が電気業者を呼んで電気系統の故障で修復してい たのを覚えているが、このときもさしたる被害はなかったように感じる。 あの阪神大震災の時は我が家も被害を被った。石造りの門柱がやや傾き隙間が できたほかもう忘れたが、ほかの被害部分の修復と合わせて100万円ほどかけて 門柱の三分の一ほどつくり替えた覚えがある。 そのころはまだ妙見宮や佐々木宮司ともあまりご縁がなかったが、今、想像す るのだがこの宮が被害を受けたという話はい聞いていない。宮は嵯峨天皇の御世 に造営されたという話で1000年以上の伝統を持つ由緒ある社である。 『交野探訪』の巻末の年表にも載せているが、桓武天皇の15回に続き嵯峨天皇 も13回、行幸・狩猟に交野を訪れている。それに歌人の貴族である藤原俊成や在 原業平らもこの地で歌を詠み残している。 佐々木宮司は、もう1000年先を読んで宮司としての働きを日々務めていきたい と私に熱情を込めて語ったことが幾度もある。そんな伝統的なスピリットが過去 から未来に向けて輝き流れているから、さしもの大型台風もちょっと宮内では力 を弱めるのだろうかとさえ思うのだ。私も氏子の一人としてあやかりたいものである。(2004年10月21日)
閑話:佐々木妙見宮宮司に拙宅にきていただいて和室に神棚を設えてもう10日ほどたった。毎朝、夕と大祓祝詞などを唱えるということが曲がりなりにも習慣化した。家内も息子も賛成のようだ。ようやくささやかではあるが、これまでの念 願であった家文化をつくりつつあるなぁーと実感している。 私が幼年、少年時代田舎の家々ではごく普通のように行われていた生活の営み であった。先祖を尊崇し、生かされていることの感謝の念を捧げ、八百万の神々 のご加護を祈願するという日本に自然に生まれたのが神道である。 で、今日はやや枯れかけてきた榊を買いに近くのスーパーに出向いた。食品類 や野菜が陳列している食品専門店である。 (おう、どこにあるのだろう。家内はこの店あると言っていたが・・・)と店 内を一周したら入り口に榊はあった。実は神棚の設えに賛同した家内が勤めの帰 りに買ってくることになっていたのであるが、買い物を現役時代全くしていない 私に行かそうとの慮りもあった。榊と松を添えた分も含めると20束近く売られて いた。信仰心溢れる地域の人々が買っていかれるのだろうと暫し想いを馳せた。 ついでに大辞林によると、およそ榊について次のようある。 賢木とも言い、栄える木の意である。 @=神域に植える常緑樹の総称。また神事 に用いる木 A=ツバキ科の常緑小高木。暖地の山中に自生。高さ約10メートル。 葉は互生し、長楕円状卵形。濃緑色で質厚く光沢がある。6、7月、白色の小花を 開く。枝葉を神事に用いる・・・と。 神事では榊を神の宿る依り代(よりしろ)とみるのである。美しい山や岩に神 が住んでいるとの自然崇拝が背景にあると言えそうだ。ともかく欧米文化に傾斜し過ぎた傾向のある我々世代はかつての伝統文化、生活文化を取り戻さな ければならないと思うのだが・・・(2004年10月22日)
閑話:ショッピングのついでに書店を覗いた。今の売れ筋はどうやらメルヘンものか、すぐに役立つハウツーもののようだ。読みやすく実益的なものか日頃感じている人世の不条理を一瞬、忘れさすようなラブストリーのような気がした。今の世相を反映しているようだが、私どもより十数年上の世代までは、かなり腰を 据えて向かわなければ理解が及ばない難解な本に取り組んでいた。 例えば西田幾多郎の『善の研究』が出た時(1911年=明治44年)、神田の本屋街には学生が列をなしたという。西田は京都帝国大学で西田哲学を構築、西田を 慕って同大学に入ろうとした哲学・文学青年は戦中派まで続いた。 私が勤務していた新聞社にも同大学出身の先輩、同僚もいたが、『善の研究』 について講釈したような人は私が接した限り、皆無に等しかった。戦中に西田が 置かれた立場をちらりと語った同大学以外の哲学専攻の先輩が一人おられたが、 西田哲学そのものや『善の研究』には全く触れられなかった。 まぁー、西田哲学に取り組んだ大先輩らも難解だったと嘆息されたのをお聞きしたり、本にも書かれたりしていた。こうした難解な本に取り組むのは、戦後教 育を受けたものにはまず無理だといっていい。『善の研究』などは暗記教育の対 極にあるものだから、そして有名企業に入るのには無用だからだ。 無論、私も例外ではない。大学時代は西田には縁がなかったが、新聞社に入っ てから私なりに学んだ。『善の研究』に関するかぎり、ある程度理解できた。余 談が長すぎたが、今の売れ筋とも対極のある・・・と思いつつ、ふと見たら梅原 猛先生の『日本の霊性』越後・佐渡を歩くーーがあったので買った。氏は西田に 惹かれて京都大学に入学、哲学を専攻した。日本的霊性の解釈を巡って西田の無 二の親友であった鈴木大拙に反論された方である。この解釈については後日に委 ねる。 ともかく久し振りに『梅原日本学』に浸ってみようと思う。(2004年10月23 日)
閑話:阪神大震災並みの大地震が新潟中越地方を襲った。昨日夕刻のことであ る。震度6強を記録したがたて続けに6並みの余震が2つ。NHKを含め民放各社 が深夜まで被害状況を継続放送。 今朝、団地内の一斉清掃に家内とともに参加した後もNHKが被害の惨状を映 しながら報道。その最中にも小さい規模ながら余震が続く。死者は24日午前10時 半現在で15人を数え、けが500人近く。寒夜を乏しい食料と水で過ごされた方々 の心情を思うとこころが痛む。 さて新潟地方を襲った大規模地震は文政11年(1828年)11月12日。三条・見付 が全壊、全焼し、1400人以上が死亡した。この時のマグニチュード(M)は6・9 で最大級の地震、今回の地震は176年振りの惨禍となった。 この地方には当時、良寛が最晩年を送っていた。良寛は約2年後、天保2年 (1831年)1月に没した。 良寛がこの時、親戚に宛て手紙に以下のような有名な文言がある。 「災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。死ぬる時節には死ぬがよく候、これが災難を免れる妙法なり」 私は良寛のこの句がすぐ頭を過ぎった。推測だが良寛に被害に遭った人が惨状 に悲嘆にくれて手紙を出し、その返事だと思う。良寛はその慌てふためいた手紙 からさっと上記のような文言を添えたのであろう。 (貴殿、天災は悲しかれどいた仕方がないと存知候。災難に遭遇したことの事実 を踏まえ、その上にたって万難を配すべし。死の恐れを抱くもそのままにてお らっしゃれ。これが災禍の傷を深めない最もいい方法なのです) という意味だろう。 今ほど消防活動や食料供給体制の整備が整っていなかった当時のこと生き残っ た親戚からの手紙に一見厳しいように思える文言を言い伝えたもっともとな言葉 と思う。が、そのような精神的高みに上った禅僧良寛のこころは、私もそうだが 中々理解が及ばない。 ここは阪神大震災後の対応を見習い、政府及び地元自治体には被害者に対して 物心両面の温かい支援を期待して止まない。(2004年10月24日)
新選組関連=NHKの新選組も昨日(10月24日)放映は、司馬遼太郎さんが天下 に広めた竜馬が暗殺されるシーンが圧巻であった。 史実に忠実であったように思う。終わった段階のナレーションで暗殺者につい ては様々な諸説があると語ったので納得した。薩長を結びつけた竜馬の死でいよ いよ終盤に差し掛かった。暫くテレビを見るだけにし、愉しむことを決め込んで いたが、昨日はドラマ全体に深みと捨助のキャラクターなどが生きて娯楽性も適 度にあり納得のいくドラマ展開であった。 それはともかく今日は藤堂平助について述べる。新選組八番隊組長である。毎 回、ドラマを追って評していたころ沖田総司を尊敬するとともにライバル心を燃 やしていたことに触れた。 彼は沖田に剣の腕では全くかなわないとのドラマ設定であったが、彼は北辰一 刀流の目録を得ている。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では近藤と共に 勤皇派に真っ先に切り込み、額に重傷を負う。伊勢津藩主、藤堂和泉守高猷の落 胤という説もある。(2004年10月25日)
閑話:日本経済新聞夕刊26日付の心境仙境の多川俊映興福寺貫主の「さわりだけ 味わっても」を興味深く読んだ。イチローがインタビューで語ったことなどを克 明に再現しながら、私と同様にイチローの凄さを感動とともに述べられているこ とに加え、最近、流行の古典などが短時間で分かるなどの本と結び付けられてい ることはなるほどと思った次第。 これは余談だが、私が『唯識』に凝った12、3年前に多川さんが書かれた唯識 に関する本(確か春秋社刊)を買い求めていたのだ。多川さんの本だけでなくか なりの唯識に関する本やユングの本も渉猟した。阿頼耶識とユングの集合的無意識がほぼ同位に位置付けられるものとし、主として小説『生生流転』などに織り 込んでいたからまだお会いしたことはないが、当時より多川さんに関心を寄せて いた。 私は自分のホームページ(HP)に今回のイチローの凄さを書きながら、野球 ファンの中でも真にイチローの偉さに気付いているかを危惧しながら書いたが、 多川さんが私より説得力ある形でイチローを語っていられたので読者の皆さんも この欄を読んでいただきたい。 今から思えば、各紙とも「イチローさん歴史上の人物では誰が好きですか。趣 味は・・・読書は・・・」など質問やイチローの人物像に迫る記事があまりな かったのが不思議ではある。 でも、でも、であります。多川さん、イチローの凄さが分かるだけでもいい し、古典のさわりだけの本が跋扈(ばっこ)していても買って読んだ人の何人か が、イチロー研究に取り組み自らのものにしようと努力したり、古典のさわりか ら興味を覚えて実際に古典を読むようになったりしたらそれでいいのではないで しょうか。 戦後教育を受け、古典のそれこそさわりしか触れることができなかった戦後世 代の多くはそのようなさわりからもう一度やり直すしか仕方がないと思うので す。私もその一人ではありますが・・・。(2004年10月26日)
閑話:4、5日続けて我が家で私が最も早起きになった。午前零時前後に就寝するのだが、目覚まし時計に頼らず、自然と7時ごろに目が覚める。新聞社勤務36年 でこんなことは一度たりともなかった。取材記者時代も内勤記者の時もである。 少なくとも目覚まし時計は、離すことはできなかったし、家内に起こしても らっていたのが正直なところである。内勤のさみだれのような不規則勤務は思え ばよく耐えたと今にして思うのである。 それを還暦まで続けたのだから・・・。体内時計は歪に歪んでいたのだろうと 思うのだ。その修復がやっと今ごろできたのかと思うと、一種の感慨さえ覚える のだ。 NHKのアナウンサーらが早朝、今日のニュースや天気予報を流す。彼らは大 変だなーと同情とともによくやるなぁーと感心し、また励まされもした。私は取 材時代NHK記者諸氏とは20代と30代2度記者クラブでご一緒したが、朝の ニュースの取り組みやアナウンサーなどの苦労を聞くゆとりがなかった。 これは想像だが朝6時のニュースに顔を出す方は、恐らく午前3、4時には局に 出勤して準備をしなければならないはずだ。となると、起床は午前2時ごろかと 思うのだ。 これから判断すると就寝は午後9時ごろかとも思える。人間には慣れというも のがあるが、世間様とは全くおよそ6時間のズレがある。しかも彼らも人の子、 寝不足のときもあろう。そんな時でも明るい表情でニュースを伝えなければなら ない。 でも30代が中心で私から言えば若者らの起用である。 そんな意味でよく体が持ったものだなぁーと感慨一入である。還暦の半ばでやっ と世間様と同じ世界に住めるようになったことを真底、嬉しく思う昨今だ。 (2004年10月27日)
閑話:皆川優太ちゃん(2)・・・。92時間ぶりに生還す!母、貴子(39)さん が運転し、長女、真優ちゃん(3)とともに帰宅途中に大規模な新潟中越地震に遭 遇、車ごと土砂崩れに巻き込まれた。 震災から4日後の27日午後1時ごろから、生存者が車の中でいるとの確認から救 出活動が選り抜かれたレスキュー隊らの手で慎重に始まった。私はテレビにくぎ 付けになって見守った。 途中、余震が2度、3度・・・。思わずレスキュー隊員の中には新たな土砂崩れ がと心配したのか思わず上を眺める。およそ1時間半後、優太ちゃんが救出され た。報道によると、車の底部と岩の間にできた高さ1メートル、幅50センチほど の隙間に優太ちゃんは独り立っていたというのだ。元気な子である。後部座席か ら自分で這い出したらしいとのことである。 その後、貴子さんと真優ちゃんを救出したが、いずれも震災時に遭ったときに 胸部圧迫などでほぼ即死だったことが判明した。 となると優太ちゃんは健気にも自力で這い出したとみてもよかろう。2歳の子供がである。でも私はこう思いたい。 元気な優太ちゃんだけでも生き抜いてほしいと瀕死の状態にあった母、貴子さ んが「速く外に出て優太!真優しっかりして」と叫んだ。 この母の励ます声が92時間も土砂の下で優太ちゃんを耐えさせた。 胸部圧迫で次第に息が詰まり、意識が朦朧とする中で貴子さんは我が子には生 き抜いてほしいと必死に声を上げたのだ。貴子さんは意識が次第に薄れていくな か微かに優太ちゃんが外に這い出すのを見届けながら息絶えたのではなかろう か。 搬送された病院で看護士の女性を見て思わず「ママ、ママ」と声を掛けたとい うのも母の必死な声の余韻が優太ちゃんのこころに深く焼きついていた。 災害発生から3日間(72時間)は生存救出の可能性があるとされているが、幼 子の彼はそれを20時間以上も耐えことになる。相次ぐ余震の恐怖にさらされてい る多くの被災者にも勇気を与えたに違いない。 父、学さん(37)の下で元気に成長してほしい。いや間違いなくこの幼子は2 歳でこんな修羅場を潜り抜けたのだからきっと勇気ある男になることであろう。 母、姉の分まで生き抜いてほしいと念願する。(2004年10月28日)
閑話:今日(29日)は朝、6時過ぎに起床した。新聞社勤務の時はこの時間に就寝したことも度々ある。このところ7時ごろには目覚まし時計なしに起きる日々だ。 午前6時過ぎには三宅連峰の空が白み始め、家々が次第に輪郭 を見せる。 暫くすると太陽が昇り、空が一段と明るさを増してくる。 我が家前の道路を朝の散歩をする人がいた。団地の営みが始まる。 玄関から取ってきた新聞3紙にさっと目を通す。現役時代とは違った読み方を探 りつつあるが、まぁこんなもんだろうと思いつつある昨今だ。 「でもまだまだ工夫の余地があるなぁー・・・」と新聞を畳んでから玄関前道 路側の溝や、車庫横の前庭を箒でさっと掃く。家に入ると神棚に向かって大祓詞 などを唱える。その声で妻と息子が起きてくる。 現役を退いてからは影の薄かった私だが、やっと主(あるじ)としての威厳ら しきものを回復してきたのかもとの思いも、ちらっとこころを過ぎる。 かつての村文化、田舎の家文化はそんなムードがそこはかとなく漂っていたな と幼・少年時代を思い出すのだ。 でも柔(やわ)な戦後育ちの昭和2桁世代がいくら格好をつけても詮無きこと かもしれないが・・・。(じゃが、形だけでもなぁー)と思っている。(2004年 10月29日)
閑話:母校、立命館大学の2004年全国大会が30日京都市内のホテルで開催され た。やや遅れての参加となったが、会場に一歩踏み入れると懐かしい校歌が流 れ、文化勲章を受章される白川静先生がパネルに大写しになり、はなから熱気で 会場は溢れんばかりになっていた。参加者は北海道から沖縄まで全国からの参集 で600人近いと思った。 私はそんな中、貿易論の清水貞俊名誉教授のゼミの席に歩を進めていたら卒業 後まもなく、2、3度あったK君が私の顔を見るなり手をあげて「こちらだ、きの したく〜ん」と促してくれ席に着いた。やがて乾杯の音頭が大広間に木霊した。 川本八郎理事長の貫禄と自信に満ちた挨拶が響いた。 「立命は躍進しています。あらゆる分野に人材を送り出しています。皆様のご支 援の下、立命がさらなる発展するよう頑張ります」(著者要約)。 テーブルでは和気藹々のうち懐かしさを込めて談笑が続いた。 こんな明るくて熱気に溢れた会場に参加したのは昨年夏天理大学で日本宗教学会 以来のことだなぁーと思ったものだ。 ゼミでの思い出はポンド切り下げを論じた私の卒論がT君と共に2人選ばれ、経 済学部卒論集に掲載された。 清水先生の厳しいコメント付きではあったが、始めて原稿料をもらったのだ。 清水先生に『交野探訪』をお贈りした。ゼミもさぼりがちであったしかならずし も真面目な生徒でなかった私のせめてもの感謝とお礼を込めたものだった。 新潟中越地震の被災者向けに義捐金にささやかな寄付をしてから私は心地よい 酔いの中で会場を後にした。(2004年10月31日)
新選組関連:ドラマ「新選組」も終盤に近づくに従って思わず体を乗り出し、全 身を目に、耳にして見るような濃密なドラマ展開となった。 今回は「油小路事件」がタイトル。新選組を離脱した伊東甲子太郎(いとう・ かしたろう)が新鮮組の若手隊員によって殺戮され、かつての師であった伊東に 殉じて藤堂平助が死ぬ場面が圧巻であった。 そこで伊東甲子太郎について述べる。伊東は新選組の中では最も高い身分の武 士の出で参謀格として遇され、学問、剣術に優れ、隊の中にも信望を集めてい た。離脱後、御陵衛士隊を結成、頭取になった。剣は北辰一刀流の免許皆伝、学 問は水戸学・国学を修めている。本居宣長の影響を受けたとする説もあり、教養 人であった。 また和歌をこよなく愛したということでも知られる。 「国の為おつる涙のその暇に見ゆるもゆかし君のおもかけ」の恋歌もある。享年 33歳だった。(2004年10月31日)
閑話:民放で『樋口一葉』を見た。一葉に関する伝記みたいなものを若い時読ん でいたので素晴らしいドラマ展開の中で記憶が甦り、2時間近くのドラマに吸い 込まれるように見入った。 一葉を役の内山理名さんの演技が光った。伝えられるところの小説の師、半井 桃水との愛に揺られつつも兄、父が相次いで逝った後、戸主として生活を懸けて 小説を書き続けていく複雑な思い、そして肺結核と知りつつも命をも惜しまず書 き続けるとい職業女性作家の嚆矢としての情念が遺憾なく演じられ、見応えが あった。 ラスト近くに時の文豪、森鴎外の登場も当時の一葉の文壇での評価の高さを証 明するものとして効果的であった。事実、鴎外は軍医であったし、一葉は鴎外の 紹介された名医の診断を受けている。が、一葉の病魔は深刻の度を極めていた。 「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」などは病魔との闘いの中で生まれた。 最近にないほどの出来栄えのいいドラマであったが、ナレーションの中にでもこ れらの作品の一部がほんの少しでも織込められていたらさらに良かったのではと も思ったが久し振りに愉しいひと時を過ごせた。(2004年11月1日)
閑話:私は初心に帰って生きた経済を勉強しようと決めた。私は大学で経済学を 専攻、2、3の希望するところに就職できなかったら大学院に進む覚悟を決めていた。 確か40年ほど前の立命館大学では平均点が80点以上あれば無試験で院に進むこ とができるようになっていた記憶がある。確か一夜づけ方式で試験に臨んだのだ が、自分でそれなりに問題意識を持って日頃学習していたから確か平均点82点ぐ らいの成績を修めていたような気がする。 大学時代、『民生』の諸君相手にベトナム戦争に関して『君らの言うようにア メリカはエスカレートしていく筈がない。アメリカの財政状況をみればウイズ ドーアル(撤退)することになる』と経済学的視点から反論を加えた記憶もある。 ところが私は日本経済新聞社に入社しながら、一度も経済に関する書籍を買い 求め、読み思索したことはなかった。このことに関しては自分でも不思議でなら なかった。いまから思えばその理由の一つも判らなくはないが、小説読みに明け 暮れやや文学かぶれしていた。また哲学や宗教に凝ったのも事実である。 定年、還暦の今、こころの底から生きた経済を学びたいとの思いが募ってきた のだ。その成果についてはいずれ何らかの方法で読者の皆さんに披瀝できると 思っています。まずは決意表明だけにとどめておきます。(2004年11月2日)
閑話:ブッシュ、ケリーの両氏が米大統領選で大接戦を展開している中継を見ていた。恐らく結果が判明するのは日本時間の夜遅くになるだろうと判断し、夕刻 近く妙見宮に熊手を持って奉仕活動を兼ねて参拝した。 裏参道の石段の落ち葉の多いところ中心に掻き集めながら上り、保食大神(う けもちのおおがみ)で拝礼。狭い参道を進み、拝殿の前に。2拝2拍手・・・。 今日拝殿までの10段ほどの踊り場の左右にある狛犬について述べる。 邪を除けて神前を守護する。宮中の清涼殿に狛犬が置かれたのを起原とし、平安 時代から鎌倉時代に全国の社殿にも置かれるようになった。 妙見宮の場合もそうだが、向かって右が阿形(あぎょう)、左が吽形(うん ぎょう)とするところが多いが、中には逆配置や左右とも阿形とういのもある。 阿形の狛犬は口を開き、吽形は口を閉じている。いわゆる「阿吽の呼吸」と一般 に使われるが阿は、真言密教でいう阿字(声字)の阿である。 狛犬のそもそもの起原は、エジプトやインドのライオンで日本には中国、朝鮮 半島を経て伝来、「高麗(こま)犬」とも書くのがこれを証明している。 さて今日も熱心な信者の方がお百度参りをされていた。前から気になっていた のであるが拙著『交野探訪』の65ページから66ページにかけてお百度参りのこと について石段を100回も上り下りすれば自然と心身が浄化され願が神に通じやす くなると記述している。 正確には社広場の中央にお百度石が約20メートル間隔に置いてあり、その間を 願い念じながら歩き続けるのだ。地蔵菩薩の前で一礼する方もある。でも趣旨は 同じと思う。 私は思わず厳粛な気持ちになり、邪魔になってはいけないと思い、祖霊社の前 から少し外れたところで簡単に参拝すると信者の方は軽く私に返礼の会釈をされた。 人というものはどんな個性の持ち主でもまたどのような社会的な立場にあろう とも己の力だけで生きているのだという発想は棄てなければならない。神仏の前 に立つときは分別(ふんべつ)も捨て去り、己を虚しゅうし、生かされていると いう事実に感謝しなければならないと思う。 戦後世代はとりわけ、この精神を稀薄にしたのではないかと今の世相を想うにつけしみじみと想う昨今ではある。(2004年11月3日)
閑話:米大統領選挙は大接戦の末、民主党のケリー氏が敗北を認めたことに伴 い、ブッシュ氏の再選が決まった。任期4年の間に米国内はもとより諸外国に納 得のいく政治、経済政策を遂行する期待は大きい。 氏は勝利宣言の中で「皆さんの信頼を受けるに足りるあらゆることをやる」と 語り、二分された世論の和合の必要性を呼び掛けた。と同時に世界のリーダー国 家の大統領としての責任は重い。 共和党大統領で再選されたのはレーガン大統領以来20年ぶり。米国内はもとよ り世界中で様々な論議を呼んだイラク戦争がもたらした『波紋』をどう受け止 め、世界平和に向け、真に貢献するかが問われよう。 小泉首相は「同盟関係を一層強化し、国際社会が直面する様々な課題に力を合 わせて取り組み、世界の平和と繁栄のために努力したい」とのコメントを文書で 発表した。首相も任期中に日本国民各層の期待に十分に応えていただきたいとの 想いは募る。 「募りは募るばかり 深更の秋深し」 (2004年11月4日)
閑話:NHKで『最後の忠臣蔵』を見る。池波彰一郎さん原作の映画化である。 足軽武士の寺坂吉右衛門に焦点を充てた物語である。 宿敵、吉良を浪々の末、首級を上げた47士の中に加わり、二手に分かれて討ち 入りした志士らの伝令役を見事果たした吉右衛門。 大石内蔵助に「討ち入りの生き証人として生きよ。お主は伝令役としてその役、見事果たし、戦いぶりのすべてを知っている。正確に関係者及び遺族に伝え てくれ」(著者要約)と命じられた。これは忠臣蔵に興味を持っている人なら知悉していることがらであるが、池波さんは吉右衛門に焦点を充てられた。それに よって赤穂浪士の全貌を見事に描き切った。 今回ドラマを見ても興味深く見ることができた。折からNHKの『新選組』が 終盤を迎え、それぞれの生き様を生々しく視聴者に伝えている。新選組の大半は 百姓の出である。近藤勇も出自は百姓。 その近藤が「わしは大石内蔵助が好きだ」と言っている。吉右衛門も百姓から 武士に取り立てられた身分。そこに漢(おとこ)としての忠誠を尽くすという美 学があろう。 私はそんなこともぼんやり考えながら見ていた。生き残った彼が浅野家筋に内 蔵助の書状を持っていって迷惑顔で追い返されるシーンは人世の哀しみを伝えて あまりあるものがある。次回も愉しみにしたい。(2004年11月6日)
閑話:昨日(6日)、家内と一緒の酒どころ、京都市伏見に散策に出掛けた。 この欄でも時折、紹介しているドラマ『新選組』に登場する坂本竜馬の定宿 『寺田屋』を見てみようというのが発端だった。 「おう、これが竜馬の妻、おりょうさんか。2人の後見役、女将のお登勢さん か、む、む、これが竜馬の使った愛刀か!」などと約140年前、ここは日本の行 く末を竜馬が思索し、仲間と激論を戦わせた場所・・・。そしておりょうとの恋 に浸った処・・・と暫し、想像を巡らせていたら、自分があの動乱の最中に居るような錯覚に陥るようだった。 ふと現実に帰って外に出ると庭の片隅に横70センチ、縦80センチの黒板に竜馬 の歌が書かれていた。 『世の人はわれを何とも言えば(は)言え わがなすことは 我のみぞしる』 私はこの歌を素早くメモにした。竜馬の当時の孤絶とした心境が染み入るよう に直に伝わってきたからだ。 もう一つの理由はあの西田幾多郎の歌と共通したものを感じ取ったからである。哲学の道に記されている次のような歌である。 『人は人 吾はわれ也 とにかく吾行く道を 吾行くなり』 明治維新の到来前に薩長連合を画策し、勝海舟とも親交を深め、世界との交易 を目指した奔放不羈な活動家の竜馬。 世界に通用する独自の哲学を構築した西田。 共に道は異なっても孤高の道を歩んだ強靭な意志を貫いた心底には共通するものがあると感じ入った。 この後、月桂館大倉記念館に立ち寄り、入口にある湧き水を頂いたり、きき酒 を頂いたりして古代から栄えた伏見の酒造りの風土を愉しんだ。 御香神社に詣でるころは真っ赤な太陽は西に沈みかけていた。(2004年11月7日)
新選組関連=NKKの「新選組」も慶喜の大政奉還に伴い、近藤勇ら隊士のここ ろも揺れる。しかし、勇は慶喜の御前で「薩長との戦争は避けるべきです。こち らから仕掛けると連中の思うつぼに入るだけ」(著者要約)と進言する。勇の幕 府の中での信頼は益々高まっていく・・・。 勇は二条城からの帰りに伊東甲子太郎の残党に鉄砲で撃たれ、馬上から落馬する・・・。 ところで今回は十番隊組長の原田左之助について語る。 原田は天保11年(1840年)伊予松山藩の下級武士の子として生を享け、文久2 年(1862年)ごろに天然理心流の主、勇の道場に出入りするようになった新選組古参の一人だ。 彼については坂本竜馬を刺殺したとの説もある。即死した竜馬だったが瀕死の状態にあった中岡慎太郎が伊予訛りの「こなくそ!」という言葉を聴いたという話から疑われたようだ。 私はドラマの通り、近藤、土方の指示で現場には出向いたが、竜馬、慎太郎は 襲撃された後だったとの説をとりたい。原田は豪放で男前であった。槍術に長けていた。(2004年11月7日)
閑話:直木賞作家の早乙女貢大先輩から氏の作家生活50年記念の冊子と達筆の手紙が今日(8日)届いた。今年7月初旬に東京で氏を祝う会の招待状を頂きながら 長年の新聞社勤務の疲れからか生まれて初めて歯茎が腫れてお多福のような下膨 れの顔になり、人目に晒すのが恥ずかしく欠席した経緯もある。 また『交野探訪』を遅まきながら最近、贈呈したからでもあるが、氏には秋の 京都ペンクラブ例会でいつもお目にかかっており、度々、励ましの言葉を頂いている。 昨秋は『如来が弁護してござる』のことを褒めてくだされ「もう少し宣伝され てはいかがですか」と言われたのを今でも鮮明に記憶している。 氏はいつも和服姿でのお出ましでひときわ異彩を放っておられるのを羨望して いる。元ペンクラブ会長の故尾崎秀樹さんも和服で通されていた・・・。 また絵画は玄人裸足である。難波のとある百貨店で3、4年前に個展を開かれた 折、顔を出した。絵の好きな私は、早乙女先輩に小説のことは抜きにして出品さ れた作品について臆面もなく私流の解釈を披瀝した記憶もある。 曽祖父が会津藩士であり、様々な作品を書く一方で『会津士魂』(正・続21 巻)を30余年にわったって書き4年前に見事完成された。 頂いた冊子の巻頭の中に次のような文言がある。 「歴史の真実は、敗者の中にこそある。近時、幕末の真相を語るものとして敗者 たる会津藩と新選組がクローズアップされてきたのは蓋し当然である。(略)こ こへ来て、やっと世間の蒙が啓かれたか、という気持ちだ・・・(略)。」 50年の作家生活彩る人脈・交友関係は文壇のみならず芸能、政界など幅広いの は氏のあくなき作家魂と人柄によるなにものでもないと思った。(2004年11月8日)
閑話:もう自宅の和室に設えた神棚に向かって朝、夕と大祓詞、伊勢内宮神前祝詞、伊勢外宮神前祝詞、稲荷祝詞などを我流ではあるが、唱え出して1カ月近くになる。 前回にも書いたが、幼年のころ耳にした微かな記憶のリズムを頼りに赤ちゃん 帰りをした「還暦」の今、再現しようとの試みである。と同時にかつての家文化を取り戻そうという期待もある。 私の幼少年のころは、娯楽はせいぜいラジオで『君の名は』『紅孔雀』『お父 さんはお人よし』『三つの歌です、君〜も僕も』を聞くぐらいだった。後者の二つは毎週月曜日の夕刻にあったのでいつも楽しみにしていた。 後は時折、村にやってくる浪曲を聞いたり、秋祭り、正月の獅子舞などでは しゃいだりする程度であった。 そんな中、読経や祝詞の声が村々には木霊していたような記憶がある。そんな牧歌的でいてそれなりに厳しい雰囲気があった。が、明るさもあった。 そんな思いが募るのも赤ちゃん帰りのせいかとも思うが、今の分別臭くて合理 的な世相に反発する気持ちもあるのだ。格好だけでもいい、現役時代よりか好ま しい雰囲気を味わいつつあると思う昨今だ。明日は、分別と理屈とお祓いの関係について葉室頼昭さんの言葉を借りながらお伝えしようと思う。(2004年11月9日)
閑話:分別とお祓いの関係について述べると昨日、書いたが、体験の上で述べる とすれば、こうだと言い切るのはやや早すぎると思った。たとえ葉室さんのお言 葉を拝借して意見を開陳してもやや無謀であると考えたからである。 後の機会に回すことをお許し願いたい。今夜、祝詞を唱えた後、そう思った次第でまずは家文化をつくる上で祝詞奏上を習慣化することが大切との認識を改めて強めたということにとどめる。 でも唱え終わった後、拍手を2つ叩くと心身がすきっとするとともに1日の営みが無事に終了したという満足感を覚えることだけは確かである。それだけでもい いではないか。これまで言い忘れていたが、最後には般若心経を唱え、終っている。 般若心経は、神前では寶(たから)の御経、仏前では花の御経である。さらに 祈祷の御経でもあるという。これを声高々と読誦(どくしょう)すれば、我々の願ごとが叶うということである。(2004年11月10日)
閑話:日本経済新聞夕刊11日付、エンジョイ読書をさっとよんだが、やはり「働 きながら書く人の文章教室」の書評を読んで思わず「はっ」とした。 旋盤工をしながらお書きになっていた小関智弘さんのことはそれとなく知って いたが、こうしたことは全く知らなかったので感動に似た共感とともに驚きを禁 じ得なかった。 次のような箇所である。 「一作書くごとに歯茎が腫れた」「50代の初めには総入れ歯になってしまった」。 さもありなんと私は益々氏に敬意を表する気持ちが盛り上がってきた。 私はこの欄で過日、36年間勤務した新聞社を辞めて暫くして生まれて初めて歯 茎が腫れ、お多福のような相貌になり、人目に晒すのも恥ずかしいと書いた。 合計で12、3回地元の歯医者さんに通った。 名医のS先生の治療のお蔭で腫れはひき、完全に修復できた。無論、施しよう のない奥歯は仕方がないが・・・。S先生は「木下さんは、総入れ歯なんかには なりませんよ」とおっしゃったが、70歳ぐらいになると、小関さんと同じように 総入れ歯になるだろうという覚悟はしている。 でもこんな慰めごとみたいなことを言っているようでは、私もたいしたことは ないという証左である。 まだお会いしていないが、有名な作詞家であり、著述家としても大家であるE さんが大ヒット作を後、テレビ出演され、60歳(還暦)で総入れ歯になったと言 われていた。 総入れ歯は命懸けの仕事をした人の勲章なのかもしれない。私は・・・と複雑 な気持ちが広がったものだ。(2004年11月11日)
閑話:高齢化に伴い介護問題がクローズアップされる昨今だ。還暦の今、様々なこと思い身近に差し迫ってきているなぁーと思うこともある。が、人様々である と思う。 団地近くの理髪業、Hさんのところに散髪でお世話になりだして5年ほどにな る。散髪中によく世間話をするのである。つい最近、Hさんが言ったことを思い出す。 「木下さんの隣の団地からも80代の人も歩いていらっしゃるし、また同じ80代 の人は、奥さんが病気でいらっしゃるが、掃除、洗濯などご自分でおやりにな り、100歳まで生きるぞと言われ元気そのものですなぁー」 『交野探訪』でご協力を頂いた郷土史家の和久田薫さんも80歳になられた筈 だ。79歳の折、バスで20分はかかるところにある喫茶店で対談をしたときもご自 宅から自転車で炎天下の夏、自転車を悠然と漕いでいらっしゃった。 ゲラ直しで拙宅においでになったときも自転車。拙宅は山の中腹を切り開いて 造った団地内にあるのだから当然、坂道があるのだ。それ自体で圧倒されたものだ。 明治生まれの方や大正時代生まれの方が概してお元気な方が多い。この間、文化勲章を受章された漢字哲学者、白川静先生は94歳。 「やりたいことを成し遂げるには後、4、5年はいるなぁー」とおっしゃっている。 団塊の世代の諸君ももうすぐ定年を迎える。彼らより少し早めにリタイヤした 私などを含め、戦後育ちは先輩たちの元気の秘密を学ぶべきだとつくづく思うのだ。 持って生まれた体力、体質もあろうが、何か普遍的なスピルチュアルなものが ありそうな気がしてならない。(2004年11月12日)
閑話:今日、朝日放送の番組に約1時間半釘付けになって見た。これほど集中し てみたテレビ番組はあまりない。弟というドラマが近く放送される予告ドキュメ ンタリーであった。 弟とは作家であり、東京都知事でもある石原慎太郎さんの弟、石原裕次郎のこ とである。確か2、3年前だっただろうか慎太郎氏が弟、裕次郎さんのことを 「弟」と題して書き下ろし、出版。私も早速に買った。 どこにあるだろうかと書斎の棚を探しまくったが見当たらない。新聞社勤務の 間に暇をみつけながらあらかた読んだ本の一つであった。私の高校、大学時代な どは任侠者の鶴田浩二さんや高倉健さん、池部良さんらの演技に魅了される一 方、裕次郎さん、裕ちゃん演じる作品に拍手を送ったものだった。 今回のドキュメンタリーは原作者の慎太郎さんが生出演、映し出される裕次郎 さんの映画の数々や闘病生活の映像が流されるなか、兄、慎太郎さんが弟のこと を語るのは政治家、慎太郎ではなくて素顔の兄そのものであって引き込まれるよ うに見た。 また兄弟の父母の存在を語る慎太郎、裕次郎両夫人の生の声も家庭的雰囲気が ふんだんに出、石原ファミリーの温かい家族、親族関係が浮き彫りになって見応 えがあった。 裕次郎さんは無類にお酒好きであった。同様に私もそうだった。 「おい、ビールをちょいと飲むぜ!」「まぁ、お昼から・・・」と家内。 「裕次郎さんもそうだよ」と私は、飲む口実に裕次郎さんを出して嘯いていたこ とがあった30代前半。 その裕次郎さんが亡くなった時は、こころから寂しく悲しく思ったものだ。裕次郎という銀幕の英雄は私どもの世代は美空ひばりとともにけっして忘れえぬス ターだった。 近く始まるドラマ「弟」は見逃せない。愉しみがまた一つ増えた。(2004年11月13日)
新選組関連=鳥羽伏見の戦い(慶応4年1月3−6日=1868年)で新選組初の敗北を 喫す。今回のドラマも見応えがあった。この間、家内とともに寺田屋で坂本竜馬 の写真や肖像画を目の当たりにした後、酒どころの見学、御香宮神社の参拝をし たことは読者にお伝えした。 この御香宮神社が薩長ら勤皇方の屯所になっていたのだ。新選組は近藤の負傷 で土方が率いてこの戦いの先頭に立つが新兵器を駆使する勤皇方の前に苦戦、敗北した。 近藤は錦の御旗は薩長の陰謀の末であると慶喜の御前で薩長軍を粉砕、錦の御 旗を奪い返すのが、徳川家存続の唯一の道と主張した。 香取演じる近藤が最も輝いた瞬間であった。しかし、慶喜は「尊氏が受けたよ うな逆賊の汚名を徳川に着せたくない」と大阪から江戸に向かう・・・。 今回はこの戦いで戦士した新選組6番隊隊長井上源三郎について触れる。近藤 より5歳の年長である。この井上はドラマでも新選組隊士の中でこころ優しい兄 貴分役を上手く演じていたが、沖田、永倉、斎藤らのような剣の腕はなかった が、地味な性格ながら真摯に武士道をこころに宿していたようだ。 池田屋事件(事変)では遅れて現場に到着した土方隊の中で戦功を挙げ、恩賞 金10両得、禁門の変でも奮闘したと伝えられている。(2004年11月14日)
閑話:NHKの忠臣蔵も見ていてやや混乱するような気もするが、朝日放送の忠 臣蔵を昨夕刻見た。同放送では大石内蔵助が山科に居を構え、祇園で酒、女で遊 蕩三昧の日々を送るさまを巡って浪士の中で疑問の声が渦巻く。 「太夫(内蔵助)のおこころが判らぬ。我ら江戸のおるものたちだけで殿の法 要を執り行ったのにも関わらず太夫にはお出まし叶わぬ。いったい太夫のお心は 何処におわしますやら」(著者要約) 敵を欺くとともに同志の一人一人の胸の内を掌握しようとの見方であるとの解 釈はよく知られるところである。内蔵助の慎重で大胆な行動の一つであろう。 もう一つの見方は私の解釈になるが大事をなすとき血気に逸(はや)るのが事 を仕損じる最大の原因となることを内蔵助は読み、自らが道化したのではないかと思う。 内蔵助という漢は、幾重にも巡らせた方程式を解き得る人物であると思う。だが、彼ほどの漢でないと複雑な方程式を解く過程で疲れ果てる危険性がある。あれかこれかで堂々巡りに陥り、自らの力を萎えさせることにもなるからである。 今回のドラマでは子息、主税も父のこころが理解できぬと不審顔・・・。独 り、妻のりくだけが毅然として内蔵助の真意を確かめに江戸から下ってきた浪士 に言い放つ。 「旦那様の御こころがお判りになりませぬか。深い御こころがおありだからこ そのお振る舞い。でも頼りになさっていられるのは皆様方だけです」 思うに妻の理解なくしては内蔵助とても大事は果たせなったと改めて思ったものである。(2004年11月15日)
閑話:21日、天台宗開宗1200年を記念するトークイベントが天台宗総本山比叡山 延暦寺根本中堂で開かれる。それに本山の佐々木部長の計らいで参加することに なった。 比叡山といえば私の初めての小説『生生流転』の舞台になったもので郷里・備 前から長旅の末、根本中堂の辿り着いた主人公、順円の感動する様を描写している。 それまで数度は比叡山に登っていたので比叡山の風景はこころの中に映し出す ことはできた。 が、肝心の千日開峰行については関係書籍だけでは理解が及ばなかったし歴史 的経緯も知らなかったので小林隆彰師や2、3人の要職にある方に電話で取材し た。いずれの方にも丁寧にお教えいただいた。 特に小林師には私のかってな解釈について「これでいいのでしょうか」とお訊 ねした記憶が鮮明だ。『諾』のご返事を頂いたときは嬉しかった記憶が鮮明に蘇る。 しかし、本を上梓してから私のうかつから小林師に本を贈呈しそこなったのだ。 まずまずの売れ行きであったが、出版元の廃業で今は絶版になっている。在庫本 はもう裁断の処分になっているのではなかろうかと思うが、どうなっているのか との問い合わせ先も不明である。 私はこの『生生流転』を大幅に加筆し、再度、出版することにしている。来年 春から取り組み、年末には刊行しようと思っている。 さて当日は千日開峰行を2度も成し遂げた酒井雄哉大阿闍梨と筑紫哲也氏らと のトークがある。今から楽しみにしている。感想は後日、報告します。(2004年11月16日)
閑話:『弟』を見た。素晴らしいドラマ展開であった。約2時間があっという間 に過ぎた。ドラマに奥行きを持たせたのは先の大戦が口火を切った「トラ、ト ラ、トラ」の昭和16年12月の真珠湾攻撃、戦争突入、米国が次第に巻き返してく る。そして昭和20年8月の広島、長崎の原爆投下。終戦・・・。 こうした歴史的背景を流しながら大手船舶会社の小樽支店長の父、潔の下で少 年時代を母、光子に見守られながらすくすくと育つ石原兄弟が次第に成長してい くさまが見事に描かれていた。 秀才の兄、慎太郎、やんちゃで腕白な裕次郎が繰り広げるのだが、その後の兄 弟の行く末を暗示しているような兄弟愛に溢れた遊び、勉強などに向かうそれぞ れの演技は見応えがあった。級長の兄、慎太郎が幼なごころに感じたことをナ レートしていくも効果的であった。 私は原作を読んでいたのでドラマの底を流れる作家、慎太郎氏の優れた感性が 随所によけいに感じ取れた。しかし、原作を読んでない方でも兄弟の性格の違いを容易理解できるような手ごたえのある演技だった。 『父の背中』という第一話・・・。渡哲也の父親、潔役は副題に違わない迫真 の演技ばかり。「男というものは、命を擲つときがあるのだ・・・」(著者要 約)と部下の死の現場に連れて行き、男の生き様を語るシーンは圧巻であった。 また自ら病苦を押して職場の責務遂行に身をもって示す演技もさすがだった。 今どきこのような父があろうか。タイトルが示すように父親の家庭教育とはこん なものだと考えさせられ、シアリアスな側面をうかがわせたのがドラマの価値を 高めた。 母親、光子を演じた高島礼子の演技も光った。5夜連続のドラマを愉しみなが ら追ってみよう。(2004年11月17日)
閑話:ドラマ『弟』副題、「家庭崩壊」を見た。今回も目が離せないほどのドラマ展開であった父、潔が突然、職場で亡くなった。いわば殉職である。家長不在 の家庭は揺れに揺れた。裕次郎が放蕩に明け暮れる中、慎太郎は一橋大学に入学 を果たした。 長男、慎太郎には父に代わる家長としての自覚があったのだろう。潔の死で日 頃の努力に拍車がかかったのだろう。 氏は公認会計士を目指し、法学部を選んだが、大学の文芸同人雑誌に入り、小 説を書き始める。処女作、『灰色の教室』が有名な文芸誌の批評欄に掲載された というから氏には生まれつきの文才があったのだろう。 弟、裕次郎の放蕩無頼な生活ぶりを材料にしたものだが、次に『太陽の季節』 で新人賞と芥川賞を受賞する。大学生の受賞でしかも裕次郎を中心に据えた湘南 海岸で戦後の開放感から青春を謳歌する群像の描写が受けたのだろう。 私は年齢差もあるだろうが、銀幕に躍り出た裕次郎を先に知ったのだ。中学、 高校時代だったかな・・。大学時代に兄、慎太郎の存在を知ったといういわば、 晩生の方だった。やがて氏は政界に打って出る。中川一郎らと青嵐会に属し次第 に頭角を現し・・・。 などと思い出しながらドラマを見続けた。作家、慎太郎は弟、裕次郎の存在に 触発されて誕生し、俳優、裕次郎は兄によって生まれたという不思議な兄弟の縁 を改めて感じた。兄が『弟』という小説を書いたのも裕次郎に対する鎮魂と感謝が込められているのは当然であろう。 裕次郎の放蕩から家計が窮迫した。母と慎太郎が彼を愛しつつも苦悩する中で 氏の芥川賞受賞で裕次郎も銀幕に兄の後押しで挑戦するということになり、父亡 き後の石原家に陽が差し出した。慎太郎は23歳で典子とめでたく結婚し、家庭ド ラマとしても興味深く味わえた。(2004年11月18日)
閑話:ドラマ『弟』第3夜も見応えがあった。このころになると、私の裕次郎に 対する記憶が鮮明になってくるのでリヤリスティクに見ることができた。副題は 「スター誕生!嵐を呼ぶ男!!」であったが、副題と同じく「風速40メートル」 「オレは待ってるぜ」など次々とヒットを飛ばし、歌手としての人気も一挙に高 まり、銀幕のスター街道まっしぐらだった。 前回、裕次郎のお酒好きを書いたが、立て続けのヒット作品の連続の中で酒へ の傾斜はより深まった。これは私の想像だが、スターになった高揚感が酒を呼 び、また高ぶった気持ちを和らげる側面もあったのではないか・・・。でも酒、 ビールなしの裕次郎はあり得なかった。 そんな裕次郎ではあったが、アクションものに疑問を持ち悩みだした。そんな 折、北原ミエの存在が彼の大きな支えになった。裕次郎はアクションものから決 別する決心をするとともにミエと結婚する。ミエは引退を表明した。このときの ニュースは今でも鮮明に覚えている。愛の逃避行の末の結婚であったとは今回の ドラマで改めて思い出した。 3年間に28本もの映画、それもアクションもの一本であったから、裕次郎が抱 いた自己嫌悪もいまだからよく判る。裕次郎はついに自主企画映画制作するため にプロダクション会社を設立する。今に続く『石原プロ』である。 裕次郎は第一作として堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」を主演、シアリアス な自主企画映画を発表。大当たりはしなかったが、芸術性が認められたことで彼 の苦悩は解消、新たな燭光を見た筈だ。次回は黒部ダム舞台にした超大企画に挑 む・・・。 余談だが『慎太郎刈り』というのが今回のドラマで出たが、これなど私の青春 時代の記憶に鮮明に残る語彙で、私自身、慎太郎刈りふうに頭を刈ったような気 がする。兄、慎太郎も銀幕の寵児の弟を支えながら大衆にも次第に人気が浸透し ていた。(2004年11月19日)
閑話:思わずどきっとした。裕次郎が宇野重吉扮する和尚との間でのやり取り、 そう禅問答スタイルの対話の生の映像が流れた時だ。私はこのコマーシャルは幾 度も見た記憶がある。 何十年か前に引き戻されたような錯覚を覚えた。当時私は酒をこよなく愛し、 愛し続けていたころでなかったかと・・・。いや、肝臓を少し傷めて自粛してい たころだったかなと思いを巡らせていた。 このコマーシャルに出た裕次郎はさすがに貫禄があった。さらに今回のドラマ の副題である「裕次郎生存率3%から奇跡の復活」のさまはより鮮明に覚えている。病院の屋上からファンに向けて手を振る姿には私自身感動を覚えながら食い入るように見た。 記者会見の模様も・・・。解離性大動脈破裂の難病からの生還はファンの一人 としてこころから喜んだものだ。ドラマはマキ夫人や母、光子、兄の慎太郎家族 の愛に満ちた手術成功を祈る姿を生々しく映し出していた。 般若心経の写経をする母、光子の姿が印象的であった。 慎太郎が母に見舞いを要請したら「いいのよ、裕次郎はマコちゃんにあげたんだ もの」という台詞は泣かせた。 手術は6時間半も掛かったというのはこのドラマで改めて知った。裕次郎は過 労から肺結核、舌癌などの病魔に襲われながらも『石原プロ』の社長として踏ん 張り続けた。 「太陽にほえろ」は私にはとりわけ印象に残っていてこのドラマに登場した 面々の顔も同時に思い出していた・・・。(2004年11月20日)
閑話:『弟』最終章―「日本中が泣いた日」を見た。「太陽にほえろ」に続いて 「西部警察」と復帰後の裕次郎の活躍は続く。 ある晩の母、光子の誕生日で石原一家が集まった宴のとき慎太郎、裕次郎とマ キに向かって言った言葉が印象的であった。 「裕ちゃんはいいねぇー」と前置きした上で @=20代は青春のシンボルA=30代は高度成長のリーダーB40代は頼りになる 父親のイメージだからなぁーと・・・。言い言えて妙なる作家、兄の観察眼である。 「これから先はどうなるのだろう」と裕次郎。 「それはお前次第だ」と慎太郎。 「おじんの代表というのはいやだしなぁー」 裕次郎は言ったものだ。 やはりこの時代の寵児にはやはり「おじん世代の代表」は似つかわしくない。 やはりなぁーと私は改めて裕次郎の運命的なものを感じざるを得なかった。 美空ひばりにおばあさん歌手が似合わなかったように・・・。 昭和59年夏、肝臓に癌が確認された。極秘で検査入院した裕次郎は再び戻らな かった。裕次郎の血管全体がぼろぼろになっており確たる施しはできない状態で あった。 裕次郎は医師団と家族に見守られながら最後まで病魔と闘った。原作による と、医師団に2度「ご臨終です」という言葉を言わせたのはいかにも裕次郎の最 期らしい。 最初、裕次郎の体に取り付けた医療機器を見ていた医師は反応がないのでそう 言った。しかし、心臓の鼓動を表す計器のグラフがまた動き出したのだ。動いた り、止んだりしながら裕次郎は闘っていた。 兄、慎太郎はじっと弟の表情を見据えていたがふいと裕次郎の表情は信じられ ぬほど穏やかに安らいだ。兄が医師団に向かって頷くと医師はもう一度計器を確 かめ、「ご臨終です」と告げた。 今回の5夜連続の『弟』のドラマを見て感じたことはかくも素晴らしく兄弟愛 に満ちた2人が互いの人生を尊重しながら切磋琢磨、いずれも道は違っても大を なした例をあまり知らないとつくづく思ったものだった。(2004年11月22日)
新選組関連=徳川家喜は松平容保兄弟も説得し、幹部だけが部下を残し、大坂港 から船で江戸帰還を決めた。このような事態になるとは予想もしなかった勇は切 歯扼腕する。 新選組は孤立感を深めるとともに土方の「剣の時代は去った」という言葉が新 選組の退潮を端的に物語っている。今回は新選組と幕府の権威喪失が次第に浮き 彫りになっていく・・・。 近藤らも苦悩の末、江戸に帰っていく。 今回は新選組3番隊長、斎藤一を取り上げる。明石藩の足軽の子として生を享 け、入隊後は様々な事件で華々しい活躍を見せた。剣は沖田総司と双璧だった。 維新後、警視庁に警部補として入庁し、藤田五郎と改名し大正4年(1915)没す る。71歳の享年だった。(2004年11月22日)
閑話:21日、比叡山延暦寺根本中堂に着いた。午後5時過ぎだった。坂本から ケーブルに乗った。眼下に時折、光輝く琵琶湖が顔をのぞかす。 比叡の山は暮れなずみかけていた。 嗚呼、いいなぁーと感じ入りながらケーブルの席から見入っていたことを思い出 しながらふと中天に目をやるとやや丸みがかった半月が光っていた。 午後6時から酒井雄哉大阿闍梨と吉村作治早稲田大学教授の対談が行われこの 日、根本中堂の佐々木部長のご尽力で参加できるようになったことは過日、この 欄でお伝えした。 まだ時間があるなぁーとゆったりとした気分になり、お土産屋さんで記念に来 年のカレンダーと木刀を買った。 この木刀は中々作りがよくて思わず買おうと閃いたのだが次に思ったのは宮本 武蔵の『五輪書』(津本陽さん解説)などを愛読、武蔵の剣さばきに魅了されて いたからだ。さらにはこの書に込められた武蔵の兵法哲学が気に入っていたのも 同時にこころに過ぎったからもうたまらない。 津本さんや早乙女貢さんらは真剣を愛用し、小説に生かされたことを知ってい たから、この木刀で柄の持ち方や中段や上段の構えなどを私なりに勉強できると 買い求めてから様々なことがこころに去来した。 予定通り、定刻から根本中堂の庭で延暦寺開宗1200記念のイベントは始まっ た。シンセサイザァー奏者のキム・シンさんの演奏が酒井師と吉村さんとの対談 を挟む形で寒夜の比叡のお山に響き渡り、会場の雰囲気を徐々に高めていった。 恐らく氷点下近くになっていた晩秋の冷え込みも一瞬忘れたように会場のみな さん(約400人)は音楽とお2人の対談に聴き入っていた。 「私はこのお山で一番、声明が下手なのですが、シンさんのシンセサイザーの 音色は慈愛に満ちた響きがあり、いいですねー。索漠とした今の世を生きる若者 だけでなく大人の方にも聞いてもらいたいですね。」(酒井師、著者要約) 「同感です。ところで大阿闍となられた酒井さんの2度も千日回峯行を成し遂 げられた動機は・・・」(吉村氏) 「一度やってもまだやり残したことがあるように思ったり、ほかに何もするこ とがなかったので挑戦致しました。お蔭で体が丈夫になりました。こんな寒夜で もほれごらんなさい。いつもと同じ着物ですよ」(酒井師、同) 私はこれをお聞きし、謙遜の中にも師の並外れた奥深さと含蓄のある発言であ ると感じ入ったものだ。 師は行の最中に猪と遭遇し、山道から転げ落ち、その拍子に足をけが、それが もとで足に膿が溜まり、自分で手当てされたらしいが、ついに歩けなくなり、も うこれが最期かと思われいつも持参している小刀を咽喉もとに持っていった苦し い体験をされている。 「歩けなかったら死ぬしかないからね。(歩くか)どっちかに決めようと思っ て、刀の切っ先を咽喉に向けて岩に腰をおろしたんだ。もし、このまま意識がな くなったら、崖の上だろ。岩から落っこちると、切っ先が咽喉を突いて、それで 死ねると覚悟したんだ。あれ、失神したっていうのかな。三十分ぐらい、うとう とした感じだった」(二千日回峯行―大阿闍梨酒井雄哉の世界より抜粋) 私はこの本を読み、この夜も持参していたからこの発言の後、直接このことを お聴きしたので師の強固な意志に改めて感動した。 イベントが終了して根本中堂の外に出たら一挙に極寒の冷えを体中に感じ、熱 燗のコーヒーを自動販売機から買い出して咽喉に流し込んだ・・・嗚呼・・・。 (2004年11月23日)
閑話:NKKの昼の番組『森進一夢へ前進し続ける人生』を見た。森さんについ ては私の近著『交野探訪』(82P)にも登場してもらったが、氏の偉いのは何事 にも真摯に取り組み人としての素直さを今でも喪わないことにあるといって尽き るのではないかと思う。 森さんは今年の大晦日の分を加え、紅白出場は37回を数え男性歌手では北島三 郎さんについで2位。今、57歳。いわゆる団塊の世代である。この日、森さんの ことを書こうと思ったのは氏の口から「家長として責任がありましたから」とい う言葉がごく自然な形で飛び出したからである。『家長、家長・・・』である。 この世代、『家長』という伝統的でずっしりと重たい語彙を中々口にする輩は 少ない。母親や兄弟(妹)を養わなければと集団就職で九州から大阪へさらに東 京に。職業は転々としながらも『家長』としての責任を果たそうと働きながら仕 送りを続ける。 中々できないことである。団塊の青年は闇雲に「お受験戦争」に突入した典型 的な世代でもある。頭脳だけを無理やり回転させ、情なるものをある面で喪失し た世代でもあるといえそうだ。無論、中には優秀なる例外に属する方もいること は言うまでもないが・・・。 そうした中にあって森さんはかつて日本文化の中にしっかりと根づいていた大 家族意識を喪うことなく長男としての責務を持ち続けている点が素晴らしいでは ないか。 歌手デビューも華々しかった。立て続けにヒットを飛ばし、若くして紅白のト リを勤める。家族も呼び寄せた。「おふくろさん」を歌い慕い続けていた母の死 を乗り越えたのも歌手になる以前から持ち続けた『家長』意識がこころの襞(ひ だ)に焼きついていたからであろう。 改めて前進し続ける森さんに声援の拍手を送りたいと思う。(2004年11月24 日)
閑話:23日、久し振り、そう数年振りになるだろうか、家内と京都東山の山麓に ある『哲学の道』を散策に行った。『哲学の道』といえばこの欄で再三、紹介し ている西田幾多郎が哲学しながら歩いたという道に因んで付けられたものといわ れる。 道には観光客らが列をなして歩いていた。家族連れ、友達同士、カップル、外 国人の一行も・・・。 晩秋の理(ことわり)で、道の脇は紅葉で染まっていた。黄、濃い黄、真っ 赤、赤、朱色の様々は言葉を超えて美を演出していた。 私は西田が紅葉を愛でながら何を想ったか、思索したのかを考えた・・・。西 田は哲学するという世界から全く離れ、ただ只管に余念を交えず紅葉が織り成す 美を見入っていたのではないかと思えてならない。 これは私の独断であるが、未分以前の純粋経験(分別以前の生き生きとしたも の)という自ら唱えた哲学的恣意の正しさを紅葉の鑑賞で確認したのではないか とも想うのだ。 (嗚呼美しい、美しいこと限りないな。人工的にいくら試みてもこのような自 然が繰り広げる美はできっこない・・・) と西田は想いに耽ったのではなかろうか。 このことは、西田の弟子、植田寿三が西田哲学を基に『美の自立性』を唱えた ことを見ても判るような気がした。(2004年11月25日)
閑話:『最後の忠臣蔵』を見た。寺坂吉右衛門に的を絞ったこのドラマは原作 者、池宮彰一郎さんの力作の真意が生き生きと表現されていて見応えがあった。 寺坂はやっと念願叶って46人の討ち入りの仲間になった。今に伝わる『47士』 となったわけである。 大石内蔵助と親戚関係にある進藤源四郎の見事な政治戦略が次々と功を奏して いく様が、意外性を孕みながら展開していくのは見る側を飽かさなかった。 進藤の言うままに寺坂は仙石伯耆守に自首した。すぐ柳沢保明の耳から綱吉 に。柳沢らは進藤の幕府の虚を突いた策略にたじたじ。寺坂に切腹を命じれば、 高まる一方の赤穂浪士人気に油を注ぐことになる。罪を許せば先に大石らの処分 が間違いとなる・・・。 結局、寺坂は島流しの刑に処するとの厳命がくだされるが、進藤と近衛家煕の 戦略が、柳沢を圧倒した。綱吉の母、桂昌院忌に事寄せて大赦の恩恵を受けさせ ることに成功、無罪放免となる。伯耆守から討ち入りの志士に加えられる。と同 時に島流しの刑になっていた子息の罪も解かれた。 以外と知られていない事柄がドラマ仕立ての中でユーモラスを持ちながら展開 したのが良かったと思った。(2004年11月27日)
新選組関連=今回のドラマを見ていて時代の荒波の中、剣を持つ武士の終焉がき たことに土方を通じ、また甲府での戦いでの敗戦の中で感じつつも、仲間に裏切 られ影を薄くしていく近藤の姿を見ていて人世の悲哀を感じたのは私だけではな かろう。 時代の流れ、また権力の行く末を見て蠢く輩はいつの時代にも確かにいる。近 藤を見限る勝海舟や同輩らを見る近藤の寂しい姿には思わず同情を禁じ得なかっ た。近藤を演ずる香取の演技が冴えていた。 特に新選組の年下の部下らが対等以上の口を叩いて去る場面は、香取演じる近藤に成り代わり私が怒りたいという衝動に駆られた。近藤はあくまで『誠』に殉 じた最期の武士としてのイメージが良く出ていて見応えがあった。 さて今回は前回ちらりと姿を見せた榎本武揚について語る。海軍伝習所の卒業 生で勝の後輩に当たる。慶応4年(1868)4月11日、江戸開城に承服できなかった 海軍副総裁の榎本だった。彼は同年8月、艦船8隻を率いて奥羽地方に向かう。10月榎本は函館沖に錨をおろし、約4000の兵を上陸させ、函館と五陵郭を手に入れ た。この五陵郭に土方歳三がいた。が、明治2年新政府軍に降伏した。 黒田清隆らの引き立てで明治政府の要職を務めた異色の人物である。(2004年11月28日)
閑話:民放の『忠臣蔵』を見た。大晦日の紅白に初出場が決まった松平健が大石 内蔵助を演じる。大方の筋書きは我々の世代は知ってはいるが、臥薪嘗胆(がし んしょうたん)して見事本懐を遂げるストーリーは幾度見ても感慨深いものがある。 「義理と人情が廃れて早幾年・・・」といえば講談調になるが、今日のドラマ を見ながらふと思ったことがある。我々世代はともかく、次世代の若者世代には 忠臣蔵は歴史の勉強になるだけでなく赤穂浪士の苦労に加え、彼らを取り巻く家 族、眷属らの反応を見据えることにより、社会勉強の一助にもなるのではないか と・・・。 今回のドラマの見どころは様々あったが、やはり、元服前の矢頭右衛門七を東 下向する内蔵助一行を送り出す母、なみの覚悟と決心であった。 (家は廃れても矢頭の名は末代まで残ります故・・・)となみは右衛門七を励 まし送り出した後、仏壇の前で自害するシーン。 内蔵助一行に辿り着いた時、母の死を知る少年、右衛門七は慟哭して止まな かった。が、彼だけでなく一行の面々にも勇気を与えたに違いないなみの死で あった。 いつの世も母は強し、女性は強し・・・。(2004年11月29日)
閑話:このところ毎朝、前庭に続いてこぢんまりとした庭の掃除をしている。 ハナミズキ(花水木)を庭に一角に植えている。確か交野に家を建てて間もな く植栽したから14、5年は経っている。高さは2メートル超かと思う。 我家の庭で唯一紅葉の美を見せていたこのハナミズキもこの10日ほどで見る見るうちに焦げ茶色に化粧変えしながら葉を散らし出した。 (嗚呼、晩秋の理だなぁー)とこころのなかで思いを巡らせながら落ち葉を箒で掻き集めていたのだ。庭の3分の1ほどに散りばめながら落葉するものだから掻き集めるのも中々大変だ。 でも三宅連峰を借景に紅一点として秋の風情を漂わせてくれたハナミズキであ るから感謝しながらの落ち葉拾いではあったが、ふとこの間のイベントに参加するために登った比叡のお山のことを思い出していた。 酒井雄哉師も対談の中でおっしゃった難行の一つ『掃除地獄』のことを・・・。 『掃除地獄』のことは12年前に上梓した『生生流転』の中で主人公 が悪戦苦闘する様を想像しながら書いた。 (おう、あれからそんなに経つのか)とめくるめく年月の速さも感じたものだ。 もうハナミズキは数えるほどの葉っぱを残すのみとなった。冬の到来を象徴的 に告げる。 今日からもう師走(December=the end ob the year)・・・。 読者の皆さんとともに元気で一年の締めくくりに日々の営みに渇を入れたいと思います。(2004年12月1日)
閑話:師走とともに年賀状を書き始めた。新聞社現役時代は無論、家でも書いたが、仕事の合間を上手く使って書いたことが多かった。それだから一週間も費やしたこともしばしばであった。 でもこのように仕事の合間という芸当ができるのは年の功であって55歳を過ぎてからのことでそれ以前は、年末の休みを使っての作業だから3日配達にずれ込 むこともしばしばであった。 新聞社勤務なるが故の世間様からやや遅れてのご挨拶が常套化していた。定年 の今年の師走になってやっと1日からゆとりをもっての年賀書きに取り組めるよ うになったと思えば、書く前からなにやら感慨深いものが込み上げてくるのだっ た。 でも家で昼から年賀状ともいかないので交野市内の図書館の自習室で書こうと 出掛けたが、結局、宛名だけの14、5枚に終ってしまった。この分だと、やはり 4、5日は通わなければならないと思う。 挨拶も極力、手書きにしたいと思っている。日頃この欄でも筆を持って書かな くちゃーと何度も述べているのだから当然ではある。でもメールのよさも認めざ るを得ない。というのもおよそこれくらいの枚数になるだろうと買い込んだ年賀 はがきではあるが、ぴったり賀状を送る人数と合致するとは限らない。 以前は足らなくなると年賀はがきを買い足していたのだが、今回はメール送信 できる方にはメール賀状にするかと今から思っている。ともかく師走は年賀状書 きで始まった。(2004年12月1日)
閑話:過日この欄でも述べたが、今、私は『生きた経済学』を学ぼうと日本経済新聞を中心に読み込み作業を始めた。現役のころは浅くても幅広い知識が要求さ れたから経済に到っては、大学時代に得た基礎的な経済学のルールを思い出しな がら仕事レベルの事柄に対応していただけであった。 私は学園で経済学を専攻したのだという自負すら長年の間、忘れていたような気がする。むしろ関心を深めたのは、文学や宗教、哲学であった。でいま何故、 経済かというと、やはりこの世の中、市場経済で成り立っているなと定年後、ゆ とりができてから改めて思った次第である。 (ま、いいじゃない。還暦という赤ちゃん帰りの節目に経済学を学ぶ意義を改 めて思い出したのは、なにかのご縁・・・)と自分でもこの事実に対して不思議 に思っている。 まず証券欄から読み、それから産業記事、一面のマクロ経済と進むのだ。少しずつではあるが、現役時代に比べて記事を読む問題意識が深まりつつあると感じている今日この頃である。(2004年12月2日)
閑話:日本経済新聞夕刊の12月2日付の芸能・カルチャー欄のプロムナード「新聞、世界に開いた窓」(石田衣良さん)の文章を読んで思わず「同感だなぁー」 と頷きながら読んだ。 氏によると、大学3年のときから新聞をきちっと読むようになったそうだ。私 もほぼ同じころ新聞をくまなく読んでいた。それも氏とご同様に日本経済新聞で あった。 1年次、遊びまくった挙句、試験の平均点が76点そこそこでさすがにこれで は、ろくに就職ができんぞ、といたく反省したのだ。教養課程でこの点であるか ら、内心臍を噛んだ。友達にそれとなく訊くと、教養課程であるから高校の延長のようなものだから90点代の連中もかなり多いという話だった。 が、専門課程に入る2年次から大概の連中が点を下げていき優秀な者でも80点代の収まるという薀蓄も訊かされものだ。そこで私は「よっしゃ、ではこれから 経済の勉強をして80点代に乗せてやる」と決心した。 となると専門の経済の科目で80点をかなり上回る点を取り続けなければ達成は おぼつかない。そう思っていたら2年次から急に経済に興味を覚え出した。その 勢いで日経を読み出したのだ。試験前の約1カ月を勉強期間と設定して15科目な ら1科目に2日充てることにした。 クラブ活動中心の学園生活であったから、大教室での授業にはあまり出なかっ たがその方法で初期の目標は3、4年次に完全に達成した。 その際、役に立ったのが日経の読み込みであった。科目によって異なるが、新 聞で得た最新の経済実体などをそれとなく回答の中にはめ込んで書いた。それが 教授の皆さんに受けたのか、専門科目では予想以上にかなりいい点をいただい た。 4年次には日経の見出しだけ見ておよそこんなことが書かれているのだろうと か、この記事はこうした立場の方々に有利に働くのではないかなどの私なりに判 断を下せるようになっていた。 実際、日経に入ってからは、先日書いたように経済にあまり興味を示さなく なった。その反省から生きた経済を学び直そうと決めた次第だ。 石田さんは熟読後、半年で様々な事象が経済全体に与える強弱プラスマイナス のインパクトがおぼろげながら、理解できるようになったと書かれている。まさ に生きた経済学であろう。 氏の文を読んで再び高感度な問題意識を持って経済を学び直そうとしている私には大きな励みの一つになった。(2004年12月3日)
閑話:『最後の忠臣蔵』を見た。討ち入りの前夜、逐電したと伝えられる瀬尾孫左衛門の人間的な生き様がよく描かれていて見応えがあった。 瀬尾孫左衛門の妹、篠と寺坂吉右衛門が綾なす恋物語を織り交ぜながら今回の ドラマでは孫左衛門がクローズアップされた。彼は討ち入り前に内蔵助に呼ばれ、京に残した愛人可留(かる)が身ごもっているのが不憫(ふびん)でならな いので助けてやってくれと懇願されたのだ。 孫左衛門はその命に従い可留の下に。可留は内蔵助の娘、可音(かね)を産ん で間もなく産後の肥立ちが悪く逝った。その後、孫左衛門は可音を懸命に育て る。幸い尼僧の助けを借りることができ、可音はすくすくと育つ。 そんなところにかねて探しあぐねていた寺坂がやってくる。寺坂は固く口外す るなと内蔵助に言われていたが、寺坂の懇願にほだされて内幕を明かす。孫左衛 門の人間臭さがよく出ていて視聴者を惹き付けた筈だ。 「いかに主人の大石様のこととは言え、恨みに思ったことがあった。でもな、 可留さんがいまわの際に言ったことを覚えている。可音のことを宜しく頼む。旦 那様には悪いが町屋(商家)に嫁がせてくださいとな」(著者要約)。 このことは、篠が幾度となく寺阪に詰め寄ったこととも符号し、ドラマに奥行 きを持たせた。 「武士(お侍)は卑怯です。何でそんなに主君のために尽くさなければならな いのですか。私達には愛が育たないのですか」(同)。 現代にも通じる世の不条理を問い掛けていると思った。(2004年12月4日)
新選組関連=いよいよドラマ『新選組』も最終回を残すのみとなった。今回、再 起を期す近藤勇のこころは微妙に揺れていたところが、映像全体に漂っていて思 わず引き込まれるシーンがあり、存分に楽しめた。 「周平、もう我々の時代は去った。お前のような学問好きな者が大きな働きを するような世の中になる」という勇の表情が象徴していた。官軍の屯所に身分取 り調べ要請に応じ、出掛ける前に勇は複雑な思いを抱きながら言い放った。 今回は勇の養子になった周平について記す。彼は備中松山藩士・谷三治郎供行 の三男。文久3年(1863)ごろ新選組に入隊し、近藤に嘱望されたが、ドラマで の設定のようにどちらかというと剣の道に生きるには軟弱すぎたようだ。 維新後、一時期、大阪府警に職を得たという説もあるが、近藤に期待されたよう な大きな働きをしたという記録は残っていない。(2004年12月5日)
閑話:昨日(12月6日)は大学時代のESSの仲間、A君と30何年振りに大阪・ 梅田で愉しく飲み話しまくった。忘年会であった。夕方、5時過ぎから閉店の9時 半までの4時間があっという間に過ぎた。彼は私のHPを読んでいてくれてその 感想なども語ってくれたが、話はもっぱらクラブ活動の「我らの青春時代」のこ とが全体の7割方を占めた。 私は彼と話しながらやはり、青春というのは素晴らしいとつくづく思ったもの だった。 何の打算もなく団結と友情の絆の中で一つの組織を守り、後輩に受け継いでい く。10月初めにはESSの4年(43年から40年卒)の合同の同窓会に参加、往時 の大学時代を思い出し、感慨深かった。 が、昨夜のA君との2人だけの「忘年会」は、クラブ活動での仲間の苦労話や 淡くも切ない恋物語の数々などが話題になった。彼は重責の会計を担当し、裏方 で支えていた。 私は会員約700人の長、プレジデント(委員長)を仰せつかったが、怠ける ときは怠け、ここぞという時は踏ん張った記憶が彼との話の中でとめどなく鮮明 に蘇ってきた。でも様々な仲間に支えられていたのだとの思いも改めて強くした。 世間に出でからの憂きこと(無論愉しこともあったが・・・)も忘却の彼方に 過ぎ行き、この4時間は、互いに還暦の秋にいながら、互いに20歳ころのそれぞ れの私どもが語り合っていた。まさに至福のひと時であった。(2004年12月7日)
閑話;師走の日々は駆け足のように過ぎ行く・・・。もう新年まで20余日。テレ ビや新聞でも一年を振り返るような話題が報道されだした。む〜、む〜、えらい 年であった。 世界に目をやると、様々なアクシデントが次々と起こった。いちいち取り上げ るのは賢明な読者諸氏には、またぞろ何か、と言われそうなのでこの際、触れな い。この国を背負ってたつ政治家諸氏に期待したい。 私が一足速く迎えた還暦を戦後の日本も来年は還暦を迎える。この欄でも一度 書いたと思うが、私は昭和27年4月に小学校に入学した。入学して間もなくの朝 の朝礼で校長が話したことを今でも鮮明に記憶している。 「本日をもって日本国は独立しました」 私は一体なんじゃらほいと怪訝な面持ちのまま帰宅、伯父に訊いてあっそうかと 納得したものだ。4月28日のことである。この日、対日講和条約・日米安保保障 条約が発効、GHQが廃止されたのだ。 伯父の説明にすぐ納得できたのは、小学校に上がるまでは、家の前の県道を米 兵が乗ったジープが行き来していたのを度々目にしていたからである。 が、私達の小学校時代は、岡山の田舎で過ごしたこともあり、食糧難に直面す ることはなくそれは、それは牧歌的な雰囲気の中で少年前期を過ごしたものだ。 でもそれが一変したのは中学生になってからだ。このあたりのことは『交野探訪』や『如来が弁護してござる』にも書き込んでいるので参照していただきたい。 さて12月7日の夕刊各紙で日本の15歳の生徒の学力が大幅に低下したという報 道があった。OECD調査であるが、その理由を多角的に検討しなければならな いことはいうまでもないが、私個人の見解で言えば、学力向上策がいたずらなお 受験戦争に直結するようになることだけは、もうよしにしてほしいと思うのだ。 人間の格付けは社会的通念でいうところのやれ算数、やれ英語などの成績でな されるべきでないということである。最近、勝ち組、負け組とかいうことばが流 行っているようだが、どんな基準でいうのだろうか。この一年を振り返り、また 還暦を迎える戦後の日本の足跡をこころしながら世代を超えて真摯に熟考したいものだ。(2004年12月7日)
閑話:NHKのドラマ『わかば』を11月ごろから食い入るように見続けている。 これまでのストーリーもおよそだが理解できた。 ミステリータッチでしかもユーモラスも含ませながら綾なすドラマ展開は面白 いこと限りない。主人公のわかばの演技も周囲のベテラン俳優の支えもあり、見事な出来栄えである。 あの阪神大震災から10年、今年の中越大地震の惨禍も生々しい中でのドラマで ある。震災で亡くなったとされる建築家の父の意思を継ごうと健気に頑張る彼女 の姿は、両震災の被災者のこころを癒し、また励ますに違いない。 そこで今日は、父と瓜二つの木之下という中年男を演じる内藤剛志について触 れたい。内藤のドラマでの存在感溢れる演技が光っているのはいうまでもない が、彼が先日、NHKのトーク番組に出演し、語った内容が印象的であった。 内藤は、さりげなく「わかば」のピーアールを会話の中に挟み、渋い顔を微笑 ましながら司会者の求めに応じて次のようなことを言った。座右の銘は何です か?との問いであった。 『手考足想』ですと自ら揮毫したものを掲げた。私はすぐ、この禅語風の語彙 の意味が理解できた。氏の説明を訊いてなるほどと思いつつ、ご本人のこれまで の俳優業の研鑽の跡が染込んでいるなと納得した。 氏曰く「頭であれこれ考えるより、まず手足を動かし、その行動の積み重ねが 職人芸を磨く。私は俳優も職人だと思っています」(著者要約) む、む、む、これはたいしたものだと氏を見直した次第。さらに氏が披瀝した うちの次の箴言にもこころ打たれた。 「家庭円満の秘訣はチームワーク。子供は後から来た後輩と思えばいい」と。 これにもまいった、まいったという次第である。彼はこれからのドラマ展開の キーマンでもある。どんな結末になるのか楽しみである。(2004年12月8日)
閑話:朝日新聞9日付の社説、『学力低下』−いまこそ日本語を−。興味深く読 み参考になった。 東京都世田谷区は、日本語で深く考え表現できる子どもを育てようと、「日本 語特区」を国に提案する計画を進めているそうだ。これが実現できることを期待 してやまない。 確かに日本語の読解力がなければ数学や物理など理数系の科目も向上しない。 さらに言うならば、英語をはじめ他の外国語習得も日本語表現の基礎がしっかり してこそ学びやすいことは自明の理である。 ゆとり教育の弊害が顕著に現れたという見方も当然だろうが、私の見解はその 前の暗記、詰め込み主義、受験一本やりの教育にも責任の一端があると思えてな らない。 従って戦後教育の全般的見直しから始まらないと、今後の正鵠を得た教育システムは構築できないと思う。漢字一つをとっても我々の多くは親世代、祖父母世 代と比べて書けないし、また読めないと悲しいかな、私自身が認めているのである。 この欄に何度も登場してもらった漢字哲学者の白川静先生のことばがまた蘇ってきた。 「木下さん、常用漢字だけで我国の数々の古典が読めますかね。読めないとい うことは、それだけ日本人のパワーが削がれていることなのですな」 英語など外国語を駆使して日本の古(いにしえ)からの歴史を外国で開陳する ような若者こそ未来の日本を真に背負い得る人材であろう。 と同時に個性を重んじる教育も同じ価値をもって進められなければならない。 教育とはいかにあるべきかを戦後日本の60年(還暦)を迎える今こそ真摯に考 察、新たな取り組みが問われていると言えそうだ。(2004年12月9日)
新選組関連=1年にわたるドラマ新選組が12月12日(日曜日)に成功裏のうちに幕を閉じた。幕末の6年間にわたり京都を舞台に「武士以上の武士」になることを目標に最後まで己の志を貫いた近藤勇率いるドラマ、新選組は現代の今にも大きな問いかけを残した。 近藤勇は散っていった志士らの怨念を幕府に成り代わり、自ら背負おうとしているというドラマ設定は彼の生き様を象徴しているようであった。 「そう、近藤は最後の武士であった」(著者要約)と勝海舟に言わせたのも効果的であった。 が、その最後の武士も武士らしく切腹ではなく斬首刑であった。いつの世にも通じる不条理さも浮き彫りになった。 その対照を視聴者に改めて認識させたのもドラマとしての訴求効果は大きかった。 「切腹であろうが、斬首であろうが、どう生きたかである」と海舟は勇を讃える。 消え去る運命にあった幕府にとってもこれから新政府をつくる薩長土肥側にも近藤の死は魂鎮めになったのかもしれない。 勇は享年35歳であった。(2004年12月12日)
閑話:民放でドラマ「相田みつを」を見た。ドラマで見た本は、私も購入した。幾度か知り合いなどに紹介したこともあって懐かしかった。 が、その本が上梓されるまでかのような氏のご苦心があったことは始めて知った。朴訥、愚直そのものの相田さんがドラマの中で遺憾なく発揮されていて数々の詩が生み出される背景が手に取るように理解できた。 その本のタイトルは『にんげだもの』である。1984年刊行、爆発的な人気を得た。 人間だから時にはへまや失敗もしでかす。「いいじゃない、それを糧としてまた歩み出せばいんだから」という意味だろうと私は、当時思ったものだ。 氏は根っからの詩人であったような気がする。そして書家でもある。ドラマでも生活苦に呻吟する愚直な氏の姿が印象的であった。また氏を支え続けた奥さんも氏と同じぐらい立派である。 氏はこの本の上梓の7年後、往く。享年67歳だった。 今、改めて思ったのだが、相田さんは宗教性に溢れた御仁だとも・・・。 (2004年12月13日)
閑話:民放の『忠臣蔵』の最終回、討ち入り場面を見た。折しも、14日未明(午前4時ごろ)を控えた前夜だ。 今から約300年前の武士や庶民は、この赤穂浪士の吉良邸討ち入りをどのように受け止めたのだろうかと思いを馳せた。私は約10年前、『生生流転』という先祖を素材に小説を上梓したが、この折も赤穂浪士の討ち入りの波紋を取り入れた。 元禄年間の備前地域がこの小説の主たる舞台であったから当然といえば、当然のことであるが・・・。赤穂と隣接しているのだから、一部の知識階級ではこの話題で持ちきりになったと書いた記憶がある。 この日の討ち入りシーンは、オーソドックスで私が少年のころ読んだり、見たりした漫画や映画を踏襲したものだった。でもこと『忠臣蔵』に関する限り、何回見ても何がしかの形で琴線に触れるのだ。 時代を超えて人々を魅了して止まないのは、俗世の中で鬱積したやり場のない憤懣などを一瞬でも涙とともに掻き消してくれる格好のカタルシスになるからだろう。しかし、この事件は、あまりにも日本的文化の中で起きたものであった。 日本文化に染み渡った儒教などで育まれた武士魂が一挙に弾けた一瞬であったと言えそうだ。(2004年12月14日)
閑話:『その時歴史が動いたそれからの新選組・土方歳三、函館に死す』を興味深く見た。ドラマ新選組が終わったが、その余韻が私のこころの中に濃密に残っていたのかドラマの最終版を見ているようで勉強にもなった。 土方が榎本武揚の片腕として新政府軍と最後の戦いに臨んだという話はよく知られていることだが、改めて土方の胸の内に想いを馳せることができた。 「このまま、幕府軍が新政府軍と和睦でもしようなら、わしは近藤とあの世で会わす顔がない」(著者要約)と語ったらしい。 この一言が、彼を駆り立てた原動力の一面を端的に物語っているように思えた。時代の風は薩長を中心とした新政府軍に完全に吹いていた。 が、土方は近藤に続き「最後の武士」として最北の北海道・箱館(函館)の地でフランス式の洋式軍隊を指揮しながら獅子奮迅の働きをした。戦いむなしく一発の銃弾の前に倒れた。享年が近藤と同じ35歳であった。 時代がどう変わろうと己の意志を頑なまで持ち続けた土方は、これからも漢(おとこ)としての生き様の美学を語って止まないだろう。(2004年12月15日)
閑話:今日(12月16日)、地元の税務署に出向いて来年の確定申告の要領について学んできた。親切に教えてもらった。その前に税金関連のことがらをネットで勉強しようと、アットグランス(ちょっと覗く)したが、よく分からないので出向くことにしたのであった。 取材記者時代をふと思い出したのだが、記者会見の席に出された資料は概してお役所さん用語で氾濫している場合が多く質疑の折、説明を求めたものだ。ま、それを分かりやすくして新聞記事にするのが、記者の仕事の一つであるから当然である。 もし、記者顔負けの文章が書かれていたらこちらの仕事がなくなってしまうなぁーと思ったものだ。 読者の皆さんにお伝えしよう。もちろん、私のように新聞社という会社組織にぶら下がっていて定年した諸氏で全く手続きの仕方を知らない方にではあるが・・・。 所定の用紙に書き込むのはちょっと見には難しい。最初の申告では、必要書類と印鑑を持っていけば書き方を教えてもらえるそうだ。 そこで今日は、必要書類は何と何かを聞いてきたという次第。 因みに確定申告は来年2月16日から3月15日です。(2004年12月16日)
高松宮妃喜久子さまが18日午前4時24分、ご逝去された。92歳だった。 昭和天皇の弟宮、故高松宮宣仁さまの妃殿下。 喜久子さまは江戸幕府最後の将軍となった15代将軍・徳川慶喜公のお孫さん。 宮を支えられるとともに医療、福祉など様々な分野でご活躍された。 小泉首相は同日、内閣総理大臣の謹話を発表、哀悼の意を表した。 (謹話=謹んで話すことの意。皇室に関することを発表するときに用いる語)
閑話:朝日新聞朝刊、12月18日付の別刷り「be on Saturday」のことばの旅人で明治の親鸞ともいわれた「清沢満之」が取り上げられていたので興味深く読んだ。私の小説『如来が弁護してござる 暁烏敏「小説」満之・涙骨・・・』で何回ともなく敏師の師匠である満之師のことばを紹介した。 この記事のことばは「死もまた我等なり」であった。私は「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に、此現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。」で始まる絶対他力の大道を主としてこの小説で取り上げた。 やや哲学的響きのある表現ではあるが、自己に関するすべてのこと(身もこころ)も如来に委ね切るという「南無阿弥陀仏」のことである。別の表現でいうと、こころの脱概念化、脱知性化であると思う。 でも私が満之師の最も好きな箴言は次のことばである。 「如来の仕事を盗むが故に苦悶離れざるなり」 (2004年12月19日)
閑話:先日、空手のテレビ放映を見た。型を披露する女子の部の試合で優勝した選手がインタビューで語ったことが印象に残ったので記す。 「今後とも試合のときは練習のように、練習のときは試合のように日々研鑽していきたい」(著者要約) このことばの持つ重みを暫し考えたものだ。 素人ながら彼女の技を見ていてしばしば、む、凄いと感じ入ったものだ。彼女の繰り出す様々な技は、かの『五輪書』を書いた武蔵のスピリッツを体現しているかのようにさえ感じた。 どんな分野でも大をなした人の語ることは、古人の達人の心境にも通じるのだろう。 また技能一筋に磨きをかけ、己を練磨する人はいつの世でも鏡となる。 女武蔵に思わず拍手。(2004年12月20日)
閑話:今日21日は冬至であった。大阪港の日出は7時2分、日入は16時52分。昼間が一年のうちでもっとも短い。 24節季の一つで太陽の黄経が270度に達した時をいう。 大阪管区気象台によると、近畿地方は平年より軒並み3−4度高く11月中旬並みであった。23日以降は北日本から寒気が降りてくるため、寒さが増し、本格的な冬を迎えそうだ。 我が家でも例年のように自宅の風呂に柚子(ゆず)を浮かべ無病息災を願いながらゆったりと、寛ぎたいものだ。 柚子はミカン科の常緑小高木で中国の長江上流が原産といわれている。初夏には白い花を咲かす。(2004年12月21日)
閑話:年賀状を書きに地元の図書館の読書室(自習室)に出掛けた。家で書けばいいのだが、ある程度の緊張感を伴わないと書けないと思ったからだ。一応、宛先の住所はあらかた書き終えているが、今日は添え書きに終始した。 年賀の決まり文句はパソコンで打っているのでそれでOKとしてもいいのかも知れない。が、気心の知れた親類は別にして何かコメントを書かないと味気ないと思っていたからだ。 でも書きながら思ったものだ。本来なら一年の終わり、大晦日に一年を万感の思いで振り返り、無事過ごせたという感謝で溢れ、張り詰めた気持ちで書くのが本来の姿ではないかと思った。もう年賀状の受付が始まっている。 早く出せば相手先に元旦に着くのだろうが、自分が、また相手が大晦日に書き投函、4日ごろになってもこころがこもっていて本来の年賀になるのではないかと感じたのだが如何であろうか。(2004年12月22日)
閑話:きよしこの夜 星は光り 救いの御子は 御母の胸に ねむりたもう 夢やすく きよしこの夜 御子の笑みに めぐみの御世の 朝(あした)の光 輝けり ほがらかに 私はかみがた活性化研究会(会長井澤寿治氏)が主宰する恒例のクリスマスパーティーに参加した。様々なパホーマンスやイベントが行われ、楽しいひと時をすごした。 とりわけ聖夜−きよしこのよる−を皆で唱和したときは、ノーブルなこころの安らぎを覚えたものだ。私はキリスト教信者でもないが、この聖夜の調べには何かしら文化を越えた普遍的な感謝に満ち溢れた癒しのこころが潜んでいるのではないかと思う。 今日(24日)はChristmas Eve、25日はクリスマス(Christmas)=キリストの降誕を祝う祭り。日本では太陽の新生を祝う冬至祭と結びついたという説もある。 (パーティーに先立ち、井澤会長のセレスタ国際文化賞の受賞式が行われた。氏の長年にわたる上方文化振興が評価された)。 (2004年12月24日)
閑話:日本語に関するNHKのテレビ番組をなにげなく見た。講師は野球人などスポーツ選手を指導している方のようだったが、やはり日本語の持つ深みを改めて思ったものだ。 この日は、『禅語』が主として取り上げられていた。ご自身でも座禅を組まれたという話だった。巨人の元監督の川上さんの好きなことばも取り上げられていた。 『氷を溶かして水となす』(著者要約)。氏が川上さんから聞いた話として意味はおよそ次のようだったと思う。 「選手時代の私は氷だった。それを溶かした水にならなければ、多くの選手を引っ張っていくことができない」 多分、水がさらさらと流れるようにそんな柔軟性を己が持たなければならないと悟られたのではないかと思った。 氏が好きなことばは『一日一生』であり、指導している選手で着実に力をつけてきている選手が好んでいる禅語は『前後裁断』という。 『一日一生』とも通じることばであるが、過去の桎梏や、未来に対する不安などを断ち切り『今に生き切る』ということであろう。 確かにこうした禅語を座右の銘にしていると、とかく惰性に流れがちな日常生活を生き生きとしたものにするだろう。(2004年12月25日)
閑話:今、ドラマ新選組の総集編を見ながらキーを叩いています。この1年、世界でまた日本で筋の通らない不条理な悲しい出来事、私のような凡人には理解の及ばない不透明感が漂った社会現象があちこちに散見された。 そんな中でドラマ新選組を率いる近藤勇や近藤を支えて止まなかった土方歳三や他の面々の活躍は、そんな世相の中にあって一服の清涼剤であった。明快に堂々と生きることの素晴らしさを勇が茶の間に訴え続けたのは澱んだ世の中に渇を入れたと思った。 今、1部を見たところであるが、この後もじっくり改めて味わいたいと思っている。スポーツでは何といっても大リーグのイチロー選手の活躍であろう。 天才イチローの愛する言葉は『継続は力なり』だという。彼の偉業の裏には余人では想像できないような努力と研鑽の跡があったのだ。 歌謡界では氷川きよしの活躍が光った。彼の抜群の歌唱力だけでなく彼のトークの中で自然と感じる素直さである。人気が上昇するのも当然であろう。 読者の皆さんも新選組の総集編を見られると思いますが、ドラマの中で様々な登場人物を改めて観察してください。ストリーもさることながら登場人物の個性に迫るのも一興かと思います。 ドラマとは言え、また時代を異にしてはいても今の時代の面々にダブらせて感じ取ることができたり、人間として最低限不可欠な要素とは何かなどを想像したりできます。 イチローや氷川きよしのような性格を持った個性を発見できるかもしれません。(2004年12月26日)
閑話:年の瀬もいよいよ差し迫ってきた。今日は御用納めの28日。官庁をはじめ民間の職場も仕事の総仕上げを行い、来年の御用始めに向けてこころを新たにする。 景気は内閣府と財務省が27日発表した10-12月期の法人企業景気予測調査によると、踊り場との認識する企業が増えているが、先行きについては持ち直すとの強気の判断が多いとのことだが実際にそうあってほしいと思う。 しかし、今年は台風、地震など災害の極めて多い歳であった。被災者の方々の多くは、まだ災禍の傷が癒えないまま年を越される。災い転じて福となすと来年の酉年に期待を掛けたい。 昨日、イチロー選手や氷川きよしさんを輝ける人物として取り上げたが、誰にでもほかの人が真似のできないような長所を持っているものだ。 一年の締め括りに己を反省し、新年に開花させるようと願うのはいうまでもないが、どうでしょう、こころのなかで自分自身のいいところ、よかったことを見つけ出し、それをそっと抱いて感謝しつつ新たな年を迎えるのもいいのではないでしょうか。 では読者の皆さん、良いお年をお迎えください。(2004年12月28日)
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