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ある日あの時

 

閑話:日曜出勤だったので「武蔵」を観ることができなかった。そこで今日(7月1日)に撮り置いていたビデオで。ドラマ全体に勢いというか気合を感じるこ とができたというのが感想の第一。この勢いとか気合(適当な表現でないかもし れないが・・・)は歌謡番組でも同じであるということは前にもこの欄で述べ た。武蔵は美作(岡山)の幼馴染みの本位田又八とお通にぜひ会わねばと歩を進 めていたが、やっと江戸に着いた。伊達政宗や家康側近の柳生宗矩に会った様子 も人世(ひとよ)の生き方の在りようというか、神髄を突いていて視聴者を思わ ず引き込む。「これからは家康殿の天下、わしは国許の仙台に城を築いたが、天 守閣は造らなかった。その意味が判るか武蔵!家康殿は、誰も信じておらん、特 にこの俺にはなぁー。わしは、秀吉殿にも疑念を抱かれたこともあるが、今日ま で生き抜いてきた。どうだ、わしに仕官しないか。否といわば、命はない!」 (著者要約)と言い切った刹那、武蔵を目掛けて切り付けた。さっと身を翻し、 刃を避けた武蔵。「む、やるな、武蔵、で仕官は!」「私は、仕官を求めて江戸 に来たのではありません。幼馴染みの友(又八)を探しに参ったのです」「む、 命懸けの返答か。よいわ、気が向いたら来い、もっと広い世界を見せてやる」 (同)と政宗。 次に武蔵は家康の側近になっている柳生石舟斎の息子、宗矩に会う。政宗と同じ ように声望が高くなっている武蔵に会おうと請われてのことだった。「父上(石 舟斎)がそなたとわしは似ているところがある・・・。天に向かって真っ直ぐに 伸びようとしている。強風が吹きつけようが雨降ろうとも曲げない、曲がらな い・・・。じゃがな、わしは変わった。権勢の中で生きていくためには曲がりも すれば、首も垂れよう。どうだ、武蔵、仕官しないか。指南役の道は拓けてくる ぞ!」「(城の石垣にはなれぬ・・・剣の奥儀を究めるのみ・・・)。私には会 いたい幼馴染み(又八、お通)がおるのです」(同)。武蔵は宗矩の所望も拒絶 して去るのだった。 一方の又八。長旅で憔悴し切ってい るお通を持ち前の優しさで看護していた。沢庵が武蔵に言った。「強いだけが武 士ではない・・・。又八のこころを見習え」と。このことがやっと武蔵なりに判 りかけてきたのだ。江戸に着いて暫くして自ら又八の似顔絵を描いて懸命に探す 武蔵の姿があった・・・。次回は2人、いや、お通と3人が会うそうだ。私は思っ た。又八になれない武蔵。武蔵になれない又八。だが、お互いに相手の良さを認 め合う姿勢はいい。原作者、吉川さんの独自の視点が見事に表現されていて興味 深く観た。また家康を狙う男忍者と女忍者の戦いの場面も見応えがあった。(2003 年7月1日)

 

閑話;前宣伝くさい感じがしないまでもないが、今、「交野物語」(仮称)のゲラ直し作業に暇を見つけては取り組んでいる。無論、新聞社勤務の傍らである。 僅か5分間程度のときもあるが、休みの日でも私は長くて1時間が限度である。長時間かけるのは、性分として苦手である。ちょうど私好みの時間は、20分ぐらいである。で、今日、行ったのは、書いていた段階から気になっていた明恵上人 (1173−1232年)の月の輝きを見て明恵上人が、こころに感じたまま、歌にしたあの、「あかあかや・・・」の正確な歌文を調べることであった。書いていると きは、上人も分別で一ひねりしようとかいう以前の感じたままをお歌にされたと、思っていたが、いざ本にするとなると、そうは、いかないからだ。さて、上人は月光がことのほか美しく感じれ、あか、あか、を何回、詠まれたかであっ た。正確には、以下のとおりである。 <あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや>。上人は恐らく座禅を組みながら、ふと中天に光り輝く真ん丸くて明るいお月さんに感嘆、こころに浮かんだままを表現されたのだ。従って我々もこの歌になんら分析や分別を加えることなく、調べのごとく詠(うたい)、詠むことであると、私なりに思うのだが・・・。ついでだが、明恵上人は光明真言(オンアボキャべロシャノマカモダ ラマニハンドマジンバラハラハリタヤウン>を好み、弘(ひろ)められた方でも ある。光明真言は、一切の罪障を取り除いてくださるという真言と聞いている。(2003年7月7日)

 

閑話:「武蔵」が泣いた。又八の変わらぬ友情に・・・。確か、昔、むかし、吉川さんの原作を読んだ記憶らしきものがある・・・・。今、家の書棚には吉川さんの親鸞があることは確認しているのだが、武蔵の原作があるかどうか、探す暇 がない。ビデオ撮りの「武蔵」をたまたま、息子が一緒に見ていて「親父、なん なら貸したるぜ!」という。うる覚えの中で想像するのだが、脚色、演出も上手いのではと、今回ばかしは、思った。今、彼から吉川さんの小説を借りても、実際、読む暇がないのだから仕方がない。とまれ、ドラマ自体を愉しむことにする。今回の描写では、又八の偉さを感じた。最近、こんな心優しき漢(おとこ) がおるだろうか。武蔵になれない又八だが、それで十分だと思った。武蔵も又八 の優しさの中に潜む漢らしさに気付き出した。60歳から武道の書「五輪書」を書 き始める晩年の武蔵・・・。このドラマでは、晩年の武蔵をどう描くのか今から 楽しみである。今回、武蔵が泣いたのは、武蔵自身で作った食事をお通が食べてくれた時だ。「疲れ切っているお通を癒し、もとのお通に戻すのは、お前だ」 (著者要約)と看護の役を又八から譲られた武蔵だったからだ。お通は、武蔵の こころからの看護によって次第にかつてのお通に戻り出した。これは、剣の強さ だけを求め続けてきた武蔵のこころのなかに優しさも宿り出す瞬間でもある。ま た佐々木小次郎を巡る二人の女性のこころの葛藤と友情の描写もお見事というし かないほど素晴らしかった。前回に続き見ごたえのあるドラマ展開に暫し酔っ た。(2003年7月9日)

 

閑話:江戸っ子だい!宵越の金は持たねぇー。喧嘩だぞー。火事だ。そら火消しがやって来た。私は深夜、書斎の戸を開け放ち、リビングのテレビから流れてくる長屋暮らしの庶民の生活のにおいとテンポの速い語りを聞きながらキーを叩いている・・・。長屋同士のお付き 合いの親密さと生活の智恵らしきものが流れてくる。と、同時に私は上方のほう の生活を思い描くのだ。大坂弁のやわらかいもの言いのしかた。そうとちゃいますやろか、京都弁のそうどすなぁー、まぁ、当時の三大都市は江戸、大坂、京都だろう。言葉だけとって考えると、江戸は言葉が速く、上方地域は、ゆっくりと しているようだ。話は進むというか、時代がぐっと下って戦後の高度成長期に。 全国各地から、東京に、東京にと集まった。金の卵の集団就職組みの皆さん。勉強するなら東京と学生諸氏も。無論、大阪など関西地域に来た若者もいるだろうが、圧倒的に東京が多かろう。各地の訛り言葉とともに・・・。よく聞いた話だが、東京弁、標準語に馴染めず苦労したとか、訛を蔑まれたとか。そうした中で詩人の寺山修司さんが白黒時代のテレビに出られて語る青森、津軽弁まじりの話が大好きだった。感性が人並 みすぐれていて語ることすべてが文学だなぁーと感心した大学時代を想い出した。私は大学時代、岡山弁丸出しで通した。英語クラブに属していて英語以外 は「おえりゃせんのう・・・」とか云々だ。自分でいうのもなんだが、寺山さんのような文学的語りにはほど遠かったが、仲間内では結構受けた記憶がある。 社会、私の場合、新聞社に入ってから、いつの間にか、標準語らしきものに変容 したような気がしないまでもない。

  江戸の話から飛躍に飛躍したようだが、戦後に流行った何々しちゃってねとか云々はもう御免といいたい。これは私の感性でいうのだが・・・。さすがにNHKさん、今はお国言葉の大切さを時折の番組で流され出した。言葉に優劣はない。今こそ、お国言葉を話そうではないか。それだけでも画一されたような時代状況、文化的状況を打ち破ることにつながる。話は進むが「お国言葉同窓会」が生れたっていいではないか。ぼっけい(大変)意義があるのでは・・・。(2003年7月11日)

 

閑話:また交野物語(仮称)に新たに加えなければならないところが見つかっ た。和久田さんにお礼の電話だったか、新たにお尋ねしたときだったか、おっ しゃったことを思い出した。伊丹地方(兵庫県)を鎌倉時代より治めていた伊丹 一族の集落が三宅山連峰の山中にあったのだ。「傍示の里」と呼ばれている。天正2年(1574年)荒木村重に伊丹城を明け渡し、その臣下になったようだ。ところが、この村重、信長に謀反ありと疑われ、信長軍に攻められる。城は炎上、落城の憂き目に。天正6年(1578)城明け渡しからわずか4年後のことであった。まさに戦国の世の倣いであった。伊丹正親ら伊丹一族は各地に離散を余儀なくされ た。その一党の集落が交野にあっというわけだ。亡くなられた郷土史家の奥野平次さんが詳しく書かれておられる。(2003年7月12日)

 

閑話:武蔵は大きく成長した。武蔵のこころ温まる看護によって元の元気に満ち溢れたお通に蘇った。2人は子供相手に文字、習字教える寺子屋を始めるのであった。腕前を磨こうという真摯で不敵な面構えは失せたかのように子供たちの 笑い声、歓声の中で朝から晩まで過ごすという武蔵にとれば、これまで味わった ことのない生活体験だ。お通とともにあるという甘美な生活でもあった。だが、 さすがは武蔵、文字を教えながらも子供たちから何かを得ようとしていた。恐ら く理屈や分別を交えない赤裸々な子供たちの感情、振る舞いなどからであろう。 いわば、無心のこころではなかろうか・・・。こうした折、柳生宗矩を介してか つてやっとの思いで辛勝した奈良の僧、胤舜が武蔵に再度の試合を所望してき た。二代将軍、徳川、秀忠も観覧する試合となった。「むかしの私ではないぞ」 と胤舜が長い棒を突き出すと武蔵も「私もあの時の私ではない」と言い放った。 と、武蔵が構えみせたのは、開眼なった二刀の構えだった。ビュー、ビューと魔術師のごとく繰る出す胤舜の棒術は冴えに冴えた。が、武蔵は2刀の刀でことご とくかわす。向きが変わったところでひょいと一瞬、肩の力を抜いたように私に は思えた。胤舜も虚を突かれたように一瞬、動きが止まった。ダダァーと武蔵は 2刀を巧みに操りながら、体ごと前進、1刀で胤舜の棒を叩き落し片足で棒を踏み 付けるやいなや片方の刀を胤舜の眼前までぐいと突き出した。見事な勝利であっ た。秀忠は大いに喜び、武蔵に言い放った。(続きは次回に)(2003年7月14日)

 

閑話:「どうだ、宗矩に仕えてわしに力を貸してくれんか。武蔵!」(著者要約)、「私には今の生活が、もったいなく、ありがたく存知おります」(同)と 武蔵は応え、秀忠の申し出も断った。柳生兵庫助もその場にいた。武蔵の凄さを目の当たりにして思わず唸った。その晩、宗矩と兵庫助(叔父と甥)は語り合 う。「武蔵は言った。陽は昇り、そして沈む・・・。武蔵は、父上(石舟斎)と 同じことを言った。鳥の声を聞け、とだな」(同、宗矩)「そうでござりました な。叔父上、互いにこころしたいものですな」(同、兵庫助)、「それは、よく 判るが、わしは父上の苦労を傍で見ておった。父のできなかったこと、もっと大 きなことを成し遂げたいのだ」(同)。兵庫助は、柳生真陰流を石舟斎から継ぐことになった旨と石舟斎は体が衰え、病気がちになったことを宗矩らに告げに柳生の里から江戸まで急遽(きゅうきょ)来たのだった。お通にも知らせた。お通 も武蔵もかつて石舟斎にはお世話になり、教えを得た。兵庫助は、お通に武蔵と もども柳生の里に石舟斎を見舞うよう言ったのだが・・・。お通、独りで柳生の 里に向かう。「つかのまの愛」の今回は終わる・・・。今後の展開が楽しみだ。(2003年7月15日)

 

閑話:私は、最近、NHKの宮本武蔵の感想を書いてきた。その理由は、武蔵の 成長過程が、様々な伏線の尾を引きながら見事にドラマ化されているからでもあ る。しかしもう一つのわけをこの際言っておくというか、明らかにしたほうがよ いと思う。私が勤務する新聞社の編集局のある中堅記者(ベテランと言ったほう いいかも)が「木下さん、最近の若者は、生きる目的というか、先行きが不透明 で己のアイデンティティーが判らんところが様々な問題を惹起(じゃっき)して いるのではないでしょうか」と私に何気なく言った。私は、その時は沈黙したよ うな気がする。内心では(その通りやがな!)とこころの内で頷いていた。(武 蔵を見たらいい・・・)とも思った。でそのわけは・・・。一言、武蔵は生きる 目的を巍々(ぎぎ=はっきり)として持っていたからだ。時代が戦国の世かから 徳川幕府の安定期に入ってでもある。無論、武蔵は剣の道、愛の道でも迷い、悩みつつも、己を磨こうという時代を超えた普遍的な命題を頑(かたく)なまでもこ ころの底に焼き付けていたからである。剣の強さでは誰にも負けたくないという こころから、石舟斎や沢庵和尚などに触発されながら「本当の強さとは」に目覚 め、それが彼の根本的な生きる目的に止揚されてきたからである。私は小説「如来が弁護してござる」で人間というものは、如何に学があろうが、知識があろうが、なかろうが・・・、なべて愚かな存在であると語り尽くした。それは石舟斎が語った「武蔵、鳥 の声を聞け!」とも通じるのだ。自然の営み、大いなる命からみれば、実に些細 なことなのである。

 武蔵は、ついに石舟斎のこころが、お通や又八との交流のな かで判った。前回書いた「陽は昇り、そして沈む」 と徳川秀忠、柳生宗矩、兵庫 助の面前で言った。この瞬間、武蔵は、剣の達人だけでなく、人としても達人に なったのだ。二刀流開眼の瞬間でもあった。もともと絵心のあった武蔵が、晩 年、描いた画家顔負けの墨絵の下地が宿ったとも言えるだろう。自然の呼吸に合 わせた剣の道に飛躍した。仏典に阿修羅(あしゅら)という語彙がある。己は正 しい、絶対に正しい、と怒ることである。仏教では、阿修羅を低い地位に置いて いる。人世(ひとよ)の正しいとか、そうでないとかは、相対的な評価に過ぎな いという意味だろうか・・・。武蔵は言った。修羅の道を歩んだと・・・・修羅 が修羅でなくなったところが石舟斎の「鳥の声」なのではなかろうかと思うの だ。このように評論家的にいうのは、実に簡単なことである。凡人たる私など一 生かかってもどだい無理なことは承知している。が、いかなる道、職業に生きよ うと、それが目標である、と若者は無論、中年(壮年)、老年(熟年)、老年に なりとてもこころに刻み込むだけでも素晴らしいことであろう。武蔵は、そんな ことも含めて様々なことに想いを馳せることのできる格好のドラマである。(2003年7月18日)

 

閑話:この連休であるお寺さんが新しい試みを始めたそれは何でしょうというクイズ番組をほんの少し見た。「経を教えるのでしょうか」「人生相談でしょうか」「お寺の鐘を鳴らすのでしょうか」(いずれも著者要約)。む、む、む、はて何であろうかと、私も興味津々で頭を巡らせた。正解は「お寺の鐘を撞木(しゅもく)で撞き、鐘の音を電話で流すことだった」。住職が恐らく檀家の人のリクエストだろうと思ったが、早速、電話依頼が舞い込んだ。「はい、判りました」と言い、ご住職が寺内にある梵鐘まで携帯電話を持って行き、梵鐘を力いっぱい撞き、「では、流します」と携帯電話を。ぐおぉーん、ぐおんー、ごーん、ごーんー、私も比叡山延暦寺に参った時だったと記憶しているが、自分で力いっぱい梵鐘を撞いたことがある。なにやら、こころやすらぐような気がしたものだ。で、今回思ったものだった。人が早口で話す、いやゆっくり話したとしても梵鐘の音の波長のほうがぐーんと、ぐんと長いのだ。山の自然に投げ掛けるような梵鐘の音。それは自然の波長、鼓動に合致しているからだろうか・・・。なにかとせわしげな昨今、梵鐘の音を聞くのも一興ではないかと思ったものだった。(2003年7月22日)

 

閑話:今夜は天神祭の船渡御。24日の宵宮の神事に続く祭りが最高潮に達する。私が勤務する新聞社の関連会社、テレビ大阪が午後7時から約2時間にわたって生中継する。その前、午後2時から天満宮の本殿で祭神の菅原道真公の御神霊を御鳳にお遷し、宮から天神橋までの約4キロを約3000人が陸渡御するのだ。夕方から船渡御が始まる。陸渡御された方々らが幾艘もの船に乗り込み、御神霊を乗せた御鳳輦などを囲みながら供奉船が天神橋から大川を遡っていく。また、飛翔橋から捧拝船が向かえにやってくる。双方合わせて約100隻が揃ったところで水上祭が厳に執り行われるのだ。川面に設営された舞台では、神楽、伝統芸能の数々が披露され、天神さんの囃子が辺りに鳴り響く。両岸からは、篝火が水面を照らし、やがて豪華な仕掛け花火が幾重にも夜空に花開く。「ド、ドーン、パァ、パァー、ド、ドンー」と何発も打ち上がり、祭りムードは一気に高まる。そのたびに歓声が上がり、大阪の夏の到来に浪花っ子は元気づく、活気づく。ライトアップされた大坂城も輝きを増すかのようにくっきり。今日は休日の私。じっくりとテレビで愉しむ。 ちなみに天神祭は、天歴5年(951年)に始まり、疫病退散を願い、民人らが禊(みそぎ)を行った。豊臣秀吉のころ、今日のような形式が整ったようだ。(2003年7月25日)

 

閑話;祭りだ。祭りだ。ワッショイ、ワッショイ、ドドンのドン、ドン。今ごろ は、全国各地で夏祭りが行われている。少年のころ、確か中学1年だった。友達 と自転車を漕いで約30分のところにある瀬戸内のエーゲ海といわれている牛窓海 水浴場に出掛けた記憶が残っている。海辺で写生大会があったからかもしれな い。私は2等賞をいただいた。それはそれなりに嬉しかったのだが、その時の雰 囲気、海辺全体が華やぎ、かつ賑やかであったのでその中に浸ったことのほう が、記憶の底に鮮明に残っているのだ。写生大会と併せて何かの大きなイベント か祭りがあったような気がする。このとき、海水浴はしなかったが、学校では味 わえない開放感というか言い知れぬ躍動感、そう、今の流行(はやり)言葉で言 えば、「元気」をもらって勇んで帰ったのだ。当時は、元気をもらうなどという 言葉遣いはなく、まだ町や村の祭りも辛うじて残っており、子供も青年も大人も 皆こぞって参加して「ハレ」を味わう機会があったのだ。なんて記憶を蘇らせな がら25日夜のテレビ大阪の天神祭を味わった。良かった。愉しんだ。勉強になっ た。 硬軟を織 り交ぜた放映が実に素晴らしかった。氏子さんらしか知らないだろう天満宮の宵 宮の神事の映像。24日午前4時、まだ街は闇に静まっているころ、宮内で厳かに 一番太鼓が鳴り、祭の始まりを告げる。「ド、ド、ド、ド、ド・・・・・・ バァ、バ、バ、バ、バ・・・・・・」と、花火が打ち上がる臨場感が満ち溢れる 中でがらりと場面が変わり、静かな宵宮などの神事の説明が加わる手法は見事 だった。ベテランの福留さんの臨機応変な雰囲気づくりも放映全体の映像効果を 高めた。ギャル神輿の元気で華やいだ宮入も効果満点。中村美津子さんの何度も 夜空に花開く花火を背にした「河内おとこ節」。歌は乗りに乗り、思わず観てい る私も「かわちうまれの、ふ〜うらいぼう・・・」と、思わずハミングに誘い込 まれそうになった。ラストの催し太鼓の華麗で厳かな宮入は、見応えがあった。 祭詣での人々は100万人を超えたそうな。翌、26日、近畿地方は梅雨明けだっ た。さぁー、読者の皆さん、元気で夏を乗り越え、いや、楽しもうではありませ んか。(2003年7月27日)

 

閑話:む、うっかりしていた。家内と買い物に市内のスーパーに買い物に行っ た。その店の前では、うなぎの蒲焼(かばやき)を産地特産のうなぎを4、5人が 汗だくになって手順よく香ばしい匂いとともに焼き上げているではないか。今日 は土用の丑の日なのだと気がついた。夕食の食材などを買い終えてから、帰りし な、「やはり、今夜、食べないと・・・」と思い、買うことにした。で、思った ものだった。小学低学年のころ、家の側(そば)を流れていた川に「すっぽん」 と呼ばれ50センチぐらいの細長い竹製の籠を夜の内に仕掛け、朝早く起床、籠を 引きあげると、うなぎが2、3匹取れていることもあり、思わず、歓声・・・。早速、蒲焼にしてもらい弁当に添えてもらって登校、「これ、今朝、取れたうなぎだぜ!」と自慢げにしたことを思い出した。もう50年も前の話ということにな る。ま、余談はこれくらいにしてうなぎの蒲焼は、ビタミンAを含むなど栄養価 が高く、夏ばて予防に効くと古人が考え付いたものだ。ちなみに土用とは7月20 日ごろから立秋までの1年間で最も暑い時期のことである。(2003年7月27日)

 

閑話:武蔵・・・。「石舟斎遺訓」が今回のタイトルだったのでかなり興味を 持って観た。全体として面白かった。このドラマが好きな人々すべてを満足させ るという意味では、成功した。が、私の個人的好みから、かってなことを述べる と、タイトルの内容に随って石舟斎の遺訓にもう少し、時間を割いてほしかっ た。私は交野物語の中でも書いたが、50年ほど前の村々には、「翁」という存在 がいたことを・・・。その意味で言えば、このドラマの中では、石舟斎は「翁」 に当たろう。武蔵はもちろん、悪党、あかね屋絃三も石舟斎を敬い、一目置くの だ。お通しかり、亜矢という女忍者も父とも祖父とも、慕い、敬服しているの だ。もう一人の翁的役割を演じるのは、沢庵だが、私の好みは、このドラマの中 では、石舟斎である。沢庵は、己の世界から、はみ出そうとする武蔵に驚愕 (きょうがく)の念を抱く時さへある。が、石舟斎は、武蔵を丸ごと包んでしま う大きさがある。柳生の里を戦国の世の修羅場を生き抜きながら掴んだ権力より ももっと大きな世界を・・・。が、息子の一人、宗矩は、剣の道だけでなく権力 を動かす政治に興味を持つ。「鳥の声・・・。川のせせらぎ・・・」と呟くシー ンは成る程と思わせたが、ドラマの中の「翁」にもう少し語らせてもらいたかっ た。ま、これはあくまでも個人的な趣味であり、ドラマ性という観点では秀逸で あったとも言えるだろう。(2003年7月29日)

 

閑話:書評の欄に宮坂宥勝先生の御本を紹介している。宮坂先生は密教の大家で あり、しかも智積院(京都)の最高位の方でもある。私も1度、長野県岡谷市の 持ち寺である照光寺を訪ねお会いしお話を伺ったことがある。御自分でお書 きになった本を下さった。なんで突然に宮坂先生と思われる読者の方々も多いだろう。お会いしてからもう数年がたった。御子息でその時もう住職をされていた宥 洪さんにもお会いした。それ以前から密教については、私の最初の小説「生生流 転」を書いたので初歩的な知識は持ち合わせていたが、お二人にお会いしてお話 をお聞きして以来、一層、関心が高まり独修ながら少しは勉強の機会を得てい る。その間、種智院大学の教授をされていた山崎泰廣先生(現名誉教授)とも親 しくして頂き、様々なことをお教え願った。今回、「交野物語」(仮称)を書く に際しても真言などについて教わった。で、なぜ真言密教かについて少し述べ る。曼荼羅(まんだら)の一語に尽きる。大日如来が様々に姿を変えて大衆に教 えを説き、また様々な生き方を肯定する側面を持っていると私なりに理解できる からである。戦後教育は、勉強至上主義的傾向があまりにも強すぎたと思うから である。今日のところは簡単に、言い切って、詳細は後日に回そう。「勉強が好 きな子もそれなりにいい、スポーツのできる子もそれなりにいい、音楽のできる 子もそれなりにいい、絵が上手い子もそれなりにいい」。つまり、絶対これでな ければならないという限定評価をしないことである。つまり、まんだら思考とで も言おうか。奥深く真言密教を体得されている方々からみれば、単なる言葉遊び にすぎないといわれるかもしれないが、私は、そういう視点に立ったものの見方 で教育の在り方が根本的な部分で問い直されなければならない時代にあると思 う。武蔵も、又八も、ともに偉いとうことでもあろうか・・・。(2003年7月30日)

 

閑話:比較的早く起床した休日の朝。リビングの窓を開け放つと、セミの声が近 くから、やや遠くから、さらに遠くからと爽やかな朝の涼風とともに心地よく耳に響いてくる。さぁー、これから今日は、何をしようかと頭を巡らせながら今、 キーを叩いている。軽い食事をとってから散歩かそれとも少し交野物語(仮称) のゲラでも読もうかなどと思い浮かべながら・・・。またセミの声・・・。 「シャー、シャー、シャー、シャウシャー、シャウシャー、シャー・・・」。あれは、クマ蝉だなー。山裾にある団地、平地より2、3度気温が低い交野の山周辺 も真夏の到来だ。もう8月なのだからー!生業とする新聞社の不規則勤務でしかも忙しい日々を送っていて季節感さへこのところ味わっていなかったような気がしていたから、なにかしら生き返ったような感じさえする。でもちっちゃい、狭い書斎で本が散らかり乱雑を極めており、少しばかしは整頓しなきゃーと思うと現実に戻った。じゃ、軽い食事をとります。読者の皆様、いい週末をお過ごしください。(2003年8月1日)

 

閑話:妙見山に団地側の裏参道から午前9時過ぎから登った。1日に「シャー、 シャウシャー、サシウャー、シャー、シャー、シャー・・・」。我が家のリビン グの窓から夏本番を告げるかのようなクマ蝉の鳴き声をお知らせしました。拝殿 のある頂までの石段を登ること10分ぐらいの間、山いっぱいが鳴いていた。木々 のどこにおるのか様々な蝉の合唱だ・・・。「蝉時雨だなぁー。これは」と感嘆 し、思わず足を止めて暫し聞き入った。蝉さんたちが、夏を愉しみ、歌っている のだろうと思い、その歌と共に促されるように拝殿を参拝した。私が参拝してい る間、数人の方々が厳粛な面持ちで鈴を鳴らせ願い事をされた。中には、拝殿前 からの素晴らしい眺望をカメラに収める人も。参拝を終え、社務所でお礼の挨拶 をした後、表参道に向けた石段を途中まで下り、向かって左側にある「帰り道」 と表示のある山沿いの曲がりくねった道を下った。この道は体のバランスを要す るから、少し気を引き締めるが、下りるにしたがって体が軽やかになり、体全体 に躍動感のようなものが漲る(みなぎ)る。一瞬、酷暑を忘れたような爽やかさを覚えた。さーて、土曜日出勤だったから今日の休日をたのしまにゃーと、午後以 降のスケジュールに頭巡らす・・・。おう、あれとこれとせにゃならん・・・。 でもじゃ、日曜日じゃさかい休養優先だ。のんびりと過ごすことにした。(2003年 8月3日)

 

閑話:NHKの「のど自慢」を観た。兵庫県西宮市からの放送だ。震災から8 年・・・。おお、出演者も会場の聴衆の方々も乗っているな!と思わず体を乗り 出すようにして観た。この歌番組の私なりの見どころ、または視点は、まず第1 に歌の巧拙ではないところに意味を問う。第2に人間性が豊かで面白いかどうか である。無論、素人離れしたような優勝者もいい。が、ともかく1と2の視点であ る。幼稚園の先生、苦労し、育て、愛を注いできた娘が結婚して親元を離れてい くというおばさんの歌は、巧拙抜きに視聴者や会場をくぎづけにした筈だ。おばさんの歌いぶりは愉快だった。よそ行きの顔ではなく家で、もしくは気のおけな い友人たちと歌うスタンスをそのままハレの舞台にもってきたところが、素晴ら しかった。ユニークな振り付け、歌う表情がいいのだ。人間味溢れる庶民の匂い が発散されていた。いつでも思うのだが、鐘の連打をはなから狙い歌おうとしている姿勢は、私の場合あまり好きではない。今回の西宮市での出場者は全体と して1と2を満たしていたように思う。途中、気が乗りすぎたのか宮川アナウン サーが、途中で「皆さん緊張してられるようです。深呼吸しましょう」と間を置 かれた。そのときの女性は見事鐘を連打。「カン、カンカンカンカンカ ン・・・」。この辺りの呼吸はかなり難しい。プロ歌手は、腹から声を出すよう に訓練しているそうだ。ともかく普段着の歌が良いと思うのだ。上手い人はそれ なりに、ユニークな人も同じだ。生地のままの歌声が好ましい。震災の苦労や悲 しみを乗り越えたもしくは乗り越えようとしている姿、歌声は私のこころをとら え感動し続けた。 (2003年8月3日)

 

閑話:「お通いずこ」。3日夜、放送の「武蔵」のタイトルだ。既に伏線があ り、おうそうかいなーと思い、家内と一緒に見た。恐らく家内と私の代わりに岡 山県北の家内の里に1日だけの休暇を取り、レンタカーで早めのお盆の墓参りに 行った息子も祖父、祖母と一緒に観ているだろう。家内の里は、武蔵生誕の地と いわれている大原町のすぐ隣。祖母の生家は、新免姓であるから、3人の会話は 弾んでいるはず、とドラマの始まりに少し思いを巡らせてから私は集中力を高め て見続けた。今回の主役はお通ではないかと思われた。石舟斎は、お通や孫の兵 庫助や僧になっている息子らに看取られながら遂に往った。お通は祖父とも思 い、慕っていた石舟斎の死による寂寥感を覚え、浮かぬ顔をしていたが、そのも う一つの原因は、武蔵のこころであった。「人というものは心底信じられないも のがあるのではないでしょうか。それが、あの人、武蔵にもあるのではないで しょうか」(著者要約)と笛を吹いてくれと所望した兵庫助に言った。兵庫助も 宗矩に代わって柳生の里に見舞いに来ていた宗矩の妻、りんも思わずどきり。こ こで法華経の一節に「念念勿生疑」という言葉を紹介したい。こころに疑いのこ ころを生ずること勿れという意味である。または、法華経の真実を疑うこと勿れ という義でもあろう。いずれにしろ、疑う本人が自ら傷つくということだと思 う。人世の世界ではどうしても疑念を抱くのが誰しもだろう。傷つきながら人は 皆成長し、様々な人生模様を繰り広げるのだ。お通しかり、約束よりずっとお通 の江戸帰還が遅れ、武蔵のこころも揺れてくる。人は皆いつしか、疑念を抱く空 しさを知り、この世の真実に誘われていくのだろうとも思うのだ。お通は、石舟 斎の子、僧の一人に「お通さんと同じ音色をした笛を吹く女(ひと)を知ってい る」といわれ、武蔵逢いたさのこころを抱きながらもその女はきっと母親ではな いかと住処を訪ねる。が、そこには母とおぼしき女はいなかった。そこでお通が 発見したのは、マリヤの像を刻んだ彫り物1体。それを懐に江戸を目指すお通 は、とある関所の吟味でその像を役人に見つけられる。近在でキリシタンの謀反 があり、お通は嫌疑される・・・。何処に行くのかお通・・・。武蔵の苦悩も続 く。一方、厳流、佐々木小次郎は細川家の師範代を打ち負かすなど剣豪ぶりを発 揮する 。その華麗な剣さばきは見応えがあった。かくしてドラマは次回へ。愉 しめた今回のドラマであった。(2003年8月3日)

 

閑話:食事時、台風情報の後、「お、お、お、や、や、や、美空ひばりさんでは ないか・・・」と画面を覗き込むように観た。4時間があっという間に過ぎた感 じだ。交野物語の中でひばりさんのことは、書いたなぁーと思い出しなが ら・・・。おう、あの時・・・、私が小学校の低学年、高学年、中学校から高校 時代、大学生、社会人になってからも彼女の歌物語、人生模様を聞き、観続けて きた。もう、女王が往って、そんな年月になるのか、と月日の迅速さにいささか 驚いた。が、彼女の歌は、私たちの脳裏に鮮明に焼き付いていた。放送中に多く の視聴者からメッセージが寄せられていた。紹介された声、便りの主の方々の多 くがほぼ同世代であったことも印象的であった。ひばりさんの歌に励まされ、彼 女が出会う様々な出来事にも同情したり、悲しんだり、頑張るんだよ、ひばりさ ん、とこころの中で声援を送ったこともあったけ、などと思いを巡らせながら、 その時々の歌を観た、聴いたのだった。「世紀を超えた美空ひばり」というタイ トルに相応しい彼女の歌一筋の道を改めて感動とともにこころから味わった。 「川の流れのように・・・」−−。「皆さん、最後までご声援ありがとうござい ました」という彼女の声が流れた・・・。多くのファンとともに歩んだひばりさ んの「歌の道」は、ただ、ただ凄いよと感歎、熱帯夜の夜も吹き飛んだ。ありが とう、美空ひばりさん。これからも彼女の歌声は、我々を励ましてくれるのだ・・・。(2003年8月7日)

 

閑話:粟井文山・・・。一流の画家である。岡山県邑久町に在住。和田文子さん だった。私の小学2、3年時の担任の先生である。岡山大学で美術を専攻され、恐 らく卒業と同時に福田村の私どもが通った町立福田小学校に赴任されてきたのだ と思う。明るくて別嬪(美人)だった。小学校中の人気教諭にすぐなられた記憶 がある。8、9歳の僕は「なんでこの女の先生は絵が上手いのだろう」と、不思議 に思ったものだ。喧嘩遊びに夢中だった僕も先生に引率されていく写生は、遊び 気であったが、愉しかった。僕の記憶では、絵は、1年生のころから好きであっ たが、和田先生が担任になってからさらに愉しく絵を画いた。でも冒頭に書いた ような少年であったから遠足だったか、写生大会だったかに和田先生をなんで あったか忘れて記憶にないが怒らせてしまった。で、先生が数人の友達に向かっ て「木下君にみんなー、かかっていきなさい(やっつけなさい)!」と号令を掛 けられた。「おう、くるならこい!」とぐっと身構えたら友達らは、怯んだのか 一瞬、輪になったがすぐ輪は解けてしまい、ちょん。日頃の腕白を知っていたか らだろう。でも愉しく遊ぶ時もあるから仲間意識が働いたのだろうとも思った。 今から思えば先生のジョウクだったのかもしれない。2年間の福田小学校勤務 後、先生はお嫁に行かれてどこかの小学校に転勤された。4年前の正月、郷里で 働いている仲間が同窓会を開くというので会場の牛窓まで行ったのだ。その折の ことは、このホームページか何かに書いたような気がするが、2次会で先生のお 家まで14、5人が絵を見せてもらいに押しかけた。私は、岡山駅の近くに宿を 取っていたのでもう少し、じっくり絵のお話をお聞きしようと、確か8時ころま で独り居残って御主人を交えて歓談したのだ。中学時代は美術部と書道部の二つ に入っていたが、主たる部は美術部であった。高校、大学時代、新聞社に勤務し てもほとんど絵心を体の心でとらえるような共感と興味は味わう機会がなかった のが不思議でならい。でもこの時、改めて和田先生(粟井文山画伯)の絵やらお 話をお聞きし、絵心が疼き出してきた。新聞社を定年退職したら文章に加え、絵 画、書も手掛けてみたいと、思いを巡らせておったところ、画伯から「美庵」と いう米国で発刊されたプロ作家が描いた絵が収められた画集が拙宅についこの間 届いた。画伯宅で見せていただいた「馬」の絵が堂々と載っている。それは、当 然だと思った。世界平和の願いを込めた絵だ。その心は、慈悲深い馬の目にある との説明文があったが、私もそう思った。早速、日曜日の休日にお礼の手紙を出 した。(2003年8月11日)

 

閑話:「武蔵」・・・。見応えのあるドラマ展開であった。45分間、集中して観 たら、内容の濃さに圧倒されてどっと疲れが出るほどだった。私の見所を書く。 女忍者、亜矢のあくどい戦法に怒りを覚えた風間小太郎(またの名はあかね屋絃 三)は二人で対決する。が、手傷を負った。あの吉岡一門の師範代、武蔵打倒に執念を燃やす祇園藤次がなぜか突然、亜矢に味方し、襲い掛かってきたのだ。 小太郎は、武蔵のところに逃げ込んだ。武蔵は天井に小太郎のいることにすぐ気 がつく。そこに亜矢が手勢を連れて小太郎を捜しに来た。亜矢は、武蔵の放つ殺 気に気圧されたか、こころの底で武蔵に寄せる愛なるが故か、その場を去る。 で、武蔵の前に姿を現した小太郎が武蔵に向かって言い放つ・・・。「今は動乱 の世。己が力、剣を生かして生き抜くのも漢(おとこ)だぜ!」と。 「私は、剣の道(世界)で生き抜くのみだ」(著者要約)と武蔵はきっぱりと断 言する。つまり、政治権力とも次元を異にする世界を武蔵ははっきりと掴んだの だ。ドラマはさらに追い討ちを掛けるかのように遅れて柳生の里に帰ってきた宗 矩に石舟斎の墓前で語らせる。「私は父上がこの里を守り抜く苦労をそばで見て おりました。人にどのような批判を受けましょうとも、この私は、小さな里を天 下の柳生にしたいとぞんじます。それを見守ってください。家康さまは将軍職を 御子息の秀忠さまにお譲りになりました。徳川の世です。私は平安の世にするお 二人のために力を注ぎたい所存です・・・」(著者要約)。漢の行き方の三通り をまざまざとドラマは浮き彫りにした。さて、読者の皆様の生き方はいずれで しょうか・・・。(2003年8月12日)

 

閑話:かねがね凄い御仁だと尊敬していた・・・。プロスキヤーの三浦雄一郎さ んだ。最近、2度ほどテレビでお顔を。今年の5月、世界最高峰、エベレスト (8、848メートル)に70歳という世界最高齢者登頂を記録された。最初のテ レビでは淡々と子供のころからの思い出話しだったと思う。お父上のことも語ら れた。私の聞き間違えだったかもしれないが、小学校時代、肺炎を患った。お父 上は、スキーで知られる岩手県の蔵王に三浦さんを連れて行くのだ。三浦さんの 体を鍛えようとの御意志があったのだろう。で、2回目は確かNHKの歌番組で あったと記憶しているが、ゲスト出演された。その時のお話の内容は、今、詳し く思い出せない。が、歌手の加山さんと話しが弾んでいた。驚いたのは、雄一郎 さんの尊敬するお父上も矍鑠(かくしゃく)として舞台に。99歳なのだ。語り口 は明快、姿勢もしゃんとしておられた。そう八甲田山を三浦さん一家、3世代が 一緒に滑降されたことを加山さんが感動したと話されていた。この日の歌謡番組 は盛り上がった。数々の名曲の響きとともに三浦さん御一家の素晴らしさに思い を巡らせていた。と、最初の番組で雄一郎さんが述べられていた言葉を思い出し た。「オンリーワンですよ。何事も・・・。どんな職業でも、自分だけしかでき ないことをやればいいんですよ」(著者要約)。(2003年8月13日)

 

閑話:この間の深夜、車帰りの時だった。「おう、君か!疲れているからよろし くお願いしますよ!」と私。「はい、久しぶりですね。もうこれで木下さんをお 送りするのは、10回近くになりますね」。(おお、考えてみればこの運転手さん には、よくお世話になっているし、心地よく話が弾むな・・・。む、よかった) 「おや、君も少し疲れているように思うが・・・。売り上げが少ないとからと、 齷齪(あくせく)してるのとちがいますか」「そんなことはありませんが少 し・・・」「よっしゃ!そんなときは、こうすりゃあいんじゃ!」と以下の通 り。<柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺>という、歌がありますね。さてここから は、私の解釈。こう詠んだ俳人は、手にした柿を口に入れた刹那、「ご〜、〜 ん。ごーーん。ご〜〜〜〜ん」と、辺りのそして遠くの山々をかすめるように大 きくていつまでも余韻を残すような鐘の音を耳にしました・・・。そう、「ご〜 〜〜〜〜・・・〜・・・ん」とね。この俳人はね、たいした御仁でありますか ら、思わず、日頃の己の齷齪した日々の愚を反省されたと思いますな。どうです か!」「は、いいですね・・・。こころが落ち着いたような感じがしてきまし た。不思議ですね」と、運転手さん。「いや、失礼、こちらもね、おかげで仕事 の疲れが取れました。この間、テレビである寺のご住職がね、檀家向けにリクエ ストがあれば携帯電話で鐘の音を聴かすという新しい取り組みをしたというのを 見ましてね。私も改めて鐘の意味を考えさせられたわけです」「早速、暇ができ たら、お寺さんに参りまして撞いてみますわ」と弾んだ声でお礼を言われた。 「ご〜〜〜〜〜〜〜・・・ん」。では、読者の皆さん、お盆です。私も日ごろの 無事を感謝するため先祖に手を合わす。お墓参り、寺参りに・・・。(2003年8月16日)

 

閑話:「武蔵」。郷里で見た。岡山で見ようが、どこで見ようが、素晴らしい場 面は、場面に違いない。が;武蔵の郷土で見るのは、やや趣を異にする・・・。 人によって様々であろうが、これだけは共通項だ。岡山では、武蔵に関する話題 でもちっきりという話だ。だから、共通していることとは、食事時でも、風呂上 りでも、この午後8時という時間帯は、岡山地方では、視聴率が他地方に比べ、 格段に高いはず・・・。そう思えば、私とてもぐっと体を乗り出すような気持ち になる。今回の私の見所は武蔵の語りにある。「生きよ、生き抜くのだ!さすれ ばこれまで判らなかったことが読め、見えてくる・・・」(著者要約)だ。これ から連想できる武蔵が語った語彙が五輪書の中にある。私のかってな解釈かもし れないが紹介しよう。「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」ではなかろ うか。もう少しドラマに沿って述べると、「人生、苦労せよ、苦労せよ、日々真 剣に生きよ、さすれば、人世(ひとよ)の真実が見えてくる」ということになる だろう。(2003年8月18日)

 

閑話:この夜、「武蔵」のテレビドラマを見たのは、牛窓のホテルであった。家内が見つけたのだが、偶然4年前だったと思うが、小学校の同窓会会場の一つで あった。ホテル前に着いたとき「おや、おや、同じ場所ではないか」と懐かしさ がこころを過ぎった。暫く、部屋でのんびり過ごした後、夕食にホテルマンの指 示とおり、食事処に。「おう、ここで皆そろってわいわい、がやがや、がやがや とお喋りを愉しんだ・・・」。と思いを巡らせてからふと夕闇に染まりかけてい た窓の外に目をやった。「む、凄い、この景色は」とこころの中で絶句した。 「おい、見ろ」とおもわず家内に促した。私たちは、窓外の島々、海、空が刻々とその相貌を変えていくさまに感動し続けた。午後6時30分ごろから同55分ごろ までの25分が見応えのある時間だと私には思えた。墨絵がもっともふさわしいの ではないかと思った。白色の海に浮かぶ島々、それを包む空が時とともに微妙に 変化していくのだ。言葉では表現できないような「美」にうっとりした。後で部 屋に帰ってからホテルの説明書を読んでみたら恐らくとは思ったが前島、小豆島 が島影の主人公。それに黒島、なかの小島、はたの小島などがそろって美を演出 してくれたのだ。読者の皆様にもお勧めしたい。(2003年8月20日)

 

閑話:第85回全国高校野球の21日、江の川(島根)に続き、ベスト4進出を宮城の東北高校が接戦の末、光星学院(青森)を2対1で破り決めた。時折しか見ないが、ふと思うことがある。球児たちの真摯な姿勢を大人も同世代の若者もまたは 小学、中学生の少年たちも学ぶべきだと。私は今回の高校野球でどの選手が図抜 けた選手であるとかは、全く知らない。ある時期、話題はこのような選手に話題を集めた時もあるが、それはそれとしてやはり栄えある全国大会の参加を目指 し、一致団結して努力の汗を流したのがいい。勝って爽やかで謙虚、負けて爽やか、相手の強さを称える。私は最近の世相を見るにつけ、球児たちのような真摯な努力、爽やかさを失っているのではなかろうかと思うときがある。準決勝、決勝戦ではさらに球児たちの汗にまみれた日々研鑽の成果を見せてくれるだろう。声援を送りたい。若人たちの青春の譜に・・・。そして彼らの未来に対して。(2003年8月21日)

 

閑話:「武蔵」の再放送を見た。前回、武蔵の言葉である「鍛錬」について書い た。「千日の稽古を鍛となし、万日の稽古を錬となす」であった。かくして武蔵 は剣豪中の剣豪になった。が、ドラマの後半部分に父、無二斎との再会をドラマ は濃密に描き出した。寺に仮寓していた無二斎を訪ねた武蔵。父の口から出た言 葉に驚愕(きょうがく)するのだ。「武蔵、小倉に行って細川家に仕官してく れ、そうすればわしは2百石もらえる。去っていった弟子も帰ってくる。お前は 強くなった。その剣を生かしてくれ!」(著者要約)。「私は父上からお前は弱 い、強くなれといわれました。だから修行を重ね、強くなったのです。父上に は、いつまでも強くあってほしい。父上!」(同)と武蔵はかつての自信に溢れ た面影を全く失った父の姿を悲しんだ。「武蔵殿、どうかよろしくお願い申し上 げる」と境内に平伏して嘆願する無二斎に武蔵は複雑な表情を見せる。私はこの 父子のやりとりを見ていて一瞬、複雑な気持ちになった。親は子に対して老いて も強く親たり得たいと思った。要は強さの中身ではなかろうかと反芻した。子は 成長し、己の老いは、避けられないが、これまで生き抜いてきたなかで培った豊 富とはいえないまでも生きる上での智恵がある。それを息子に伝えればいいのだ と思った。と、平凡人たる私は想いを新たにした。そう、剣の達人、石舟斎のよ うにいかなくても、凡人なりの方法があるのではと・・・。(2003年8月23日)

 

閑話:「交野物語」(仮称)の最終調整で来年は80歳になられる郷土史家、和久 田薫先生が約束通り、午後1時きっかりに拙宅にいつものように自転車でいらっ しゃった。この日も一昨日、昨日に続き、34、5度の酷暑の中である。ぶっ通し で3時間、先生のご指摘、私の意見などをお話しながら、字句などの手直し作業 を行った。翻ってみれば、2年前の喫茶店での対談は約2時間、今年初夏の拙宅で の2時間近く、そして今回だ。和久田先生は、今日は2回の対談、意見調整のとき に比べ、一層の気迫に溢れておられた。私もそうだった。出版社の挿入ミスの書 き換えには、正直、苦労した。後は、私がもう一度読み直してから、出版社に送 付するだけという段取りができた。かようなしだいで今日はほっとしたわけで す。後は年表の作成を残すのみとなった。それにしても和久田先生のこころ温ま るご協力なしにはこの本は出来上がらなかった、とつくづく思った。と、同時に 和久田先生から言葉では言い表せないような様々なことを学んだ。これは新聞社 勤務の中で学ぶことのできなかったことでもあった。私も定年後は、自転車を 買って和久田先生のように悠々とペダルを漕いでみたいと思った。先生を玄関で 見送った後、私は励まされたような気持ちを抱きながら、帽子をかぶり、汗拭き ようのタオルを持って50分ほど団地周辺を散策した。途中、偉いなぁーという姿 に出逢った。中年の女性の方が(恐らくお母さんだろうと思う)80代後半か90ぐらいの老女を伴って散歩されていた。老女は杖をつきながら懸命に、しかし安堵 の表情を湛(たた)えながら歩を進められているような気がした。世の中、教え られ、学ぶことが多いと思った休日であった。(2003年8月24日)

 

閑話;25日のドラマ、「武蔵」ー。武蔵は何故、若者の武芸者に負けたのかと私 は、恥ずかしながら、丸一日、こころの隅で考え続けてきた。で、26日のNHK の歌謡番組のとりを務めた二葉さんの「岸壁の母」を見ていてはっと判ったの だ。これも私の独断かもしれないが、デレクターさんの武蔵に寄せる胸の内が読 めたようだ。この若者武芸者は、今でいう母の期待と願いに懸命に応えようと勉 強一筋に頑張り、生きる「秀才」に当たるだろう。この若者、「秀才」も確かに 凄腕の武芸者の域に達していた。さらにドラマ展開は語り続ける・・・。「秀 才」が本当の秀才に、武芸者になっていくのだ。つまり、この若者は母の愚かさ を見抜いていた。「武蔵殿、負けてくだされ、さすれば、母も納得してくれま す。私は武芸者よりも田畑を耕す、百姓になりたいのです。負けてくだされ、武 蔵殿」(著者要約)。武蔵の表情が微妙に変化する。が、武蔵は「兵法者には、 情で負けることはできない」(同)と若者に断固として言い切る。2人の熾烈な 戦いが始まった。双方の剣が火花を散らし、互いに身を翻しながら壮絶な闘い に。だが、立ち回りを見ていて武蔵の方が断然、軽やかだった。それは当然のこ とではあるが・・・。しかし突然、武蔵が道端に転んだ。若者は辛うじて腰を屈 めて立っている。私は、そら若者が、今にどっと血を流して倒れるぞと思い、画 面を見ていたが、意外や武蔵は若者の方を見据えてはいたが、そのまま立ち上が らない。負けたのだ。今夜、二葉さんの歌を聴いていて「そら、そこだ。武蔵殿 に打ち込め!」(同)という若者の母の声が飛んだ瞬間を私は思い出した。う む、武蔵は、若者の母の一念に負けたのだと・・・。武蔵には母に対する負い目 があったのだ。会えば、会えた機会を自ら逃した、いや、逃げたという己の母に 対する引け目が若者の母の声を何倍もの音声(おんじょう)で聴き、響いたので はないかと思う。その音声が、もはや敵なしという剣豪になっていた武蔵のここ ろさえにも乱れを生じさせたのだ。一瞬、武蔵に「すき」ができ、若者の剣の一 部が武蔵のみぞうちを掠めた。負け知らずの武蔵にこんな場面をつくったデレク ターさんらの「凄腕」に敬意を表したいと思う。(2003年8月27日)

 

閑話:先のドラマ、「武蔵」のことで歌謡曲コンサートのことに触れたが、後で 何か書き忘れているなぁーと思っていたら、おっ、これはいかん大切なことを抜 かしていたと、恥じ入りながら思い出したので記述します。コンサート主役は、 見事復帰を果たした坂本冬美さんと、若手歌手ナンバーワンの氷川さんだった。 2人の会話(トーク)は、それぞれの真面目さと素直さが自然と出ていた。最近 あまり見られない技巧以前の歌手としての素顔がうかがえて見ている私どものこ ころを爽やかな世界に誘ってくれた。冬美さんの復帰、初の大舞台での歌唱は、 これまた素晴らしいという一語に尽きる。どんな道でも休んだ後の復帰は、冬美 さんだけでなく誰でも緊張というか、不安をこころに抱くに違いない。これも私 の独断ですが、彼女は、軽やかな腕の振りでリズムをとっていたのが歌全体をの びやかにし、かつ迫力のある歌にしたのではないかと思った。それにしても彼女 の歌手としての意気込みと情念は賞賛してあまりあるものがある。また、その録 画映像を彼女と一緒に見ていた氷川さんが、感動のあまり、涙するのは、私が 思った通りの好青年であることが判った。彼の並外れた歌唱力の素晴らしさは、 天性のものと人柄によるのだと思ったものだった。2人ともこれから一層の活躍 が期待される。(2003年8月27日)

 

閑話:私は、今日も深夜帰りの車の中・・・。もう数えきれないほど送ってもらった運転手さんと話が弾んだ。高校野球のことやKさんというタクシー会社 は、異なるが「知っております。Kさんのことは・・・」。今夜の運転手さんとKさんは、友達だという。Kさんは、甲子園にレギュラーとして参加した。40代 の後半ながら、今でも高校野球に対する情熱は、失わないばかしか、益々盛ん だ。そのKさんの車で帰った時、「私の母校が、甲子園に出ておりましてね、仕事が終わったら、いつも彼らの練習に応援に駆け付けています」と言われたのは、もう一月ほど前だったろう。残念ながらKさんの母校は、かなりの踏ん張りをみせたが、ベスト8かぐらいで破れ、甲子園球場を去った。その後、Kさんの車に乗っていないような記憶だが、氏の母校が敗退したとき、Kさんの顔を思い 出していた。夏の高校野球は終わった。爽やかな感動とともに・・・。「高校野球は、今まで失ってしまった日本のまた日本人の良さ、スピリットなどが、見事 に凝縮しておると思うのですがね」と、今夜の運転手さんに私がいうと、「同感ですね!」と大きく肯かれた。先日も高校野球のことについて少しこの欄で触れたが、そんなこんなの野球談議であっという間に家に着いた。わずか40分ほどの時間だが、いいですねえ、こんな会話は・・・。キーを叩く指も軽やかです。(2003年8月29日)

 

閑話:休日の日曜日の午後、なにげなくテレビをつけたら、マラソンだ。しばら く見ていたら、「2003北海道マラソン」であることが判った。少年、青年時代 は、大相撲や野球とともにマラソンのテレビ中継をよく見た記憶がある。むろ ん、新聞社に入ってからも瀬古、中山選手などのレースを興味深くテレビ観戦し たが、その後は、それほど見ていなかった。が、今日は、エリック・ワイナイナ選手と若手ランナー、中崎幸伸選手が30キロ辺りから抜きつ、抜かれつの熾烈 な闘いを繰り広げている。思わず熱が入り、最後まで見た。結果は、過去、この マラソンで2回優勝、また昨年の東京国際マラソンで優勝した豊富な経験を持つ ワイナイナ選手がゴール間際でスパートをかけ、中崎選手の追撃に余裕でかわ し、3回目の優勝。もう、これでテレビを切ろうかなと思っていたら、時間をず らしてスタートした女子選手の走る姿が目に入った。む、独走しているのは、こ のレースで2連覇を狙っている若手有望選手の堀江千佳選手。優勝は恐らく彼女 だろうと、そのまま見続けていたら、突如、解説者やアナウンサーの声がやや興 奮気味になった。どうしたのだろうと、画面を凝視していたら、小柄な女子選手 がぐんぐん追い上げてきているではないか。マラソン25回目という33歳のベテラ ン選手、田中千洋選手という話だ。過去この大会で1度の優勝経験がある。旧制 を小倉といい、その時は恐らく20代の時だろう。今日は幼い子供さんもレースを 見にきているということをアナウンサーはしきりに言い出した。40キロ辺りで堀 江選手を抜き去ると、「見てくれ、見てくれ母の強さを・・・」とアナウンサー の方もご自身で声援され出した。私は一瞬、「前畑頑張れ、前畑頑張れ!」のあ の有名なアナウンスを思い出していた。また、こころの中で(む、さすがだな。 凄い。それにしてもドラマ「武蔵」でも母の強さを見た。子を持つ母の強さはい つの時代も変わらんし、尊いものだ)と改めて思ったものだ。田中選手は、幼子 に母の力強い力走を焼き付けておきたかったのだと思うと、爽やかさと熱い感動 がこころに広がった。ありがとう田中さん。(2003年8月31日)

 

<読者の皆さんへ> 残暑お見舞い申し上げます。とはいえ、今年は冷夏でお米 などの不作が伝えられております。農家の皆さんのご苦労のことを思いますと、 ここ4、5日の酷暑のことなどをあれこれ言うことはできません。ともあれ、新し い月、長月(9月)を向かえた未明、パソコンのキーを叩いております今は、部 屋の中にいましてもなにやら爽やかな秋の気配を感じます。今年も後、4カ月で す。来年、4月末には、還暦を迎える私です。ややおおげさではありますが、 「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 謹勿放逸」を改めてこころに刻み、日々、過 ごしていく所存です。皆様の御健勝をこころよりお祈り致します。(2003年9月1日)

 

閑話:ドラマ、「武蔵」−−。8月31日のドラマ展開は圧巻であった。人生模様 というか、人世(ひとよ)の真実といった方がいいかもしれないが、そんなこと が又八や連れ添う朱美の間にも完璧な形で表れていた。「又八さんとおると、女 はね!強くならなきゃならないの!」(著者要約)。おう、これくらい男女の仲 の真実を突いた表現はないだろう。朱美は、こういう言い方で又八に対する焦が れるような愛を告白しているのだ。こう言わした又八のこれまでの性格や行動描 写が的を射ていた証左だといえるだろう。又八は、人の善さからせっかく商売で 得た財を古参の政商らしき仲間におとしめられ、一度に失ってしまう。朱美は、 そんなことは、覚悟の上、愛する男のためには、(もっと強く、強くならなく ちゃだめだわ!)と、道端に落ちているものを拾う商いを始めるのだ。と、生業 にいそしむ、途路、裏家業に生きる母、お甲に逢う。裏の世界で生きる母では あっても子を思う気持ちは同じだ。羽振りの良い、母は、豪華な衣装や調度品を 朱美に豪勢な家の門前の道に投げ与える。これを元手にして又八と朱美は、幸せ を求めて再び歩みだすのだ。さて主役の武蔵・・・。父の願いを胸に九州・小倉 を目指してまっしぐらに歩を進めていた。が、武蔵、九州に行く道と故郷、美作 (みまさか)の別れ道でふと足を止めた。こころの中に望郷の念が一挙に高まっ たのか武蔵は美作に足を向けた。「お、あの武蔵(たけぞう)か・・・。武蔵 (むさし)様か・・・。沢庵和尚が戻られておられるぞ」(著者要約)と郷里に 足を踏み入れた武蔵は、思いがけなく、そう幼馴染から聞かされて武蔵の顔に驚 きと嬉しさがぱっと広がった。武蔵は父、無二斎のことや、お通の間で揺れ、悩 む胸の内を沢庵に告白した・・・。人生の、人の道の真髄は、沢庵が武蔵に語る 言葉に凝縮されている。私は、最近これほどまでに核心を突いた言葉に出合って いない・・・。『人が迷うことを止めるとき、人は生きることを止めるときだ。 迷いを抱えながら歩め!武蔵!』。含蓄のある語りではないか!青年も壮年も高 年、老年も生ある限り、沢庵がドラマで語ったこの言葉を胸に刻み込まなければ ならないと思った。無論、私も含めてのことだ。今が幸せとか、その逆に不幸の どん底と思い、立ち止まってはだめだともとれるではないか。武蔵のドラマをこ の間、郷里岡山で見た時、「生きろ、生きるのだ、さすれば、何かが見えてくる」(著者要約)と武蔵が語ったこととも通底するものがあるが、武蔵とて悩み は尽きない。武蔵に影響されて権威のそばから離れた沢庵だが、こんどは武蔵に また新たな広い世界を与えたのだ。納得したかのように九州・小倉に向けて大き く胸を張って歩く武蔵の姿があった。(2003年9月2日)

 

閑話:今日から1泊2日で日本宗教学会が主催する第62回学術大会(3日から開 催)に出席する。この大会に参加するのは5年ぶりになるだろうか。この会の会 員になっているが、元々学者には向かないという己自身の性格に50歳を過ぎたこ ろから認識しだしたことに加え新聞社勤務という多忙さもあろう。が、今回、有 給休暇を取って参加を決めたのは、様々な理由があるが、天理大学で開催される ことがとりわけ大きい。天理教についてはあまり知らないが、教祖、中山みきさ んにはいささか関心を寄せていた。良寛が没したころ、みきさんは、天啓を受 け、「親神、他人が喜ぶことを日々行い、己の執着を離れれば、自ずと陽気暮ら しができる」のが、教えの基本のようだ。でも、これは、頭では理解できるが、 容易なことではない。同じころ誕生した黒住教でも陰気を去れ、などとの教えが あると聞く。誰でも陰気より、陽気が好きだ。でもどうやれば・・・。と、なる と判らない。が、私がこれまで知っていることは「ひのきしん」という無報酬の 修養奉仕活動があるそうだ。きしんとは、寄進であろうかと思うが、学会参加の ついでに少し天理教について学びたいと思ったからだ。最近の世相は、どうみ たって陽気より陰気な傾向が強い。学会での発表を聴く演題は、かなり絞り込ん でおり、空いた時間を天理教学習に充てたいなどと思っている。なにか得ること がありましたらこの欄で読者の皆さんに御紹介したいとも思っています。(2003年9月4日)

 

閑話:ドラマ、「武蔵」−−。深夜の車帰りの後、ビデオを見た。いよいよ九 州・小倉での佐々木小次郎との闘いが迫ってきているような雰囲気が自然と醸し 出されてきた。この日、9月7日のドラマは、その対決が始まるまでの序曲を打ち 出したといえる。武蔵は九州の地に着いてから、小次郎のツバメ返しの鋭い剣さ ばきを目の当たりにする。武蔵の眼(まなこ)がきらりと光り、内に秘めた闘志 を燃やす。小次郎も同じだ。双方とも柳生宗矩などの陰謀とは、無関係に剣一筋 に生きてきた証をそれぞれ確認するかのように雌雄を決したいと改めて思うの だった。世にいう「厳流島の決闘」の時はまもなく始まる。そうした流れを掴ん だ上で今日の見どころは、宗矩と兵庫助の顔合わせであろう。宗矩は「いいか兵 庫助、私は影だ。でもなぁー、影が光を動かすこともあるのだ」と兵庫助にきっ ぱりと語る。若い兵庫助は叔父の強い意志を認めたのかそれとも・・・。(2003年 9月8日)

 

閑話:9月13日午後、なにげなくNHK教育テレビにチャンネルを合わせたら、 「おっ、凄い、素晴らしい舞だ」と感嘆し、家内と一緒に暫く見入った。すぐ放 送番組を見たら、踊っておられる男性は、山村流6世、山村若さん、女性は光さんと分かった。私は光さんの舞全体に魅せられた。まず姿勢、しなやかにかつ滑 らかに、時には速く動く姿がしゃきっと定まっていて艶やかだっ た。若さんは、光さんの舞をリードしているかのように威厳があった。演題は判 らないまま、見終わったが、何かこころが和やかになったのを感じた。後で ちょっと、山村流について調べてみたら、京都の井上流に匹敵する歴史を持つ舞 だった。自分の教養のなさに少しうんざりしたが、残暑の残る昼下がり素晴らし い舞を見ることができたのは幸せだ。にわか勉強だが、山村流について記しま す。山村流は、江戸時代の文化3年(1806年)山村友五郎を流祖として大坂で生 れた。3世、中村歌右衛門が歌舞伎の振付師の技能を高く評価したのが友五郎を 流派創設の動機を与えたようです。これは私の想像ですが、大坂といえば時代か らみて船場界隈や北新地あたりが賑わいをみせていたころです。従って商家の子 女の行儀見習いとして山村流の舞が盛んになったのも判るような気がいたしま す。山村流は、地唄舞とも、座敷舞ともいわれるそうです。上方の風土、風俗を 織り込んだ様々な演題があるという。暇はできたらもう少し詳しく調べてみよう と思っています。谷崎潤一郎の「細雪」でも主人公の妙子が地唄の「雪」を舞う 姿が描写されているとのことです。私は谷崎さんの著作も2、3冊読んだ記憶があ りますが、「細雪」は読んでいないのでまた楽しみが増えました。(2003年9月13日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」−−。見応えがあった。デレクター(脚本家)さんにまず 敬意を表したい。下関沖の巌流島(船島)での「対決前夜」を見事に演出してい た。武蔵にとって最大のライバル、佐々木小次郎。小次郎も武蔵の強さを認め、 闘いは「5分と5分」と踏んでいた。「俺がこれまでに出会ったなかで最も強い漢 (おとこ)だ」。小次郎を気遣う細川家の重役に聞いた。「あの島付近の潮の流 れを聞きたい・・・」。武蔵も恐れる剣豪、小次郎は、重役のいう船島の下見も 拒絶して、だだ、こう訊ねた・・・。激流でしかも干満の激しい関門海峡に浮か ぶ小島だ。島に行く途中、約束の刻限に間に合うか・・・。生死をかけて堂々と 闘い、武蔵を破るというという強い自信であった。一方の武蔵、小倉藩の家老、 長岡佐渡の断りも得ないまま、闘い前夜、佐渡の屋敷から忽然と姿を晦(くら) ます。武蔵、臆したか・・・という噂が小倉藩家中に、あっという間に広がっ た。それを耳にした小次郎。「武蔵は、俺を恐れているのだ。篠!だがな、それ が武蔵の兵法者、人間としての大きさなのだ。並みの漢なら、気合だけで俺にか かってくるだろう」(著者要約)と、小次郎を慕い、寄り添う篠に語った。武蔵 は、小次郎の言う通り、姿を晦ませたのではなく、闘いの場(船島)に船頭を 伴って小船で下見に行っていたのだ。干満の差、太陽の昇る時間などを調べ尽く した。「太陽を背にして闘うのが鉄則」との兵法を持つ武蔵にとれば当然のこと だ。それでも武蔵には、小次郎に絶対勝つという自信は湧いてこない・・・。武 蔵は対岸の下関に渡った。小次郎の3尺1寸という長刀、しかも小次郎は、その剣 と体が一体となったように自在に、すきなく身を動かす・・・。武蔵は、まだ小 次郎に絶対勝つという自信は、生れない。海岸を歩く武蔵は、ふと波打ち際にあ る小船の櫂に目をつけた。(む、む・・・)。武蔵の目が一瞬、輝いた。これを 武器にすれば勝負できる・・・と、(あの長刀に立ち向かえる)=著者要約=と 天啓のように閃いた。武蔵は下関に宿を取り、刻限までじっくりと櫂を木刀にし ようと、削り出始めた。と、幼馴染の又八がひょっこり宿に訪ねて来た。「武蔵 (たけぞう)。これを見よ!お通がお前のために作った着物だぜ。お通は なぁー、約束通り、お前に会うために江戸に帰ってきたのだ」と又八。思わず、 武蔵は双眸を潤ませた。武蔵も、又八の優しいこころにはかなわない。「お通に 言ってくれ、俺は必ず小次郎に勝つと・・・」。双方、相打ちにして武芸者の双 璧を叩き潰し、兵法者の跋扈(ばっこ)を一掃しようという陰謀、もしどちらか が、勝ったなら、勝利者を亡き者にするという画策を互いに知悉しながらも剣の 道一筋に歩んできた2人は、いよいよ宿命の闘いに挑む。次回が益々、楽しみに なってきた。(2003年9月15日)

 

閑話:「おい!夜の散歩に行かないか、と妻に声を掛けた。「いきましょうか」 と、一週間ぶりに共に歩いた。夜11時ごろ。山間の団地は秋の気配、匂いをあち こちに漂わせていた。中天に下限の月がやけに明るく輝いている。「あかあかあ かや・・・」の有名な歌など月の輝きに魅せられて数多くの歌を詠み、月の上人 ともいわれた明恵さんを一瞬、思い出した。「おう、明るいじゃないか」と妻に いうと、声は出さなかったが(まぁー)という感動した表情を月明かりの中で見 た。以前よりかなり離れたところに位置を移したが約6万年前と同じ距離に接近 している火星も小ぶりなトマトの赤のように夜空に月と対(つい)になったよう に宇宙のドラマを演出していた。明恵上人も月と火星のランデブーは見ていな いと思うと、何か言いようのないような至福感を覚えた。歩くこと約30分、道の 脇から秋の到来を愉しむかのような無数の虫さんらの合唱が耳に心地よかった。 風流なお便りになりましたが、読者の皆さん夏のお疲れをお出しにならないよ う。さぁー、気合を入れ、かつゆっくりとしたリズムで秋を満喫しながら、仕事 に励んでいこうではありませんか。(2003年9月17日)

 

閑話:「そのとき歴史が動いた」(NHK)−日野富子・愛と憎しみの和平工作 ▽応仁の乱を終結させた将軍の妻を深夜帰りの後、ビデヲで見た。私は応仁の乱 と室町幕府8代将軍、足利義政の妻、富子に歴史的興味を抱いていた。人、様々 であろうが、大きな戦いとしては、東軍の家康と西軍の秀頼を担ぐ淀殿と三成の 戦(いくさ)「関ケ原の戦い」を想起する人も結構多かろう。この私とて勝利し た家康が270年近くも比較的安定した世を続ける徳川幕府の礎をつくることにな る「関ケ原の戦い」は大きな歴史的意味があると思う。が、同じく応仁の乱も、 そして義政の妻、富子の存在は大きいと思うのだ。私の独断だが、応仁の乱を招 いた原因は義政にあると思っている。義政といえば金閣寺を建立した怪異である 意味では偉大な政治家の3代将軍、足利義満に対して東山山麓に銀閣寺を建てた 将軍として人口に膾炙さている。そこでなにかしら偉大な将軍のイメージでとら れがちだが、私にいわすれば、将軍職にありながら、世捨て人に近い文化人で あった。無論、義政は己の性格を知悉(ちしつ)していて早々と引退を決め込ん だのかもしれない。僧籍にあった弟を還俗させ後継させようとし、さらに富子と の間に子が生れても将軍職に就かせないなどという誓約書も認めるという能天気 さには呆れていたのだ。時に富子25歳なである。子ができて当然である。政治音 痴の何者でもない。義尚が誕生した。争いは当然起きる。10年も続いたこの乱の 中を夫に代わり、子義尚を守り戦い、そして生き抜き、終結に持ち込んだ富子の 政治手腕は、天晴れとしか言いようがない。私は、徳川幕府の中興の祖とも評価 されている8代将軍、吉宗にも匹敵する働きをしたのが、室町幕府の8代将軍、 義政の妻、富子であったと思えるほどだ。戦国時代の天才武将、信長によって滅 ぼされる15代の義昭まで室町幕府を維持できたのは、富子の豪腕によるところが 大きいと思える。ドラマは、そのあたりの消息を簡潔にまた克明に表現していた のがよかった。また今回は、富子が主人公なので女性歴史学者を解説者に選んだ のも効果的であった。次回はこのドラマの最後の語りにあった岡山県にある熊山 と富子との関係を私の少年のころの思い出とともにお伝えします。(2003年9月18日)

 

閑話:日野富子・・・。女傑であろう。が、哀しみがすぐそこに待っていたと は、さすがの富子も気がつかなかった。義尚を念願通り、9代将軍に就けたもの の、義尚はなぜか富子のいうことに忠実でないばかりか、戦場に行っても酒を手 離さなかったという。武将としては、あまり好ましい行為ではない。これは私の 想像だが、義尚は、父の文化趣味というか文化好みのさまを見、また父、義政を 遥かに凌ぐ男勝りの母、富子の存在をいやがおうでも見る日々、また陰謀の渦巻 く幕府内外を取り巻く政争を見るにつけ、優しく、かつ才も人並み以上にあった 彼は悩んだ筈だ。やがて義政に反感を持ち、武門としての誇りを持とうとしたの ではないか。さりとて母、富子のように辣腕(らつわん)を振るうには、若過ぎ た。母が彼の目には、実像以上に大きく映り、「わしは、母のような力がない」 という思いもあった筈だ。母をこころの芯では慕いつつも、顔を合わすと、母を 疎んじる態度を取り、母に反抗したようにも思える。女傑とはいえ、富子は子を 持つ母であり、また傷つきやすい繊細なところも併せ持った女性だったと思う。 愛を注ぎ尽くしたと思っていた義尚に疎んじられ、自分の愛情が伝わらないと知 り、大きな落胆と寂寥感を覚えた彼女は、臣下の赤松の家臣でふところが大きく 大人の風格を持っていた浦上則宗を頼って山の緑と田園が広がる赤磐郡熊山 (町)の山麓に身を隠したのだった。「おーい、熊山に蝉(せみ)捕りに行かん か―」と、夏休みに従兄弟で5つ歳下のS君に声を掛け、標高(約500メートル) の隣町の山では最も高いこの山 を目指して登ったのは、私が確か小学6年生だっ たと記憶している。朝方出掛けて夕方近くに勇んで村に帰ったことを覚えてい る。道に迷いがちで蝉は期待通りには、捕れなかったように覚えているが、村で はお目にかからないような朱色に塗り込まれ柱などを見ながら廊下のようなとこ ろを2人で渡り歩いたことなどがこころを躍らせたのだ。(2003年9月18日)

 

閑話:私は幽かな記憶を辿り、熊山に関する知識をネット検索するなどして懸命 に集めた。「一体、私の脳裏に今でも焼き付いている朱色の柱は、そして長く て、子供ごころにも、広く感じた廊下みたいなものは何だったのかとわくわくし ながら・・・」などと、想像を逞しくした。まず思ったことは小学一年のS君を 引き連れながらよくまぁー、登ったものだと少年時代の蛮勇を懐かしく思った。 「これでは、蝉捕りなどまともにできない筈だ。道に2人して迷うのも無理ない な」と。さてさ迷いながらその朱色の柱のある場所に辿り着いたところだが、恐 らく福生寺ではなかろうかと思う。3重の塔を持ついささか豪奢な造りで、富子 の夫、8代将軍、義政の2代前の6代将軍、義教(1429−1441)が、将軍職を義勝に 譲った年、1441年に寄進した寺なのだ。ここまで調べてみると、富子が熊山に一 時、隠棲したのも判った。富子は、義正や子、義尚の死をこの地で弔ったという 話も納得できる。この熊山町に富子の墓と夫、義政の墓があるのも当然だと思っ た。私が急ぎ、調べたところによると、富子が、義政の墓を建てたようだ。富子 は、夫、義政を頼りない将軍だと思いつつも、こころの内では心底、愛していた と改めて想いを巡らせていたら、なにかほのぼのとした気分になったの だ・・・。(2003年9月20日)

 

閑話:さて富子のことで書き忘れたことを思い出したのでお話を続けます。富子 は赤松家の臣下の浦上則宗を頼って備前・熊山に隠遁したと触れたが、ついでに 語らなければならないことを思い出した。それは、私ごとで恐縮であるが、私の 処女小説「生生流転」で福岡城の城主として浦上則国を登場させているが、私が 見た系図では則宗の弟になっている。しかし、則国は則宗の子との説もあるな ど、今の私には詳しく調べるゆとりがない。「生生流転」では則国の側近として 私どもの祖先、岸野五郎左衛門を上げている。それはともかく小説的なイマジ ネーションを膨らませると、富子のことは、十分知っていた可能性はある。時代 考証が欠かせないが、さらにいうと、五郎左衛門は、私が見た系図の通り、則宗 の弟なら、富子の姿を直接見た可能性も否定できない。私は、残念ながら、この 小説を書くときには、歴史の勉強不足もあったが、主人公を豆田村の真言宗の末 寺の初代の住職になる江戸元禄年間の太郎丸、法名、順円にしたから、五郎左衛 門の周辺の歴史的広がりに対する認識が欠落していたようだ。それは、それとし て今回、NHKの「その時歴史が動いた」=応仁の乱・富子=を見て備前と足利 家の係わり合いの一面を知ったのは、今後の課題という意味を込めて勉強になっ たことは事実だ。(2003年9月20日)

 

閑話:9月20日、家内と一緒に二条城築城400年祭に出掛けた。1603年、関ケ原の 戦いで勝利した家康は同年、朝廷から征夷大将軍に任ぜられるとともに、江戸幕 府を開設するとともに幕府の京の拠点として完成させた。1603年3月21日のこと である。家康は、この城を京都の警護の要とし、また儀礼の場として用いた。さ らに家康上洛の際、宿舎として用いたのはいうまでもない。東大手門は初公開。 想像通りの造りだった。「あぁー、怖い!」と先を進んでいた女性の声がしたの でなんだろうと、やや足を速めて進んだ。「石落とし」と表示してあった。かな り大きな石を落とすことのできる細長い隙間が設(しつら)えてあった。もし、 襲われるようなときに備え、そこから石を落下させたり、熱湯を浴びせたりする ようにするという説明書きがあった。さらに豪華でもしっとりと落ち着いた柄の 布製の壁掛けなどが展示されていた。次に観たのが、台所(700平方メートル) であった。私には、どこがどう台所かよく判らなかった。交野市の代官屋敷の模 様は、11月中にも刊行する「交野物語」に詳しく記述している通り、いかにも台 所という雰囲気が漂っていたが、どうもそんなふうでもなく台所を徳川家と関係 の深かった確か後水尾天皇の衣装などに加え、家康が使った湯呑み茶碗などの展示に使われていたような気がした。全体として豪華を極めた信長やとりわけ、き らびやかさを好んだ秀吉の派手な感じは全くなく、大寺院を思わせるような落ち 着いた風情を漂わせていた。城内の庭も小堀遠州の石庭だった。私たちは休憩所に入り、コーヒーを飲みながら一休みした。そ こに張られてある年表が私には、徳川時代270年の流れを改めて追うことがで き、参考になった。1605年、家康、将軍職を3男、秀忠に譲る。これはこの年表 にあったかどうか定かせはないが、1606年、徳川譜代の井伊直継の彦根城が完 成、京都に、にらみを効かす、彦根城が完成しているのだ。江戸城の築城が藤堂 高虎らの手で工事がこの年、始まったのだ。私がこの日、もっとも関心を寄せた 年代は1615年。この年の「大坂夏の陣」で家康が、この城から交野の平井家を目 指して朝方、兵を引き連れて出発したのだ。勝利を確信していた家康は悠揚せま らぬ態度で兵を進め、午後4時ごろには平井家に到着、四条畷に主力部隊を引き 連れてきていた秀忠や主だった臣下と、この夜、戦略会議を平井家で開いた。戦 いに敗れた豊臣家はこの年、滅亡。家康も翌年の4月17日この世を去る。以来、 徳川家は15代将軍、慶喜がこの城で大政奉還するまで約270年間の長きにわたっ て幕藩体制を維持したのだ。書物などで知るのと、実際に城内を見、歩いて見る のは大違い。大変いい体験になった。家康がこの城から、交野に向けて兵を引き 連れ出発するさまを想像すると、よりリアリティーを感じ取ることができた。( 2003年9月21日)

 

閑話:ドラマ、「武蔵」−−。ついに雌雄を決する時が来た。「決闘巌流島」を 見た。勝負は画面を見る限り、あっけなく人口に膾炙されているごとく武蔵の勝 ちだが、前回、今回と続き、勝負は2人が闘いを決めた時から始まっているの だ。2回のドラマともそのあたりが詳細に描かれていてこのドラマのヤマ場となる「厳流島の闘い」は、成功した。武蔵が兵法者としてはわずかに広い視野と勝負に賭ける一念と気迫が小次郎を上回っていたことを微妙な演出で表現していた のは見事だった。武蔵は潮流の変化を予想し、勝った後で追っ手の追撃から遁れ る方途を探っていた。それをやり遂げるには、勝負がついた時に下関方面に潮の流れが向かうことまで計算していたのだ。従って遅れること3時間。7時の刻限を わざと遅らせ、柳生宗矩の策に勝とうとし、それを実際にやってのけたのだ。待 たされる間、小次郎はその策を判りかけていた。小次郎の鋭利な頭脳を表してい るのだ。闘いが始まった。武蔵の鉢巻がはらりと額(ひたい)から落ちる。つま り武蔵の脳漿(のうしょう)が飛び散る寸前まで切り込んだのだが、武蔵は「肉 を切らせて骨を切る」かごとく小次郎の脳天に櫂で作った木刀を打ち下ろしてい たのだ。武蔵の眼前で小次郎は、長刀を持ったまま額から血を流しながら、どっ と倒れた。「武蔵、見事!」と語り、そして「行け」と叫んだ。武蔵は猟師を待 たせていた舟着場まで駆け抜け、小船に乗り込んだ。追っ手を見事にかわしたの だ。また、今回のドラマで印象に残った言葉が宗矩の口から出た。「大衆という ものは、英雄を好み、拍手を送るものだが、こころの底では権力におもねるもの だ。相い撃ちが最もわしにとれば好ましい顛末だが、いずれかが勝ち、大衆が騒 ぎ出し、崇めるような事態になったら、わしらにとって好ましくない」。東西を 問わず、いわゆる英雄諸氏は(例えばキリストなど数えればきりがない)大衆に 見捨てられた例は多い。そんなもんだよ、人の世は・・・と一瞬、2人に向かっ て言いたいような想いが過ぎったが、2人とも名は現代まで生きているのだか ら、ドラマを離れて今の現実と永遠なる真実とは何かと暫し、考えさせられたの だ。(2003年9月21日)

 

閑話:突然、秋が深まったような気がするような昨日(9月21日)と今日だ。21 日の深夜など思わず、電器ストーブでも入れようかと、一瞬、思ったくらだ。私 は、今夜はしっかりと就寝時には蒲団をかぶって寝ないことには、それこそ風邪 を引いてしまうと、こころを引き締めたものだ。翌朝、夕刊担当で早く会社に出 勤したら、ゴホ、ゴホ、ハクション・・・と広い編集局の2、3カ所で聞いた。 喫煙室で職場仲間に「どないしたん、風邪かー」と訊いたら、「ええ、昨夜、あ まり寒かったのでつい」と少し、ばつの悪そうな表情で彼は答えた。(む、む、 無理もないな)と昨夜の私のやや狼狽(ろうばい)したさまを思い出したもの だ。私の住まいは、山裾にあるため、平地よりか1、2度は気温が低いから無理 もない。しかし、つい一週間ほど前までは、夕方、団地周辺を散歩しても家に辿 り着くと、汗びっしょり、シャワー浴びが欠かせなかったほどだった。9月に なったら少しずつ、寒くなっていくのが普通だが、今年は、9月に入っても8月並 みの30度くらいの気温が続いていたから突然、様変わりしたような落差を感じた わけだ。自然の営みは、やはり静かに、ゆったりと相貌を変えていってほしい。 折から、小泉内閣改造の発表、恐らく永田町界隈は、東京の気温は調べていない が、少々寒くたって熱気むんむんといったところだろう。それにしてもこの夜の 小泉首相の記者会見は見応えがあった。おっしゃる内容が小泉さん流にしゃきっ と筋が通っていた。理想の布陣ができたという自信もあったからだろうか。総選 挙での菅さん・小沢さん連合との選挙戦の帰趨に想いを馳せた有権者の方々も多 かろう。双方とも歴史の節目、転換期に際し、国民を納得できる政策を披瀝、 清々しい政策論争を展開してもらいたいと想う。秋晴れのように・・・。(2003年 9月23日)

 

閑話:お彼岸の23日、成田山大阪別院明王院に先祖供養に出掛けた。この夏、お 盆には家内を伴って大阪府箕面市にある北摂霊園に親父の墓参りと郷里、岡山に 帰り、先祖の墓参りをしていたが、彼岸ともなれば、改めて先祖供養をしなけれ ばならないと思ったからだ。私が同院に連絡を取ったのは昼下がり。「もうお彼 岸の護摩供養は終わりました」と電話を受けた女性の方が答えられた。私が残念 そうな声を出したからか、「でも個人で御供養なさるのでしたら、午後2時半ま でにおいでになれば大師堂にお参りになられますよ」と教えていただいた。 「おっ、タクシーならまだ間に合うな」と思い、数珠と赤表紙の檀徒用の「成田 山法楽常用集」を持って駆け付けた。この大師堂ではこれまで2度ほどお坊さん にお頼みし、先祖供養してもらったことがある。この日は、私独りで供養の経を あげた。数珠を左手の親指と人差し指の間に挟み、持参した経本を持って20分近 く唱えた。まず「九條錫杖」を唱え、次に「観音経」を唱え、最後を仏眼仏母修 法で締めくくった。私がこの日、最後の大師堂の参拝者のようだった。私は供養 の経をあげ終え、一礼して下がり、檀徒の皆さんが憩う休憩所に入り、椅子に腰 掛けて前方に見える大師堂を暫く眺めていたら間もなく3、4人の僧侶らが丁寧に 片付けをし、3時には堂は閉まった。私はかねて想っていた彼岸での供養を済ま せ、ほっとした安らぎを覚えた。帰りは、家内が車で迎えに来ることになってい たので、ゆったりとした気分で読経が本堂で響き渡るのを耳にしながら、成田山 大阪別院明王院の境内を歩き、荘厳な秋のひとときを過ごした。(2003年9月23日)

 

閑話:私が怒ったことを正直に書く。ある人から「木下さん、来年ご定年のようですが、退職金や厚生年金もおありだそうだし・・・。ご心配ありませんね」と いわれたのだ。(こら、ええ年さらしてなにぬかしよるんじゃー)とまぁー、口に はこのような下品な言葉は、吐かなかったが、遠回しにやんわりと反撃にでた。 天理教の教祖、中山みきさんが、言われている。「金があっても、健康を損ねた ら、いくら御馳走を食べようとしても美味しくないばかりか、食べることさえで きない。健康なら粗食でも、水を飲んでも美味しいではないか」という趣旨のこ とを言われていることを、過日、天理大学で開催された学術大会に参加し、買い 求めた天理教関連の本の中で発見した。本当にそうなのだ。実際、苦労しらずの 三十代のころは、ふと立ち止まって黙考すれば、分かっただろうが、私もそんな 簡単なことに理解が及ばなかった。しかし、そうは言っても、ケースバイケー ス。金繰りに苦労し、このままなら倒産だと観念しようと額に皺(しわ)を寄せ ていたある経営者に融資者が現れ、その融資で会社の危機を乗り切った経営者な ら金の有難さを真の意味で掴んでいるだろう。だが、一般サラリーマンの私も含 め、平凡な徒は定年まで大過なく無事に過ごせたこと自体を喜ぶべきだろう。退 職金などの額ではなかろう。まあ、このように明快に言い切ることができるよう になった今の己(おのれ)自身をつくっていただいた様々なご縁のある方や書物 などに感謝すべきだとつくづく想う。秋深かしの感がする深夜に記す。(2003年9月25日)

 

閑話:今、私は先刻、読者の皆さんにお知らせしました「交野物語」(仮称)の ゲラ読みに懸命に取り組んでおります。いずれ分かることですが、私が原稿を預 けている出版社の社長も真剣かつ情熱を込めて編集に当たっていただいている。 170ページくらいの本になりそうですが、著者の私がいうのもなんですが、お う、よく書けているなと自慢したくなるような箇所があります。それは画家、富 岡鉄斎の育ての親といってもいい、太田垣蓮月尼が交野物語の中に登場するとこ ろです。ま、尼のことを書いている時は、体調もよくかなり感度、感性が共に鋭 敏に働いていたのだろうと今、読み直してそう感じるくらいです。もし、読者の 皆さんの中でこの本をご購入されたら、蓮月尼の箇所から読んでいただきたいと 申し上げたいほどです。今日は、この物語の刊行に向けた編集経過にとどめま す。では、蓮月尼の歌を一つ取り上げて今日の閑話の終りとします。<宿かさぬ 人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花のしたぶし>。(2003年9月26日)

 

閑話:ある作家のことを触れなければならないと、ふと思ったので書きます。兵 庫県姫路市の船地慧さんである。私これまでの著作の関連でお付き合いした編集 者(東京在住)から氏のことを紹介された。すぐ氏のところへ電話を入れたの だ。船地さんは情のある方であった。「如来が弁護してござる―暁烏敏『小説』 満之・涙骨」という先の私の小説を脱稿して3年ほどたっていたころだ。私の記 憶では確か電話でお話しをしたのは、私が白内障になり左目の手術をした後だっ たような気がする。ちょうど、バブル後の不況が顕著な形で出版業界を襲い始め たころであった。私の原稿が拙く、しかも無名だったこともあろうが、脱稿後3 年たっても私の原稿を引き受けてくれそうな出版社に出合うこともできず難渋し ていたころだった。氏は大変忙しい方であったが「木下さん、あんただけは特別 や、いつでも電話ください」とおっしゃり、野太いながら澄明な響きの声をお持 ちの方だなと思った。今東光さんや松本清張さんに可愛がられた方である。とり わけ、今さんとの思い出話のときは妙にリアリティーがあった。む、この御仁のご性格なら、今さんに可愛がられたのも分かるなぁーと思った。「木下さん、原稿 を読ませてもらいましたぜ。まぁ、まぁーという線とゆうところですなー、正直 に言わせてもらいますと、ストーリーはいいのですがね、そう、登場人物の風貌 がもう少し鮮明に浮かび上がるともっといいですがね」とはっきりおっしゃる。 そういわれてみればそんな気がしないまでもない。だが、新聞社の仕事もかなり 忙しく、書き直す時間というかゆとりがなかった。でもそんなことよりか、氏が 語ってくれた文壇の裏話は愉快で参考になった。そのころは、前述したようなタ イトルは、私の脳裏には浮かんでいなかった。小説がまだこの段階では熟成して いなかったのだろう。「木下さん、物書きはね、結局は体力が勝負ですよ。な に、白内障の手術をしっちゃたって!む、気の毒になぁー。でもさ、新聞社のお 仕事は、前向きになされたほうがよろしいですよ」と説諭と励ましの言葉をいた だいた。それから1年以上たって、どうやらいけそうだという手応えを感じたこ ろだった。船地家に電話を入れた。電話口に出られたのは、氏の奥様だった。 「慧はね、昨年暮れ、亡くなりました・・・」と悲しみを堪(こらえ)ながら、 おっしゃられた。「えっ」と私は絶句した。まともなお悔やみの言葉も掛けられ なかった。それから半年たったころ、ようやく上梓に漕ぎ着けた。私は追悼文を 添えて奥様のところに「墓前に一時(いっとき)でもいいですから、置いていた だければ」とのお願い込めてお贈りした。つい10日ほど前、氏が誇らしげに 語っていたある全国総合雑誌社から突然、原稿依頼が舞い込んだ。原稿用紙2枚 だから既に書き送った。A編集者にお聞きした。「どこで私の名前をお知りに なったのでしょう」と聞いた。「ええ、年鑑ですよ。木下さんの名前が偶然見つ かり、ふとこの方にお願いしよと思ったのです」とAさんは言われた。そこで私 は「船地さんのことをよく知っておりますよ」「えっ、そうですか。お亡くなり になられました・・・」とAさんは応えられた。私は勿論、Aさんもこの瞬間、 作家、故船地慧さんの顔とユーモア溢れる語りとあの澄明な声を思い出したの だ。活字になりましたら読者の皆さんに簡単に紹介します。(2003年9月27日)

 

閑話:私は今日(9月27日)の夜勤で貴重なことを学んだ。と、言っても紙面編 集部の仕事の上ではない。私と同年齢の製作局のAさんからだ。同じ年、来年定 年を迎える。私の方が何カ月か早く定年を迎える。高卒の方である。学歴など人 生を送る上で全く関係のないことである。従って私より社歴は4年上である。い つもにこにこしている御仁である。「木下さん、この間、声を掛けられた年金、 退職金のことですが、判る範囲でご説明しますよ」と編集局の中にあるご自分の 仕事場に私を誘ってくれた。で、驚いたというか敬服した。家庭人、または社会 人としては、はるかに私より上だなぁーと感心した。彼は自分で老後の年金生活 表を作っていたのだ。新聞社からいただく退職金はいくらで月づきの年金額はい くら、娘さん2人の結婚費用にこれくらい必要かなどに加え、何歳になれば、こ れくらいの収入になるなどと細かに記載してある。それを基に私の質問に明快に 答えていただいた。見事なものだなぁーと感心し、敬意を表したい気分になっ た。どんぶり勘定的な生活感覚しか持ち合わせていない「粗忽(そこつ)者」の 私からみれば、彼の説明を聞いていて碩学のお話に匹敵するような感動を覚えた のだ。立派な一語に尽きる。「木下さん、今、貴方がメモされたことを奥さんに 話しはったら喜ばれるでしょう」と自信たっぷり、ゆとりの表情でそう言われ た。「うむ、そうするぜ!ありがとう」と私は礼を言って仕事にとりかかった。 新聞記者はおおむねそのような感覚に乏しい。とりわけ、私はそういう感覚に欠 けているから大助かりである。で、思ったものだ。漢(おとこ)というものは、 やはり現実に根差した生活力と豊かな生活感覚を持つことが基本であると改めて 認識したわけです。政治論議、経済論議、文学、哲学論議もそれはそれでおおい に結構だが、Aさんのような基本がなかったら駄目だなとつくづく思いました。 今は激動の時代です。リーダー的なお立場にある政治家、官僚の皆さん、私を含 め庶民のささやかな人生計画、生活設計を壊さないようなより良い社会、国づく りに励んでいただきたい。国民に信を問う解散、総選挙も年内にはありそうで す。米統領の名演説を思い出します。「バイザピープル、フォーザピープル」で す。無論、「ドゥーノットアースク・・・」という気概も持たなくてはならない と思いますが、やはり、政治家、官僚の皆さんに踏ん張っていただかないと、今 のアーゼントマター(重要課題)は乗り切れないばかりか、Aさんの老後、私た ちの老後の生活は豊かになりません。さらにこの際、言わせていただくと、若者 世代の未来も開けてまいりません。それだけに与野党を問わず、今の政治家の皆 さんの責任は重いのです。広くかつ深い歴史的認識を併せ持ち、選挙戦に臨んで いただきたいと念じます。(2003年9月28日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」−−。宿命のライバルだった佐々木小次郎との闘いに勝利 した武蔵。小次郎の剣の鋭さだけでなく武士(もののふ)としての清い魂に触 れ、武蔵は勝負には、勝ちを上げたが、果たして武士として、漢(おとこ)とし て本当に勝利したのだろうかと思った。武蔵はそう自問自答しながら、郷土、美 作に歩を進めた。又八から愛しいお通が美作の地で又八の母、お杉と一緒に暮ら しているという話を聞いたからだ。武蔵とお通は美作で再会した。2人は長(な が)の別れ別れになっていた空白を一挙に埋め尽くそうと互いに抱き合った。武 蔵は一緒にお通と暮らしていたお杉に言った「お杉ばばよ、お通と一緒に私と暮 らそう。田畑を耕しながら・・・」(著者要約)「武蔵、お前は剣の道を捨てら れるのか」(同)とお杉は訝(い)かる。「日は昇り、日は沈む・・・。そんな 生活をしてみたくなったよ、お杉ばば殿・・・」(同)、「お前なんかと一緒に 暮らすと、又八に申し訳ない」(同)、「違う。又八は喜んでくれる。又八の素 晴らしいこころが判ったのだ。お杉ばばよ」(同)。江戸までも武蔵を追いかけ ていたお杉の田畑はすっかり、縁者に奪われてしまっていたのだ。武蔵は新しく 開墾を決意、3人で暮らすことになった。次第に噂を聞いた人々が3人の下に駆け 付け開墾は始まった。「お通みてくれ。は、は、早く来い」と武蔵が童心に帰っ たような声を上げた。開墾地に植えた植物が芽を出していたのだ。歓喜、歓喜、 歓喜・・・。2人は喜び合った。しかし江戸、大坂では家康と秀吉の子、秀頼を擁する澱君との間で抜き差しならぬ不穏な空気が広がっていた。家康は将軍職を 子、秀忠に譲り、双方の軋轢(あつれき)は深刻化していた。大坂冬、夏の陣が 始まろうとしていたのだ。又八は、美作近辺で産出する鉄を利用して鉄砲を作 り、双方に売り込み一儲けを企むのだ・・・。日は昇り、沈む・・・自然ととも に生活する武蔵とお通は幸せそのものだ。今後この戦が2人の睦まじい生活にど んな変化をもたらすのか次回を楽しみにしたい。武蔵の求道の歩みを軸に、人世 (ひとよ)の有為転変の様を描き続けてきたドラマ「武蔵」に期待したい。(2003年9月29日)

 

閑話:いつもこの人の書く文章も中身も凄いなぁーと感じ入る記者がいる。編集委員のAさんである。上、中、下と三回「白隠さん」を連載した。私は仕事の合 間、電車の中で読み、私流儀の読み方からすればかなり克明に読んだ。私が仏教 に多少の関心を寄せており、しかも「白隠」につては人並み程度だが、臨済宗中 興の祖といわれる白隠の凄さについては書物を通じて知っていたからかもしれな い。白隠が大書した「南無地獄大菩薩」はあまりにも有名で仏教の神髄をあます ところなく伝えており、書そのものに白隠の個性と溢れんばかりの気迫がにじみ 出ている。Aさんは、京都五山の一つ南禅寺の名管長だった芝山全慶師の著書を 引用しながらこの書の意味を的確に表現していたのはさすがだ。これなら読者も 納得がいくなと思った。白隠の時代でも今でも誰しも「おれは、地獄の中を生き ている」と思うものだ。そして直面する問題に気圧されて悲嘆にくれたり、嘆い たりする。中には業火のような地獄の中でもまっしぐらに力強く生き抜くつわも のもいる。さてAさんが書かれている通りなのだが、私が知る白隠は、生まれな がらの剛の漢(おとこ)ではなかった。どちらかというと強烈な個性の裏に感受 性の強い、いわば繊細な気質を持っていた少年であった。このあたりは、Aさん が記述されている。青年、壮年になってもこの性格とともにあったのが慧鶴(え かく)こと白隠であった。Aさんが触れておられるように「おれはついに悟っ た」と増冗漫、つまり天狗(てんぐ)になってしまうところが、白隠も人の子と しての面白さであり、あるいは正直さを表しているのだろう。が、至道無難禅師 の直弟子に当たる正受老人に「お前のいう悟りは偽者じゃ」と木っ端微塵にこき 下ろされるのだ。与えられた公案に老人から中々「諾」の答えがもらえない。悩 んだ白隠は、ついに托鉢に出る。Aさんがお書きのようにある老婆の門前で托鉢 を請う。が、老婆はいきなり白隠をめがけて箒(ほうき)で振り回し、強く打ち 据えてきた。白隠は、立ったまま、老婆の箒が自身の顔、首、肩など全身に当た る音を痛みとともに黙して聞いていた。「畜生、この糞婆・・・」と初めは思っ ただろう白隠のこころに微妙な変化が生じた。白隠は、老婆の振るう箒(ほうき)のピシャ、ピシャという自分に向けた容赦のない音を素直にそのまま受け止 め、音と一枚(一緒)になっていた。するとどうだろう、痛みが消え、老婆に対 する怒りもいつの間にか消え去っていたのだ。正受老人に再び面受して(汝、 徹せり=悟りに至たる)」と認可を得る。老婆の理不尽な振る舞いをまともに受けたのが後年の地獄をそのまま受けることが安楽を得る道そのものだということになったと思う。Aさんの連載記事を読みながら改めて思った。 「南無地獄大菩薩、南無地獄大菩薩、・・・・」。毎度のことではあるが、Aさんの記事に深い感銘を受けたのだ。最後になったが「生受不受」ということは簡単に言えば、人生で遭遇する難間をまともに引き受ければ困難が困難でなくなるということだ。(2003年9月30日)

 

閑話:先日、私が勤務する新聞社の製作部員で来年、私と同じく定年を迎えるA さんの生活設計の見事さをこの欄で紹介しましたが、彼は私に言った。「私は、 釣り三昧ですよ。とにかく海が好きですからね。海辺にマンションでもと考えて おるのですわ」。「おっ、貴方、凄いじゃない!」と思わず言い、彼の自信たっ ぷりの表情を一瞬、羨ましげにみつめた。「木下さんも釣りが嫌でも海辺のマンションでも買いはって執筆三昧はいかがです。とにかく海はいいですよ」と切り 返してこられた。(そんな贅沢が果たしてできるかなぁー)とちょいと頭を巡ら せたのだが、今日は、ついでに私の執筆計画について願望を込めて今、構想段階のものを2つだけ紹介します。今、11月下旬を目標に「交野物語」(仮称)を刊行すべく暇を見つけてはゲラ原稿の直しに懸命に取り組んでいます。そのひとつは「淀競馬場と関西人(または関西文化、または遊び人など)」と全国有数の「淀競馬場」に関連した物語を書こうと思っています。私はこれまで馬券を自分では、確か買ったことはありません。とある記者クラブで他社の記者か ら「木下さんどうです。馬券を買いに行きますが、ついでに買いましょうか」と いわれ、「じゃあ、お願いします」と手にしたような記憶があるくらいです。でも休日に京都に遊びがてらに行くたびに京阪電車に乗る。大きなレースに出くわしたときなど淀駅で競馬新聞を持った人たちが眼を輝かしながらどっと降りていかれる。そんな光景を数えきえないくらい見てきた。ある日、何かが閃いたので す。「淀競馬場からみた関西人、または関西文化、ないしは関西気質を書いてみ たいなぁー」と。来年四月末で定年です。定年後は、半年から一年くらいかけて 週に一度は、淀競馬場に顔を出し、馬券を買い、レースを楽しみながら、私の目 で見た表題のような物語を書こうと思っております。今回はこれにとどめ、次回 はもう一つのテーマを紹介します。(2003年9月30日)

 

閑話:もうひとつは、小説「富岡鉄斎」です。この御仁は、幕末数年間、私が住 んでいます交野市のとある山麓にあった寺に仮寓していた「女良寛」ともいえる 太田垣蓮月尼に少年期、養育された。有名な画家である。11月末をめどに刊行す る「交野物語」(仮称)にこの欄でも触れた尼と関連のある人物として登場させ ています。墨絵の世界で独自の境地を開いた画家です。では、なぜ「富岡鉄斎」 なのかと申しますと、まず私は子供のころから絵が大好きであるからです。定年 後には、墨絵の勉強にいきなり、入ろうと思っておるからです。その場合、鉄斎 の絵も参考にするだろうし、またそうしなければ、画家、鉄斎の人となりや内面 の世界は掴むことができないからです。つまり、自分で墨絵を描きながら、鉄斎 の世界に迫ろうという試みです。先に読者の皆さんにお知らせしました「淀競馬 からみた関西文化」(仮称)と並行して準備を進めようと思っています。私はひ とつのことだけに集中するのが苦手なほうですから、かたや軟派の競馬、硬派の 富岡鉄斎ということになります。それだけに妙味があるなと思っております。さ らに鉄斎が絵の道に入ったのは、氏が還暦の時だと聞いております。私も来年四 月末には還暦を迎えるのも氏に関心を寄せるひとつです。恐らく「淀競馬」「富 岡鉄斎」という順になろうかと思います。私も定年後、本格的に執筆活動に取り 組みますので宜しくお願い致します。(2003年10月2日)

 

閑話:昨日、夕刊の仕事が終わり、帰りしな、いつものように配られてきた各紙 の夕刊をさっと流し読みする。これは私のいわば、一日の仕事納の儀式のような もので「慣習」になってしまった。で、昨日も。(おっ、この新聞とこの新聞は 買わなくちゃー)とこころの中で呟く。駅の売店で買ったのがS紙とM紙だっ た。S紙は年金関連の連載記事、M紙は川端康成、谷崎潤一郎、小林秀雄ら文豪 がある新聞社の学芸部員に宛てた手紙を公開したものだった。記事内容だが、文 豪らは金銭感覚が大雑把(おおざっぱ)であったかであるように思えたし、また 新人の紹介も丁寧におやりになるのだと感心した。文豪らの素晴らしい作品から は窺がえない素顔が見えてきてい興味深く読んだ。また懐具合が悪いとか小説が 思い通りに書けないなどと文芸部記者に訴えたものが要領よくまとまっていた。 文士だからできたのであろうが、文壇で重きをなした小林秀雄は突然、金が入用 になったのか既に書いた原稿がゲラになっていたのだろう、ゲラを持参する者に 100円ほどを御配慮くださいとの手紙は当時の文士の姿を彷彿(ほうふつ)とさ せた。いわゆる「文士時代」の裏面史を思うような気がした。恐らく今の時代、 皆無に近い作家と新聞記者の関係を見た。また私は、続いて年金関係の記事を さっと読んだが、「おう、今の時代、この年金を大切にしなくちゃー、非才な私 などこれを頼りに細々と・・・」などと暫し想いを巡らせたものだった。(2003年10月2日)

 

閑話:前回に引き続き和久田さんに関連することに触れる。年表づくりは、自分 ながら大変苦労したと思う。世界・日本史を左に書き、その右に交野地域の年表 を付記したのだった。世界や日本の動きでは、どの出来事を選べばいいか、そし て交野はと思案していたら結構、苦心する。でも作業が終わってみると、改めて 歴史の勉強になったし、私が自由というか奔放に書き続けた物語ではあるが、そ の歴史的追認ができたのはよかった。次回のゲラではこの年表と地図も送られて くる手筈だから、和久田さんに専門家のお立場で見ていただくことにしている。 確か出版社に年表を送ってからだったと思うが、和久田さんに電話を入れた。 「和久田先生、やっと年表ができました。ところで作成中に初めて分かったので すが、1336年に例の戦いで楠木正成に見方して和田助忠、助光兄弟が楠木方に見 方すると、年表に加えたのですが、和久田さんの御先祖に当たりますね」と私。 「ええ、そうですね」と和久田さん。やはり武門にも優れた家系だなと思った。 ここで延々3時間も続いた先の先生との会合の時のことを触れよう。2人ともある 表現の仕方を巡って暫く沈黙が続いた。もう、意見交換をしてからぶっ通しで2 時間以上が経過した時だった。「どうだ!木下さん、これでどうだ!」と部屋 いっぱいに響き渡るような大声、気合を込めた和久田さんが放った言葉だ。 「む、む、む、先生、それでいきましょう」とすぐ和久田さんの指摘が正しいと のみ込めた。(それにしても和久田さんは凄い!)と私は、一瞬、舌を巻いた。 私は1336年の年表を書き入れながら、そんな気合のこもった和久田さんの姿を思 い出していた。5日の日曜日には、家内と一緒に楠木、和田一族ゆかりの神社巡 りに出掛けることにした。(2003年10月3日)

 

閑話:日本ペンクラブ京都例会10月4日、出席した。今日ばかしは、ゆとりを 持って参加しなくてはと思っていたのだが、やはり、例会が始まる5分前という ことでいつもと同じパターンになってしまった。が、勉強になったことを読者に お知らせ致します。京都例会は決まって南禅寺近くにある「洛翠」で行われる。 いつもの通りの行事が行われた後、懇親会。「おっ」とこころの中で叫び、耳を 澄ませたのだ。洛翠の庭園を造った7代小川治兵衛から4代後の11代治兵衛さん自 ら出席され、洛翠庭園のいわれについての説明があった。私も何で読んだか、聞 いたかおぼろげにこの庭園のことを知ってはいたが実は、庭園をお造りになった 人まではお恥ずかしい限りではあるが、知らなかった。この庭が実業家、藤田伝 三郎の別邸で庭の池は琵琶湖の形を模しており、機会があれば、ぜひ行ってみた いと思っている竹生島もちゃんとあることまでは脳裏に刻まれていたのである。 7代目治兵衛は平安神宮も手掛けたというから明治時代の腕のいいというか、日 本の造園美を表現した極めて優れた芸術家でもあったのだろうと思う。今日の7 代目治兵衛さんのご説明でぐっとこの庭園に親しみが増した。この池のお水は、 実際に琵琶湖の水が使われていることを知ったのは驚きであった。私は11代目治 兵衛さんの説明の声を耳朶(じだ)に残しながら一人でゆっくりと池の周りを歩 いた。実際、琵琶湖疎水から引き込んでいる水がこんこんと井戸に湧き出しでい るのも確かめた。ふと見上げると、東山連峰の稜線が空に弧を描いており、ここ ろが和んだ。ご説明によると、空の月、数多の星が池に映るというから想像する だけでも幽玄ではないか。親睦会もいつになく和やかであった。(2003年10月4日)

 

                        

 

閑話:ドラマ「武蔵」−−。今回(10月5日)の「武蔵」を見てますます「巌流 島の闘い」後から、あの名著、「五輪書」を書く60歳までの武蔵の成り行きが面 白くなりそうだと、直感した。「五輪書」を巡っては、様々な解釈、解説がなさ れており、これまで敬意を表してきた「武蔵」の脚本家とディレクター氏がドラ マでどう描くか年末まで興味を持って見続けたい。その直感だが、ドラマの「武 蔵」は、時代を超えて此岸での漢(おとこ)の生き方の理想を追い求めているよ うだ。柳生の里を継いだ石舟斎の孫、兵庫の介は、祖父が晩年たどりついた境地 (川のせせらぎ、鳥の声・・・。自然の息吹とともにあるこころ、生活、気合、 それらが一体となる剣の道)を慕いつつも大坂冬、夏の陣が起こりそうなころ、 伯父、徳川の下で辣腕を振るう宗矩に「俺を助けてくれないか。本当にこころの 底から信じることができ、何でも話せるのは、お前だ」と所望された兵庫助だっ た。兵庫助は、熟慮の末、宗矩に「あなたが、理想とする社会をつくろうと家康 殿の下で真摯に取り組むのなら、伯父上、御自身も手を汚しなさい。よろいしい か!私は祖父の勧めで仕官した。闘いの空しさ、おぞましさを知っているので す。私は既に手を汚しておるのです。伯父上ご自身が己が手を汚し血を流すなら ご協力しましょう。よろしいか」(木下要約と推測を交えた。一番大切な彼の台 詞(せりふ)が早口であったか、私がぼんやりとし、一瞬、聞き逃したような気 がする。再放送でもう一度聞き、趣旨が根本的に間違っていた場合は訂正致しま す)。と伯父の申し出を受け入れた。宗矩は武蔵に宮本武蔵(みやもとむさし) と名乗らせた姫路城藩主、池田輝政を亡き者にせよと命じたのだ。ある日、輝政 が菓子を食べた直後、腹痛を訴え、間もなく死んだ。輝政は秀頼に味方する唯一 の大名と言っていい存在だったのだ。その菓子を持参したのは仮名を使った兵庫 助だった。これより少し前、輝政に呼び出され、厳流島の闘いの勝利を褒められ た武蔵。「私は勝負には勝ちましたが人の道、生き方の上で勝利したのか今、迷 いの中におりますが、畑を耕しながら、日は昇り、沈むという大地とともにある 生活でなにかが見えてくるような気がしております」と言い、輝政を喜ばしたと ころだった。武蔵のところにも追っ手を切り捨てた見事な切り口から、輝政を倒 したのは兵庫助らしいとの噂が伝わってきた。「信じられない・・・」と驚きと 戸惑いをみせる武蔵とお通・・・。次回のドラマ展開が今から愉しみだ。(2003年 10月5日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」−−。10月13日放送のドラマ展開も見応えのある出来ばえ であった。武蔵は、お通とともに田畑を耕し、野菜作りなどに精を出していた。 鉄砲商人になった又八に嫌気がさしたのか、朱美が、彼のもとから離れていった が、ある日、朱美の母、お甲が「宮本武蔵村」に疲れ切った旅姿で駆け込んでき た。「武蔵!おるかい。又八が、真田幸村に捕らえられたのよ・・・」と悲痛な 声で武蔵に告げた。又八は、鉄商人よろしく、なりふりかまわず、豊臣方にも徳 川方にも自らの指示で作らせた精巧な鉄砲を売りまくっていた。徳川方に又八の 鉄砲が流れたと知った豊臣方の旗頭になっていた幸村に捕縛されたのだった。又 八は急峻な山の崖沿いにある幸村の居城に捕らえられていると知った武蔵。立会 いで知り合った若武者に村の長を託し、少年を供に幸村の居城に出掛けた。厳し い見張り網を掻い潜って、武蔵は幸村を前にした。「武蔵、佐々木小次郎を討ち 果たしたそこもとが、鉄砲商人と手を組まなければならないほど堕落したの か!」(著者要約)と幸村は、武蔵を嘲笑した。「いえ、又八は私の幼友達なの です。私にとってかけがえのない友なのです」(同)と武蔵は、又八の放免を請 うた。「うぬ、言葉なら何とでも言える。武蔵、そこの崖から飛び降りてみせ よ。それができたら、お主の言葉を信じてやる」(同)と幸村は、武蔵に厳しく 証を求めた。武蔵は、牢から引き出された又八と幸村の顔を暫く見ていたが、 そっと刀を置き、くるりと彼らに背を向け、おおきく身を翻して絶壁から飛び降 りたのだ。命を懸けて又八を救うために・・・。幸村も又八も驚いた。とりわけ 幸村は驚きだけでなく命を落とす恐れの多い武蔵の行動がにわかには信じること ができなかった。「む、おれには、かのような友というものはできないの か・・・」と呟く幸村。今回も武蔵を通じて人の生き方を視聴者に鋭く問い掛け た展開は見事であった。「あやうし 又八から」から「あやうし 武蔵」となっ た。次回のドラマの成り行きに期待を寄せたい。(2003年10月13日)

 

閑話:10月19日のドラマ、「武蔵」−−。重苦しい場面から急に明るい宴の場面 に急展開した映像変化は、ドラマ効果として抜群の出来栄えであった。政治戦略 として陰謀の数々を駆使する柳生宗矩の家康側近参謀としては当然の役目ではあ るのだが・・・。諸国に忍びの者を放ち、様々な情勢を把握し、家康の下で容赦 のない取締り強化に日夜腐心する宗矩。今回の重苦しい場面とは、言いがかりを つけ、京都にあって本多に比肩する実力者を失脚させるシーンであった。させる 側、される側双方の間に漂う、陰鬱な雰囲気から、真田幸村が、崖から又八の命 を救うために飛び降り、大怪我を負った武蔵が回復したのを労う明るい祝宴映像 が眼前にクローズアップした。着飾った美しい女達が舞いを舞う。「武蔵殿、そ こもとが、鉄砲商人に成り下がったと錯覚した己のこころを恥じているの だ・・・。すまぬ、武蔵殿」(著者要約)と幸村は、酒を武蔵に酌みながら語り 掛けた。「いや、又八は、私のこころの友なればこそのことでした」(同)と武 蔵はぐいと酒を呑む。続けて「いや私は、幸村殿かような宴とは無縁の世界にこ れまで生き抜いてまいりました。剣の道を求め続けて・・・」(同)と武蔵は呟 くように武蔵は幸村に言った。「それでこそ、剣豪、武蔵殿だ。私はそなたが羨 ましい。武蔵殿」(同)と幸村。「私は、ただ強くなりたい一心で生きてまいり ましたが、又八に友を思う優しいこころを教わったのです。そして今、田畑を耕 し、剣の闘いとは、無縁の世界に生きております」(同)と武蔵。「む、うむ、 武蔵殿、わしはのう、これまで家康を2度にわたり打ち破った父を誇りとて参 り、父の如く、家康に立ち向かうのを己の使命として親子ともども生き抜いて 参った」(同)双方の会話の中で武士の生き方は違いこそすれ「志」を持つこと の強い生き様が浮き彫りにされ、なにごとにつけ安易に迎合しがちな現代に生き る我々にも警鐘を鳴らした今回のドラマは示唆に富んでいて有意義であった。( 2003年10月20日)

 

閑話:私は昨日(2003年10月20日)「電子図書館」に投稿、掲載していただく 「天理の里 つれづれ草」の原稿を日本ペンクラブ事務局に送信した。この原稿 はすぐ私のHPにも立ち上げた。ところで、文中で白川静先生宅に持参していた 吉川幸次郎と西谷啓治の共著「この永遠なるもの」(雄渾社)を改めて紐解いて みた。さすがに碩学同士の対談だけに内容の濃さに感嘆した。その中の一節を紹 介する。私の簡略化をお断りした上で・・・。 吉川 世界は陰陽5行からできている。陽は押していく力、陰は消極的で消えて いくもの。二つは物質の運動の方向です。さらに属性を分類すると、木・火・ 土・金・水。これらが押し合い、世界が成立し、また人間の肉体も成り立ち、肉 体運動の一つとして精神が存在する。 西谷 プラトンやアリストテレストも天体運動そのものが、神だとい う。これは永遠不変な姿とみた。 吉川 まずわれわれの意識にのぼるのは山川草木。動物で文学にあらわ れるのは鳥が主。陶淵明の詩に「飛鳥 相い与(ともに)に帰る、此の中に真意 有り 欲弁己忘言」(鳥がつれだって還ってくる。このうちに世界の真実があ る。論理を駆使して弁ぜんとしてもその手がかりとなる言葉を忘れる)。 西谷 弁ぜんというのはぼくの問題と結びついている。 吉川 そうかも知れない。ギリシャの文学に出てくるライオンとかいう猛獣は中 国の文学には出てこない。動物を含んでもせいぜい鳥である。つまり意識する自 然は植物的自然だ。(2003年10月21日)  

 

閑話:ご縁があるというのだろうか。それともこの世というものは、やはり、思議を超えたものがあるのだろうか、と思うときがある。また思っていなかったこ とが自分との関わりのなかで起こったとき、機縁というものがあると感じること を誰でもお感じになったことがあるだろう。私ごとになるが、新着情報に立ち上 げ、また日本ペンクラブの電子図書館に投稿、掲載されることになる「天理の里  つれづれ草」という随筆のことでもそうだ。そもそも天理教については、教祖 は、中山みきさんだとは知っていた程度であり、敬愛する良寛さんが、江戸末期 に旅立たれたころ、みきさんが、生まれたか、もしくは神の啓示を受けたなど と、むしろ良寛さんの没年をかなり以前、調べていたとき、中山みきさんことを 知った程度のことであった。また、天理大学は柔道の名門であるとか、ある天理 大学教授でバイオテクノロジーなどに詳しい方の本を読んだなぁーという限りの ことであった。しかしMさんというやけに強い柔道の闘いをテレビで見ても、天理教という神道系の宗教集団となぜかつながらなかったのである。血の巡りが悪 いといえばそれまでであるが、そんな私が天理大学で日本宗教学会学術大会があ るというので、天理大学の学園風景を味わい、この際、少しは天理教そのものを 学ぼうという気を起こしたこと自体が、私には不思議でならないのだ。ましてや 神殿に参り、信者の方々の姿を見、感心したり、感動したりしてその様を随筆に でもしようなどとは、天理大学に行くまでは、想像すらしなかった。だからこの 世というものは、ややそれはおおおげさではないかといわれる向きもあろうが、 私には人知を超えたなにものかが存在すると、思ったものだ。今日はこの辺りに してご縁話を明日、もうひとつ紹介する。(2003年10月22日)

 

閑話:ご縁、機縁の続きの話を昨日に続いて紹介する。私が中国地方の基幹支局 で記者活動に挺進していたころは、若かったこともあるが、やる気に燃えてい た。従って、県庁の幹部の皆さんや中央官庁出先のトップクラスの方々とも結構 親しくして頂き様々なことを今でも思い出す。民間で忘れられないのは赤井士郎 三井不動産支店長だった。氏から度々、「木下さん、一丁、行きますか。今夜、 焼肉でも食べながら、きゅっと一杯、呑みませんかな!」。このようなことがし ばしばあった。支局勤務は3年であったが、2年目に担当してからの話である。酒 席で仕事の話をした記憶は全くない。多少あったかもしれないが、記憶にないの だから、大概、馬鹿話しに終始、ここちよく酔っぱらっていたのだろう。私が2 週間ぐらいかけ、氏から得た情報ではなく官庁筋から得た情報を基に氏が現地の 総責任者で大事業を行っていた関連のニュースを掴んだ。折からの大手商社にな んであったかそれすら忘れてしまったが、商社が批判の矢面に立っていた。そこで県は、その事業の要になる筈の大手商社3、4社の進出などを締め出し、進出計 画を「白紙」にするという確証を掴んだので特種に仕立て原稿を送ったら、本版 の産業総合面のアタマ記事になった。朝、紙面をじっくり、味わってから県庁記 者クラブに顔を出した。ある他社の記者がそっと私に話し掛けた。「クラブにい た記者がおったまげて一斉に知事室と副知事室にどっと押し掛けたのです わ・・・大変な騒ぎでしたよ」と。(む、そうか・・・。さて赤井さんはどうし ているかな・・・。氏にとればそっとしてほしかったことだろうし・・・)と頭 を巡らせながら、赤井さんをその日の内に訪ねた。「おっ、いらっしゃい。これ から東京本社に行くことになっちゃってね・・・」と急いで外に出られた。(は はん、あのことのためだろうか・・・)となにかしら気の毒になった記憶があ る。でもその後もこの話は、酒席では一切せず御付き合いして頂いた。

 やがて氏は三井不動産の常務取締役に昇格、しばらくして三井ホーム社長に就任。この業界のリーダー的存在になられ、政府の重要な審議会委員を務められるようにもなられた。確か氏が社長の折、私の処女小説「生生流転」を上梓してすぐお贈りしたら丁重なお手紙が返ってきた。ところが、数年以上かけてやっと仕上げた 「如来が弁護してござるー暁烏敏『小説』満之・涙骨」を贈呈するのをすっかり 忘れていた。(む、これはいかん、早速に出版社から贈ってもらおう)と思い、 出版担当者にお願いした。赤井さんが日本経済新聞朝刊の日曜版に顔写真付きで 趣味かなにかの話で掲載されていたのを発見し、自分の失態を恥じ入ったのだ。 赤井さんからすぐお礼のはがきが届いた。それによると、敏師の明達寺(石川県 松任市)をこれまで3度も一人でお訪ねになったというではないか。なんでもお 母上が熱心なお西の浄土真宗の信徒で、青年のころより、親鸞や歎異抄や大谷派 の清沢満之師、敏師についても教えられておられたと、はがきを頂いた後、電話で話された。そこで私に半年前だったか敏師のお孫さんの照夫住職から来年初夏に敏師50回忌の御連絡があり、赤井さんと話し合い、一緒に参列しようというこ とになったのだ。ご縁、機縁のお話ではありませんか・・・。(2003年10月23日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」を愉しんだ。武蔵は、傷癒えて、幸村のもとから美作の 「武蔵村」に帰ってきた。ある日、数人の民人が「ここにおいてください。お願 いでございます・・・」と懇願した。と、武蔵は急に厳しい表情になり、「そな たらを置くことはできぬ。ほかを訪ねてくれ」(著者要約)と言い放つ。武蔵 は、幸村と親しくなり、彼及び子、大助の西方(秀頼)に付いたとも柳生宗矩ら に思われ、彼らがこの村を襲うかもしれないとの懸念を抱いていたのだ。もう、 これ以上、村人を増やすと守り切れないと思う武蔵だった。 その懸念は間もなくやってきた。キリシタン取り締まりを名目に「武蔵村」に 追っ手がやってきた。武蔵は、追っ手と対決姿勢をみせたが、ことを荒立てては 得策ではないとの又八の言う通り、追っ手が10人ほどの村人捕縛を黙認すること にした・・・。

 さて宗矩も苦境に立たされていた。重臣の本多に嫌疑 を掛けられたのだ。「宗矩、そこもとは、そんなに家康様の名を借りて、幕府を 動かしたいか。金地院の働きをそなたは羨むのか。そなたは、凄腕の陰謀でわし をも追い落とそうとするのであろう。暫く、出仕に及ばぬ! 」と本多に申し渡 されたのだ。独り、なにやら思案に暮れる宗矩の姿が印象的であった。 そこに甥、兵庫助が心配して訪ねてきた。「叔父上、このままでよろしいのです か。金地院とあの『国家安康』でやりあったそうですね」。「うむ、兵庫助、 今、わしは動かん。そちの言うとおり、真田が秀頼殿に付こうが、わしは今、暫 く静観する。何となれば、わしは心の中で本多殿、金地院を憎む心で覆われてい る。つまり心がとらわれ執しているのだ。こんな心持では動かぬものじゃ、兵庫助!よいかーー。沢庵殿から学んだことじゃが『正心』という言葉がある。正心 とは、澄み渡る心が体全体にいきわたっている心境を言うのだ。正心にないわし は、動くべきでないのだ」(著者要約)。宗矩の語りが印象的で今回のドラマを 重みのあるものした。

 場面はまた「武蔵村」・・・。お甲が長く武蔵の下にいた武士くずれの漢(おと こ)と連れ立って村を出たというのだ。それ知った武蔵は思わず、血相を変え、 刀を手にして後を急ぎ追った。お甲はその漢に娘、朱美の居場所を知っていると 言われ、ついていったのだ。が、お甲は、その漢の正体を思い出した。会った場 面を・・・。漢は危機感を募らせ、お甲に切り付けてきた。危うし、お甲ーー。 と、追いついた武蔵の手裏剣が飛んだ。武蔵は切りかかった漢を一刀の下に切り 捨てた。娯楽要素と重みのある宗矩の語りが上手く絡み合い、見ごたえのあるド ラマ仕立てになっていた。(2003年10月27日)

 

閑話:京橋駅前から勤務先の新聞社前までタクシーに乗車した運転手さんとの会話をお伝えしよう。私は、私よりか数年、年上だろうとかってに想像して「失礼ですが何年生まれでいらっしゃいますか」と声を掛けた。「はい、6年生まれです」「ああ、そうですか。私より、13年上ですね。お元気ですねー」「はい、まあ、お蔭様でしてね」。私は思わず運転席の方を覗き、あお、そうだろう、やはり動く社長こと「自営運転手」の方で納得して「いいですねー。御自分で裁量できてー」と私は再び声を掛けた。「ええ、まぁー。お客さん、私が先ほど6年と申 しましたのは、大正6年のことでして今、85歳なのですよ」「ええ、えぇー」と私はびっくりして言葉にならなかった。「私ねー。これまで医者に脈も診ても らったことがないのです。病気など一度もしたことがありませんね」とおっしゃ る。今度は驚愕だ。「ええ、恐らく私が大阪市内の運転手の中で最高齢でしょ う」。運転もお上手だし、最高級クラスの車に乗せていただいたようなノーブル (高貴)な気分になった。「健康の秘訣は何でしょうか」と尊崇するような気分 で重ねて訊ねた。「毎日、4キロほど歩いていることでしょうかね」と即答され た。(おう、私も平均すると、それくらいは毎日歩いている勘定だ)といいようのないほどの元気をいただいて車を降りた。(2003年10月28日)

 

お知らせ:今、私が住んでいる交野の山々は朱に染まり始め、秋の深まりを告げ ています。「交野物語」が上梓に向けて最終段階にまでにきました。思えば、こ の本の出版を決めたのは初春、山々が薄緑の装いを凝らし始めたころでした。H Pに発表した文章を書き直せばいいのですが、中々手直し作業が志とは裏腹に上 手くまいりませんでした。いまから思えば、2月ころ、先の小説「如来が弁護し てござる」が一応、読者のこころを少しはとらえだしたなぁーとふと、気を緩め たのが悪かったと思うのですが、HPに書き続けていたころの感性が中々戻って こない。よし、一からやり直し、まず体力、気力づくり、と2カ月ほど毎日いつ もより力を込め、真剣に歩きだしました。5月半ばごろようやく、体力、気力に 裏づけられた感性がHPに書き続けていたころ以上に蘇ってきたのでした。それ から一気に初稿ゲラ、2回目のゲラ直しに取り組み、来月早々に年表付の最終の ゲラが出版社から送られてきます。それに最後の直しを入れ、その直しを反映し たゲラを読んで完了ということになります。約8カ月かけたこの物語は11月下旬 には出版の運びとなります。終始、御親切なアドバイスと御支援くださった郷土 史家、和久田薫先生には、感謝申し上げるばかりである。「今日という大切な一 日に不平をいう暇などない」−−。交野市の伝統ある浄土真宗の寺、無量光寺の 掲示板で偶然見つけ、感動した私は、この物語の中で紹介しています。読者の皆 様、御期待ください。そして前著の「如来が弁護してござる」と同様、よろしく 御支援くださいますようお願いして刊行を真近かに控えた近況報告と致します。 (2003年10月29日)

 

お知らせ:総合仏教雑誌、「大法輪」12月号(11月中旬に発売)に私の随筆が掲載されます。「鉄笛」という評論・随筆の欄です。原稿用紙2枚の短文です。題名は「子規のこころ」です。正岡子規(1867−1902年)は「ホトトギス」を主宰するなど俳句を軸に35年という生涯を文学活動に燃やし尽くしました。晩年、病を得ながらも句作の執念は揺るぎもしなかった明治の代表的な文士です。高弟に 高浜虚子、河東碧梧桐がおります。私は、この短文を書くに当たり、虚子選の 「子規句集」(岩波文庫)を参考にしました。この句集は子規の2306句が掲載さ れておりますが、改めて思ったことですが、子規は仏教に造詣が深く、仏教に関 した句が、この句集を見ただけでも全体の20%は占めているのではないかと思い ました。 この短文ではあの有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺」から、この歌をなぜ子規は詠んだのかという私なりの解釈 を加えました。

 「ご〜ん〜〜〜〜・・・。ご〜ん〜〜〜〜・・・」と、大和の甍 を超え、山々も超え、遥か虚空までも響き渡るような梵鐘にふと、子規が感動し たのではないかと最近、私が気づいたことを認めました。

 戦後、日本全体がなにかにつけ、せかせかし過ぎたきらいがあるのではという思いを抱いていた私は、 この梵鐘に意義を見つけたような思いを深めていたのです。バブルが弾けた後、 今日までそうした傾向は一向に止みません。私自身も自戒しております。 短文で紹介した句は秋から冬にかけた仏教色のあるものに絞りました。

  3句紹介します。短文に紹介した以外の句も含めて。

 <稲の雨斑鳩寺にまうでけり> < 行く秋を法華経写す手もとどめず>

 <出家せんとして寺をおも へば寒さかな>

 最後に絶筆の3句のひとつ。 <糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな> では、読者の皆さん、御紹介はこのあたりで・・・。(2003年10月30日)

 

閑話:HPに立ち上げております「天理つれづれ草」に今、私は日本ペンクラブ の電子文藝館に出稿すべく懸命に要綱に従って直しを入れております。「あしきをはらうてたーすけたーまえ てんりわーうのみことと・・・」などと「みかぐ らうた」を自分で歌ったり、真柱が吹き込んだテープを聴きながら、作業取り組 んでいます。少しでも天理教の神髄に触れたほうがいいという思いからです。

 この作業とは別にやはり、「みかぐらうた」はいいなぁーと感じます。なにかしらこころが和らぐ感じがします。吉川英治らがこの歌を礼賛しているのも判るよう な気がいたします。

 ついでに申しますと、お知らせで書きました ように正岡子規が法隆寺で聞いた梵鐘「ご〜ん〜〜〜・・・、ご〜ん〜〜 〜・・・」の音にも通じるものがあると改めて感じた次第です。

 読者の皆さん、深まりゆく秋に奈良にお出掛けになった場合、お寺さんで鐘を撞いてみてくださ い。また時間があれば、天理の里を訪ねてみてはいかがでしょう。理屈抜きに梵鐘の響きや、「みかぐらうた」の素晴らしさを感じとっていただけるのではないかと思います。錦秋の秋を味わいつつ、新聞社の仕事とともに「交野物語」や 「天理の里 つれずれ草」に取り組みます。(2003年10月31日)

 

閑話:「交野物語」の手直しと、校正は今日が勝負だと、ひさしぶりに早起きし た私は、リビングでゲラ原稿を広げたが、待てよ、この物語の締め括りにと、和久田さんと対談したあの喫茶店で取り組んだほうが、効率が上がるかもしれない と、判断した。バスに乗って出掛けた。その喫茶店に足を踏み入れると、運良 く、三宅連峰が窓越しに望める場所が空いていた。ジュースを頼んで1時間ほど 集中。じっくり読み直してみると、やはり、あるものだ。ま、これくらいでここ での作業は打ち切り、休憩にしようと、紫煙を燻らせた。あれから2年も経った か・・・。すぐ隣の席で和久田さんと様々なことを教わりながら、対談したの は・・・と、思わず、感慨がこころに拡がった。

 和久田さんは、これまでのご勉強の成果を踏まえ、堂々と論を進められた。私も 懸命に質問し、意見を述べた。ぶっ通しで2時間、対談は大いに盛り上がった。 暑い夏の盛りだった・・・。冷たいコーヒーの甘さがやけに美味しかった。コー ヒーを飲む瞬間だけほっと一息した記憶がある。それだけ2人の対談は、熱を帯 び真剣だった。内容は、「交野物語」に詳しく掲載している。それにしても当時 78歳の和久田さん、疲れも見せられず、帽子を被り、ひょいと御自分の自転車を 跨ぎ、悠然と漕いで帰られた「勇姿」は、凄かったなと2年前のことを懐かしく 思い出していた。(2003年11月2日)

 

閑話:帰宅後、競馬の天皇賞を見ようと、テレビをつけてソファにごろりと、横 になったら、いつの間にかすやすやと眠ってしまった。1時間近く眠ったのだろ うか・・・。一眠りした後は、やはり爽快感が体中に拡がる。やはり不規則勤務 のせいか、歳の故か、疲労が溜まっていたのだろう。「交野物語」の校正に出掛 ける途中も帰りもバスの中で居眠りをしていたのだから、体が自然と要求した眠 りだったのだろう。と、NHKで「課外授業ようこそ先輩」が映し出された。

 授業するのは、国境なき医師団に加わり、独自の医療活動に携わっている女医、貫 戸朋子さん。受ける生徒は京都のある付属小学校6年生の児童。小学校6年には、 かなり厳しい問いかけばかりだった。 「私がボスニアの地で医療 に当たっていたとき、5歳の少女が私のもとに駆けてきたの。どうしたのと聞い たところ、その子がお母さんも、お姉さんも道で寝ているの。揺すったけれど起 きてこないから、私、独りで逃げてきたの。お腹が痛いのと訴えました。診る と、お腹を銃で撃たれて、腸が剥き出しになっていました。私は急いで酸素ボン ベを使い応急手当てをしました。応急手当ての前にもうこの子は助からないとい う思いがしていたの。やはり、酸素ボンベの使用も効かなかったので私は酸素ボ ンベの供給を止めたのよね。酸素ボンベはこの1本しかなく、後も次々と患者さ んかこられ、使用しなければならない、酸素のことを思った末の私の決断だった のね。皆さんどう思いますか」 こう貫戸さんが自らの体験したことの答えを求めたとき、生徒たちは、一様に困 惑した表情になった。

 が、彼女は「私の決断に賛成の方はこちら、反対の方はあちらに分かれてくださ い。そしてその理由を双方で闘わせてください」と言い切った。 私は一瞬、さて児童たちはどういう意見を吐くのか固唾をのみながら聞いた。双 方とも大人顔負けの回答を寄せ合った。うーむ、と私はこころのなかで唸った。 こういう質問をされること自体、彼女も今でも自らの決断が正しかったかどう か、一抹の不安を抱いておられるではなかろうかとも想像したのだ。 「戦争と 命」を命題に据えただけに彼女が児童に問い掛けたものはすべ て重たいものばかりであった。懸命に答えを引き出そうとする児童たちの姿が生 き生きとしていた。児童らは、いつもの授業とは一味違う、彼女の授業に満足し たようだった。

 ところが今回の授業は特番のアンコール授業。彼女と児童は4年後、再会し、再 び、彼女はもう高校2年生になったかつての児童に命題に沿って問い掛けた。幼 い顔が男女とも大人びた青年、淑女に変貌しているのに私は驚いた。彼らの生き 方も児童のころよりかなり、現実的になっており、地に足が付いた意見を披瀝し た。 が、貫戸 さんは、一応生徒らの意見を聞いた後言い切った。 「あなた方の意見は、おりこうささがいう、ご意見ばかり。まるで機械と対話し ているみたいな感じがする」。 それから何カ月か、経ってもう一度、再会、議論し進める仕掛けが今回の番組の 特徴だ。彼女は、もう一度、現地を訪問した上で壇上に登ったのだ。

  「戦争と命」という命題は人類の永遠のテーマである。戦争に限らず、相手にや られたらやり返すというのは、政治や下手をすれば、同じ組織のなかですら、あ り勝ちな、智恵ある人間持っている悲しい性(さが)でもある。相手のこころの 痛みを慮ることの重要性をそれぞれが確認し合って今回の授業は終了した。 極めて難しい命題だが、未来のある彼、彼女らが、これからの人生の中で2回に わたる授業で得、考えた問題をどう生かしていくのか、期待したい。(2003年11月 2日)

 

閑話:2003年11月2日のドラマ「武蔵」は見応えがあった。凄みさえ感じた。武 蔵は、宗矩の手による「武蔵村」に対する攻撃があることを察知、村を捨てるこ とを決め、村人に告げた。どっと、どよめきが村に広がり、村人は口々に不満の 声を上げた。 が、その決断は正しかったのか・・・。間もなく村をある集団 が襲ってきた。武蔵は、村から去り行く徒路、その知らせを聞くやいなや、村に駆け帰った。武蔵を支えていた若武者が一人で集団と闘っていた。闘いむなし く、多くの民が犠牲になった。

 呆然としている武蔵の前に姿を現したのは、あの 女忍者、亜矢であった。 2人は、対決した。2人の立ち回りはかつての時代劇を 上回るような見事さで視聴者を弾きつけた筈だ。武蔵は勝った。亜矢は斬れと武 蔵に叫び、武蔵もぎょろりと怒りの眼を向け、刀を振り翳した。 「斬らないで、武蔵(たけぞう)!」と、お通の声が飛んだ。 武蔵はな おも斬ろうと構えるが、何を思ったか、武蔵は「行け、亜矢」と言い、刀を下げ た。亜矢は逃げるように立ち去った。 一方、又八は、母、お杉を背負って岡山・美作に向かっていた。背負いながら、 母が、逝った事を感じ取った又八の演技が光った。彼の性格がよく出ていた。悲 しみにぐっと堪えながらも泣き顔になる表情が見事であった。

  そんななか、家康と淀殿・秀頼の間は緊張感が高まるばかりで一触即発寸前。 「そなたは、家康の家来か、それとも秀頼の家来か」と淀殿は家康との融和策を 練る片桐且元に詰め寄り、片桐を放逐した。 これを耳にした家康は、機は熟したと、豊臣方との戦いを決め、蟄居していた柳 生宗矩を呼び寄せた。武蔵はそんな政争の中に巻き込まれていくのだろう か・・・。近く刊行する「交野物語」でも大坂冬の陣、夏の陣について触れてい るから、私はこの日、大きな関心を持ってドラマを愉しんだ。(2003年11月2日)

 

閑話:1−4日の連休は、「交野物語」の事実上の最終手直しと、日本ペンクラ ブ向けの「天理の里 つれづれ草」を添付ファイルで送付して一応の作業を終え た。双方ともじっくり読めば、直しがかなりあり、休み中は、散歩するだけにと どめ、この作業に取り掛かった。 正確には、「交野物語」は、郵送したゲラ直しが反映しているかのチェックと 本のデザインをどうするか、未定だし、出版社と最終調整をしなければならな い。私の考えたデザイン案は送付しているが、後はプロ任せということになるものの、著者は完成までいい意味での自己主張をしなければと思っている。まだ、出版までは力を抜けない。

 「天理の里 つれづれ草」は、中々、苦労した。正直に言えば、かなり無謀な 試みであった。会員の方々の作品は、しかるべき賞をもらったか、文学雑誌など に掲載され、高い評価を得た作品がほとんどだ。  ところが、私の場合、私のHPに発表したものに手を加え、エーセーに仕立て 上げたもの。そういう現実を知っていただけによけいだ。おまけに添付ファイル 送信は、いままで一度こころみただけで、もう忘却の彼方にいってしまっている し、かねて私のHPをご覧になった方から「貴方の文章には改行がほとんどなく 読みづらい」との御指摘があったにもかかわらず、正確な改行の仕方を理解して いなかったから、その点でもペンの担当者方々に大変御迷惑をお掛けした。

 しかし、「木下さん、改行には、改行マークがいるのですよ」とのご指摘があり、(あっそうか)と最終段階で気づいたようなお粗末ではあった。でも、なに かと勉強になった「天理の里 つれづれ草」だった。私は、この作業中、大概、 「みかぐらうた」のテープを聴きながら、手直しをしていたから「みかぐらう た」の最初の歌を自然と覚えた。母なる歌が、非力な私をそっとバックアップしていてくれたのかもしれない。

 「ナム〜テンリオウ〜ノ ミコト〜〜」(2003年11月5日)

 

お知らせ:「交野物語」が11月下旬には刊行の運びとなります。遅い地域でも 12月初旬には、店舗に並ぶことと思います。お正月のお休みに紐解いていただけ ればと思っております。無論、本の題名が「交野物語」ですから、交野市、枚方 市などが重点販売地域になりますが、信長、秀吉、家康など戦国動乱の世にそれ ぞれの個性と役割を果たし、終止符を打った3人の英雄らも交野との関わり合い の中で登場します。全国各地の方々にもお読みいただければとも思っております。  

 また空海なども取り上げております。無論、これは史実に基づいたものです。 交野は奈良、京都のほぼ中間にあり、戦国だけでなく、国家が形成され、様々な 文化が花開いた奈良や平安(京都)時代のことも取り上げております。

 交野を私が歩きながら、この地の歴史的な有名な場所も紹介し、併せて今日的 なテーマにも迫ろうというものでこれまでの私の著作にはなかった試みです。前 日にお伝えした通り、最終的な詰めが残っておりますが、出版社とともに努力を 一層、傾注致しますのでご期待ください。交野を語ることで今の日本の課題と展望が少しでも浮き彫りにできましたら、 幸いと思っております。(2003年11月6日)

 

閑話:来年から、明治・大正の偉大な画家、富岡鉄斎の足跡を追いたいと思っている。早速、古書店 に鉄斎に関する書籍を注文した。話によると、晩年になるほど氏の絵は輝きを増 したという。80歳代が最も高い評価を得たとも。私は天才肌で夭折した画家も 知っている。

  神職の世界にいた彼は、60歳で本格的に画業の道に踏み出したと聞いている。 だから、80歳代の作品が評価されるのも当然といえばそれまでであるが、還暦 後、氏が画業に情熱を注いだのは、並みのものではないと思える。晩年に転進し て大きな仕事をした人では、長年にわたる測量に基づき、世界を驚かすような正 確な日本地図を作製した江戸時代の伊能忠敬を挙げる人が多い。

 が、同じようなことが、分野は異なっても鉄斎にも言えると思う。私は、子供 のころから絵が好きだったので鉄斎に興味を覚えたのだ。私も少年時代を思い出 しながら絵画を描いてみたいと思っている。鉄斎を追う中で私なりの「鉄斎観」 が浮かび上がったら発表してみたいとの希望も抱いている。(2003年11月7日)

 

閑話:2003年11月9日のドラマ[武蔵]―。終盤に向かってこれまでの様々な伏線 が明らかになり、また新しい伏線を作りながらのドラマ展開。今夜も見応えがあった。

 武蔵は、かつての強敵、吉岡一門の総帥、吉岡清十郎と大坂の近くで、偶然、 出会った。清十朗は、僧衣を纏っていた。出家していたのだ。武蔵は、内心、驚 いた・・・。そしてあのころの己の生き方を思い出していた。己のために己自身 で剣の腕を磨くことのみを考えていた。そこに立ちはだかったのが京の都の伝統 ある剣術道場の吉岡一門であった。(わしは勝った。お主の一門を悉く打ち破った。そしてわしは、剣豪としての 名声を得た・・・)と僧衣の清十郎を前に過去のことが、苦さを伴った思い出が 一瞬、こころを過ぎった。  「清十郎殿、さぞかし、この私をお恨みでいらっしゃることでしょうなぁー」 (著者要約)

 「いえ、あのときお主は、武芸者として当方に戦いを挑んだだけ、負けたの は、我々が弱かったのです。今の私には、全く関係のない世界の出来事に過ぎな いのです。おや、武蔵殿、そなたも変わられたのう。今の貴殿には、あのころの ようなぎらぎらした殺気が消えておりますな」  「はい、私は己のためだけでなく他人のために生きるという世界が判り出して おります」と武蔵は清々しい表情で応えた。二人はお互いの胸の内を理解したよ うに別れた。

 そのような武蔵の胸中の変化をよそに徳川方と豊臣方の戦い(大坂冬の陣)に 向けて冷徹な政治世界のドラマが進んでいた。徳川の作戦参謀の一人、柳生宗矩 の甥、兵庫の助が突然、武蔵の友、又八を狙い撃ちしてきた。又八が豊臣方に鉄 砲を売り込んだという咎であった。武蔵も己が愛し、育てていた「武蔵村」を宗 矩が壊滅させたことは、いかに視野の拡がった武蔵といえども許せなかった。武 蔵は、又八を救いに駈け付けた。 兵庫の助は又八目掛けて、刃を振り下ろす寸前に武蔵が救った。武蔵と兵庫の 助は互いに睨み合いながら身構えた。

 二人の姿が大きくクローズアップされた。人世(ひとよ)のどうしても譲れな い相克の姿を見るようだった。次回の大坂冬ドラマ展開が愉しみになった。今、 「政権」をかけた総選挙の開票が進んでいる。武蔵のドラマの余韻を抱きながら 開票結果を見ることにする。(2003年11月9日)

 

閑話:新撰組に関する番組を民放で愉しんだ。幕末、唯一、勤皇の志士たちと京 の町中で刃を交えた近藤勇が率いる武闘集団。彼ら面々の私生活がやんわりと明 らかにされるのに思わず、興味を覚えた。

 あの近藤に女、恐らく芸者であろうが、剣と闘いに執念を燃やした漢(おとこ)を愛し、愛される女がかくも多くいたというのも面白い。江戸で彼の主宰す る剣術道場の留守をする妻と娘(こ)がおりながらである。近藤の人間くささの 一面が伺えてくるではないか。

 近藤が、配下の隊士に下知した後、一人孤独を癒すために女のところに通った のだと、想像してみるのもいいだろう。  また永倉新八が明治まで生き残り、勤皇の志士らとの最後の戦いに出掛ける時 に別れた幼子(娘)と20何年ぶりかに再会し、一夜、酒を酌み交わす場面もよ かった。

 また日夜、闘いに明け暮れた隊士らのエネルギー源のひとつになったのが豚肉 だったという話も興味深かった。

 概して学校などで学ぶ歴史は物事、あるいは出来事の経緯などの知識に限られ がちで主役となった時代の英雄や、また草の根かき分け、生き抜いた庶民の実像 を探るようなことは稀である。  その意味でもこうした番組は貴重であると思った。(2003年11月10日)

 

お詫び:3日前、「言の葉」の表紙に表示しています「アクセスカウンター」の数字にトラブルがありましたが、正しい表示になりました。お詫び致します。(2003年11月12日)

 

閑話:ドラマ、「武蔵」を堪能した。「大坂冬の陣」が始まった。

 私は、来月初旬に刊行する「交野物語」(仮称)でもこの戦に続く「大坂夏の 陣」について書き込んでいるのでいやがおうでも関心を持って見た。

 武蔵をはじめ、柳生兵庫助や、その叔父で戦いの参謀の一人、宗矩など様々な 人物が登場、この戦(いくさ)に巻き込まれてドラマは進む。

 徳川方は、悠然と戦いを仕掛けた。が、勇将、真田幸村に虚を突かれ、緒戦は 敗退を余儀なくされた。家康は一時とはいえ、これで真田親子に三度、敗れたの だ。幸村は、子、大助と共に今後の戦い、処し方を語らう。  「大助、お前は、城にいて、秀頼様の下でお守りいたせ。もしものことがあっ ても、秀頼様とともにあれ!」(筆者要約)と武辺の理(ことわり)を言い聞か す。

 「いや、私は父上と共に戦いとうございます」と大助。親子の会話が、戦いの 厳しさを漂わす。  幸村は秀頼、淀殿の前で進言した。

 「徳川方に奇襲をかければ、勝機はありまする」  2人とも幸村を頼もしく思うのだが、水面下で和睦の交渉も進む。

 さて武蔵―。ドラマの冒頭、又八、お通の前で兵庫助と刃を構え、互いに今に も切りかからんと睨み合う。お通が「やめて2人とも!」と2人の間に座り込む。 双方がお通の気持ちを察し、刀を引いた。が、武蔵は兵庫助に言った。

 「宗矩殿に逢わせてくれ!」  「む、おって使いのものをよこす」と兵庫助は言い、立ち去った。

 暫くして宗矩からの使者が武蔵のもとに。お通のこころは揺れるのだった。武 蔵が宗矩を斬るのではないか、そして武蔵も命を落とすかもしれない・・・。 が、お通は、覚悟の上で武蔵を送り出した。

 やはり、武蔵と宗矩は、互いの生き方を巡って対立、たちまち緊張感が漂う。

 「宗矩殿、あなたは、なぜ私に命を託した女、子供まで殺戮(さくりつ)し た」と武蔵は詰め寄った。

 「政治(まつりごと)とは、そういうものだ。危険なものは大きくなる前に摘 み取るのがわしの生き方だ。それが後々の平和な世につながる」

 武蔵は一瞬、怒りが込み上げ、さっと、詰め寄り、刃を宗矩の首にぴたりと据 えた。そばにいた兵庫助らは、武蔵を囲む。一瞬、息をのむ。

 「去れ、武蔵!」と宗矩。兵庫助も(去ってくれ武蔵・・・)という表情を見 せる。

 何が、武蔵のこころに去来したのか、武蔵は刀を納めた。兵庫助も安堵して「武 蔵殿、そこまで送ろう」と言い、2人は共に語り合いながら歩く。

 「叔父上は、剣一筋に、しかも正直に生きるそなたが羨ましいのだ。こころの 中では2人で合間まみえようという気持ちをもっておるのだ」(著者要約)。

 武蔵は、なお複雑な気持ちを抱えてお通のもとに帰ってきた。お通はこころか ら喜んだ。

 だが、大坂冬の陣は、納得し難い条件ながら、家康の要求を秀頼、淀殿がのん だので一応、終わったが・・・。双方の緊張関係は続く。それが翌年の「大坂夏 の陣」へと向かうのだ。(2003年11月17日)

 

閑話:「天理の里 つれづれ草」を原稿にする前後から、郷里岡山で生まれた金 光教についてもほんの少し勉強してみた。新聞社で取材記者初年兵として指導を 受けた15年ほど先輩のNさんは私と同じ、岡山の出身で確か、金光中学を出ら れ、地元の旧制高校に入学、新制大学になった岡山大学を卒業された。

 中国地方の基幹支局3年の勤務でお世話になった支局長である。氏はお酒が全 く飲めないくちであったが、天理教ではないが、厳しい中でも明るい性格の持ち 主であった。マージャンがめっぽう強かった。当時の他社の年配記者と何回も マージャンをやられたようだが、氏から「負けた、やられた」という言葉は、聴 いたことがなかった。

 仕事に厳しかったが、それは管理職としての当然の対応であったかといまな ら、容易に想像できるし、氏がマージャンに磨きをかけたのもこうではないかと思える。

 氏は、念願の新聞社に記者採用された。ですぐ気が付いた筈はずである。

 「おれは、生まれつき酒が飲めない。しかし取材先との付き合いや記者仲間と の付き合いをするには、マージャンだ」と努力家でもあるNさんはひそかにそう 決められたのではないかと思うのだ。

 話を金光教に戻る。四条畷神社に家内と一緒に詣でた時、神境内だったと思う が、金光教支部があり、戒め(教え)の標語が入口に大きく張り出されていた。

 「この道(金光教)では、やくとは世間でいう厄ではなく。役目の役という字 を書く。やく年とは、役に立つ年、ということである。大やくの年とは、一段と 大きな役年と心得て、喜び勇んで元気な心で信心せよ」

 この戒めに興味を抱き、挨拶し、支部の方から関連書籍を一冊購入した。御親 切にも金光教経典抄をいただいた。そのなかにいまの言葉もあった。

 来年、還暦を迎える私は、やはりしかるべき神社で厄払いの祈祷を受けること にしているが、気持ちは、そのようにありたいと思う昨今である。(2003年11月20日)

 

お知らせ:3日前に出版社に「交野物語」(仮称)の最終ゲラをチェックし、郵送致しました。出版社と話し合った結果、当初、12月初旬をめどに出版を目指しておりましたが、来年正月早々(10日ごろ)の発売に決めました。自分でも気に入った文章表現もあったのですが、中には、表現の仕方がやや舌足らずな文章も あり、手直しを加えました。またタイトルが正式に決まりました。「交野散策」 −星と緑の里、歴史巡り−です。定価は1300円です。

 何とか無理をすれば、来月に書店に並ぶことも可能なのですが、校正に時間を かけて極力誤字などを少なくして(理想は全くない)店頭に並ぶ方が、筆者のた めのみならず、読者の皆様にも親切だと思ったからです。その点を御理解賜りま すようお願い申し上げます。交野地域の地図や巻末に交野の年表と関連情報も掲 載致しました。いずれも郷土史家、和久田薫さんと出版社スタッフの全面的な協 力を得ました。御期待ください。( 2003年11月21日)

 

閑話:昨日(2003年11月22日)は車での深夜帰り。休日の今日は、久し振りに ゆったりとした1日を過ごした。お昼ごろ起床。朝食兼、昼食を取った後、妙見 東団地の方から、つまり裏参道から妙見山(宮)に登った。表参道に比べ、石段 は急勾配ではないが、それなりに足運びに工夫が要る。表参道の200段以上もの 石段には、鉄製の手すりが設えてあるが、裏参道の石段にはない。私には、表参 道から宮に参るのと、体力的にはさして変わらないが、少し辺りの景色がそれぞ れ異なるのに私は興趣を覚える。

 この欄で夏ごろ「山が蝉の声で鳴いていた」と感じ、紹介したのは、裏参道か ら宮内に踏み入れた時だった。「おう、あれから、もう5カ月が経ったの か・・・」と時の迅(はや)さに驚かされた。石段を上る途上で、小休止と足を 止め、辺りの山々に目をやると、山の木々は赤色と黄色が交わり染めた紅葉。 「む、美しい」と自然が綾なす景色に思わず、見惚れた。

 感嘆、感嘆・・・。宮に参り、表参道の石段を降りていくと、いつもより、参 詣客が多い。途中から横道の帰り道の山途(やまみち)に寄れ、降り出したら、 妙なる音がふと、聞こえてきた。

 「琴の音だ・・」 と私は2年ほど前のちょうど秋たけなわの折、表参道の鳥居から参った時お茶会 が開かれているのに遭遇した。その時の情景を頭に描きながら降りていった。

 もう、参詣する方は少なくなっていたが、3人の和服姿の女性が姿勢を正して 絨毯に座り、琴を奏でていらっしゃった。神妙に表情でお手前をいただいておら れる2、3のご家族も。私はいつもより、簡略に境内で参拝を済ませ、和やかで静 謐な雰囲気を味わい、宮を後にした。途中、深まりゆく秋の散策を愉しむ人々に お会いした。軽く会釈をしながら、行き交う人々・・・。私は、最近の忙しさか ら解放され、「交野の秋」を満喫した。(2003年11月22日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」−−。お通の母と思われるマリアを思慕、キリシタンの指 導的立場にあるルシア・・・。又八の妻、朱美が又八の子を孕み、郷里、美濃に 帰る途中、ルシアは、朱美を手厚く看護し、そっと自分が彫った「マリア像」を 渡した。又八は、それをお通に渡した。そんなところへ、ルシアの消息がお通に もたらされた。

 「え、ルシア様が。そう、堺から、九州に向けて船出なさるって・・・。ぜひ お会いしたい・・・」(著者要約)

 「お通、俺が付いていってやる。行こう、お通!」(同) 又八も行きたかったが、堺の商人との折り合いが悪くなっていた。

 「武蔵、これを持って行け」と短銃を武蔵に手渡そうとしたが、武蔵は剣を見せ

 「わしにはこれがあるから大丈夫だ」と自信の表情でにこり。 2人は堺に着いた。折からの火災の中をルシア一行は船に乗り、岸壁を離れてい た。

 「ルシア様・・・。ルシア様・・・」お通は、ありったけの声を張り上げた。 ルシアはお通の声を微かに聞きとめた。お通は、今度は母譲りの笛を奏で出した。 ルシアは、お通が我が子ではないかと思いを深くした。

 「岸壁まで船を帰してください。ください・・・」(著者要約)。が、それは 許されなかった。人世(ひとよ)の不思議と哀しみだ。

 場面は変わる。「大坂夏の陣」が今にも始まろうとしていた。そこに又八の運 命が待っていた。彼は親になっていた。朱美が又八の子を産んだのだ。そして又 八は親子に誓った。

 「おれは、もうやばい仕事(鉄砲売り)から身を引くのだ」と武蔵とお通にも 宣言したのだが・・・。

 又八とお通を武蔵の留守に亜矢らが襲った。狙いは武蔵。そして又八。忍びの 者らは腕が立つ。又八は、お通の助けを借りながら懸命に応戦する。(武蔵が帰 るまでは死ねん。朱美や子のためにも死ねん。ましてやお通は絶対守らねばなら ぬ・・・)。表情からそのように読み取れた。が、亜矢の刃の前に又八は倒れ た。次に亜矢の刃はお通に向けられた。

 「言え、武蔵の居場所を・・・」。拒絶するお通。

 亜矢の刀がお通めがけて振り下ろされようとした刹那(せつな)、瀕死中にあ る又八が亜矢をめがけて持っていた短銃を放った。亜矢がその一発でどうと倒れ た。又八も暫くして朱美と我が子のことを呟くようにお通に訴えながらこときれ た。

 武蔵がやっと駆け戻った。

 武蔵は慟哭した。

 このような中で徳川と豊臣政争は益々、深刻になっていた。宗矩も、理想に燃 えて策略を巡らす。無二の親友、又八を喪った武蔵の怒りの眼(まなこ)は、宗 矩に向けられていた・・・。(2003年11月24日)

 

閑話:歴史研究という歴史総合雑誌(日本史及び人物史が中心)12月号が届い た。私はこれまで歴史にかなりの関心を寄せていたが、日本史に限っても体系的 に勉強しているとは言えない。歴史小説を断片的に読み、私なりに恣意を巡ら せ、歴史上の人物の物語を通じてその時代を自分なりに読む程度だといった方が 正確だろう。古代史にしてもそのレベルである。

 今、NHKで「武蔵」を毎回見、その感想文めいたものを書いている。極めて 安易な歴史の勉強の仕方ではあるが、結構、面白くその時代を追認できて良い。 実は、この「歴研」が募集していた「武蔵」特集に応募しますよと、代表者の方 に申し上げていたのだが、なにかにつけ、多忙でついに果たせなかった。

 12月号で新撰組についての応募の知らせが掲載されていた。正直に言えば武蔵 に関するより、私の新撰組についての知識は乏しいが、今からでもある人物に焦 点を当て勉強し、私なりの切り口で原稿用紙5、6枚書いてみようと思っている。 その人物を語ることで新撰組の像が、さらに時代が浮き彫りになるのが理想だ が、私なりに努力してみようと思っている。(2003年11月26日)

 

閑話:S紙の夕刊で裏千家の四季を職場で読んだ。む、と暫く活字を凝視した。 こんなことを千利休の孫の宗旦が言ったのか、と驚いた。

 「茶の湯とは心に伝え目に伝え 耳に伝えて一筆もなし」  これは正しく、禅で言う「不立文字」と同じ謂いではないかと一瞬、心に過 ぎった。つまり、茶の精神(スピリッツ)をいくら文字で説明してもまた解釈を 読んでも無駄だ。師匠に付き添いながら、師匠の心を心でとらえることだ。そう するとともに目で感じ、耳に残せば解説書など無用だというのではないかなど と、想いを巡らせた。

 私は、大学1年の時、下宿先で開かれていた茶席に3回ほど出た記憶がある。無 論粗忽者の私は「性にあわんな」とすぐ止めた。お嬢さんや紳士の方に交じって あれこれ長時間、袱紗(ふくさ)の使用方法やら様々な作法を学ぶのに当時の私 には無駄に思えたからだ。

 が、新聞社に入ってから、少し禅の本を読み進むうち、久松真一先生のおっ しゃる茶の心に触れ、なるほどと感じ入ったことがある。 「定年後は、少し茶道でも学ぶか」と以前、家内に言ったら、(まあ、あなた が・・・)という呆れた顔をされ、「無理でしょう」とかなんとか、それに近い 言葉が返ってきた記憶がある。で、私はすかさず反論した。「茶とはなぁー、た だ飲んでそのスピリッッツを味わえばいいのだ」と。

 余談が過ぎたようだが、この記事で様々なことに想いを巡らせた。千利休につ ては歴史的な意味では多少の知識を持ち合わせているが、3代目、宗旦について この記事に触発さてたようで勉強してみようと思った。そして我流でいい自分で 茶をたてようとの思いを深くした。(2003年11月27日)

 

閑話:やはり、本物には通じることがあるなぁーと感心というか、なるほどと改 めて思いを深くしたことを紹介しよう。私は、これまで何回ともなく読者の皆様 方に「交野の物語」の私の取り組みを紹介してまいりました。ようやく最終校正 などすべてを出版社の方にお任せしましたので一瞬ではありますものの、少し、 時間ができたので尊敬する作家の一人である五木寛之さんの「百寺巡礼」の第1 巻、奈良を読み出しました。

 中宮寺のあの有名な半跏思惟像の五木さんの見方について賛同するというか、 さすがだなぁーと思う箇所がありました。それは、美術作品や仏像などを見る鉄 則なのですが、なまじっかそれらの知識を得て、そのレンズを通して鑑賞する愚 を明快に指摘されていた。和辻哲郎や亀井勝一郎が同像を見て感動し綴った文章 を紹介されながら、柳宗悦の著作の中から次のような文を取り上げておられた。

 「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」  見てから知るべきであり、知った後に見ようとしないほうがいいとの五木さん のご説明。これは西田幾多郎の弟子の一人、植田寿三が展開した美学論とも符号 する。やや難しい表現をしますと「知」より前の「純粋経験」で見るという説で す。まず余念を交えず見よ、そこに真実の美があるということではなかろうかと 思います。

 さて本物は通じるところがあると言いましたのは、昨日紹介しました茶道の宗 旦の箴言です。「心で伝え、目で伝え、耳で伝えて一筆もなし」(木下要約)。 知識、解釈では茶道の真実は伝わらないし、相手(弟子)も判らないということ ですが、ほぼ同位に理解してみてもよいと思ったのです。(2003年11月28日)

 

閑話:この間、乗車したタクシーの運転手さんには、感心を通り越して敬服し た。何の話から始まってそのようなことをお聞きしたのか、忘れてしまったが、 以下に2点だけ記します。

 「お客さん、人間が年を重ねるということは、お金と一緒ですね」。 私は瞬間、何のことやら検討が付かなかったのでさらに聞いた。

 「人間、年を取るほど時間が大切になり、上手に使うじゃないですか。お金も ね、吝嗇(りんしょく)ではなく、大切に上手に使おうとするじゃないですか」  納得した。さらにある。 「ある90歳を超えたご老人のお話ですが、理由は、よく知らないのですが、息子 さんが臭い飯をだべるはめになったのですよね。最初は、かなりぼやいていらっ しゃったのですが、ある人が、あなたの年で全く呆けないのは、運わるくそうい うことになった息子さんのお蔭ではないですか、と忠告なさったらしいです。そ したら、そのご老体、その後、一言もぼやかなくなったらしいですよ」  難しい本を読むなんぞより、隠喩として、示唆に富んだ箴言に近いと思った。 (2003年11月30日)

 

閑話:M紙、夕刊の私たちが子供のころ歌った唄「童謡」を中心に軽い筆致で書 かれているコラムを時折、読む。

 「秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中に 松をいろどる楓や蔦は  山のふもとの裾模様」(1911年、尋常小学校)が先日、載っていた。私はこころのなかでそっと歌ってみた。小学校低学年のころを思い出す。学校だか、家か どこかで歌った記憶が残っている。なんとも懐かしい響きとともに原風景が蘇 る。

 このコラムによると、紅葉とは草木が赤や黄色に変わること。色を揉み出すと いう意味の動詞「もみつ」が変化したという。作詞は高野辰之、作曲、岡野貞 一。

 私は出勤前の30日の昼下がり、妙見宮に参り、家と宮の行き帰り、周囲の風景 を眺めながら散策した。辺りの山々が正にこの唄の通り綾なしているのだ。

 ふと宮のそばの道で目を落とすと、イチョウの黄色い葉がところどころに散ら ばり、晩秋を告げていた。

 来年正月早々に刊行致します「交野探訪」に秋の風情など自然の移ろいを私な りの感性で書いていますのでご期待ください。(2003年12月1日)

 

閑話:ドラマ「武蔵」・・・。武蔵は真田幸村の前にいた。

 「わしはなぁー、武蔵殿、此度(こたび)の徳川との戦いは、わしにとり、戦 国の世を生き抜いてきた武将としての情熱と意地を示すためにわしに向けられた 最後の戦じゃ」(著者要約)

 と、幸村は言い切った。武蔵はそれを聞き、幸村の澄明な武辺者としての潔 さ、心意気に感動を覚えずにはおれなかった。と、同時に己のこころに問うてみ た。

 「わしは、又八を殺(あ)やめられたという怨念、恨みから宗矩殿を殺そうと しているのだろうか・・・」(同)と幸村の志の高さに比べ己のありように一点 の曇り、陰(かげ)を感じるようになった。

 幸村は、大坂城で宗矩と対峙すればよい、と言ってくれたが、武蔵は次第に帰 りを待つお通のことを思うようになっていた。

 「必ず生きて帰ってください・・・。私は待つことに命を懸けます」(同)  武蔵の脳裏にお通の必死な姿と声が蘇ってきた。 幸村は、武蔵に言った。

 「武蔵殿、子の大助にわしを離れて生きよといってくだされ」 武蔵は、この言葉は己自信に向けた幸村の諭しととらえた。武蔵は自分を敬い 慕っている大助に言った。

 「大助殿、そなたの父上は、生きてお母上のもとに帰られよと言っておられる のですぞ」(同)

 大助は複雑な表情をみせながらもついに納得した。武蔵も思った。 「生きてお通もところに帰ろう」と思いを深くした。 一方の宗矩も妻に言った。

 「わしに万が一のことがあれば、この子に言ってくれ。父が戦ったのは、権勢 におもねるためではなく平和な世をつくるためであったと・・・」 2人の戦いは、大坂夏の陣でどのような展開を見せるのか、様々な重い問いを視 聴者に問い掛けながらドラマ「武蔵」も終盤を迎えた。(2003年12月1日) 

 

閑話:休み時間に毎月送られてくるある雑誌を読んでいた。喫煙兼休憩室であっ た。ある職場の仲間が、「木下さん、これは大学に出てくる詩ですね」と声を掛 けてきた。

  私は何のことかとふと見ると、「必慎其獨也」のことを言っているのだと判っ た。

 「必ず其の独りを慎むなり」と読む。慎独とは孤独という他に依拠するという 相対的なものではなく自らを絶対的なものとしてとらえ慎み、行いを省みる」と でもいうのだろうか。仏教的な視座であえていうと「天上天下唯我独尊」という ことになるだろう。

 む、この人よく知っているなと感心し、では、君の解釈を言ってみたまえと聞 いた。

 「それ、小人閑居して不善をなす、の反対の意味で対になっている、それです よ」ときた。 ここまでくるとこの漢(おとこ)相当勉強しているなと破顔一笑、「おうそう だ」と思わず大きく頷いた。言葉では知ってはいても実践となるとなかなか、た やすいことではない。ひとつの人間の理想的なありようとしてこころに刻み込ん でおく箴言である。

 いつも世俗的な冗談を交わしていただけに一瞬、新鮮な感動を覚えたので紹介 しました。(2003年12月2日)

 

閑話:昨日、今日と郷土史家、和久田薫さんから、電話が入った。いよいよ「交 野探訪」(題名正式決定)が、大詰め近くになった。先日お知らせしましたよう にゲラ直しは、私の手から完全に離れ、出版者の方にすべて委ねた。今週末に最 後の確認作業が残っているが、これは大変重要なミスがないかなど筆者として確 認するだけで事実上、私の作業は終わった。

 こうした中で和久田さんは、年表で交野を江戸時代、「養生訓」などで名を馳 せ、今でも現代訳などで読まれている著作を持つ、貝原益軒が交野地方を訪れた 年代の間違いと桓武天皇と嵯峨天皇と土御門天皇の交野地方の行幸、遊猟の回数 を入れられたらとの御指摘であった。益軒の場合は完全なミス。有り難いことこ の上ない。3天皇が交野地方行幸、遊猟されたのは桓武天皇15回、嵯峨天皇13 回、土御門天皇3回である。また年表には表記できなかったが、白川天皇も幾度 か行幸されているという。

 「交野探訪」の本文にも登場する唯高親王も貴族らを伴ってこの地に桜を愛で に来られておられるから、この地が、古代、中世とも天皇、皇族や貴族の方々と 深い関係にあることを改めて思ったものだ。北畠顕家の子孫、北田氏が交野に今 も在住され御活躍されていることも触れていますので御期待ください。(2003年12月3日)

 

閑話:職場(新聞社)の仲間以外で最も話す人は、タクシーの運転手さんであ る。4日の私の休日、大阪に出た。仕事で出勤する場合というまでもなく気分が 違う。電車の中では、夕刊や朝刊を仕事場並みのスピードで1紙だけ読む習慣が ここ1、2年ほど続いている。いわばそれが習慣になっている感がする。と、いう のも、家では原則として読まないことにしたからである。なぜかといえば、年を 取ると、知識よりも体力維持に力を注ぐほうが、仕事をどうにか人並みにこなし ていく上では不可欠になるというのが最も大きな理由である。

 と、言っても、その日のニュースぐらいは、一応知っておかないと、仕事にな らないから車中で新聞と真剣に向き合うのだ。椅子に座れようが、立っていよう が・・・。

 だから、休日の今日などは、一応、かばんに習慣として新聞を入れていても、 読まなかった。ひらたくいえばのんびりと車中の人となっていた。

 どうしようかと迷ったが、大阪市内からタクシー拾い、乗った。「梅田、大阪 駅まで行ってください」と気軽に声を掛けた。

 「え、大阪駅はどう行ったらよいのでしょう。教えてください」 私は、急に目が覚めたように呆れたというより、驚いた。 (おっ、しまった)とこころの中で叫んだが、降りるわけにはいかない。梅田で 大変お世話になっている先生にお会いする時間が迫っていたのである。正月早々 に出版することになっている「交野探訪」の執筆に際し、密教の真言などでいろ いろ教わったその道の碩学の先生である。師走・・・。夕方近くで渋滞してい た。

 この運転手さん、昨日からハンドルを握り、走り出したという。つまり、プロ 2日目であったのだ。 (大阪駅は?)と聞いてきても無理はないのだ。

 「よっしゃ、判った。無線でまず聞いてください」  「え、無線はない?じゃ、地図で確かめてください。私も窓の外をよく見て説 明しますよ」

 そんな調子で大阪駅を目指した。本当の目的地は、阪急梅田であったが、そこ まで言うとか暮れなずむ街中、しかも渋滞のなか、かえって戸惑われるだろうと 思ったからだ。予想よりか、15分ぐらい遅れて大阪中央郵便局前まで着いた。そ こから、一目散に阪急梅田の待ち合わせ場所の紀伊国屋書店前まで駆けるような 速度で歩いた。結局、お約束の時間より30分近く遅れてしまった。

 10分ほどお顔を探したが、お会いできなかった。仕方なしに前回お会いした食 事処に出掛けたがおられなかった。席を取ってどうするかと、思案してから先生 のご自宅に念のために電話したところ、電話に出られた。大目玉を食らったこと はいうまでもない。ひたすらお詫びするばかりであった。 後で知ったことだが、20分以上お待ちになったそうだ。

 休日というこころの緩みから読み違え・・・。そう師走、渋滞・・・。けっし て新米の運転手さんのせいではない。この運転手さんは、誠実な人柄で最善を尽 くしてもらったと思った。この日の失敗を教訓にしてこころを引き締めて一年の 締めくくりに仕事を中心に生活全般により真摯に取り組みたいと改めて思った次 第。( 2003年12月4日)

 

閑話:「文藝春秋」特別版、12月臨時増刊号を4、5の両日、暇を見つけては、私 流の読み方で半分ほど読んだだろうか・・・。私はかなり以前から本や雑誌を 買っても初めから、終わりまで順序よく読む方法を取らないようにしている。興 味を覚えた章やページから目を通すことが習い性になっている。

 そんな具合でこの雑誌も読み進んだ。この号のタイトルは「生きる知恵、生き る力」である。執筆者は若い方で私とほぼ同じ世代の方もいたが、ほとんどが先 輩諸氏である。なまじっか小説など読むより、この号を読む方がずっといいと今 回ばかしは、つくづく思ったものだ。どなたでもこの方の著作は読んだという、 名の知れた方ばかりである。私にとれば、この方には、あの時お会いしたという 方もいらっしゃったから、興味は募り、増すばかしであった。

 結論を言う。どなたも凄い、の一言である。

 ご自分でこころの底にじっと湛えておられる貴重な体験から得た箴言を惜しみ なく披瀝、しかも、ユーモアを交じれながら綴られており、読者をぐいぐいと引 き込んでいく力がある。

 筆者の名前は伏せるが、こころに残ったタイトルを以下に記す。

 「ゼロに戻る訓練」「人のために生きてこそ人」「師として、父としての山本 周五郎」

 「したたかに生き、書き続けた主婦作家、野上弥生子」「観見二つのこと」 「愛にこだわる」「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば終業」「前向きの明る い死生観」などである。

 まだ、半分ほど読み残しているのでまだまだ箴言に出合いそうだ。(2003年12月 6日)

 

閑話:我が家の庭にも冬の訪れが・・・。よそ様の庭より、木々は少ないが、最 低限の庭らしいし設えにはなっている、とかってに思っている。常緑樹の木も幾 つかはあり、緑をたたえてはいるが、ほとんどに木が葉を落とし、冬の装いに なっている。

 先月中旬ごろから、ふとリビングルームの窓の外に目をやった。

 「おっ、ミカンが一つ、実をつけているな」と感動とともに眺めた。これは、 家内が確か2年ほど前に植木屋で買い、植えた。高さ50センチほどの背丈の低い ミカンの木である。

 その後、出勤前とか休日に何がしかの本を少し読んだ後、ふと眺めるのだ。私 はミカンの生育などについて全く知識を持ち合わせていない。で、今日は思案し 始めた。

 「このまま、このミカンは黄色い実をつけたまま新年を迎えるのではないか」 と。 ならばどうする。自然のまま、庭の一点の自然の飾りとして残しておくか。

 それとも正月用のお飾りに使用しようかとも。しかし、自然に任せ、私ども家 族が窓越しに観賞する自然の贈り物としたいと思っている。(2003年12月 6日)

 

閑話:7日、撮りおいたテレビ番組を深夜帰宅後、見た。バブル時代の波に押し流されて、事志しに反し、経営に失敗した経営者らなどの失敗から得た教訓が披 瀝される内容であった。出演者が率直に本音で述べられたから、見応えがあっ た。

 誰でもバブルという時代があろうが、なかろうが人生の途上では一見、失敗、 一時の挫折はあるだろう。ないほうが私にいわすれば、普通でないと思うのだ。 順風満帆で生きてきた方の話もそれはそれなりに意義を感じないでもないが、苦 労した方の御話しの方に深みがあり、共感以上の教訓を教えていただけるので、 私は、どちらかというと、後者の方に関心を寄せる。この番組の出演者は、その 教訓を生かし、「今」を真剣に力強く生きられているのを見て感動を覚えた。

 大手銀行の中枢に居ながら辞表を出された方は、その教訓を生かし、別の銀行 の活性化に取り組んでいる生の声は説得力があった。また個人としては莫大な借 財を抱え、物書きの道に入り、作品を書くことで地道に債権者の方々に返してい くKさんの根性には改めて敬意を表しつつ見た。文学者であり、経営者でもあっ たTさんの真摯に時代と向き合った軌跡についてのお話も大いに勉強になった。

 3人の方々の教訓は時代を超えた普遍的で示唆に富んだ素晴らしいものだっ た。(2003年12月7日)

 

武蔵最終回:武蔵と宗矩は、落城寸前の大坂城内で合いま見えた。二人の顔が紅 潮、緊張感が漂う。これが2人の生き様を剣に賭けて闘う最後になるのだ。宗矩 は、鎧、兜を外し、剣士の姿になり、武蔵の挑戦を受けた。  「サッサー、ビュウー、ター、ター、ビン、ヒュー、ビ、ビィーンー」と、2 人の剣が空を切り、相交える。緊迫の一瞬。「ド、ドゥー」と、宗矩の隙を突 き、武蔵の剣が宗矩の眼前の剣を上から押さえ付けた。  武蔵は、立会いで宗矩に勝利した。

 「斬れ、武蔵!」と無念を滲ませて言い放つ宗矩。 武蔵は、宗矩を見据えるが、剣を振るわない。そして強い口調で言い放った。

 「上の者におもねることなく、媚びることなく、独りで生き抜いてきた者のこ ころをお知りになることです。そして宗矩殿、人としての情けと、そうした者達 の意地をゆめゆめお忘れなきよう」(著者要約)

 武蔵は言い切り、宗矩の前から卒然と姿を消した。

 一方、武蔵を又八の宿で待っていたお通はちょうどそのころ、雑兵に襲われ、 窮地にあった。お通のもとに急ぎ帰る道すがら、雑兵の暴挙を知り、武蔵は、胸 騒ぎを覚え、お通の処に駆けに駆けた・・・。寸前で武蔵はお通を狙う兵を斬り 倒し、救った。

 2人は、徳川方の残党狩りが激しさを増すなか、闘いながら逃げ抜いた。やっ と、2人の世界が訪れた。2人がそっと肩を寄せ合いながら安らかに眠りに落ちる なか、回想シーンが効果的に流れた。私はこの一年、見続けてきたドラマの数々 を思い出していた。

 圧巻はやはり、石舟斎に武蔵が出会う場面だ。

 「武蔵、水の音、鳥の声を聞かずして剣の腕だけ磨いても無駄だ。それだけで は強くなれんぞ」(著者要約)

 私は、武蔵が剣の奥義を究める上で最大の師匠になったのは石舟斎ではなかっ たかと今回、改めて思った。無論、沢庵の存在も大きかった。淀殿、秀頼も炎上 する大坂城の中で自害した。ドラマでは触れられなかったが、家康は、大坂夏の 陣の翌年にこの世を去る。

 武蔵は熊本の金峰山の祠で一人、今も伝わる「五輪書」を書き上げた。伝えら れるところによると、書き始めたのは、還暦から。完成後間もなく志を貫き通し た武蔵は62歳の生涯を終えた。

 この一年、原作をもとに自在に展開した「武蔵」は、近年にない深みのあるド ラマであった。老若男女を問わず、視聴者に与え続けた示唆に富んだ教訓と問い 掛けは貴重なものがあったと思うのである。関係者の方々に敬意を表したい。(2003年12月8日)

 

閑話:先日、今、活躍中の先輩作家の方々らの「生きる知恵 生きる力」の中で 感銘を受けた題名を挙げた。この時点では、半分ほどしか読んでいなかった。その後、暇を見つけて読み70%は進んだ。2度目にことさらに取り上げるのもくど いようなのでやめる。参考というか教えられる語りが幾つも、見つかったが、割 愛する。

 そこで生き方というか、文士には珍しく円満な風貌をお持ちであった井伏鱒二 にかなり以前から、関心を寄せていた。今、手元に井伏の「文士の風貌」を持っ ている。奥付を見ると3刷で1991年6月20日とあるから12年ほど前に購入したとみ られる。

 そのなかに詩人で井伏の友人であった三好達治について書いているところを紹 介しよう。文章から三好の個性の一面が簡潔な文章のなかで自然と浮かんでく る。ユーモアを交えながら淡々と書き上げておられるさまは、同時に井伏の風貌 も自然と伝わってくる。文の名手とはこのようなものと感歎した。

 ついでに井伏がこの文の中で紹介していた三好の有名な詩を記す。

 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふ りつむ。」。

 もうすぐ雪の冬を迎える。こんな情景は、今も田舎のどこかにはあるだろう が、私が幼年のころは、全国各地に牧歌的で詩情を覚えるこのような情景があっ たような気がする。私は三好のこの詩をゆっくりと数回読んだら、なにかしらこ ころに安らぎを覚えた。

 さて井伏であるが、何年か前、テレビでお顔を見た。今はなき気鋭の有名作家 が真剣な面持ちで大先輩に当たる井伏に「井伏さん、何も書けない、どうしても書けないときはどうしたらいんでしょうか」(著者要約)と聞いていた。「そんなときは、とにかく一字でも原稿用紙にただ書いたらよいのです」(同)と言わ れたことが今でも鮮明に画像とともに井伏の言葉を思い出すのだ。まさに井伏は人生の達人である。

 これは、なにも文章家の話だけでなくどんな職業の方にも通じる箴言だと思う。(2003年12月10日)

 

閑話:NHKで10日夜、放映された「その時歴史が動いた 忠臣蔵」を深夜帰り の後、ビデオで見た。本懐を遂げた47浪士の統率者、大石内蔵助の辞世の句を以 下に記す。

 「あら楽し、思いは晴るる 身は捨つる 浮き世の月にかかる雲なし」 この大石が残した句は、恐らく内蔵助の本音であろう。徳川幕府が開かれて約 100年後の元禄14年に起きたこの仇討ち事件は、武士階級だけでなく当時の庶民 の間でも相当の話題を呼んだ出来事に違いないと思う。

 私の最初の小説になる「生生流転」でも元禄年間に生き抜いた備前・岡山の男 を主人公にしたため、赤穂浪士のことにも少し、触れている。なにせ赤穂といえ ばすぐ隣の城下町だったから当然である。私自身、少年、青年時代に、赤穂の塩 田を何回か電車の中から見た。

 中学2年次には友人と2人で2人乗りの自転車を漕いで赤穂城まで見学に行った ぐらいだから、赤穂浪士の存在は少年のころから自然と興味を覚えていたのだ。

 さて今回の「歴史が動いた」の赤穂浪士。裁く側の時の将軍綱吉の決断に至る までの苦悩も描かれていていたのを興味深く見た。時の将軍の決断に迷わし、幕 閣60名の意見を聞くための投票までしたというのは、初めて知った。封建時代と いわれる江戸時代に内蔵助ら浪士たちだけでなく最高の権威者の将軍にも渇かな いこころ、日本人のこころの一端を見た思いがしたのだ。(2003年12月11日)

 

閑話:これまで「交野探訪」の紹介がてらに既に書いたかもしれないが、先日の 三好の素晴らしい詩「太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪・・・。次郎を・・・屋 根に雪・・・」の一節と同じようにこころを和(なご)ませてくれる句を紹介し よう。

 交野に幕末の数年間、仮寓した詩人であり陶芸家でもあった太田垣蓮月尼が 歌ったものである。

 「宿かさぬ人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花の下ぶし」

 これは恐らく仮寓した交野以外のところで詠まれた句であろうが、私は「交野 探訪」の中で以下のように説明している。 (宿を請うて断られた。ああ、人の世の哀しさよ。でもよくよく思案してみれ ば、私に向けられた思いやりかもしれない。おやおや、朧月夜に照らされて観る 桜花のなんと美しいことよ。有り難い、有り難い、夜桜の下で野宿する私は幸せ そのもの・・・」と。

 人世で起きる大概のことなら、もし蓮月尼のこの句が理解できたなら、老若男 女を問わず、前向きに生きていくことができるだろう。  私の杖ことばの一つである。もう一つ、尼の歌った好きな句を載せているが、 それはまた次の機会に取り上げたい。(2003年12月12日)

 

閑話:三昧法螺聲。一乗妙法説。経耳滅煩悩。當入阿字門。いきなりこの漢字表 記の経の一節を出したら、読者の皆さんは、少し、驚かれるかもしれません。これは法螺三唱という修験者の方々が、唱える経である。

 私は、12月号の大法輪に「子規のこころ」というエッセーを書いた。法隆寺近 くの茶店に立ち寄った正岡子規が「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだ理由 から私なりの子規のこころの内を想い描いた。これは子規が単に奈良の秋の風情 を詠んだのではない、という見方から私の私見を披瀝した。

 「ごーん〜〜〜〜〜ごん〜〜〜〜〜」と長い、長い音韻を残しながら響き渡る 鐘に子規は、思わず瞠目したのではないかと思ったことから、書き進めた。人間 の波長をはるかに超えた音韻に子規がはっと目覚めた。子規だって人の子、世の 不条理に嘆き嘆息していたか、何かに悩み、齷齪(あくせく)していたのかもし れない。この法隆寺の鐘の音に思わずこころが洗われ、この有名な句を詠んだと みたのだ。

 ところで冒頭の経、修験者方々らが例えば金剛山の頂で一斉に法螺貝を吹く。 そしてこの経を唱える・・・。「ぼぅーん〜〜〜ぼぅーん〜〜〜」と山々に木霊 する。これも子規が聞いた法隆寺の鐘の音と同じように世俗の世界を超克する響 き、音韻を持つ。ぜひ、修験者のみなさんらの唱える経と法螺貝の音を実際聞い てみたいと思う。(2003年12月13日)

 

閑話:師走も半ばを迎えた。言葉通り、なにかしら、忙しげに時が流れている。 例年のことながら、最近の私は、飲み屋街とは全く無縁であり、よく知らない が、大阪市内も最近、交通量だけは、先月より目に見えて増えている。

 「もう今年は、25日で終わりですよ」と先日、タクシーの運転手さんは言っ た。

 「おっ、それは何故ですかな」と私。

 「ほとんどの企業がお休み態勢じゃないですか・・・」

 私は、新聞社勤務という生業で、29日まで出勤であるから、一瞬、おやと思っ たのだが、言われてみればなるほどそうかと、納得した。ということになると、 あと2週間で実質的には世間さまは、今年の終業、御用納めということになる。 早い人は、年賀状などを書き始めているのかもしれない。長年、そう36年も新聞 社勤めをしていると、やはり30日ぐらいにならないと、一年は締めくくれないと いう習い性が体の中に沁み込んでいるのだろう。  今日(13日)は京都の祇園などの花街では迎春準備を始める「事始め」。

 「おめでとうさんです」と舞妓、芸妓さんが、踊りなど芸事の師匠を訪ねて新 年の挨拶をする。この界隈は一足早く、新春の雰囲気に包まれる。

 でもやはり、私には大晦日が年の締めと思えてならない。ま、それぞれ異なっ ていい。自分なりの年末を味わえばいいのだと思う。(2003年12月14日)

 

閑話:夕方近く妙見宮に家内と一緒に参拝した。夕刻といっても午後4時近くで あった。散策を兼ねて宮内で憩われる2、3の家族の方々に出会った。師走の宮内 は静謐を湛え、いつもより厳粛さを覚えた。もう暫くすると、新年を迎える準備 が始まるのだろう。

 帰りは中央公園傍の道から旗振山や交野山(こうのさん)が遠望できる山々を 見渡した。師走に入ったとはいえ、紅葉で近くの山全体が輝くように朱色に染 まっていた。

 「これは凄いな。あの山中に登り、歩いたらどうだろうな」と私。

 「それはきっと気分爽快になるでしょう」と家内は言い、2人で暫く自然の見 事な装いにうっとりとして立ち尽くしていた。今しがた陽がゆっくりと西の山の 端に入ろうとしていたのを宮傍の道で見たところだった。

 私は思わず西田幾多郎の有名な句を思い出した。

 「愛宕山入る陽のごとく赤々と残れる命燃やし尽くさん」

 私は家内に聞こえるように声を出して西田の詩を詠んだ。 そして同時に中曽根康弘元総理の句も思い出ていた。

 「くれてなお命の限り蝉しぐれ」 2つの句には哲学者と政治家と世界は異なってもその道一筋に生き抜こうという 力強さに加え、己に与えられた生を慈しみ、感謝を捧げるとともに己の使命感を 漂わせている点では同じ境地ではないかと思ったのだった。(2003年12月15日)

 

閑話:私が住んでいる交野市妙見東団地は三宅連峰の山間(やまあい)にある。気 温は平地より、2度ぐらいは低いだろうかとも思う。私が幼少年期を過ごした岡 山・備前の平地でも幼稚園や小学低学年のころは雪が降り、庭で雪だるまをつく り上げ、歓声を上げたものだ。

 「雪やこんこ 霰やこんこ。 降っては降っては ずんずん積もる。山も野原 も 綿帽子かぶり、枯木残らず 花が咲く。」  「雪やこんこ 霰やこんこ。降っても降っても まだ降りやまぬ。 犬は喜び  庭駆けまわり、猫は炬燵(こたつ)で丸くなる。」

 私はこの団地に住むようになってからもう15年になる。その間、2、3度、団地 一面が雪に覆われた記憶がある。仕事が休みのときであったら、ゆっくりと雪景 色を堪能できるのだが、なにかしらすべて出勤であったような気がする。

 ついこの間、深夜帰りの翌日、お昼前に起床したら、団地の中を車で周りなが ら多分、食品やら日用品を売る業者の方だろうか「雪やこんこ」のメロディーを 低めの音で流していた。

 私は心地よい気分に浸り、暫くリビングで聞いていた。同時に田舎で味わった 雪景色を思い出していたのだ。(2003年12月15日)

 

閑話:これは最近、思っていることだが、この際、読者の皆さんに正直にお伝えしよう。宗教のことである。これはキリスト教など西洋の宗教に限らず、アジア で起こり、広く地域の文化を吸収しながら伝播(でんぱ)し、多くの信者、信徒 を抱える仏教各派、我が国の神道、並びに黒住教、金光教、天理教、大本教など 江戸末期から明治初期成立した神道系宗教、または創価学会、霊友会など戦後大 きく信者を増やしたいわゆる新興宗教にも言えることである。

 「私は無宗教です。宗教は嫌いです」  という教養人方がいらっしゃるが、こうした方々には恐縮ではあるが、私は、 あまり高い評価を与えない。ま、私ごときが言うのだから、めくじらをお立てに ならない方がいいでしょう。  「自分ではいくら努力しても達成できないとこころの底から思えたとき本当の 宗教心が生まれる」と思うのでる。いくら教養などを豊富に持ち合わせておられ ても自己の力で何事もなしえると思う限りは、宗教など必要としないだろう。だ から、宗教の知識をいくら知っていてもそれは、教養人と同じ範疇(はんちゅ う)になる。

 だから、どこそこの、何の信者、信徒とお答えになる方のほうを私はより高い 人物と見るのだ。無論、教養があり、しかもそのあたりのことをしっかりと押さ えている人物はさらに偉いに違いない。

 名前は挙げないが、戦国武将の多くは、何かの宗教に帰依しているのもいい例 だろう。また、当時の民人の多くもそうだ。いかがだろう。果たして今の世 は・・・。つ れづれに書き留めた。 (2003年12月17日)

 

閑話:深夜帰りで一息ついたとき、何気なく民放のチャンネルをつけた。「お お、太田垣蓮月尼の焼き物ではないか、おっ、尼が自分の歌を掘り込んでいるで はないか。噂の通り、上品で洗練化した作品ばかしだな」とこころの内で思いを 巡らせながら、僅か数分であったが、こころ奪われながら見た。

 何回も来年正月早々に出版する「交野探訪」の中で私なりに最も書けた項目の ひとつと思うのは蓮月尼についてである。私は交野市の郷土史家、奥野平次さん と和久田薫さんの共著の本だったと思うが、参考文献として読んだとき、写真で 見たような記憶がある。

 が、映像で見るのは、実物に直に接するのとほぼ同じくらい迫力がある。暇が できたら、歌とともに「蓮月焼き」をじっくり鑑賞したい。尼の焼き物は、明治 初期から今日まで好事家には、垂涎の的だとも聞いた。(2003年12月18日)

 

閑話:ある先輩に6、7年前だっただろうか、フアックス送信した。何かの返答 だっただろうか、それとも私が意見を述べたものだったか、もう定かではない が、忠告らしきものを受けた記憶がある。

 それは、私の文には候文または古文調の語彙がよく出でくるので云々という趣 旨だった。学校教育とは別に明治生まれで田舎では、かなり博識であった伯父か ら少年のころ、受けた影響だろうと思う。漢詩を読まされたわけでもなく、古文 を特別に教わったこともないが、何かしら雰囲気として子供のころこころに響 き、脳裏にその余韻がまだ残っているのだろうと思う。

 次に紹介するのは、沢庵が柳生宗矩に諭すために書き与えた「不動智神妙録」 の一節である。読者の皆さんもちょっと、意味はともかくとして語感を愉しんで いただきたい。

 「仮令一本(たとえ一本の木)に向かふて、其の内の赤き葉一つを見て居れ ば、残りの葉は見えぬなり。(中略)一本の木に何心もなく打ち向ひ候えば、数 多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず。 (略)・・・」  定年後に勉強しなければならない課題も増えたが、愉しである。(2003年12月19日)

 

閑話:深夜帰りの20日、就寝前に何か読もうと、Y紙の12月14日付朝刊「よむサ ラダ」を愉しく読んだ。こんな面白くユーモアに富んだエッセイ(紀行文)を読 んだことは、最近にない。

 昨夜までの新聞社の仕事の疲れが瞬時にしてほぐされた。カット見出しで 「ゆったり気分」沖縄と山形以外な共通点方向音痴もまた楽しいが全体の見出しだが中身は、ユーモアの底に見事な時代風刺と、主人公(執筆者)が初めて 沖縄に講演旅行に出掛けて沖縄県立看護大学の先生の運転する車に乗られたのだ が、この沖縄の先生は執筆者にいわすれば男性には珍しいほどの方向音痴。目的 地に何回も方向を間違えられる。行きつ、戻りつ、だったという話だ。

 せっかちという執筆者もなぜがこの先生の運転ぶりに共感を覚えたという。講 演に出掛けられた執筆者は東京の大病院の副院長。ご自身も方向音痴に加え、山 形の方言とよく似た沖縄の方言で似ているのかなり見つかった。恐らく行き先が 分からなくなったときゆったりとした沖縄の方言豊かにくだんの先生は、方向を 間違えるたびに詫びられたのではなかろうか。

 その誠実な所作が早口の東京弁より、自然とこころが和み話も弾んだのだろ う。題名の読むサラダにふさわしく今の時代に対してやんわりと風刺されていて 素晴らしい語りであった。(2003年12月20日)

 

閑話:スポーツの話を致します。まず川上監督のこと。監督が現役で4番バッ ターを打っていたころで全盛期のころから晩年を迎えるバッターとして成熟期の ころの川上語録の中に以下のような話があることを記憶している」  「ピッチャーの投げる球が打つ瞬間、止まって見えた」

 神業に近い。気迫、集中力、冷静(平静)などの要素が凝縮してひらめく瞬間 があるのだろうと想像する。これは練習に練習を重ねて苦労、苦心の末に川上選 手が体得したのだろうと思う。今年のテレビドラマ「武蔵」ではないが、五輪書 に書いている「千日の稽古を「鍛」といい、万日の稽古を「錬」という。

 まさに川上選手の神業はそうした研鑽を積んだ末のことであろう。 次に相撲だが、少年のころ大の栃錦ファンであったが、師匠の栃木山が偉かっ た。栃錦に諄諄と教えたそうだ。それを栃錦は守った。

 「下駄で歩くときは、足の指に力を入れてあるけ」  だった。これも私の想像だが、力士が土俵に上がり、何回か繰り返す蹲踞の構 えにも通じると思うのだが、つま先立ちしている。足指に力を入れるというの は、五感が刺激され、体調、体力維持につながる。さらに気力も充実してくる。 だから栃錦は、小さな体で巨漢力士をなぎ倒すような力相撲を取ることができた のだろうと思う。

 要は要領以前に基本の鍛錬が不可欠ということだろう。(2003年12月21日)

 

閑話:新撰組に関する小説とおよそ全体像が判る資料価値のある本を最近、2冊 購入した。来年のテレビドラマが「新撰組」であるからだ。今年1年は「武蔵」 で結構、愉しめたし、また勉強にもなった。同様に「新撰組」を通して幕末の青 年群像の胸の内を知りたいと思うからである。1部の藩を除いて幕末の武士階級 は、戦闘的な技量を落としていた。そこで剣の技と気合を磨いた隊員の存在が大 きくグローズアップされたのだ。

 新撰組の活動は、世界的な趨勢からみた場合、時代錯誤的なところがあったか もしれないが、一人の武士(もののふ)として命を賭して日々の闘いに生命を燃 やしたところは、勤皇の志士らと比べてもなんら遜色(そんしょく)はないと私 は思うのだ。そんなところにも「新撰組」に興味を持つ所以である。

 また交野に幕末仮寓していた蓮月尼を新撰組の若き隊士たちが、尼に恋の悩み か、生き方の悩みを打ち明け、相談するために訪ねたとう話もある。正月早々に 刊行する「交野探訪」にも少し、蓮月尼の絡みで触れている。そんなところにも この番組に関心を寄せる理由があるともいえる。 (2003年12月22日)

 

閑話:また深夜帰りのタクシー運転手さんとの会話の紹介をします。私は決まっ てこういう。「失礼ですが、昭和何年生まれですか。ほほうー、25年生まれです か。そうすると私より6つ下ですね。安心しましたよ、私よりお若いですね」

 私はぐっと気持ちが軽くなる。「はい、17年生まれです。16年生まれです」と いう運転手さんが10人に1人ぐらいだ。このような先輩の場合、やはり、年上と して少し、いや、随分気を遣う。昨夜の方も確か4歳年下の運転手さんであっ た。

 初めて家まで送ってくださる方であったが、諧謔(かいがやく)を飛ばしなが ら双方愉快なひと時を過ごしながらいつものごとく40分ほどの時間で家に着い た。

 会話の内容は難しい話は一切しないのを原則にしている。無論、仕事にかかわる話など皆無にしている。仕事の延長になるような会話だと疲れが取れない。毎日1合ほどの燗酒を愉しんでいるが、この帰りの時間に気分が程好くほぐれない と、酒がまずくなるからだ。

 「おっと、運転手さん、そんな難しい話はよしましょう。一合でほろ酔い気分 になるのにそんな話をすると、お酒呑み過ぎますよ。私・・・」

 私にとって憩える場所は、帰りの車中もその一つである。また何か私とは異 なった人生体験をされている人が多く自然のうちに勉強になる場でもある。(2003年12月23日)

 

閑話:今日も深夜帰りの車の中で愉快にいや、少しは真摯ではあるが、運転手さ んと交わしたお話を読者の皆さんにお伝えしよう。

 「あなた昭和何年のお生まれですか。ああ、そうですか23年ですか。それでは 級長(ホームルーム長)が、先生が教室に入ってきて教壇に立たれると、『気を つけ。礼!』という慣例(儀式)を知っておられますね」

 「ええ、もちろんです。それでなにかしら、ピリッとしましたね」

 「それだけではないと、最近、気がつきましてね。それは、深深(ふかぶか) と礼をすること自体が、少年のこころも体もしゃきっとする対策にもなっている のですよ。NHKの午後3時の体操をご覧になったことがありますか。体操をす る女性の方々が首を上下にするではないですか。あれですよ。根本のところは同 じですね」

 皆さん、正月にお宮さんに初詣にいらっしゃり、宮司さんや禰宜の所作をつぶさ にご覧になればよい。宮司さんらが、神殿に向かって礼儀正しい礼をなさるのを 発見なされるだろう。宮司さんらは、祭られる神に向かい礼儀の則り、祝詞の始 まりなどに私どもより、丁寧で深い礼をされるのに気が付かれるだろう。

 宮司さんらは、その礼によって自らのこころを正し、敬けんで厳かな気持ちを 得るのだと思う。

 ユーモアを交えながら、およそ、そのようなことを運転手さんに語った。

 「ええ、全く同感ですね」と大きく肯かれた。

 日本文化はそんなところにも共通点があるのだと思う。(2003年12月25日)

 

閑話:また、深夜帰りの車で運転手さんと話したことを書く。読者の皆さんには、また同じ話かと失望感を覚えられるかもしれないが、お許しを願う。年齢の ことになった。氏はちょうど50歳。私より、9歳も年下であるが、「中々ええこ とおっしゃるな」と感じ入った。

 「それは、木下さん、いくら10、20歳も年下の人に言っちゃっても判らない人 は、判らないですよ。やはり、概して苦労していないから。私ら、はなから諦め ていますね。第一体力が違うし、やはり世代の相異でしょうかね」  「そうですね。私のそう感じるのですがね。でもね、私は体育系のクラブを高 校や大学で経験した若者とは、何かしら通じるものを感じますがね。いい意味の 上下、年齢の厳しい世界で鍛えられているからか、礼儀や先輩に対する敬意を表 する態度を持っていますからね。まだ私は期待しています。研究分野などの世界 では、知識先行ですから、知識だけ比べて先輩をないがしろにしがちですな」

 「そういえばそうですね。そんな人を乗せたことがありますが、期待していた だけにがっくりきましたね。よくよく考えてみたら様々な人に出会えますから、 私らの仕事や功徳(やくどく)ですな」

 そうです。運転手の皆さん、誇りを持ってください。毎日、私も会話を楽しみ ながら教わることが実に多いのですよ。(2003年12月26日)

 

閑話:関西師友の新年号が届いた。この創設と発展に大きな貢献をなされた新井 正明さんが、先日、92歳の天寿を全うされ往かれた。関西財界の重鎮の一人で あった。安岡正篤氏を師と仰ぎ、「安岡史観」普及のため身をもって挺身された 方ある。

 さて新年号をざっと見ると、錚々たる方々が、含蓄に富んだ文を寄せられてい る。 「岩激(いわばし)る垂水の上のさ蕨の 萌え出る春になりけるかも」の万葉集 の歌がまず目に飛び込んできた。自然の摂理の営みの中で生かされている悦びを 思わず歌った思いが直に伝わる。この歌を取り上げられた感性に私も共感する。

 「万世の春の初めと歌うなり、こは敷島のやまとびとかも」にも通底するもの がある。

 私は申年生まれ。来年は年男である。これまでの人生を振り返りながら、双方 の先人の歌を噛みしめ、初春を祝いたいものである。(2003年12月26日)

  

 

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