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ある日あの時

閑話:2003年1月1日午前6時前、家内とかねての念願であった桓武天皇が長岡京 のシンボルとした聖なる山、交野山(こうのさん)での初日の出を拝もうと予約 しておいた地元タクシーに乗り込み、山裾まで。日の出の予想は、午前7時05 分。普段は、ゴルフ場までタクシーで乗り付けることができるが、この日、つま り、元旦は、タクシーは、ゴルフ場の門の前までしか行かれない。マイカー の乗り入れで混雑するからだ。そこから巨岩のある交野山の頂上まで約40分。2 人でゆっくりと登っていたら、暗闇から次第に薄明かりにと周囲が変化していくう ち地元の方々らが三々五々登っているのが前に後ろにおられることが判った。皆 さん慣れた様子ですいすいと歩を運ぶ。我々のような中年も高年の方も若者も。 半分ほどだったろうか、「おい、しんどくないか」と家内に訊ねたたら「少し ねー」と本音を吐く。む、む、と少し、休憩のポーズを取って立ち止まって前方 を窺うと男性2人と女性1人の姿を見た。「おっ、あの姿か。あの歩き方か」とす ぐ理解できた。読者の中には、登山の経験豊かな方もいらっしゃるので割愛す る。平地を歩くのとやや足の運び方を異ならせればいいのだ。恐らくこの3人の 方は登山経験の豊かな方であろう。やはり中央の方の歩き方がもっともさまに なっていた。「おう、あの歩き方を真似てみろ」と家内に言いながら、その歩運 びにした。数歩したら「途端に楽になった」。家内もいつの間にか私の真似をし て後からついてきた。なだらかな道がしばらく続くとやけに急な道になった。も うそのころになるとあたりは明るくなり前後を行く方々の顔もはっきりと。ひょ いと眼下を見下ろすと、いままで街や村落の明かりが薄暗闇のなかで輝いて見えていたのがいつの間にか消えていた。中には腰を下ろして休憩している 方々もおられた。それほど急な山道になっていた。私たちは、休むことなくなん とか頂上に辿り着いた。(おっ、これは凄いな)とこころの中で思わず呟いた。 もう山頂の巨岩、その下の岩や道は大勢の方々で埋まっていた。私どもよりずっ と早くから初日の出を待っていたのである。ざっと数十人。みな東の連峰を向いてご来 光を待っている。私どもが山頂に着いたのが午前6時50分くらいだったか・・・。あいにくと 雲が覆っていた。これでは初日を拝めるかどうかと私も思ったし、皆の表情も一 様だ。道に座るような姿勢をとられている高年の方2人がお酒を飲みながらゆっ たりと構えておられるので私は、家内に向かって「おい、あの酒を出してくれ」 と頼んだ。私の場合、恐らく山頂は寒いに違いないとふんでいたし、お屠蘇を山 頂で飲むのも一興と熱燗にした酒を小さめのポットに入れていた。で、少し口に 流し込んでじわりと体の芯が温まるのを確かめながらご来光を待った。予定の時 刻を過ぎても薄雲が前方の連峰の山の端を覆っているので太陽を拝めない。全員 の顔に失望の色が走り、なかには「あぁー仕方がないなぁー」と声を上げる人 も。私も同様な気分になり妻とともに巨岩のすぐ下の岩に腰を下ろしておにぎり を取り出して食べ始めた。と、「巨岩の上から歓声とともに拍手が沸き起こっ た。私は脱兎のごとく巨岩に這い上がった。瞬間、光り輝く太陽を雲間から見 た、拝んだ。すぐ後ろの中年男性の方が「皆さん明けましておめでとうございます」と高らかに声を上げると巨岩に立っていた皆が一斉に顔を輝かしながら大き な拍手・・・。(おう、これでよし、良かった・・・)とこころが和むばかりか 嬉しさが全身を走った。その喜びを噛み締めながら頬張るおにぎりは格別にお いしかった。(2003年元旦) 

 

閑話:年末、新撰組を見た。テレビ東京、テレビ大阪系列で放映された。上々の 出来栄えだった。ドラマ性に富んでおり、しかも映像効果抜群で久方ぶりに良い 時代劇を観たという感慨が観終わってからもその余韻が中々消えなかった。原作 者の浅田さんの小説は、残念ながら読んでなったが、放映途中で顔を出した浅田 さんご自身が、映像化されたこのドラマに感嘆されるほどだから、私のやや大げ さな評価もあながち独りよがりではなかろう。愚直なまでも己のこころに忠実な 吉村という隊士。だから当時の武士社会の通念からは推し量れないような行動にも底になにかしらユーモアさえも何か潜んでいるような気がして観るもののこころを揺さ ぶった。圧巻はその息子が親である吉村の生き方を納得、全面的に肯定する場面 だと私は思った。人口に膾炙された新撰組の姿を全体として超克しているところ がこのドラマの凄みでもあり、魅力でもある。このようなドラマを常に求めるの は、現実問題としてやや酷なような気もしないまでもないが、視座だけは持ち合 わせてほしいと思ったものだ。続いて正月に忠臣蔵を観た。忠臣蔵については、 私の場合、赤穂とそう遠くないところで少年期を過ごしたのでそのころより興味 を覚え、漫画などを含めてかなり知識があったのでそれを追認するのにも大変い い勉強になった。娯楽に重きを置く正月企画としては、成功したドラマ仕立てに なっていた。家族全員が老いも若きもそれぞれの思いを抱いて興味深く見ること ができるところが良かった。(2003年1月3日)

 

赤穂浪士のことでふと少年のころを思い出したので書く。中学2年、当時、生徒 会副会長のY君と書記であった私。2人で赤穂城まで出掛けたのだ。彼は、勉強 家、私はどちらかというと、彼ほど勉強に情熱を傾けなかった。学校の規則に映 画館に行くなという禁止事項があったが、私はなんでやろう!とむしょうに腹が 立ったので担任の先生(もしかしたら3年次だったかも。なら生徒会副会長、Y 君が会長)だったか教頭に「西大寺市(現岡山市)の映画館で片岡知恵蔵のドン パチ、ドンパチの映画をやっているので観に行かせてください」と訴えた、いや 頼んだ。「お前さんなら、仕方がない、黙って行ってこい」と特別な許可をいた だき実際に一人で観に行き愉しんだくちだから一般論でいうなら少し不良少年が かっていたようにも思える。無論、多少は勉強しなきゃーとの思いもあったが、 心底、燃えるものがなかった。が、2人は、遠い親戚に当たるというよりも、む しろ性格、気性が合った。で、きっかけは、なんだったかもう忘れたが、2人乗 りの自転車を借りてヨイショ、コラショ、ヨイショ、コラショと漕ぎに漕いで赤 穂城まで。着いたところで2人は快哉したものだった。城を少年の目でしかと確 かめ、思いはそれぞれ違っていただろうが、大いに満足したものだった。ヨイ ショ、コラショ、ヨイショ、コラショ・・・。「あの子は中々、別嬪だな!」 「いや、たいしたことないよ」などと女生徒の評判を口にしたりしながら愉快に 自転車を漕いで帰路を愉しんだ。こんなことだから、恐らく彼も私も少年なりに 歴史に興味を覚えていたようだ。彼は東大法学部を卒業と同時に旧自治省に入 り、大いに活躍した。その彼から毎年のことながら年賀状をいただき、励ましの 言葉を思いつつ、忠臣蔵を堪能した。(2003年1月4日)

 

閑話:また、ふと思い出したので家内と元旦にご来光を拝みに聖なる山、交野山 に登ったときのことを読者の皆さんにお伝えします。タクシーで通行止めになる ゴルフ場のゲートまで着いたときのことだ。寒かった。私はどちらかというと不 器用な男なので厚手のジャンパーを着て行ったのはよかった。でもボタンはきち んと留めていたのだが、なにさまぶるぶると寒かった。風邪を少し引いていたからかもしれない。不器用な手つきは承知の上で(よっしゃ、内側のチャックを閉 めなきゃー)と咄嗟に思い、がさがさと下側のところから閉めようとしたが、中々 うまくいかない。傍らの家内もそらみたことかと(お勉強しなさい)といわんば かりの表情でただ眺めているだけ。む、む、む、寒いぜこれは、・・・。顔をや やしかめたところで思わないところから助け舟があった。ゲート前で交通整理と 遠方から来た人々の案内もしておられた方2人。その1人の方がさっと近づき交 通整理用のライトを使い私のチャック閉めを手伝ってくれたのだ。お、 お、こんなせちがない世の中と嘆いた旧年ではあったが・・・お、お、お、と嬉 しい思いが思わずこみ上げてきた。思わずじんときた。「お気を付けて登ってく ださい」ともおっしゃるではないか。確かに途中までは平地歩きスタイルであっ たのでややしんどい思いはしたが、なにくそ、少々の風邪なんぞ・・・と山道を 登るファイトが出てきたのもいまから考えるとその励ましにあったかもしれない と思うのだ。「強きを助け、弱きをたたく」社会の再来とも思われる昨今の風潮ではあるが、こんな方が交野の地にいらっしゃると 思ったらたとえようもない嬉しさを感じたものだ。さらにみもしらない方から頂 上で、「明けましておめでとうございます」と声をかけられた。お分かりになる でしょうか。読者の皆様、難しい学問やらとか企業戦略とか以前に必要なのはこ れだと思います。このこころなくして学問も企業戦略もないだけでなく今の閉塞 感を拭うことはできないと思いを新たにしましたのでお伝えしました。(2003年 1月5日)

 

閑話:深夜仕事を終えて車帰りの後、暫く休憩の後、風呂に入ってさあ、就寝す るかと、思いながら何気なくNHK教育テレビをつけたらあの中坊さんの顔が 突然目に飛び込んできた。聞き手の方の顔が真剣そのものだった・・・。する と、中坊さんの声が心なしか変化したと思うと、語りながら目から涙が溢れ、こ ぼれそうになった。森永ヒソ中毒訴訟の弁護士団長を引き受けるときのこころのうちを正直に話されだしたころだったか・・・。「引く受けようかどうしようかと迷った挙句、父に相談しまし た。父は、止めとけというかもしれないと思ったが、『公平』、なんということ をいうのや、いたいけな赤ちゃんに対する問題ではないか、何を思い悩んでいるのや、そんなこ とを言うお前に育てた覚えはないと言下に言われましてね。それで勇気が出まし た」(筆者要約)。訴訟団の一人のお子さんが亡くなられた。無論障害があっ た。中坊さんが声を詰まらせながらどっと涙したのはこのときだったような気も する・・・。中坊さんは、慰めに母親の元に出掛けた。「中坊さん、私はこ の子にまんま(ご飯)と私を呼ぶことだけは教えました。そして外に遊びにやら せました。当然、いじめられました。この子は外では絶対泣きませんでした。世 間は、泣くこともできない阿呆(あほう)と揶揄しました。しかし、違うので す。家に帰ってから悔しいのか、この子は思いっきり泣きに泣きました。私が教 えたのは今、申し上げました2つだけです。阿呆と教えたのは世間。憎いのは世間です。世論です」。(筆者要約)む、む、む、よくあることだな、と私もじんときた。私の人 生を振り返ってもよく見た。中学1年のときだったか・・・。ある男の子がなん でかよく判らなかったが、いじめられているのだ。女生徒を中心に男子も加わ り・・・。私は怒った。なにしろ小学時代の喧嘩好き、いや悪るがきの延長にい た。休憩時間に皆そろったところでと教壇にさっと上り、啖呵を切った。「こりゃー、 ええ加減にせんかい。彼のどこが悪いんじゃー。言ってみろ!」。恐らくこんな 調子であったろう。中坊さんが語られたことを思い出しながらキーを叩いていた ら、ひょんなことを思い出した。これは、けっして自慢話ではありません。私が 見る限り、彼がいじめに遭うようなことはないと思ったから義憤を覚えたのだ。 昭和32年の田舎中学校の話である。教室は一瞬、しんとなり、翌日からその子に対 するいじめはまるで嘘のように消えた。このあたりで話を中坊さんの話 に・・・。戦後はとりわけ、いかに対応するかつまり「ハウツー文化」であり、 「ホワイ文化」でなかった・・・。この言葉、偉大な弁護士、中坊さんでしか言 えない箴言ではなかろうかと、ただ、ただ頭を垂れるだけだった・・・。(2003年1月6日)

 

閑話:久し振りに京都を愉しんだ。祇園・・・。茶屋遊び・・・。む、む・・・。思い出した。ほんにこれまでの人生の中で一回だけ茶屋遊びの経験をした。こんなのが、記者としていいのかどうかは、この際、詮索しない。が、このことについては後で少しご説明したい。流通経済関係の記者をしていて取材の最前線にいた30代前半のころの話だ。とある取材先の社長に誘われて、当時パリパリで、しかも重厚なご性格の持ち主で筆頭デスク、A先輩と一緒に祇園でお茶屋遊び。デスクも私も祇園の茶屋で舞妓さん、三味線を弾く芸子さん、落ち着き払った立ち振る舞いをされる祇園の粋な妓姉さん芸子・・・。私たち2人と社長さんは、彼女らの踊りや舞い、おもてなしなどに酔いしれ、さらに本間もんのお酒がほどよく体全体を潤していたから、身もこころもたおやか、たおやかだった・・・。お茶屋の雰囲気に言詮で説明できないほど甘美な世界を満喫していた・・・。完全に私は、記者であることを忘れ、伝統のある「祇園文化」に浸り切っていた。暫くして隣におられたA先輩が私にそっと囁かれた・・・。「木下君、(いやほどよく酔われていたからユウチャンであったかも)あんたは、遊び慣れておるなー」とおっしゃるではないか。「えっ」と我に返った。(おっ、そんなふうにみられたのか・・・。私は、ただ、ただ、お茶屋の雰囲気に我を忘れて浸りきり、陶酔していただけなのに、初めてですぞ、こんな豪奢なお遊びは・・・)と思い、(さぁーいきますか)とお酒の徳利をサッと先輩に出した。先輩はごくりと猪口の酒を飲み干し、それ以上、語らず、先輩も最後まで茶屋の醸し出す雰囲気を堪能されていたように思ったものだった。25,6年前のことながら、祇園の界隈に佇み、また歩きながらそんなことが鮮明に蘇ってきたのだ・・・。 で、ここらで詮索しないという意味を説明しておこう。へ理屈だと思われる方は、それでよろしいのではないでしょうか。つまり、私の見方はこうです。なるほどこれはその社長の接待であった。しかし私ども2人は、職を忘れ、仕事のことなど微塵も申さず社長になんのお追従も申さず、お茶屋の雰囲気に浸り切っていた。また、その後、くだんの社長が好むような所謂、堤燈記事など一切書かなかったし、先輩も私になんか書いたらどうだと一言も仰らなかった。また社長から文句もお願いもなかった。恐らく2年ほどのお付き合いではあったが、私の担当中は、普段通りのお付き合いであった。ついでに思い出したので書きましょう。地方の中核都市の支局員をしていた二十代後半のころの話だ。気があったのか、14,5歳年上の大手不動産会社の支店長さんが、(この青年は、痩せこけているから、牛肉でも食わしてやろうとか、若いのに面白いやっちゃとお思いになってか)よく私を高級焼肉屋に連れていっていただいた。 ところが、私は、氏にとって極めて都合の悪いことを特ダネとして書き、地方版でなく全国の読者が目を通す、産業面のアタマ記事にした。正確にはなったのだ。その支店長の所に掲載された日に何食わぬ顔で出向いたら、いつものように「おっ、やっ」とかの挨拶だけであったが、確かこれから東京に急な出張になったのやということお聞きした記憶がある。で暫くして県主催の定例の懇親会があった。知事であったか副知事であったかやや記憶が薄れたが、「木下さん、あの記事で人事異動がありましたそうですよ」とおっしゃられた。でもその支店長はお元気そのものだし支店内もいつもの顔触れのような気がしたので一向に気にしなかった。この記事は、県とも関係があったから、知事か副知事の深かい、深い、かつ広い、広い次元でのご報告であったのかもしれないが、それ以上、詮索しなかった。ま、ようするに飲み食いと、仕事とは次元が全く違うし、また峻別しなければ、ならないことは、ほぼ正しいのではないかとこの年になっても思うものだ。飲む時はただ飲むことを旨とし、仕事は仕事なのだろう。ところで後日談だが、支店長は、常務取締役などを経て関連大手プレハブメーカーの社長、会長を歴任し、また政府のある審議会の委員を歴任し、この業界の重鎮の一人になられた。ま、ま、当時私が取材でお付き合いした諸先輩の皆さんはおおむね世間で言われる「出世」されている・・・産業界に行政、政界で・・・。おや、おや、まあ、堅苦しくなったようです。祇園の話に立ち返ります。 この日は、ある会の新年会。早く祇園の会場になっている料亭に着いた。始まるまで1時間近くあるではないか・・・。じゃーついでに夕暮れ時にぼーんやりと灯りが点いた祇園の風情に誘われて1人で冷やかし気分でほっつき歩いたのだ。祇園の舞妓さんたちの練習、鍛錬の場でもある会館も覗いた。会館内の一角で藍染めの展示会にも入った。(うーむ、うーむ。デザインや染め方、色合いがいいなー)と感嘆しながら一時を過ごした。また、祇園お茶屋遊びの擬似体験できるお茶屋も冷やかし気分で覘いてみた。む、む、これは、これは、私どものお給金ではとてもとてもと、思った。でもいいなぁー祇園の風情は・・・。お茶屋遊びとは無縁と思われる若いカップルが楽しげに歩いているのを何組も見たし、女性同士が散策しているのにも出くわしたのだから・・・。祇園は人のこころを和ませる何かを持っているような気がするのだ・・・。 (2003年1月14日)

 

閑話:宴会後、予約していた聖護院御殿荘に宿泊。家内はもう先に来ていて夕食も済ませていた。それでも私の日々の食習慣を心得ていてくれて持参したパック に夜食用にとっていてくれた。ま、ま、今は宴会の後だから、お腹もいっぱいで お茶だけ飲んで暫く歓談。「まぁー、えーわー。自分がつくらないで美味しいお 食事をいただけるなんてねー」と意味深な言葉もあったが、「おうー、ソウダロ ウナー、うん美味かったかよ」などなど。じゃ、廊下を歩いて、ロビーでもいく かいな、と連れ立って部屋の外に。む、む、とふと足が止まった・・・。「道」 という字が廊下の壁に額縁入りで掲げられているではないか。その道という字が 凄いのだ・・・。しんにゅう部分が極めて長いから目に留まった。さらに筆致が 素晴らしい、勢いがあるのだ。しかしその勢いの中に一種の典雅さと品格を漂わせているのだ。ふと、左横を見ると「中坊公平」と書かれていた。「おっ、あの 中坊さんの筆か!」と思わず驚いてこころの中で呟いた。家内と一緒に暫く見 入った。後でこの旅館の人にお聞きしたら、中坊さんは、よく京都文化の粋 を結晶化したようなこの伝統ある旅館のよくお泊りになるそうだ。さて簡単にこ の「聖護院御殿荘」を説明しよう。聖護院は、本山修験宗の総本山で。代々皇族 の方々が御門主となられた格式ある門跡寺院。天明8年(1788)と安政元年 (1854)の2度の御所炎上に伴いそのつど仮皇居になっている。「この日は、修 験者のみなさんが京都市内に出られて寒行されてはります」と旅館の人。修験者 の元祖といえば役行者・・・。む、明日は、家内の里とも関係する滋賀県・永源 寺町にある木地師の発祥の地を訪れるのだ・・・。夜食を取ってから、久しぶり の本を紐解いていたらいつの間にか眠りに落ちた。(2003年1月16日)

 

閑話:翌朝、2人は、電車を乗り継ぎ、永源寺町に。ままよ、こんなときこそ贅沢せよとばかり、永源寺までタクシーで。「ここら辺りは、門前町でして・・・」と運転手さん。自然に囲まれて風光明媚な山並みを周囲に、 眼前に見ながら、「町並みが整然としているなぁー」と、思わず、声を出した私に 応えられた。「やはり、そうでしたか。臨済宗の永源寺ですからね・・・」。 と、10数分ほどだったか、運転手さんとの会話を愉しんでいたら、永源寺山門 に。正確にいうと確か裏門になるのだろうが・・・。その途中、つまり山の坂を タクシーは、ぐんぐん、登るのだ・・・。む、む、これは凄い・・・。まるで、 中国の風景によく見られるような、左側に展観する山の姿が全体的に丸みを帯 び、かつ重なり合うように弧を描いているのだ。山門をくぐってもその姿をとらえ るのだ。家内は、ほったらかしにして独り、重要な御堂と思しきところでは、我 流ながら、般若心経、観音経を誦す・・・。この寺の創建者は、寂室元光(1290 〜1367年)。岡山県勝山町生まれの高僧である。「名利を求めず 貧を憂へず  隠るる処は山深くして 俗塵に遠ざかる」。晩年の心境を詠った詩の一説。なにやら道元の心境と通じるなぁー思っていたら、道元と同じ境遇にあったような説 があることをこの日に知った。それは、それとして、寂室も若きとき中国に渡り 禅を学んだという。「おっ。それでじゃな、裏門に至る坂から見た山が な・・・」と妻に言ったら日頃、私のことなんかてんで認めない家内もこのとき ばかりは、声には、出さなかったが、感心したような様子で私を仰ぎみたような 気がした。看板の説明書きにもそう書かれていたからだ。で、寂室さんに感謝しながら近くのうどん屋さんで昼飯を取り暫し休憩した。(2003年1月19日) 

 

閑話:「ようおこしなさいました・・・。秋の紅葉時には人出も多いのですが・・・」と、うどん屋のおばさんは、出来上がったうどんを我々のテーブルに そっと置きながら言われた。「ああ、そうでしょうね。でも冬枯れの山野の風情もなかなか味がありまして、私は愉しんでおります」。おばさんは、おおきく頷かれたような気がした。「これから、木地師の里までいくのです。家内の里の村の有志の方は、毎年、お参りしていましてね。そんなことで私も少しは、知りたいと思い、家内と来たわけです」。おばさんが呼んでくれた地元タクシーが、まもなく来た。そう、おばさんに言ったとおりの冬の装いを凝らした山々を眼前に見渡しながら、車は山道をスイスイと抜けていく。「おや、雪を冠った山 も・・・。これは凄い!」などと家内に語り掛けていたら30分ほどで木地師の祖、唯高親王を祭られる神社とご廟の前に着いた。この地で親王は、法華経の読経に専心される日々であったと、神社前の説明書きにあった。そんなご生活の中から、山を治め、木を使った生活用具を作る術を教えられたそうだ。木地師たち は、全国の山野に赴いたのだ・・・。そんなことに思いを巡らせながら、ひと時 を過ごし、待ってもらっていたタクシーで永源寺駅までの帰路に就いたが、永源寺本山を創設した寂室さん、唯高親王のことに思いがこころのなかを駆け巡り、 あっという間に帰りの電車に揺られているのだった・・・・。(2003年1月23 日)

 

閑話:久し振りに「まんてん」を見た。主人公のまんてんも演技に自信を付けた ようだ。この日の印象的な言葉を記し、読者の皆さんもよく想いを巡らせていた だきたいと思います。確かまんてんの言葉ではなかったような気がする。「地球 の生物で地球外の惑星に辿り着いたのは、人間が始めてです。宇宙の中で何かを 得ようとする今は、ごく限られた人間ですが、人間に課せられた宿命なのではな いか」。これまでの惑星探査などを私は、ごく一般論として普通で常識的にとら え「たいしたもんだ」と言っていたくちだから、この言葉には、む、む、改めて 印象深くこころに残った。私は、物理的意味における宇宙概念ではなく「禅」仏 教でいう宇宙的無意識(コスミックコンシャスネス)、または、宇宙的自我(コ スミックエゴ=大我)などということで宇宙をとらえていた。確かに地球上の生物の起源は30億年前。海水の中でアメーバーのようなものから段々、種族を増やし、その中 から陸地に棲む生物が生れた。その中の知恵者が人様なのだろう。そして宇宙を 目指す「まんてん」なのだ・・・。もしこの言葉をさらに深めて考えるとしょ う。ごく限られた人だけでなく年間100万人単位で月なり火星に宇宙旅行ができ るようになった場合・・・。恐らく人間の頭脳構造も体型もかなり変化するよう に思うのだが・・・。個体的生命は系統的生命を繰り返すという医学上の概念す ら50年後には何かを新たに付け加えなければならなくなるのだろうかと愚案を巡 らせた。(2003年1月26日)

 

閑話:今年からNHKの大河ドラマ「武蔵」が始まって家族全員が興味深く見て いる。その理由の一つは、家内の母方の姓が新免なのである。新免武蔵とどこか で接点のありそうな気がするのだが・・・。家内は、それとなく母親や祖母から 聞かされているようだが、いまのところあまり詳しく私にも息子にも話していな い。家内と結婚するに際し、つり書きを見た親父らが「ほーう、新免ではない か」と思わず声を上げたことを思い出す。 息子は、物知りでは、年で記憶力の衰えた私を、遥かに凌ぎ、家内もちょいと判 らないことがあると私より先に息子に声をかけ聞いている。これまでの人生で私 なりに培った経験と迫力でどうにか親としての権威を保っている昨今ではある。 そんな家族3人であるが、武蔵に関してだけは、愉しみを共有して意見を交換し ている。息子は、武蔵の生国は、播州説を取る。私は、美作国(岡山県英田郡大 原町)と見る。それはともかく私どもの少年のころはチャンバラごっこなどの遊 びも結構盛んで鞍馬天狗や宮本武蔵に成り済まして棒切れを振り回して遊びほう けたものだった。私などその遊びが高じてまきを縄でひっくくり、外庭の大きな 柿の木の枝にぶら下げて剣さばきならぬ棒さばきの特訓に励んだものだ。すわ、 喧嘩遊びが始まったらと、すぐ役立つようにとの少年としての心得みたいなもの があった。余談が過ぎた。1月26日の武蔵は上出来であった。武蔵の剣に掛ける 一途さがよく出ていた。また武蔵と生国を同じくする本位伝又八。田舎武士らし い優しさ、人の良さも武蔵と好対照な人物として設定された原作者、吉川さんの 狙いを見事に演じられていてドラマ全体に深みを持たせているだけでなく武蔵の 苛烈な生き方を鮮明に浮き彫りにする効果もあった。一緒に見ていた家内が言っ た。「本位伝の姓の人、田舎にたくさんいたわ・・・」。歴史については断然、 私の方が詳しいが、こと武蔵に関しては、家内の意見も聞かなくちゃーと内心 思ったものだった。(2003年1月27日)

 

閑話:宮本武蔵の特集番組がこのところ多い。その理由は何かーー。これはあく まあでも私見である。仕掛け人はNHKさんだろう。今の時代状況をみると全体 として元気がないーー。老いもこれからの将来を担う若者もだ。はっきり言って 老若男女を問わずだから始末に終えない状況に直面しているといわざるをえな い。例えば民間企業の組織を例に取ろう。上司の命令とかアドバイスには素直に 耳を傾けなければならないことはいうまでもない。しかしである。どうみても上 司の提案なりが不合理であると感じた際には、こころ落ち着けて「ごもっともで すが、私の考えはご提案に加えてこのような見方も付け加えたらいかがでしょ う」。このようなやりとりができないと組織運営で活力を得ないばかりか生き生 きとした生命体としての組織の魂は喪失していくだろう。バブル崩壊の修復がか くも長くかかっておる一因にもこうした点が欠落しているからともとれる。そこ で宮本武蔵(新免武蔵)であるが、個性が強烈であるだけでなく、あくなき探求 心で剣の奥義を窮めようと苦心惨憺する。無論、武蔵とて戦国時代、江戸幕藩体 制が出来上がったころの動乱、激動を生き抜いた剣客であり、仕官を求めるとい う野心家でもあった。それは、当然のことであり、私には好感すら覚えるのだ。 人間、熱血漢、武蔵として親しみを感じる。なかなか名だたる高名な剣客を倒し ても仕官の道は開けない。29歳のとき強敵、佐々木小次郎を巌流島で破ったとき もそうだった。指南役の小次郎を果たしたのだから・・・。武蔵は悔しい想いと 苦渋をのんだことだろう。しかし、武蔵は精進を続けてやまない・・・。就職難 に喘ぐ若者たち。武蔵は400年の時空を超えて勇気を若者だけでなく戦後世代の私 も含めて軟弱な大人にも警鐘を鳴らしているように思えるのだが・・・。やや、 小難しい屁理屈になったようだ。「今年はドラマを愉しんだり武蔵に関する著作 も暇を見つけては少しは読んで「元気」のお裾分けでもいただけたらと思ってい る。(2003年1月28日)

 

閑話:これは、書評欄に書くべきかとも思ったが、このところ宮本武蔵のことに ついてこの欄で書いているのでお断りした上で・・・。私はほぼ1カ月近く、あ る本を鞄に入れて暇を見ては読み直している。「武蔵と五輪書」だ。作家、津本 陽さんの本である。剣豪でもある津本さんであるからして単なる解釈書ではな く、随所に迫力のある津本さんご意見を感嘆しながら読めるのだ。実証主義に基 づき、武蔵の五輪書に迫っておられるから凄いというのは、当然かもしれない。 氏が剣豪小説をお書きになった際、日本刀の切れ味を確かめるため豚肉を切って 感触を確かめられた方であるから説得力抜群なのだ。印象に残っていることを思 い出すまま記す。その1=構えありて構えなし(構えは上段、中段、下段など5方 があるが、状況次第で下段から中断、上段から中断に絶えず変化させていくので 構えありてなきが如し。<著者要約>)その2=3つの声(合戦の際、緒戦では 大きな声を掛け、その最中には腹の底から低い声を出す、勝った後は、大きく強 い声を出す。<著者要約>その3=ひしぐ(ひしぐとは、敵が弱いと見てこちら から強気で相手を押しつぶす刀さばきなど数え上げればきりがない。<著者要約 >)。要はこの書物は武士が相手を打ち負かすための心理学的攻略法なのであ る。孤高の剣客が、幾多の実践の中で会得したものだけに難解ではあるが、津本 さんの良き解説のお陰で書の真髄、武蔵の剣客魂を堪能できる。さあ、みなさ ん、津本さんの五輪書でも紐解いてドラマを楽しもうではありませんか。(2003年1月29日)

 

閑話:先に津本さんのことを書いたので続けよう。「死生夢のごとし」(津本陽 の世界)が書棚にあるので久しぶりに開いてみた。氏が真剣を持ち、剣道着で 凛々しく、気合もろともに細長く束ねた藁を真っ二つに切った瞬間の写真が掲載 されている。これを暫く眺めていたら、「武蔵と五輪書」をお書きになっている 姿もなにかしら想像できるような気がしてくるのだ。恐らく剣豪の津本さんに は、暗唱できるぐらい五輪書の要諦はお掴みになられていてそれこそ一気に書き上げられたに違いない。三点を列挙したが、まだまだ凄い表現を淡々と 書かれている。津本さんの写真を眺めながら補足しよう。その1=(鼠頭午首、 <そとうごしゅ>。ありていに言えば、鼠の頭と午、<馬、うま>の首である。 敵と戦うとき互いにこまかなことに気がとらわれ、もつれあう混戦になった場 合、ただちに午の首に想いを移し、大局を把握、細事のこだわりを捨てることで ある)その2=(しょうそつをしるという事。戦いのとき、兵法の智力で敵であ るものを、すべて我が部下と考え、思うがままに動かせると心得て、敵を自由に 動かす。われは将で、敵は部下である<いずれも著者要約の箇所あり>)。(2003年1月29日)

 

閑話:剣の道が日本文化を体現した象徴のひとつなら国技大相撲はいうまでもな い。ひとつの時代が去った。相撲好き、大の相撲ファンの私は、とりわけ寂しい 思いに駆られるのだ。栃錦・・・。確か昭和27年秋場所の席脇で14勝1敗の好 成績で初優勝、翌28年初場所で大関昇進。私が小学生一年の時である。爾来、栃 錦の繰り出す見事な相撲道、美技とともに私の少年時代は続いた。ラジオの相撲 放送が始まると田舎のどこの家に遊びに出掛けていても遊びをすぐに中断、栃錦 のラジオから流れる様々な技に酔いしれ、相撲の世界に浸りきっていた・・・。 小兵の栃錦は、48手の大半を繰り出して早い相撲で巨漢の鏡里、吉羽山、大内山 などを時には敗れたが有利な戦いを見えてくれた。好敵手は2,3年後に同じく小 兵力士として台頭してきた若乃花だった。小兵なが ら足腰が強く、仏壇返しという荒業を苦もなくやってのける異能力士。2人の闘 いはいつも熾烈を極めた。通算の勝負では確か1,2勝栃錦が上回っていたように 記憶している。全勝同士で千秋楽で優勝を争ったことも2度あったように記憶し ている。その若乃花が大関、横綱に昇進する局面で待ったをかけ続けたのも栃 錦。 圧巻は双方が横綱を張った時の闘いだ。栃錦が偉いのは、体重が130キロほどと 20キロ以上増えた横綱の後半時代。突如、相撲を押し、寄り切りという相撲の基 本にのっとった相撲の取り口にさっと切り替えたことだ。このあたりが並みの力 士にはできっこない栃錦の偉大さだ。そして引き際が見事だった。若乃花と全勝 で千秋楽で争い、力尽きて敗れた。すぐに引退表明・・・。当時中学3年だった と思うが、引き際の見事さとなどを書いた記事を丹念に読んだものだ・・・。大 横綱となる大鵬とも1度戦い、見事な寄りで倒したが、もうそのころは大鵬と柏 戸が大相撲の顔になりつつあった。  ここで懐かしいお話を披瀝します。確か小学校4年のころだったと思う。「先 生、西大寺市(現岡山市)の西大寺の境内で千代の山、栃錦一行が巡業にきてい るのでぜひ見に行きたい。早引けさせてくれませんか」「よっしゃ、行ってこ い」。私は一人自転車を漕ぎまくって見に行った。かなり遅れて着いたのでこの ときは、もう相撲の取り組みは終わっていたような気がする。そして念願の栃錦 にも会えなかった。それでも確か出羽錦さんからサインらしきものをもらった か、少しお話を聞いた記憶が残っている。そして翌年の巡業では、小学校全体で 相撲見学に行くことになった。いっぱしの少年相撲通であった私は、おもちゃに 近いカメラを持参し、栃錦の土俵下から声をかけた。「栃関、写真を撮らせてい ただけませんか!」。大きく頷かれたような記憶がある。栃錦は大きく足を上げ て四股を踏んでくれたのだった。 大鵬の次の大横綱は北の湖さんろう。強かった・・・。年間最多勝はま だ破られていない筈だ。千代の富士さんも強かったが、なんといっても2人の次 の大横綱は貴乃花だ。ご苦労さま貴乃花関。一代年寄りの貴乃花親方として国技 大相撲の真髄を若手力士に伝授してください。一人の相撲ファンとして声援を送 り続けます。(2003年1月31日)

 

閑話:NHK開局50年特集番組を見た。正確には、まだ見ている最中であるが、 2月1日午後3時段階で感じたことを記す。私自身がいかにこれまで公共放送と ともに人生を歩み続けてきたかを感じざるを得なかった。ある日、あの時のこと を瞬時に思い出す。嬉しかったこと、哀しかったことなど様々なことが走馬灯の ようにこころを過ぎるのだ。公共放送は、映像でとらえ歴史の貴重な宝庫であ る。マラソンの有森さんの言葉が印象的であった。何の作為もないあの時の表現 は、素晴らしい。「私、自身を褒めてあげたい・・・」。ゴールを切った瞬間、 涙とともに思わず口にされたこの言葉には、どんな名優でも真似のできないよう な重みがあった。つまり、分別(ふんべつ)以前の言葉であるからだろうと思 う。上手く喋ろうとか、落ち着いて喋ろうとかの思惟を巡らす以前に思わず発し た言葉であるからだ。前畑、頑張れ、前畑頑張れ、また東京オリンピックで東洋 の魔女たちの優勝の瞬間をお茶の間に伝えられたベテランアナウンサーの方々の 名台詞も、そんな瞬間に誕生したのだと思ったのだ。(2003年2月1日)

 

閑話:NHkの特集番組を見ながらいつの間にか眠ってしまっていた。やや、公 私とも忙しかったのか、疲れが自然と眠りを誘ったようだ。目覚めてみれば、午 前3時前だ。風呂に入ってから、さっぱりしたところでキーを叩く。おお、そう だ。「おしん」が、印象的であったなぁーと、当時を思い出す。あの可憐な主役 の少女も立派な女優に育って2月1日の特集番組に顔を出していた。おー、時の 経つのは早いものだ。母親役の泉さん。彼女の演技や、父親役の伊東さんも健 在、今も大活躍。泉さんは、お若いのでややごめんなさい言わなければならない が、同世代の方々の元気な姿をうかがうと、こちらも、まだ、まだ、頑張らなけ ればとの思いが湧き出してきた。おしんが、理不尽な下働きの仕事に嫌気が差し て、えいと、洗濯物を投げ出すシンーンのことを登場した方が、喋られたが「お しん、それでいいのだ。よく耐えた」と共感を覚えたといわれたが、同感だ。祖 母役の長岡さんの朗読も素晴らしい。もう90何歳といわれるが、朗読されるさま は、風雪に耐え、芸を磨きに磨かれた素晴らしさの一語に尽きる。朗読といえ ば、森繁久弥さんだ。氏の哀愁を込めた人生賛歌を聞きたい気が一瞬した。ま た、何かの番組にあの坂本九さんが顔を出されたのをちらりと見たが、「上を向 いて歩こう、涙がこぼれないように・・・、泣きながら歩く一人ぼっちの 夜・・・」。これは、親鸞聖人が書かれた「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断絶して 「涅槃」を得る)と同じだ、と書いた15年前の本をふと思い出したのだ。とにか く理屈よりも喜びも哀しみを丸抱えにして生き抜くのが人生だと思ったものだっ た。(2003年2月2日)

 

閑話:1週間ほど続いた風邪が治ったようだ。ぎりぎりのところで前もって決め られていた休みに滑り込んだ。今日日曜(2月2日)朝方・・・。ひつこい咳もで なくなっていた。編集職場に上がってきて紙面づくりサポートしている製作の若 者や職場の大学生のアルバイトさんも熱が出たので点滴を打ってもらったとか、 職場で風邪対策の話が持ちきりであった。私も今回の風邪で仕事を休みはしな かったが、ぎりぎりの対策をした。夜勤の日であった。熱はなかったが、咳がひ どい。咳をするたびに体のエネルギーを消耗するような気がした。む、やば い・・・と、判断。出勤する前に咳止めの薬をもらってから出勤した。したがっ ていつもより、約2、30分遅れれての出勤だった。いつもあるミーティングを欠席 した。しかし、この咳止めのおかげで仕事は、一応、いつものペースを保てた。 で、今日は、風邪対策を披瀝しよう。@:アクエリアスというのが、点滴の成分 とよく似ているそうだ。これは、アルバイトさんに聞いたことでもあるが、念の ため薬剤師さんに聞いたら、にっこりと、「ええ、そうなんです」と答えてくれ たから、一応、信用できようA:私の日常生活を送る上で師匠格みたいな運転手 さんに時折、深夜、仕事が引けての車で家まで送ってもらう約30分の間に教わる ことがある。今回は、実質的には間にあわなかったが、ある運転手さんは「お酢 でうがいすること、昼はお茶でうがいする。こうしていますからこの4、5年全く 風邪を引いておりませんね。お酢もお茶もビールスの殺菌効果がありますでしょ う」この運転手さんは、確か私より、1、2歳、年下であったような気がするが、 まぁー、同年齢だ。「なにしろ。私どもの商売は、その日の売る上げが勝負です からね。風邪でも引いたら、お飯の食い上げでしょ」と。「おぉー、凄いプロ根 性」と一瞬舌を巻いてこころで唸った。その日、もうほとんど咳きも退散してい たが、台所から酢を探し出し、「ガラ、ガラ、ガラ」とうがいした。その運転手 さんの顔が、一瞬、英雄のようにこころを過ぎったものだった。(2003年2月2 日)

 

閑話:宮本武蔵、京都の名門、吉岡道場主の吉岡清十郎に惜敗する。強くなりた い、なりたいと執念を燃やす武蔵。悔し涙をひとしきり流した武蔵は、奈良で滝 に打たれ精神を統一、不動の境地を求めようとした。私はこのシーンを見ながら 天才宗教家、空海が悟りを得んがための苛烈な修行ぶりを想起した。それくらい 剣の道との違いこそあれ、真髄を極めようという姿勢に双方の共通した真摯さを 見たような気がした・・・。 先に書いた運転手さんの風邪対策も私には、同じようなプロ意識をうかがった。 「お客さん、わたしら、風邪でも引いたらそれこそ・・・」。私の職業人の甘さ を痛感せざる得なかった。職業を問わず求めるところは、同じなのだと。お通の 女こころにも共感を持てた。又八の鈍感さに共感覚える一方、女こころをくすぐ るような魅力もよく表現できえいてユモラスさえ感じた。武蔵は、さらに自信を 付けて戦い相手を求めて奈良の都に歩を進めた(2003年2月3日)

 

閑話:いまでこそヨーロッパ(西欧)との交流は活発で当然のことと何の不思議 なく思っている。近くは明治政府が官民挙げて、政治、法制度を学び、また経済 システムを導入した。天は人の上に人をつくらず・・・、かの脱亜入欧を志向し たのは、福沢諭吉。夏目漱石も英国留学。脱亜入欧がとりわけ、急ピッチで進ん だのは、政府の積極的な欧米化策だった。深夜、NHKでシルクロードの再放送 を見た。9世紀の中国・唐の都には、ペルシャなどの文化をもたらした青い目の 西洋人もいたし周辺のアジア諸国の商人もわんさと集まっていた国際都市であっ た。司馬さんが、確か空海の風景という小説かなにかで空海は密教を求めて遣唐 使の一員としてこの国際都市に密教の神髄を求めにやって来た様子を描かれてい る。ここで妖艶な西洋女の踊りを青年僧、空海も好奇な目で眺めたかもしれない と、記されていたような記憶がある。司馬さんは、空海なる偉大な宗教家を描く に当たりあらゆる視点、さらにまた、氏、独自の鳥瞰的視座で空海をとらえよう と、悪戦苦闘されたような気がするのだ。司馬さんが目に付けたのは、恐らく国 際都市、長安で空海が得たものは何かにありったけの想像を膨らませられたので はないかと思うのだ。空海は、中国語を極めて上手に操ったというし諸外国人と の交際もどの遣唐使団員より勝っていたのではないか。すでに渡航前から、密教 の金剛界曼荼羅は理解していたようだし、恵果から「汝が来るのを待ってい た・・・」と言わしめるほどの力量を備えていたようである。シルクロードのド キュメンタリーは、見る時間がないのでビデオに収録した。ひとまず、このド キュメンタリーの一コマを見て想いを巡らせたことを記した。(2003年2月4日)

 

閑話:安岡正泰さんからこのほど「郷学」という雑誌3冊が拙宅に贈られてきた。これは、正泰さんの父、正篤先生の実兄の堀田真快・真言宗管長・総本山金 剛峰寺四〇三世座主の関連のご本でもと、私が所望したため、ご親切にお贈りく ださったものだ。”まこと”に生きるというタイトルで連載されたものだ。イン タビューにお答えになったもののようだ。私ごときような未徹底で愚かものに は、流し読みなどできようはずがない代物であるが、そのような己であると凝視 した上で読者の皆さんに私の理解の一端を紹介したい。「三省」というのがある が、省というのは、省みるというと同時にこれは、省(はぶく)ということなの である。不要なことを省いて、大事な、必要なことを務めていく心掛けが必要 だ・・・。む、む、これ自体が難しい。世俗に生きるわが身を考えてみると、極 力、憂き世の義理だけは守りたいと思ってはいても、こうして気儘にキーを叩い ている折にも、おっ、あの人に便りの返事をまだ書いていないとか、お世話に なった編集者のNさん電話のひとつでもと思っても連絡先が不明になったまま だ。かように凡俗の私には、必要なことも省いてしまっているのではとの自責の 念に駆られるのだが、堀田座主には「そんなことは貴方が怠慢であるからに過ぎ ず、そのほかの虚飾のことです」とお叱りをうけそうだ。「無始以来の妄念、煩 悩などのために本来、具足している仏性、仏心というものを曇らせてい る・・・」(著者要約)が、それから照らし見れば、「三省の何たるかは自ずと お判りになる筈」(著者要約)ということになるとおっしゃっておられるような 気もする。今夜は、こころ静かに堀田座主のお言葉に耳を傾けようと思う。 (2003年2月4日)

 

5000件のアクセスに感謝;私のささやかなHPに勤務の傍ら、寸暇にてふと思ったことを書き記してまいりました。深夜勤務を終え、車での帰宅時間約30分の間に運転手さんから教えていただいたことなど身辺雑感ふうではありましたが、こんなことを申しますのはやや照れてしまいますが、キーを叩くときは、虚心坦懐な気分、または澄明 なこころになろうとこころ掛けました。作為を廃し、分別(ふんべつ)以前のこころとでもいいましょうか、そんな気持を大切に致しました。と、申しますのは 一端、職場などに出ますと、やはり基本は同じだとは、思いますが、こうしたら、上手く仕事が進むであろうとか、この際は、このあたりまで発言しながら仕 事に取り組んだ方が、職場の雰囲気もよくなるだろうとかなど長年編集局勤務を しておりますと、そんな対応が自然と出てまいります。やはり、合理的な判断を加えますので疲れないと申しましたら嘘になります。仕事というものは善かれ悪 しかれ、疲れてなんぼうというものではないでしょうか。それなくしては、どんな仕事でも成果は上がらないと日頃思っています。したがって家でこうして身辺風景を書くのは私のカタルシスになっているという側面もございましょう。このような改まったことを読者の皆さんに申し上げますのは、私がHPを立ち上げてからアクセスしていただいた件数が累積で5000を超えましたので読者の皆様に お礼を申し上げたいと思ったからです。今後ともそのような姿勢で書いてまい りますのでお暇なおり、ちょいと覘いてみていただければ望外の喜びです。有縁の方々に感謝いたします。(2003年2月5日)

 

閑話:冠省、気の会う人とチャタリングするのは、時に思いがけない、貴重な問題を解 くカギを与えてくれるから素晴らしい。これが創作についての話し合い、語り合 いならなおのこと今の私には、この上ない至福を覚えるのだ。編集者の友達Tさ ん、私より少し、後輩だが、憂き世の甘い、辛さを体験された方だから、時に私 が持論をふっかけると、一家言をお持ちのTさんも、反論される。それをまた私 が反駁する・・・。ものの数分足らずでもヒントを得ることがある。無論、氏の 発言の中にも見い出せるが、、真摯にまた、懸命に反論している私のことばの中 から見つけ出すことも結構ある。小説のイントロダクション(リード、前書き) に主人公のZを中心にしながら、平成の末裔の科学者の回想で始めることが良い と判断、早くも少しだがメモふうに書いたからこれだけでも大きな収穫といえる のだ。物書きの端くれをにんじる私にとれば、嬉しい瞬間なのだ。毎日、生業と する新聞社の仕事に精出す日々だが、このような時がものの、1、2分あっただけ で疲れが吹き飛んでしまうような思いに駆られるのは、幸せ者かもしれない。 (2003年2月6日)

 

閑話:人間、日常生活の中で何事にも替え難い一瞬があるような気がするときがある。仕事でも趣味の世界でもだ。それは、我を忘れて仕事などに懸命に打ち込 んでいるときではないかと想う時がある。私は労働者としても年を食っているせいか長続きしないのが難点ではあるが、ここぞというとき仕事に没入する時があ る。我を忘れるというのは目の前の仕事に身もこころも溶け込んでいるともいえ、そんな時は時間があっという間に過ぎている。が、ま、これは適当に流すかとこころが、働いたときは、邪念が入り、かえって疲れるから不思議である。先 日、物語りを書くに当たっていい切り口とか、表現が見つかったときは、至福を覚えるとも書いたが、人生の達人なら生業とする仕事の中でも同じような至福を感じ取られるのではないかと思うのだ。少し訂正しておこう。趣味でしか幸せを感じられないとしたら、その場合は、人生観がやや貧困だと想った方がよさそう だ。(2003年2月7日)

 

閑話:2泊3日の日程で、軽井沢で会社が契約しているホテルに宿泊、信州の冬を愉しん できた。と、いってもやや無理して連休を取ったのでホテルに着くと、日頃の風 邪が完全に治っていないこともあってか、疲れがどっと噴き出した。10分ぐらい 休憩を取ってから夕食に向かった。これが、地元の産物などを巧みに利用した手 の込んだ料理であったので疲れも幾分、和らいだ感じがした。翌朝は、家内は外 に出て買い物を愉しんだようだがこちらは、夕方までまどろむことが多かった。 「ま、これが生活なんだよなぁ、きっと、なぁーな、なんだよなぁー」と何年ぶ りかの昼寝に身を委ねた。それでも少しは、運動と、家内と一緒にホテルの周辺 を散歩。で、おや、こんなところに教会が・・・と少し驚いた。夕闇の中にイエ スの十字がまばゆいほど輝いて見えた。このイエスのことは、翌日、つまり、ホ テルのチェックアウトを済ましてからか軽井沢の商店街のさらに奥まったところ まで足を延ばしたことで理解できた。明治19年、英国聖公会の宣教師がこの軽井沢の地 に来て自然景観の良さから、天地創造の地の雰囲気を備えているこの地に第1号 の別荘地と教会をつくったのが、我が国、屈指のリゾート地になる嚆矢になった ことが分かった。若者がこの地の教会で結婚式を挙げるのも同時に納得したもの だった・・・。開放的な雰囲気の中でこころ安らぐ説教に耳を傾けるのもいい なぁーと思った。(2003年2月12日)

 

閑話:お元気ですか!「いや、から元気です」(これは謙遜の意味を込めての返答)。「おう、から元気いいじゃないの、から元気がどうであれ元気は、元気ですよ」。「から元気も出せないようなら、人生前向きでない証拠ですな」と口に は出さないものも、「それでいんじゃない・・・」。気力、陽気、陰気、迷うとは、魔寄ると申しまして、人の心が迷う時は、その虚を付け込み、煩悩の悪循環 (煩悩が悩みを深め、どうどう巡りに落ち込み、日ごろの元気を喪失する。元気 を保持するには、まず風邪など引かぬようすることは自明ながら迷うな!迷うとは、分別(人の知識や知恵を頼りにして)人間関係などでああでもないこうでもないと思案する)。これでは、身体的な不調、風邪引きなどの不快以上に疲れの因になる。このようなご時世だ。この辺りが肝要のようだ。それにしてもいかん。風邪を引くのも日頃の不摂生からくるもの。こころしたいものだと、今回ばかりは、反省しきり・・・。(2003年2月13日)

 

閑話:実はほっとしていることがある。「如来が弁護してござるー暁烏敏『小 説』満之・涙骨」で書き漏らしたことを余滴にも20回記述していますが、苦労し て(自分でいうのもなんだが、何しろ7年余もかけ、主人公の全集20巻も買い込 み、これまで買い求めた、暁烏敏関連の本も総動員するだけでなく、関係者に意 見をお聞きしたり、取材したり、出版社から2,3度、先行する本があるなどを理 由に丁重に断られた揚句の満を持しての上梓であった)、かなり汗を流した上、 世に問うた作品でありましたから、読者方の反応が気に掛かった。当初、私や編 集者が期待したほどに反応が得られず、気を揉んだ。が、市場ルートに乗ってか ら3ヶ月後、思いもよらなかったことであるが、紀伊国屋書店さんが、取り扱い 店舗を一挙に増やしていただいた。現在全国十三店の主要店舗で扱って頂いてい るからだ。これは、そんな私にとれば言葉でいい表すことのできないほど嬉しい ことであった。前にもこの欄でもHPの読者の皆さんにお願いしたことがありま すが、せめて2刷にはしたい。お叱りを受けるほどの決定的なミスではありませ んが、それも含め表現を2,3変えたいと思いがありますので完全(私なりに納得 できる)なものにしたいと念願しておりますので改めて宜しくお願いしたいと思 い誠にくどいようですが、近況をお知らました。(2003年2月13日)

 

閑話;私が密かに尊敬しているほぼ同世代の有名人が2人いる。1人は、作家、 出久根達郎さんと歌手の森進一さんである。今回は、出久根さんのことに少し触 れたいと思います。ご自分で古本屋を経営される傍ら、新聞などに味のあるエッ セイをお書きになっている。私ごときがあれこれ言うのは、失礼かもしれない が、身辺風景をさりげなくお書きになりながら、ひとひねり、利いた「おや、そ んなこともあるのか・・・」と思わせる箇所が必ずある。読ませるエッセイであ り、卑近ない言い方をすれば、紙価を高め銭の取れる作品が多いといつも思うの だ。で、ついこの間、氏が何かの体の不調示す健康結果が出たようで(読んだま まの記憶ですからやや表現は異なっているかもしれませんのでその点はお許しく ださい)。出久根さんは慌てられたようだ。それを心配した奥さんも血圧が上が り、ご夫婦ともども苦心されたという話だ。で氏は、「おうそうだ前厄58歳(数 え59歳)だとふと思われたのだろう、で、厄払いに参られたそうだ。このことが 印象的に私のこころをとらえたのは、私と出久根さんは、同じ年だからだ。私の ところには、1カ月ほど前から、日頃お世話になっている成田山不動尊大阪別院 から、前厄の通知が届いており、この出久根さんの文章を読んで早速に明日の休 日に厄除け祈願をしてこようと思った次第。やはり「神仏は尊ぶべし」。剣豪、 武蔵のように剛毅な意志を持ち合わせてない、凡夫の私は「神仏は尊ぶべし」に 尽きるとつくづく思った。(2003年2月15日)

 

閑話:成田山不動尊大阪別院での前厄除けの祈願は、2月16日段階では取り止 め、延期、後日に執り行うことにしました。邪険な風邪には、ただ眠り、休養を取ることが先決と判断したからである。終日眠ったような気がする日曜日。夕方 近くに起き上がりキーを叩く。先週の金曜日の午後4時前に会社の診療所に咳き 止めの薬をいただきにいったら、看護婦さんが「今日の午前中は、お風邪の方が 多くて・・・」という。そのそばから、鼻をぐずぐず、いやむずむずだろうか、 しながら「電車に乗った時は、何ともなかったのだが風邪を引いたよう で・・・」、もしくは「電車に乗った途端・・・」だったか、正確には聞き漏ら したが、そんな按配で診療所においでになった方がいた。同じ会社勤務の気安さ から、冗談を飛ばした。「あなた、そのぶんだと10日ほどせんとあきません よ」。自分の抱えるねちっこい風邪にうんざりしてからだ。しかし、成田不動尊 の厄除け祈願までには、謙虚で素直で真摯なこころを取りもどさないとご利益に は与かれないだろう。自戒、自戒だよ、と自分に言い聞かせて・・・(2003年2 月16日)

 

閑話:最近、実に有難いというか、さすが仏教関係の京都の老舗出版社、法蔵館 が「如来が弁護してござるー暁烏敏『小説』満之・涙骨」を同出版社の出版便り に自社出版の刊行物に加え、小説である私の本を紹介していただいていたのにな にげなく自分のサイトを検索していたら掲載してもらっていることに気がつい た。やはり伝統のある出版社は、懐が深いと感謝するとともに思わず敬意を表し たいと思った。改めて御礼申し上げます。(2003年2月17日)

 

閑話:ふと思い出したことを記す。読書の仕方である。職場で訊かれたことがあ る。私は言ったものだ。「要は集中力とちがいますか。私の場合、2、3冊並行し て読みます。それの方が集中しますからね」。ところがどっこいこの読書の仕方 にも問題点があることに気がついた。これまでの読書で得たものを頼りに断片的 に読むわけだから主観的な解釈に陥る危険性があることだ。ある本をいつもの3 倍の20分ぐらいかけて読んだら、ややもすれば短期集注方式で解釈していたこれ までの解釈の幅が広がるではないか。職業柄、新聞などの早読みに慣れ切ってい たからか・・・。そこで思ったものだ。私が最近書いた小説を私流の早読みで読 んでもらっても困るなぁーと。であるならば私も人様が心血を注いでお書きに なった小説や学問書を早読みでは、失礼だったと・・・。私なりに結論を言いま すと、早読みのときありても善し、じっくり時間をかけて読書するも善し。そこ は臨機応変ながら書物には予見なしに謙虚かつ集中し、真剣に向かい合うという ことが肝要ということだと思います。(2003年2月18日)

 

閑話:連続ドラマ、「宮本武蔵」が俄然、面白い。彼の剣の道一筋に技を磨く課 程が興味をそそるのだ。武者修行で幾度も道場を訪ねる。「頼もう―」 「そこもとは何流を学ばれたか。師匠はどなたか?」。武蔵、憮然と「ない、い ない!」と言い切るのだ。凡人の私からすれば、「えーと、だれかれの影響を受 けた」とも答えかねない。たとえばの話だが、文章であるとかなんとかでもだ。 それに幼馴染の本位伝又八を除いては、これといった仲間も持たないし、集団に も属さない、剣の道の一匹狼である。察するにあの五輪書を書く還暦まで は・・・。これまで数回、ドラマを見たが、いずれも武蔵が闘いの度に剣の腕を 上げていくのがよく表現されていた。奈良の有名寺院の槍の堂宇に行く途中の出 来事が印象に残った。門前に一人の老僧が畑を鍬でお百姓然として淡々と耕して いる。武蔵がそばを通り掛った。武蔵はその僧から殺気を感じたのか、さっと飛 び上がってそのまま、槍で名をなす寺院へ。武蔵は2人の僧と闘った。2人とも凄 腕であるが、もう一人は、これまで敗れたことのないという槍の名人。この僧に 武蔵は辛勝した。己の未熟さを闘いの中で学びながら・・・。苛烈な闘いに勝利 しても何故か武蔵のこころは、むしょうに寂しかった。この寂しさが満たされる とき、彼の修業も終わるのだろうが・・・。寺を出るとき武蔵は、また鍬を持つ 僧に会う。「おぬしは、わしの前を通り過ぎるとき飛び跳ねたが、なぜだね」と 僧。「それは、あなたさまから殺気を感じたからです」と素直に武蔵。僧は、に んまりとゆとりを持って「それはなぁー、そなたがわしの前を通るずっと前から わしは、そなたの殺気を感じ取っておった。そなたが殺気を出すからわしも殺気 をだしていたまでじゃよ。(じゃから)殺気というもんは影のようなものじゃ よ」。む、む、この台詞には、見ている私もこころの中で思わず唸った。気迫と 負けんぞという根性、または無為自然との差はどのへんにあるのだろう・・・。 成長していく武蔵の中に見たいものだと思った。(2003年2月18日)

 

閑話:前にもお知らせしましたが、私は深夜仕事を終えて会社が契約しているタ クシーに乗って帰宅する約30分余りの間、運転手さんとの対話が最近、特に愉し いのだ。と、いうのはざっくばらんにそれとなく交わす会話の中から学ぶことが 多いからだ。「おや、まだお風邪が治りませんか」と運転手さん。「いえ、70% 方いいのですがね、新たな風邪をもらわないようにするのと、人様に対する配慮 ですよ」。「おや、それは大変ですね。私は、毎日帰宅しますとね、丁寧に手を 洗いますね。次に安物なのですがお酢でうがいするのです。昼はそっとお茶で機 会を見つけてうがいしますね」。む、む。なるほどと理由はすぐ判った。手を洗 うのはいうまでもないが、お酢も茶も殺菌効果がある。「そうですね」「ええ、 誰からからか聞きまして実行して5年この方、風邪とは無縁ですよ」。それは羨 ましいと思うと同時に風邪など引いておれない運転手さんのプロ意識に脱帽し た。生活の知恵を教えてもらったわけだ。別の運転手さんは「私は風邪を引いて もマスクはかけないんです。お客さまに悪い印象といいますか、病人にみられ ちゃいますからね」とおっしゃった。このプロ根性には思わず敬意を表したもの だ。さぁー、今夜はドラマ、「武蔵」がある。剣のプロ中のプロの道を目指す彼 の勇姿を堪能したいと思う。(2003年2月23日)

 

閑話:ついに武蔵は、柳生の里に辿り着いた。石舟斎に目通りが叶った。ゆとり をもって若き武蔵に石舟斎は、求めに応じて武蔵と手合わせした。武蔵の力に溢 れた切り込みも見ものであったが、石舟済の無為自然、後年、武蔵が五輪書で記 述する空の巻きの空の構えではないかと、素人の私は思った。武蔵の「剛 (熱)」対石舟賽も「空(瀞)」の手合わせであった。武蔵は、情熱むなしく敗 れた。当然であろう、奈良の宝蔵院で辛勝し、寺を後にするとき僧に諭された 「殺気」を抱えたままの境地にいる武蔵。最初から、無理であった。でも石舟斎 は、武蔵に優しかった。「おぬし、手合わせの最中近隣の鳥の声を聞いたか!わ しは、はっきりと耳にした。そなたはどうか」「いえ、聞こえませんでした」。 この差である。勝とうとする執念だけの武蔵、小鳥の囀りとともに自然と一体に なった石舟斎の自然体、空の境地は、剣だけの世界を超えて巍巍としてしかもゆ とりを持って武蔵に向かった。そのことを武蔵に教えてくれた石舟斎の館を出る 武蔵は、清々しかった。新たな世界が判りかけたような気がしたからだ。(2003 年2月23日)

 

閑話:3月、弥生になった。近くの山々の冬枯れの風情も中々趣がある。ピリリ とした気持ちを我々に投げかけてくれる。が、もう一カ月もすると、新緑に衣装 替えし、我々のこころに躍動感を伝えてくれる。自然の営みは、人間の思弁を超 えたところで静かにゆっくりと歩を刻む、音もなく・・・。この静かさ、静謐の 中の営みにこころするとき、人の饒舌、さんざめき、鬩ぎ合いなどが愚かに思え てきてこころが安らぐ。「新免武蔵、剣で人に勝つだけが目的なら無意味だ ぞ!」。武蔵の切り込んできた木刀を一瞬のスキに奪い、武蔵の力を利用して投 げ飛ばした柳生石舟斎は言い放った。お主は剣の道を通じて自然の偉大さに感動 するようでなければな・・・。この館を囲む悠久な自然の営み、鳥の囀り、水の 音はどうだ・・・。立ち合いの最中にも聞くゆとりがほしいということだ。これ は前回紹介しました。今日の昼下がり再放送の「武蔵」を観て改めて石舟斎のこ ころ、武蔵に言わんとしたことに頭を巡らせた。(2003年3月1日)

 

閑話:休日。今日は静寂の中で過ごそうと思い、もっぱら書斎の整理に取り掛 かったが、中々進まない。これまで買い込んだ本の中でおや、これも読んでな い、と改めて反省しながら、パラパラとめくる・・・。いきおい、時間が掛か り、やっと机の周囲に空間をつくったにすぎない。文学、宗教関係などの本がそ れである。ところが、私の読書方法であるが初めから終わりまで読むという方法 をしていないこともある。「これは全く読んでいないなぁー」と目を通している と、以外と関心を持ったところだろう線引きしているではないか。それすらも忘 れているのだから、年かなぁーと嘆く気持ちも湧き「あぁーあ」と嘆息するか ら、整頓の遅れも仕方のないことだ。が、よく線引きのところを読んでいると作 業は、予定通り捗らなかったが、なるほどなぁーというところを押さえていたと ころが多かったから、一応、納得したような気持ちにもなれた。その一説を紹介 します。「仏道とは知よりも行にあり」「心配せんでもいいことを心配するのは 人間の知恵だ」。これは各々異なる本の抜粋ですが、双方通底するところがあり そうです。(2003年3月14日)

 

閑話:求心息時即真(求心=求めるこころ=息=やむときすなわち真実=あるが まま、そのまま=の世界を得る)−−。これは、私が教えてももらったことをあ る本に一緒の意味だと思い書き記したのを偶然、書斎の整理の時、発見し、お や、と思い書こうと思った。少しは私の勝手な解釈かもしれないが、私なりに納 得している。己の心境をかくのごとくしようと思い著作などだけで得たうわべの 知識だけを頼りにしてあくせくしてもかえって安らぎは得ることはでいない。か えってこころの平安とはかけ離れてしまう。それよりもそうしたことをやめると きにこそ真実に浸ることができる。分別(ふんべつ)でやりくりしても詮無きこ とと思う。その努力を日々の日常生活に振り向け、尽くし切る・・・。そして そっと感謝を込める。おっとこうは書きましても私にとってもこれは、理 想・・・。未熟を再認識するために認めました。(2003年3月17日)

閑話:交野物語の中でも少し触れたが、例のサウナ付きの銭湯まで約30分歩いて 行った。実際、出掛けるまでは45分くらいはかかるだろうと想っていたのだが意 外と早く到着した。傘を差すほどではなかったが、時折、柔らかい小雨が頬を撫 でた。「濡れて行け・・・春雨じゃ」と粋なことばは浮かばなかった。黙々と歩 いたのだろう。今から思えば、新緑に映える山々に目をやったり、小川のせせら ぎにこころを遊ばせるゆとりがあったほうが良かったと想うのだ。午後3時過ぎ に出掛けたのだから・・・。最近、体力の衰えを補おうと、深夜に帰宅しても30 分近く山間(やまあい)にある団地の中を足早に歩くことにしているからついそ の癖が出たのだろうと、軽い後悔の念を覚えるのだ。エクササイズ(運動)のよ うに歩くのもこの歳になると健康維持の意味では、価値あるものだろうが、時に は、自然の懐の中に生かされているのだという謙虚な心根を持つのも大切なこと だと改めて想ったものだ。かくして久方ぶりの日曜日の休みを終えにけ り・・・。(2003年4月20日)

 

閑話:人は濁世で生きる限り、分別(ふんべつ)=合理的な判断や科学知=は不 可欠のようだ。「あの人は分別のある人だ」「物識りだ」とかの褒め言葉があ る。これが一般的な見方で批判するつもりはない。が、この分別というものの半 面を見落としてはならないような気がしてくる昨今ではある。「あの人は分別く さい人だ」という言い方もあり、「とかくこの世は、何とか」ともいえそうだ が、この間の深夜の車帰りの道すがら清々しい気分になった。高速料金所の係り の人が「どうもご苦労さまです。確かに・・・。ありがとうございました」と運 転手さんに掛ける爽やかな響き持つ声を窓越しに聞いた。恐らく中年か初老の男 性であろうが、歳は関係ない。こころから思わず出た声だった。「ひさしぶりに 聞きましたなぁー、こちらも救われたような気がしますなぁー」と同じような会 話を運転手さんと数分ほどしたものだ。つまり、分別以前の声が言葉という形を とっただけなのだ。むしろ感性から自然に紡ぎ出された調べといったほうがいい かもしれない。これを形式、マニュアルどおりに言われたら、どうだろう。深夜 ですぞ、疲れまっせ!運転手さんも。さらに申せばどんな職業でも仕事の上では 論理的で簡潔に話すことは、重要だ。が、時には、酒など飲まなくてもこの御仁 のような明るい響きのある声があまり聞かれないころに課題がありそうだ。最近 の世相には・・・。(2003年4月22日)

 

閑話:緑、緑、黄緑、濃い緑も混じる・・・。あそこには、何という花だろう緑 を際立てる赤紫。緑、緑、緑、こころが華やぎ、若返ったような躍動感を覚え た。私の住む団地の周囲の山並みはあっという間に装いを一変させた。自然の命 (息吹)は、人間などの頭脳では推し量れないような、偉大なものに違いないと 改めて思いを巡らせた。出勤前の15分足らずの散策ではあったが、言い知れない 感動が体全体を駆け巡った。ある本で知ったのだと思うが、生きるとは、自然に 息(いき)をすることだということを思い出す。そう、人も動物もあらゆる生物 も。何事かにつけ、さかしらに知識や分別だけに頼ることの危うさを知らなけれ ばならないだろう。この一瞬の緑の美を見渡してあの緑は、何の木だとか考えた りする暇はないほどの至福のときだ。私も思わず深呼吸をした。清々しい自然の 息吹をいただいたような気がした。一句、歌いたい。明恵上人が月の光に魅せら れたあの歌、あか、あか、あか、あかや、・・・だっただろうか、それを思い出 して緑、緑やー、緑かなー、緑、緑、緑・・。(2003年4月25日)

 

閑話:丁重な達筆のはがきが届いたのは1カ前のことだったろうか。私が書いた 「如が弁護してござるー暁烏敏『小説』満之・涙骨」を読みたいので入手方法を お知らせくださいとのご依頼であった。日本ペンクラブの会報で知られたらし い。早速、お電話を差し上げた。お留守でおられたので伝言だけであった。つ い、1週間前に今度は封書があった。「涙骨先生の祥月命日に読み終えましたの は懐かしいことではありませんか」と。この方もペンクラブの女性会員で手話を 中心に福祉活動に積極的に取り組まれている80歳とは思えない元気ではつらつと した声の響きをお持ちのKさんである。Kさんのお母さんが西本願寺派で有名な 布教士で女性としては草分け的なお方。敏師からも手紙が来ていたのを子供なが らよく覚えておられたらしいし、涙骨翁にも中外日報主催の記念パーテーに母親 に連れられていかれたらしい。長じて文面で推測すると、晩年の涙骨翁の講演な どをよく聴かれたか、実際、会われ涙骨節を耳にされたような気がする。私の小 説を読んでとりわけ翁の面影を懐かしんでおられた。「労作です」とお褒めいた だいたのは筆者として嬉しいことはいうまでもない。このホームページで改めて 御礼とご活躍を祈念申し上げます。(2003年4月28日)

 

閑話:もう1年も経ったのかと、この間の休日、緑の中に家内と一緒に分け入 り、歩きながら鶯の声を耳にした。時の早さを感慨深く全身で受け止めた。ホー ホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ・・・。日本で有数の吊り橋のある団地の裏 周辺の緑真っ盛りの大阪府民森の山道をぐるりと約2時間半かけて回った。途中 で出会う人から「こんにちは、こんちは」と声が掛かる。そして返す私ども。 「こんちわ」。それに合わすように後ろの方から、またホーホケキョ。交野物語 を書こうと本格的に歩き始めたのは確か去年の今頃だ。鶯の鳴き声を書いた記憶 が鮮明だ。雨の日、と、言っても小雨ではあった。その中を一人でこの同じ道を 傘を差してすたすたと歩いたのは、いかに取材兼ねた散策とはいえ、今から想え ばその元気さに呆れるくらいだ。ちょうどそのとき、小説「如来が弁護してござ る」の原稿を筆ペンを持ち書き直していたときでもある。一つ歳を重ねただけだ から、勢いというものがあったのだろう。このとき私は。公私ともに。文章も私 なりに自然に紡ぎ出せていたようだ。鶯のようにまた私も鳴き、書かないと。無 常迅速、時人を待たずーー。この表現は意味深いのだが、ちょっと見には、焦る という語感がある。ならば、悠久の無言の時に委ねつつ、去年のように勢いなど という概念を超克したような充実した日々を送りたいものだ。(2003年4月29日)

 

閑話:陰気は陰気を誘発する。陰気の相乗作用が蔓延しているような昨今ではあ る。長きにわあたる経済低迷、停滞、それとも関連して先の読めぬ不透明感。そ れらが惹起するかのような不条理な社会的なインシデント(出来事)は、数え切 れない。無理もない。それにマニュアル化現象ともいうべき独創的な思考停止状 況が追い討ちをかけるのだから・・・。しかし陽気は陽気を呼び込むということ も、また事実である。「こんな世相の中で元気な奴なんてアホすな」と誰かに1 か月ほど前に私が言った記憶があるが、これは、お詫びして訂正しておきたい。 陰気を喧伝したようで。では、元気で陽気になるにはどうしたらいいか。これ は、個々人が独自に編み出す必要があろう。これが人間力であろう。生命感溢れ る人が至宝といっていいくらい大切な時代になった。政治家とか学者などの一部 のリーダー層にだけでなく職業、地位とかなんとかを問わずにである。「あのお 婆ちゃんえらい元気でんな」「あそこのタクシ会社のあの運転手さんは面白くて 元気だなぁー」「あの青年は溌剌(はつらつ)としているなぁー」などである。 すくなくとも気持ちの上でマニュアル化現象からの脱却を図ることが最初に来な ければなないだろう。最低限の様式は必要であることはいうまでもないが、それ に嵌まり込んだら大量製品の規格品とあまり相違がなかろう。金太郎飴になるか らである。若き起業家が出だしそうだ。でもこの種の起業家でもマニュアル的な 人物なら同じことではなかろうか。今、おおむね不振な企業の多いスーパー関係 者には悪いが、最近の子供は、魚はスーパーで取れるのかとか、魚は切り身が魚 なのだと言うと私らの世代から見れば、驚くよう話を聞いいたことがある。マ ニュアル化が招いた悪しき面である。再建なさっている企業は、こうした面も取 り戻すよう工夫を採算が取れるような形で取り入れられたらいかがだろうか。話 が拡がりすぎたようだが、あらゆる存在を意味あるものであると曼荼羅(マンダ ラ)思想で1200ほど前に唱えた「空海」展でもじっくり見て半分、マニュア ル化現象の波に嵌りかけているような気がする私をリフレッシュしたいと想って いる。(2003年5月2日)

 

閑話;益々少子化の傾向が一層進んでいるようだ。まだバブルの後遺症から抜け 出ていないからでもあろう。「どうせ、うまくいかんぜ、今の政索は羅列ばかり だが新聞で見たかきりではで。なるほどという筋は通っているものも中にはお まっせ。せやけど実行に移したとて成果があまりみられんのはどうしてだぁっ しゃろ」と聞かれたことがあったような気がする。む、む、正直判らしませんの や。む、む。む。ことばにならないことで濁さざるを得なかった記憶がある。要 は世間全体がしらけとりわけ、中高年といわれる団塊の世代とか4、5年上のリー ダー層に迫力と使命感が希薄になっているようなきがするのだが、いかがだろ う。私も弱き庶民だが、あまりにもばからしくて気が萎えそうな時がある。バブ ルのつけは冒頭に書いた少子化に集約されている。いままで目先のことに追われすぎた傾向もなきにしもあらずの我々世代の責任は消しがたく大きいと思える。職業地位を問わずにだ。少子化は国力の衰退の象徴ではないか。「いいのだよ、足らざるところは、 機械化、情報化で補えばいいのだから」という意見も出そうだ。無味乾燥で無機 的、人間が機械などにより従属的な社会の到来にはまっぴらごめんだ。教育制度 の刷新を声高に叫ぶ以前に少子化に歯止めをかけることではないか。こうまで就 職難、就職しても先輩諸氏の元気のなさ、はたまたリストラなどの数多(あまた)を見ていれば子供3人は欲しいなどという夢を持つだろうか。はなはだ疑問 である。50代、60代の諸氏は個々人のこれまでの人生の軌跡を謙虚に振り返って みる必要がありそうだ。親や祖父母の偉さが思い出されるだろう。まもなく祖父母世代を迎えるのだから・・・。(2003年5月6)

 

閑話:「日本経済はよみがえるか」を公共放送で見た。様々な観点からの討議が なされた。実際、再生に向けた機構を推進する幹部の中心は40代と聞 く。体 力、知力が横溢しているのは40代であるから期待が持てそうだ。ある参加者は戦 後の復興期に実質的に実力を発揮したの は、40代だとの話にはある種の感銘を 受けた。時代が大きく転換する際の日 本の歴史を見れば判る。明治維新の主役 を担ったのは、さらに年代が若い。 過去の慣習、しがらみに捉われていない青 年層であった。大阪からの中継では 「むしろ救うべきは我々中小企業ではない か。もう少し、本音で語ってもらいた かった」などが印象的に残った。大量生 産方式で規格品などを作るのは概して大企業、一企業体としては雇用を多く抱え るのだから発言者の声に物足りなさを感じたのだろう。ものつくりの大切さが最 近、再認識され出した。日本文化に内包されている職人気質が根付いている中小 企 業は多い。これはグローバリゼイションが進んでいる今でも他国に完全にゆ だね切れないひとつの宝であろう。バブルがはじけてもう何年になるのか。もう その責任のなすりあいの時期は過ぎた。明快な筋は、通すという弁護士の中坊さ んのようない厳しくも慈愛の気持ちが事に当たって不可欠だ。政府関係者、民間 人が手を携えて取り組む我が国の経済再生はまさに日本人の資質そのものが試さ れているとみていいだろう。資金の流れを潤沢、澄明にするとともにそうした取 り組みの中でいきいきとした活力を働く人々が持つようになることが何より肝要 ではあろう。40代を中心に青年、中高年、 職人気質の旺盛だったOB世代に意 見を聴くのもいい。会い携えて我が国の経済を刷新する一方で全国 津々浦々の 地域特性を尊重しながら活性化していくという地道な取り組みがなされない限 り、デフレーションという企業活動の縮小(衰退)にとどまらず日本文化そのも のの衰退につながりかねないと思ったものだった。読者諸兄、なにはともあれ足 元か ら出直していこうではありませんか・・・。(2003年5月9日)

 

閑話;何にか書かなくちゃーと想っていたら思い出した。ここ4,5日は夏日のよ うな気象のような日が多かった。元来、暑い日の方が好きな私だ。今、キーを叩 いているすぐそばに簡易電気ストーブを置いている。深夜とはいえ、寒いのだ。 こんな5月も極めて珍しかろう。昨日、眠気眼で原稿を送ったら、読んでみてこ れはいかん。文章がなっていないばかりか。誤字だらけ。少し気を引き締めて書 き直したが、あれを見た読者諸氏、木下はんもええ加減やと想われても仕方のな いような駄文ではありました。ここにお詫び申し上げます。月曜日に再度立ち上 げます のでご覧ください。さてこの気象、私も調べますが、気象に詳しい方、お 暇があれ ばお教え願いたい。田舎の祖父だったか、伯父だったかやや記憶が薄 くなった が、「おおーこら1時間かすれば雨が降る。遊びやら、畑におるものは 帰らんと いかんぞ」とひときわ大きな声。「本間かいな」と半信半疑で家にぎ りぎり帰ったら、案の定、すぐに大粒の雨がザーと来た。道や庭にビチャビチャ と投げつるような激しい土砂降りに。や、や、やーと、子供こころに驚いたもの だ。大人らは自然の 命そのものを知っていたかのような驚きを覚えた。大学時 代だっただろうか。社会に 出てからだろうか、京都大学の今西錦司先生が同じ ように最近の学生は「自然の 気配」を体でよくとらえられなくなった、と嘆い ておられたことを書物で知った。つまり自然と対話する能力が希薄なったのだろ う。いつもビルの中で大半 を過ごす今どきの我々には所詮、無理なのだろう か。自然との共生とか云々しても 知識だけでは、真に大自然に抱かれつつ、そ の大いなる命を感じ取るのは困難なのだろうか。えいくそ。ストーブよ!しゃー ないかと横目で睨み付けたが、寒いのだから朝方まで借りるぜ!昔のことを想う と複雑な気持ちだが・・・。(2003年5月10日)

 

閑話:む、腕時計に縁がないあなぁーと、最近想う。安物の腕時計を3つ持って いるが、いずれも壊れた。壊れたと言い切るのは、やや間違いではあるが、一般 論としては壊れたとしか言いようがないだろう。どういうことかといえば、時計 部分と腕に巻くベルトをつなぐ「はり」が抜け落ちるのだ。今日は最近愛用の合 成皮革の時計がそうなった。時計そのものは3つとも健全に時を刻んでいる。腕 時計なら、腕に巻いてこそ腕時計なのだから、やはり、壊れたというのが正確な のだろうか。よりもよって3つともというのは、なにやら滑稽でもあり、持ち主 の性格を表しているというとそれまでだ。「あなたには腕時計は必要ありませ ん」とのご託宣のようでもあった。従ってこの日は、最初に壊れた「腕時計」を ズボンのポケットにしのばせて会社に。職場の大きな時計で仕事上必要なときは 済ませた。ま、いいじゃない。腹が減れば、食べる。眠くなるときは眠ればい い。こんな具合にいかんかいな。で、ついでに想ったものだ。時間というもの は、人間が生活、仕事を営む上で利便性向上のためにつくったものだという。い わば知性的、合理的な生活をするためのシンボリックな指針なのだ。先日、閑話 で記した「気配で知る雨降り」も天気図などを見て合理的な判断を加えるのと異 なる次元だ。御日様の動き雲の動きなどで知るような世界もあるのだということ を。でもこれは私の日ごろ、時間との勝負を余儀なくされていることの憧憬から 記したパラダイスである。最後にひとくさり。物事に集中している時は、時間と いう概念が失せている時である。子供のころ夢中で遊んだ時、さて大人の今はど うだろう・・・。(2003年5月13日)

 

閑話:わしなぁー、定年後にはたこ焼き屋をやりますねん!午後5時からは勤め 帰りの人やらに受ける場所まで確保しておりまぁー。よう調べたら夜もやらんと 儲からんそうだ。目下、家内といろいろ話し合っている最中ですわ。私は「む、 なるほどなぁー」と感心しながら持参の弁当を頬張りながら聞いていた。私より 4、5月ほど早く定年を迎える人だ。自信たっぷりに話す大きな声は、もうたこ焼 き屋の主人になっているようだった。「○○さん、ええこっちゃ」と弁当が終わ り近くになって羨ましげに声を掛けた。彼の元気な声だけでも売り物になるだろ う。それに奥さんの助けをかりるだろうが、味に工夫が凝らされれば、商売繁盛 は向こうからやってくるだろうが私が氏のアイデアにこころの中で拍手を送った のは、氏の男らしくて明るい人柄だ。いかつい顔だがよく見れば、桃太郎さんのよ うな表情を持つ。これまでも陽気などと最近しばしば書いてきたが、今の世、そ れがもっとも欠けている。これは持論で関係者には悪いが、レジでトントン、レ シートがほぼ無言のうちに渡されるスーパーの味気なさ。しかし何でもでも安く 買えるという時代の潮流をつくったのは大きな価値があった。戦後の貧困さを 知っておられた創業者の方々は当然、皆が腹いっぱい牛肉を食べられ、良い服を 着ることができる世の中をつくるのを夢見たのも当然だろう。だが、その半面、 らっしゃい、らっしゃい!奥さん、この鯖は、とれとれだ。別嬪さんだからまけ とくよ!などという威勢のいい掛け声を売り場から半ば失ったことは、今となれ ば実に惜しいことなのだ。毎日、昼時、夕方には出くわす、「ハレ」の瞬間だっ た。それだけでニコニコ顔の奥さんは、その明るさを家庭に運んでくる。無言の買 い物では得られないしろものだった。今の時代を読めない、受ける詩をつくるの が難しいという作詞家の方が多いと聞く。私は、詩はつくったことはないが、も う一度、原点に立ち返っていままで時代の流れのなかで失わざるを得なかったこ とに目をやる必要がありそうだ。○○さんのたこ焼き屋の繁盛を願う所以であ る。(2003年5月14日)

 

閑話:私は大の相撲ファンである。正確には「で」あった。栃錦、北の湖はとりわけ好きな力士であった。続いて大鵬、貴乃花であろうか。私は今、大相撲の理事長をなさっている北の湖さんが、引退されてから、ほとんど興味を失った。 で、貴乃花がぐんぐん強くなっていく姿をみてまた相撲を見る気になった。やはり、相撲道の精神(スピリッツ)をいずれも持ち味は違うものの、具現化しているさまは、他のスポーツには見られない美意識があった。相撲のことは、また詳 しく書くこともあろうと思うので今日は、米国に渡って活躍しているイチローについて触れたい。

 深夜の車帰りのときとびっきり野球に詳しい運転手さんに野球について教えてもらうことが多い。よくイチローはなぜあんなに素晴らしい活躍 をするのだろうと問うのだが、その点になるとこの運転手さんも私も途端に分からなくなる。「私もね、長島さん王さんや清原、松井について30行で書けよとい う質問が出たらなんとか書けるような気がしますが、あのイチローだけは一行も書くことができない」と嘆息交じりに話していたのだが、少し分かったので独断 ながら紹介する。彼は「超職人」であるということである。あの若さでである。他の分野でいえば人間国宝になられたような伝統文化を継承しつつも独自の世界を築き上げられた卓抜した文化人に似たような境地を既にして身に付けておるのではないかということである。ものつくりの大切さが最近、我が国でも直されているのは大変素晴らしいことである。時代の流れの中で喪失していたものを取り戻そうという点では大いに評価できる。超職人になってもらいたいものだ。イチロー選手の活躍は、その範足りうるものがある。確か作家、永六輔さんが、昔気質の職人の素晴らしさを述べられていてなるほどそうだと想ったものだったが、イチローは、現代の「超職人」なのではなかろうか。足が速いという持ち味に加えバッテ ング、守備に至るまで最高度に磨き抜いた選手である。

 今、NHKで武蔵を放映 しているが、武蔵のような存在がイチローなのかもしれない。マニュアル化世界では補い切れない 「何か」を彼は象徴的に私たちに日々、提示しているのではないだろうか。そうみれば彼のプレーの中に年齢に関係なく学ぶことができるのではないだろうか。 私は残念ながら彼の生い立ちは詳しく知らない。しかし、そういう視点に立って 取材すれば書けると想った。教えるのは基本だけでいい。後は、自分で己の世界 をつくっていけばいいのだ。そういう若者を育てるのが本当の教育ではなかろう かと想う。本だけでは得られないもののあることを・・・。一つのことに徹し切れば、自ずと万人が認めざるを得ない境地を、または技を身に付けることがで る筈だ。私のように高年になると、至難であるが、30、40代ならまだ可能だ。今、不況などが重なり閉塞感が漂っているが、職人世界だけでなくどんな職業でも同じようなことが言えるのではなかろうか。みんなと同じことをやっていれば 安心という横並び思考の時代は完全に去ったと見たほうがいい。そんな安易なやり方が今日のような時代を生んだとみるべきではないか。職人の世界は深くて広 い。イチローから学ぶことは多いと想うのだ。ついでに書こう。

 私の小説の主人公の暁烏敏師の寺には天上天下唯我独尊と師が大書した驚くほど大きな額が掛けられていた気がする。この言葉は、誤解されてとらえられることが多い。さらに言えば誤解するような教育をした、また知らないままでいるのが悪い。この世に自分と同じ人間はいない。それぞれ持ち味を持って生れたのである。それを素直に感謝する。そしてそれを尊び、己を磨けということである。イチロー選手と通底するところがある。今はイチローのような「超職人」や「職人」、または職人気質を持った人材が求められているのではなかろうか。日本の歴史文化の中を探ればその回答はある筈だ。 (2003年5月21日)

 

閑話:前にも記したが運転手さんとの会話よもやま話をお届けします。私は現在、新聞社に勤務していますが、取材はしていないので外部との接触、つまり同業以外からお話を伺う機会は、もっぱら深夜の車帰りや所要で乗ったタクシーの運転手だ。実に豊富な経験に基づいた意義深い話も聴ける。以下に思い出すままに記す。@:私は全部胃を取り除きましたですわ。(多分私の記憶では術後、一年かそこら)何でも食べます。家族と同じ食事は無論ながら、好きな菓子は欠かせません。でもときに吐きますが、そのときはそのとき。懲りずにそうしており ます。でもこうやって元気に働いているのですからね。別の運転手(この人も全摘出):要は気力でんな。なんともありません。A:アングロサクソンにいつもペコペコしていたらあきまへんな。日本はもう少し自信と自主性を持たなきゃなりません。今の政治家や官僚は、どうなんでしょう。(む、む、沈黙。読者のご判断にお任せしましょう)。B:今さっき乗ったお客さん、食欲がないと嘆いていたので、言ってやりましたよ。腹式呼吸やんなさいって。腹式呼吸やりますと ね、胃やら腸が活発になりますさかい一発ですわ。ね、お客さん。(成る程)。 C:10年ほど前には会社は違っても道聞いても親切に教えてくれましたがね。今 は少し雰囲気が違ってきましたね。自己保全ばっかりのような気がしすよ。ま、 ゆとりをなくしているのでしょうがね。お客さんらの仕事ではどうですか(沈黙、口をもぐもぐ)D:もうこの国はあかんのと思いますよ。これまで左脳だけ使い、右脳の働きを忘れていたのではないですかね。(そのようにも思えますがね・・・=でどうすりゃ良いのですかとは聞けなかった=)Dについてはそ の場で私の意見を言えなかったので以下に記します。

 よくいわれる分別というものです。あの人は分別くさい。端的に言えば分別と は、ああでもないこうでもないと思量することである。非思量底という禅語を覚 えている。つまりあれこれ迷わない状態のことではあるが、これは難しい。誰で も迷うし、悩む。ある神道系の宗教団体の教祖は、迷うと魔寄る(魔が近寄る。 つまり、健康で幸せになれない)といっていたのを今、ふと想い出した。ま、思量するより、少々のとんまなことをするのが人間だから、(Dの運転手さんのよ うに悲観論に陥るのではなく)ダイナミズムに日々送りたいとものと思うのだ が・・・。(2003年5月26日)

 

閑話:大きなテーマのドキュメンタリー「その時歴史は動いた」と作家、瀬戸内 さんの作家活動にまつわる独白という二つの番組を深夜の車帰りの後、撮り置いたビデオで観た。犬養毅首相の暗殺から始まる「問答無用」の時代、満州事変、 2,26事件、そして戦後・・・。瀬戸内さんは、終戦後の価値観の大きな転換の中で、作家活動に挺身。今、お釈迦さんの年齢と同じ80歳といわれた。挫折から這 い上がり、流行作家という頂点いながら51歳で出家。女お釈迦さんのようににこ やかだ。二つの番組を通して観ていて大いに考えされた。

 今、時代の大きなうねりの中にいる。若者も我々戦後派の中高年も様々なことを考えさせられたに違 いない。私もその一人である。時代の流れについてはおよそのことは、聞いたり して、本で知っていたこともあるが、犬養首相の最後のことば「話せば判る」と いうことは、郷里を同じくするだけに少年のころ田舎の伯父からよく聞かされて いた。「問答無用」と「話せば判る」は、大きな差である。

 さて今は民主主義の時代だ。日本は戦後、主として米国から学んだ。だが、よくよく考えてみれば、 民主主義というのは、確かに表層的には今日まで続いてきた。教育にも様々な分 野で。「話せば判る」という意味が、私にすれば民主主義のコア(核)であろ う。だが、実際は、皆がそうしているから右倣え、とついて行くのが無難、無難 ですよ、という傾向に陥っていないだろうか。バブルをよんだ背景もそうした一 面に起因しているところもなきにしもあらずではなかろうか。民主主義とは個々 人が主体性を持って行動し、それを民主的な法規範の下で保障されている社会だ としてみてよかろう。今、大きな歴史の転換点の中にいる我々。戦後50年余の歩 みを検証し、新たな一歩を踏み出さなければならないときではなかろうか。読者 諸氏、自問自答が済んだら確かな足取りで進みゆきたいものですね。戦後民主主 義の中に犬養首相のような「話せば判る」という現代版的な主体性を持ちつつ、 生活全般に深みを持とうではありませんか。瀬戸内さんは戦中派であるが、主体 的に生き抜いている先達の一人であろう。ふとこの間の番組を思い出して記しま した。(2003年5月28日)

 

閑話:貴乃花の断髪式一代年寄り、貴乃花の襲名パーテーを生番組で観た。かねて貴乃花という力士というよりもこの若者は既にかつてあの双葉山が求めてやまなかった木鶏の境地には及ばないにしてもそうゆう相撲道を追求していた稀有の力士と思っていた。話し方をみても堂々としているだけでなく無駄のない言葉が自然と紡ぎ出るのを聞いていても納得できる。たいしたものだ。この日の貴乃花 の一部始終がその真実を証明していた。圧巻は小学生の長男が父、貴乃花に感謝の言葉を述べるシーンだった。「今日、勝てたのは(長男)が応援してくれていたからだよ、とお父さんは言ってくれました。それで僕も頑張れました。お父さんありがとう(著者要約)。」と感謝の言葉を読み上げた時だ。終わった刹那、 彼は泣き出した。私は思わず、ジーンときた。恐らく大勢の人の前で大役を果たせたことと彼は様々な父とのこれまでの数々の思い出が一度にこころを駆け巡っ たのではないか。そしてこころから「お父さんありがとう」と思ったに違いない。出席者もテレビの視聴者もこのシーンには感動した筈だ。

  さて少し私のことに触れよう。私は大の栃錦ファンだった。栃錦が昭和27年秋場所で14勝 1敗の好成績で、翌28年初場所で大関に昇進。私の相撲好きが始まったのは小学生低学年からだ。長身の大内山を窮余の首投げで弧を描くような形で投げ飛ばしたのを観たのは、隣村で備え付けていたテレビであった。床屋さんかお店だったような記憶がある。今でもこの一番は語り草として相撲ファンの多くの方のここ ろに残る。小学4、5年生だったか私はこの栃錦と会話を交わした。オモチャに近 いカメラを持って「栃関、写真を撮らせてください」と土俵下から声を掛けた。「おうー」と栃錦は答え、大きな四股を踏んでくれた。これは郡内の小学校 数校がこぞって西大寺市(現岡山市)にあった西大寺の境内で地方巡業を観に行ったときである。会話というほどではないが、当時の私には、まさに「会話」であった。今でもその場面がこころに焼きついているのだ。その前年だったか、担任の先生に掛け合い、授業を早引けさせてもらって一人で自転車を漕いで観に行った。が、もう取組は終わっていて若いお相撲さんがちゃんこ鍋かなにかを片付けている風景などを眺めて帰った思い出もある。とにかく栃錦が好きだった。 ライバルは少し遅れて台頭してきた若乃花(貴乃花の伯父)。栃錦が引退したのは昭和34年。若乃花と連続優勝をかけて千秋楽に対戦、惜しくも敗退。その翌場所確か2、3敗した後すぐ引退を表明。当時の新聞はその引き際の見事さを賞賛していた。確か池田内閣発足の1年前であった。

 私は、貴乃花のパーテーを観ながらそのような当時のことを思い出していた。栃錦の春日野襲名の記憶はなぜか蘇ってないが、その引き際の見事さには形は違っても貴乃花は偉かったし凄かった。横綱審議委員会からけがでの休場の長期化からそれとなく引退を勧めるような意見が出たとき、彼は憤然として土俵に上がった。惜しくも準 優勝に終わったが・・・。で今回の引退。22回の優勝は歴代4位ながら貢献度からみると、同じ一代年寄りになった大鵬、北の湖に匹敵する。私は北の湖さんが引退してから相撲に対する興味は半減していたが、貴乃花が急速に力をつけ、場所ごとに成長していくさまを見て再び大相撲に呼び戻してくれたのだから・・・。 年寄り貴乃花に感謝と今後のご活躍に声援を送りたい。 (2003年6月3日)

 

お知らせ:いよいよ交野物語(仮称)を来春、出版することにしました。交野郡といわれた当時は、今の交野市も枚方市も同じ郡内でそれぞれ伝統のある町であ りました。枚方市にある百済神社に参拝したとき高台にある神社内から交野市を 囲む三宅連峰を眺めました。む、む、あの辺りが私が住んでいる妙見東団地かと納得し、頭(こうべ)をぐるりと巡らすと交野山(こうのさん)辺りかと感慨一入、 2度頂上に登り、地域の聖なる山の巨岩から大阪湾のきらきら光る海の青を眺望 し、 桓武天皇が道教思想から長岡京のシンボルの山と見立てたことは交野物語 にも触 れたが、巨岩の遥か彼方に都のあった現長岡京、向山両市が霞んで見渡せ、感慨を覚えたものだ。枚方市は、江戸期、京都と大阪を行き来した三十石舟の当留地であった。「くらわんか、くらわんかー、くらわんかい」と行きかい旅する人々の餅を地の人々が元気で威勢の良い、声を投げ掛けた。賑わいの宿場町でもあり、今もその雰囲気を残す家屋が散在する。

 そのような文化遺産を山や淀川周辺に持つ交野郡、北河内地方は今、それぞれの持ち味を生かしながら活性化策が折からの財政難のなかで取り組まれてい る。寝屋川を含めた3市の合併問題も議論がなされているようにも聞く。私見を独断的に述べるが、今の状況を生んだ背景は、様々な要因が内包されている。ま ず 財政難解決も不可欠ではあるが、何故にそうなったのか単に右肩上がりの終焉だからという表層的分析だけで事足りるものでは決してない。そうした事実を 招 いたのは文化的、人間論的な考察が欠落していなかったかとの思いもある。 また本当 の市民の幸せとはなんだったのだろうかという根源的要因まで考察す ることが前提要件にならなければなるまい。それがなされない限りは、市民が真 の健康で幸福を享受できる時代は長い目でみて招来しないことだけは確かであ る。伝統のある北河内一帯になるが故に年代、年齢を超えて深くて広い議論、意見交 換が望まれる。経費削減は民間企業ではそれこそ生き残りの必須条件になってい るが、右肩上がりの終焉だからという思考だけではなく、いま少し立ち止まって深 く再考察しなければ、長年、培ってきた民間の企業文化さえも喪失しかねない。

 このことは自治体でも同じだ。自治体の合併、共同体づくりにしても、3市の持ち味が消滅し、画一的風土になってしまったら50年後、100年後の郷土の文 化・風土は無味乾燥なものになりかねない。 今回の交野物語(仮称)はそんな 意味でもお読みいただければ幸せである。これとは別に地方自治体の職員の方々 に歴史と未来の洞察力と理解力という自己啓発を期待したい。また市民の税金でお給金も、という現代的な感覚をお持ちになれば、自然と北河内地方は良くなる筈だ。 (2003年6月5日)

 

閑話:食後、ソファで30分ほど眠った。家内と昼過ぎ歩いてスーパーまで買い物 に歩いて行った。帰りは、バス。本当は30分の道程(みちのり)だから歩いて帰 るくらいでなければならないのだが・・・。一合弱の酒が心地よく体に響いたの かも・・・。で起きたとき、民放の番組が自然と目に入った。相撲界に入った息 子さんからテレビに出ていた母親を応援するため贈られたタオルに「一生懸命」 と書かれていたのが目に飛び込んだ。で、ふと思ったのだか、この語意は「一生 涯、命懸け」で、ということである。最近、老いも若きも私の少年のころから見 れば、総じて元気がない。はてどうしてだろうと、こころを巡らせた。容易に回 答は見つからないが、私の独断好みで言わせていただければ、「一生懸命」に生 きる目標、目的の喪失ではないか。で、現実はどうかというと、暗い話ばかりで ある。中には、出会い系サイトで連絡を取っただけで一緒にスイサイド(自殺) するなど私には、皆目理解できない話である。しかしこれも命懸けで生きる目標 を喪ったからかもしれない・・・。確かに今の世の濁世には光を見つけにくい社 会でもある。ならばどうするか・・・。仏典に自灯明ということばがある。自ら 闇の中で光(明かり)を灯し、生きるという意味である。なら、どうすれば自灯 明できるのか・・・。どんな些細なことにも価値を見つけ出すことではなかろう か。職業分野を問わずに。与えられた持ち分で己の頭脳で創造的に「生きる価 値」を見つけ出すことだ。人は皆、恣意(分別)であの人は幸福だが、私は恵ま れていなくて不幸だなどと相対的思考で幸せ度合いをはかり勝ちである。かくい う私もそんな思いを一瞬こころのなかで抱くときもあり、不条理に怒るときもあ る。私を含め、人は皆愚かな存在だから仕方のないことだ。とりわけ、少年のこ ろから勉強のできる子はみんないい人、できん子はあかんなどという受験一本や りの教育をし続けた戦後教育の弊害は大きい。人は相対思考(分別思考)にでき ている。それに油を注いだようなものだ。勉強の好きな子だけやればいい。体育 の好きな子はそれに専念すればいい。絵の好きな子はそれに専念すればいい。そ れぞれに同じ評価をするのが、本来の教育だ。我田引水ではあるが、私の近著、 小説「如来が弁護してござる」で主人公に語らせている。戦後教育はそれを見 失った。独断でいえば、最近言われている学力の低下にしても現場を知らないの でなんとも言えないが、学力よりも大切なものとは何かを教えることであろう。 己で光を見つけ出す、「自灯明」もその一つなのではなかろうか。そして「一生 懸命」に生きることであろう。(2003年6月6日)

 

閑話:休みを利用して久しぶりに筆ペンでやや長めの手紙を書いた。小説「如来 が弁護してござる」の手直し作業のときは自分で言うのも何だが、すらすらと筆 ペンが走ったような記憶があるが、筆ペンを使ったのは、それ以来だからもう一 年以上になる。 簡単な語彙、表現が頭に浮かばなかったり、さらに悪いのは漢字が思い出せな かったりした。そうすると、文章全体に勢いがなくなり、文字もいつもより、 いやそのころより、下手になったような感じがした。  これは、はっきり言ってパソコンだけで新聞社の仕事でもこうした私用の気侭 (きままま)な文章でもパソコンやすやすと頼り切っているからではなかろう か。  字の上手かった明治生まれの伯父のことを思い出した。伯父 は、私が大学時 代、手紙を出したとき、この字は間違っているとか指摘してきた。難しい漢字も すらすらと書いていた。  が、密かに伯父に対して内心自信を 持っていたのは、漢字では負けるが、文 の勢いというか流れでは、やや私の方が 上かも・・・などと自分を慰めていた ようだった。 そうは思っても、やはり明治生まれで候文で も書けた伯父にはかなわないと今 日ばかしは思った。やはり日本人である限り、 筆とか鉛筆で当用漢字以外の文 字で書けないといかんなぁーと。  小学校時代どう してローマ字なんて学ぶのやろなぁーと、不思議に思った。 で、中学に入ったら 英語ときたから、その布石だったのだ・・・。 PTA、PTA、P、P・・何の こっちゃい。ペアレンツ・ティーチャーズ・ アソシエーションだって・・・。10 歳ばかし上の兄ちゃんクラスは級長と言っ たそうだ。 「なんだと、お前はホーム ルーム長か。なんだ、それは」とは言われなかった ようだが、子供心にも級長と呼んで欲しかった。  話がそれそうなので本題に戻る。 ローマ字を学ぶ前に漢字を学 べ。英語を学ぶ前にさらに難しい漢字を書けるよ うに。英語はその後、学びたい 人が学べばいい。今夜ばかしは痛切にそう思っ た。で、白川静先生の顔が急に浮 かんだ。 「木下さん、漢字や古文が読めんということは、日本人の弱体化につながります はなぁー。つまり日本古典からの剥奪、離脱化ですよ。それだけ日本人 の自信 とエネルギーが喪失する。そうじゃないですか」。 2時間以上お話をご自 宅でお聞きした。高校時代にまあ少し英語を勉強したのは 西部劇などの洋画を見 たいため。今夜は、なんで大学時代ESS(イングリ シュ・スピーキング・ソサイ アティー)に入ったのだろうかとも思った。  正直に告白する。 私が委員長時の終わりごろ、私自ら がESS自体の批判者になった。流暢に話 すばかしが能ではない。君らは、そして私はESS部に入学したんかい!文学 部、法学部、経済学部などの学徒に帰 れ!それから英語だろう、と。  当事の部長(セクション長、サブセクション長) の諸氏は覚えておられるろ う。2、3カ月揺れたようだ。22歳の青年としてはまともな発言だった。  が、その時だけで、社会にいや新聞社に入ってから、いい加 減に今日まで過 ごしたようで、漢字も駄目、英語も駄目、これではあきまへん! 定年後は筆を 執り、実際に書をものにしたいとも思っている。  祖父や伯父、 親父世代に真の意味で負けぬように・・・。(2003年6月8日)

 

閑話:6月8日の日曜日、家内と一緒に京都の本能寺で行われた信長祭りと合わせ て行われた法要に参列した。前に一度、日本ペンクラブの秋の京都例会の折、本 能寺会館に宿泊し、信長廟に参拝したが、その時は、歴史的な関心だけであった が、今回は、はて宗派は何であろうかと興味を抱いたのだ。法華宗であった。私 どもが着いたとき、読経がはじまったばかり。本堂の右側には総代さんか縁者の 方々らしい人が並び、檀徒の方々が次第に増えてきた。ドン、ドドン、ドン、ド ドン、ナームミョウホーレンゲキョウ(南無妙法蓮華経)、ドン、ナムミョウ、 ドン、ホーレンゲキョウ、ドン、ホウレンゲキョウ、ドン、ドドン、ナーム、ド ン、ホーレンゲキョウと太鼓の音と南無妙法蓮華経の読経が見事に交わり、調和 し、広い本堂に霊妙な響きが広がり続けた。中央には信長公の像。私のHP上の 交野物語にも書いたが、天下統一を目前にして明智光秀の急襲に無念の最期を遂 げた。私は、この霊妙な響きの読経の中にいて、信長公の御霊も安らいでいる筈 と、暫し、想いを巡らせていた。法要は読経が続く中、参列者が焼香し、約30分 で終わった。私どもは信長公の廟の前で参拝、その横に列挙してある本能寺の変 で信長公とともに討ち死にした森蘭丸らの側近たちの名前を追った。本能寺の開 祖は、日隆聖人。3男、信孝がこの本能寺を信長の廟とした。その後、私ども は、大徳寺に。信長の葬儀を秀吉が、大徳寺で執り行ったことは、知っていた が、大徳寺の頭塔(たっちゅう)瑞峰院を訪ねた。小説「如来が弁護してござ る」の準主役にした真渓涙骨翁が戦後住まわれ、お墓があるので遅ればせながら お参りした。この小説は涙骨翁を書いたればこそ成功したと思い、感謝を込めて ご住職に寄贈した次第。この日の京都の最高気温は30度を超えたそうな。寒いよ り、暑い方の好きな私には、心地よくてしかも有意義な一日であった。(2003年6月9日)

 

閑話:宮本武蔵のドラマの視聴率がもう少し上がってもよさそうだ。昨夜(8日)の出演者の演技は各々、名演技、熱演が目立った。例えば主役の武蔵がただ 己独りで強くなりたい、すべて己の努力で・・・。かなり以前から(そうではな いぞ・・・)という伏線はあった。沢庵和尚から諭された。「幼馴染でお前よ り、年上の又八の人としての優しさ、お主に対する変わらぬ友愛・・・。又八の 偉さを知れ。お通のお前を慕うこころを知れ、人のこころが判らなくて己のここ ろは、判らないし、真の意味で己を磨くことにはならない(著者要 約)・・・」。今回は、鎖鎌(くさりがま)の強敵を破り、その妻を幼子と共に 妻の里まで送る。倒した強敵の頼みに随って・・・。その途路、かつて片腕を切 り落とすまで完膚(かんぷ)なきほど痛みつけた吉岡一門の師範代の男が率いる 一党に急襲される。幼子を含め3人は窮地に立たされた。立ち向かう武蔵の表情 も立ち回りもリアリティーに富んでおり、迫力抜群だった。また武蔵に随う、敵 だった妻も武蔵とともに鎖鎌の凄腕を振るい、一党を打ち負かした。「人という ものは素直にならねばならんことがようやく判りかけてきた・・・」と彼女に言 いながら、武蔵は又八をこころに描きつつ、幼子を連れて2人は再び歩 む・・・。 里が近くになるにつれ、彼女の武蔵に対するほのかな 愛が芽生える表情が自然に演技の中に表れていた。「圧巻!」だと思わずこころ の中で私が叫んだのは、武蔵が立ち去ろうと歩を進めだした刹那(せつな)、彼 女は、武蔵の前に立ち塞がるやいなや、武蔵の片腕を取り、思いっきり、噛み付 いた・・・。「あなたがいう素直なこころになれないときもあるんだよ!」と、 彼女は叫び、走り去った。複雑に揺れる武蔵の表情も良かった。また、お通が武 蔵逢いたさに江戸に必死な形相で、ふらふらしながら歩き続ける姿も実に良かっ た。だだ、私の独断であるが、あまりにも場面が毎回、 変わりすぎておりはし ないかと思うときがある・・・。ときには臨機応変さが必要ではなかろうか。場 面変化の回数を減らしたらと思うのだが・・・。(2003年6月9日)

 

閑話とお知らせ:出版社から予想より早く交野物語(仮称)のゲラが届いた。夕刊担当であったから、午後6時半ごろに家に帰宅し、玄関から入ろうとしたとき 「木下さーん、宅配でーすーー」と野太い声ながら、元気で響きの良い声が掛 かった。む、む、む、何だろうと一瞬、頭(こうべ)を巡らせた刹那(せつ な)、お、意外に早いなぁー、ゲラかも知れん、と思い、差し出された包みを見 て(やはりそうだ)と仕事をまぁー無難に済ませて帰宅したやすらぎも手伝った こともあろうあろうが、一瞬、こころが華やぎ弾んだ。リビングのソファで、ぱ ら、ぱら、と読んでみた。パソコンの横並びの文字が活字になったということも あろうが、自分でもまず、まずと納得した。おー、これを書いたときは、このと ころ、こころに浮かぶまま、小説「如来が弁護してござる」を読者の皆さんに 「木下はん、少しくどいのと違いまっか!」と言われるほど紹介しているが、そ の小説の最終直しで筆ペンを走らせているころ、平行して書いていた。だから、 たいした頭脳ではないが、確かにフル回転していた。感度も私なりに良かったよ うに覚えている。だから、あまり下手な直しはできないかもなぁーとの思いも過 (よ)ぎった。でもここ一カ月ほど、どんなことがあっても夜、昼問わず毎日、 30分は歩いて体調を整えているので当時ほどではないが、少し感性、感度を取り 戻しつつある。よっしゃ、やるかと勇猛心みたいなものが体を一瞬、駆け巡っ た。その勢いですぐこの物語で多大な協力を仰いだ郷土史家の和久田薫先生のと ころに出版社に依頼していた2部の1つを持って出掛けた。歴史的な事実誤認な どをチェックしていただくためだ。78歳で長身(180センチくらいか)。ノー ブルで紳士的な表情を称えたお顔がにこにこと私を励ますように受け取ってくだ さった。さぁー、今夜も団地内を30分だーー。(2003年6月10日)

 

閑話:家族と一緒に夕食を取っていてかけっぱなしにしていたNHK・・・。歌謡番組 (10日8時)の歌が流れてきた。おや、今日の出演者はベテラン中心だ・・・。 橋さん、都さん、細川さん・・・に五代さん、とりわけ歌などで存在感があった のは作詞家の中村さん、それにあの方、この方。皆さん、有名歌手・・・。つま り歌いの達人の方々・・・。で、早く食事を済ませてソファにゆったりと腰を下 ろして聴き入った。そのようにしてまで歌謡番組を民放の歌番組を含めても観、 聴くのは久方だ。今日ばかしは、おおー、盛り上がっているなぁー・・・。皆さ ん気合を感じたからだ。中に名前は忘れたが、若手歌手にもそう感じた。2001年 8月の番組と同じくらいの感動が伝わってきた。ほぼ2年前のこの番組は確か終戦 記念日の前日、14日だった。この時の森さんの「おふくろさん」は、最高であっ た。こころがこもり、正に熱唱だった。賞をもらった20代の歌、何回も紅白など ビッグな番組などでも森さんのこの歌を聴いたが、私の主観だが、とりわけ素晴 らしかったのだ。森さんだけでなく出演者、皆さんが素晴らしい歌声を聴かせて いただいた記憶は、今でも鮮明だ。

  新聞社に35年以上もいてテレビ番組の制作のことは、何も知らないとは、情けない限りだ が、デレクターさんが出演者に「元気で参りましょう。姿勢を正して、アクショ ンもリズミカルにしてください」などと声を掛けるのだろうか・・・。ははー ん、あの時は、終戦記念日の前夜だからなぁーとも思った。でも今夜は・・・何 かの特別の日に当たるのだろうか。キーを叩きながら、今も考えているのだが思 い当たらない。それぞれ持ち味は異なるのだが、全員のこころの底に響き合うよ うな共通する「気(気合)」のようなものが流れているのだ。卑近な例では、高 校野球、プロ野球でもそうだ。お相撲でも同じだ。ある平幕力士が大関や横綱を 負かしたとき、土俵下で見ていた力士も、「俺もいっちょう、やろうじゃない か、おおー!」と気合が自然と溢れ出る。つまり、気合が、元気が、他に伝わる のだ。デレクターの指示があろうがなかろうが、一人が素晴らしい歌を、また見 事なプレーをすれば、皆が持ち味を発揮する。要はムード、雰囲気づくりだ。ど んな世界でもいえるなぁーと改めて思った夜のひと時だった。(2003年6月11日)

 

閑話:竹原さんという元世界チャンピオンがNHKの昼のチャンネルに登場した のを何気なく先日見た。とびっきり、面白かった。正直なところがまず気に入っ た。「私は中学校代、いわゆる不良少年だった。そうです、全く手のつけられな いほどの・・・。よく人を殴りましてね。親父に同じ人を殴るのだったら、いっ そのことボクサーになったらどうだ、といわれましてね。それがこの道に入る きっかけです」。私どもの少年のころは、そこまでの不良少年はいなかったよう だが、不良がかった少年というのは、いた。私は、小学校時代、それらの少年と よく喧嘩をした。2対1のケースが多かった。「先生また、喧嘩が始まっ た・・・」と40人いた一クラスだったが、その他の女の子や男の子が告げに担任らに告げにいく。棒切れか、箒(ほうき)を持っての喧嘩勝負だったと、おぼろげながら記憶している。

 確か55歳のとき、 その田舎小学校の同窓会が郷里、岡山県の牛窓であり出席。青い瀬戸内の海原が窓から、見渡せる素晴らしい雰囲気を持つ会場であった。無論、その2人も出席していた。小なりと、いえども二人とも、地元の社長を務める。その他は私を含めサラリーマンだ。中学に入った途端なぜか(彼ら二人とあまり話しはしなかったが・・・)、私に親しみを覚えたのか、友好的な関係になったような気がする。よくよく 考えてみれば、2年次から確か6、7クラスあるうちの1つのホームルーム長になったが、勉強ムードが高まるなかでどちらかというと批判的な気持ちを抱いて いた私のこころを彼らが自然と嗅ぎつけたのかもしれない。それが少し不良ぽい 印象を与えたのかもしれない。2年のとき教室で「おい、こら文句があるか」と 同じクラスの仲間を理由は忘れたが殴ってしまった。3年次には、さすがにやめ た。で、喧嘩の仲裁役をしばしば買って出たような記憶もある。勉強重視の傾向 の中では明らかに気持ちの上ではアウトサイダー感覚であった。話が竹原さんか ら、私ごとになってしまった。言いたいのはその同窓会で私の目に輝いて映った のは、小・中学校と私よりさらにアウトサイダーだったその二人だった。竹原さんも番組の中で様々な苦労話をされていたが、なにをおいても圧巻は、料理づく りを生番組で披瀝する態度であった。自信たっぷりに大きな動作でしだいに作り 上げていくさまはお見事というしかない。「ここは私なりに懸命に練習、工夫し ましてね(著者要約)」と、自信たっぷりの所作は、やはり元世界チャンピオン だな、場慣れしているし、ちょいと努力すれば、なんでも勘所を体得できるんだ なぁーと思ったものだった。現在は俳優稼業に精を出す。ボクシングで鍛えた気 力もあるし、個性的な顔立ちを生かせばこの道でも頭角を現わしそうな感じがした。何事でも一流になれば、他事でも同じ境涯を示すことができる。いい例が宮本武蔵。言うまでもなく「刀」と「絵画」だ。こんなところにも教育の要諦の一 つが潜んでいるな、と思った。(2003年6月15日)

 

閑話とお知らせ:今、出版社から送れてきた「交野物語」(仮称)のゲラを新聞 社の仕事の合間を縫って懸命に読んでいるところです。早ければ、11月中旬にも 出版します。大阪府交野を中心とした河内地方の方々に読んでいただきたいと存 じております。交野市は、緑多く、水清し田園都市というのが、今風の形容にな ろうかと思いますが、歴史的な都市でもあります。平城京や平安京の貴族らが桜狩や狩に繰り出したところでもあります。「またやみん、かたのの、みのの、さくらがり、はなのゆきちる(雪散る)さくらばな」。この地で藤原俊成が詠んだ有名な 歌です。また空海が京の東寺から妙見宮に足を延ばした処でもあります。空海は 密教の真言(虚空像求門持法=ノウボウ・アキャシァガラバヤ・オン・アリキャマ リボリ ソワカ)を宮の霊気に感じ入ったのか必死で唱え、次第に三昧(ざんまい)の世界に遊弋(ゆうよく)していたところ、「翁」が眼前に現れ、三宅山に登 れと導いた。空海は頂上で秘法を修しましたところ、夜の連峰の上で輝く七曜星 (北斗七星)が次第に輝きを増し、ついにその星光りがこの地に舞い降りたので ございます。その二つの星光りが妙見宮内に落ちた。故にこの地は星にまつわるお話は数多あります。話しは天下人に肉薄した徳川家康が縁戚の平井家に「大坂夏 の陣」の際、宿泊、戦略会議を開いたのであります。私は今の交野一帯を歩きながら、その風土を描きました。お楽しみにしてください。まずは「交野物語」のご紹介の第一弾。(2003年6月18日)

 

閑話:先日、交野の郷土史家としてご活躍されておられる和久田先生がお渡ししていた「交野物語」(仮称)のゲラを持って拙宅にいらっしゃった。その前の日 に「木下さん、もう3回読みましたーー。持ってまいります」という元気そのものの、明るくて響きのある電話があり、定刻の午後1時に。玄関口の我が家で唯 一の畳敷きの部屋にお通しした。いきなり、姿勢よく正座されたので私は 「まぁー、先生、お楽にしてください」と言い、私は楽な胡坐、キザな言い方をすれば半跏座の姿勢をとった。和久田先生は「いえ、この方が楽なのです」といわれ早速にチェックされたところを丁寧に説明されだした。お聞きしながら、恐縮するばかり。やはり元市長で退任後、当時、交野市文化財事業団理事長をなさっておられた原田誠一さんに紹介された御仁だなぁーと今日を含め数回、お会いするたびに思いを深めるばかりだ。2時間余の間、正座のままで話された。私は途中でメモ用紙を取りに書斎にと立ち上がったとき(3、40分 経ってだったか・・。・)足がやや痺(しび)れ、む、駄目だな、と内心思っ た。交野物語の内容から離れた問題も目を輝かされながら、的確で説得力のある お話しのされ方には感服した。私も先生に調子を合わせるようにいつもより大きな声で話した。久方ぶりに大変有意義なお話を聴いた思いがした。先生は確か79歳。一度も席をお立ちにならずその姿勢で2時間余である。家内は私のことを 思ってか、先生の御年のことを思ってか、手洗いの掃除をしていたが不要だっ た。お話が終わったとき、1年前と同じように乗ってこられた愛用の自転車で 「どうもおじゃましました」と挨拶されると、軽やかにベダルを踏んで帰られた。夕食時に家内に私が感得したように話すと(さすが和久田先生・・・)とい う表情に。息子はなお感じ入るところがあったのか、私の顔を見て(駄目だな、 俺の親父は)というような顔をしたような気がした。物語の固有名詞や史実的な チェックもありがたかったが、この話し合いで和久田先生からおおきなパワーを いただいたようで今後の作業に弾みが付きそうだ。(2003年6月19日)

 

閑話:忙しい新聞社の仕事が引けて自宅に帰ると、今秋、刊行予定の「交野物語」(仮称)のゲラに直しを入れている。書いたときは、かなりリズムに乗って書いているので流れは、私が言うのもなんだが、私の文章としては、上出来のほうであるから普通の感覚で挿入すると、その流れを崩すことになるのでかなり気を使っている。当時の現場感覚を思い出しながら進めています。でも、文章自体の直しはあまりありません。郷土史家の和久田薫さんからご指摘いただいた歴史的事実から見た場合の固有名詞の誤認と表記の仕方が中心である。で、今日は、北畠顕家の子孫が南北朝の戦いの後、交野に移住し、江戸期この地方の代官を務めた代官屋敷を訪ねたときついでに通った無量光寺の門前横の確かお知らせ看板の 中に書かれていた「今日という大切な一日に不平をいう暇はない」という主旨の標語を見つけ、む、む、これには降参と私が書いているが、今でも思いは同じ。判っ てはいてもつい忘却してしまうのが凡夫の哀しさだ。怒り、妬み、愚痴などをつ いこころに抱くものだ。私はこの寺でこの仏の道の神髄に出合ったとき、降参と 白旗を揚げているが、還暦を来年迎える私。降参とばかし言ってはおれない。改 めてこの標語を噛み締め、己の声で「今日という大切な一日に不平をいう暇はな い」と言えるようになりたいものだと思ったものだ。(2003年6月23日)

 

閑話:過日、金沢県松任市の明達寺住職、暁烏敏師の孫の暁烏照夫師から敏師の50回忌法要に参加くださいますようにとの手紙が拙宅に届いた。清沢満之の血脈である照夫師が法要に合わせて本堂の大修理の工事の準備を始めたという知らせであった。こころばかしの寄進をする所存だ。来年5月に大法要を執り行うという。今は亡き、満之のお孫さんの暁哲夫さん。妻、宣子さんが往きてそれを追うように数年後にあの世に旅立った。地元檀徒だけでなく関係者に惜しまれつつ・・・。微かな記憶だが、取材に当寺に参ったとき、「敏師を書きますよ」と申し上げた。無論、この小説「如来が弁護してござる」のことだ。哲夫さんは「ええ、どうぞ、なにしろ父が往きまして40年を超えましたから・・・」。もういいでしょうと、励まされたような会話もこころを過ぎるのだ。取材に参ったとき満之そっくりの風貌をしていた少年にも遭いたいと、いまから愉しみにしている。(2003年6月24日)

 

閑話:このところ、暇を見つけては「交野物語」のゲラ直しをしていると、ここで紹介し続けておりますが、ちょいとこの解釈はまんざらでもないなぁーと思ったことを‘自画自賛‘(全くその通りです)ですが申し上げます。取材を兼ねて団地近くの集会所に何気なく立ち寄った時の印象記のところである。日蓮聖人を信望、敬仰する会であることはすぐ分かった。岡山の偉人の一人で、財界総理と いわれる経団連の会長を務められた土光さんも熱烈な法華経信者であられた なぁーと、そのとき思ったものだった。太鼓がド、ドン、ドン、ドンと打ち鳴ら される中、南無妙法蓮華経、ナムミョウホウレンゲキョウ、ナムミョウホウレン ゲキョウ、ナムミョウ・・・と参集者が調子を合わせながら唱えるのだ。後で私 なりに経典で調べたところによると、10遍(回)から千遍唱えるとあった。この 折は、途中から「上がらせてもらいます」と入れてもらったので何回唱えられた のか判らない。が、法華経の唱和には荘厳さというか、こころの底から元気、勇 気とでもいうものが自然と湧出してくるのだ。独りで唱えるのもいいが集団で唱 える方がもっと良いとも。このことは浄土系の宗派でも同じことだと独断ながら 思うのだ。そう、一遍の踊り念仏でもそうである。一般論として、独りでの念仏 もいいが、皆で唱和すると、自然と己のための念仏から、他人のための念仏にな り、他者の念仏によって己自身も救われる世界が自然と醸し出されてくる。 話が進み過ぎたようだ。この日・・・。世俗の垢が洗われるような、いや忘れさ るような非日常の世界に誘われたような気がしたものだ。ここに参集された方々 は定期的にお集まりになり、深い法悦の世界に浸っておられるのだろうと思った ものだった。この間、本能寺で執り行われた、信長公の法要でもそう感じた。本堂に響き渡る僧らの唱和は、荘厳に満ち、参列者のこころも自然と吸い込まれ、 信長公の御霊も救われるのだと・・・。前回にも閑話でお知らせしたが、「如来 が弁護してござる」の主人公、暁烏敏師の50回忌の法要も宗派は異なってもきっ とそうだろうと思うのだが・・・。(2003年6月26日)

 

閑話:毎度のことながら書き続けている「交野物語」(仮称)のゲラ直しであるが、直しの途中で「おっ、あの妙見桜の桜並木通り近くにある小松寺を書き忘れていたなぁー・・・」と急に思い出した。早速、郷土史家の和久田さんに電話した。「散歩のついでに2、3度境内を覗いたことがあるのです。やはり入れた方がよいと思のですが・・・」「その通りですね、なにしろ廃寺になった三宅山山麓にありました大伽藍、小松寺と深い関係がありますし、宗派は真言密教から法華宗に変わりましたが・・・」と和久田さん。「えっ、そうなると、私がこの間、家内と信長公の法要に参った本能寺と一緒ですね・・・」 と訊ねたら、和久田さん「今は、本興寺の末寺ですが、本能寺さんとも深いお付き合いがある筈ですよ・・・」「ありがとうございました。すぐ出掛けます」とお礼を言い、貴重な休みではあるが、ぜひ今日こそ、ご住職にお会いしなければと、出掛ける準備をしていたら、また和久田さんからお電話。「あの・・・、木下さんが今日そちらに伺うのでと申したところです。電話は〇〇・・・です」とご親切なこと限りなし。ご住職と約束が取れた午後1時半の定刻に境内の本堂に着き、手水で手を清めてから、境内を落ち着いた気分で眺めた・・・。(2003年6月27日)

 

閑話:改めて見る小松寺は広々としていた。と、本堂の横のご住職の家屋に顔を向けたら「いらっしゃいませ。本堂の方においでくださいませ」と奥様の声に促されて本堂に。ご住職の名は川邊諦英さん。昭和17年生まれだから私より、2 歳上のお兄さん。気さくなお人柄と思った。名刺をいただいた。法華宗(日蓮大聖人) 三宅山 小松寺 住職とある。和久田さんからおよその寺の来歴をお聞きしていたのでお話は、すぐ呑み込めた。前にも記したように尼崎の本興寺の末寺ながら、本能寺の末寺であった時もあった由で今でも深い繋がりがあると伺った。過日、本能寺で執り行なわれた信長公の法要のさまをお話ししたら、「その通りですよ、木下さん。南無妙法蓮華経、南無、ドドン、ドン、ホウレンゲキョウ、ドン、ドン、ゲキョウ、ドン・・・。読経と太鼓の音の響き合い、その広がりいく雰囲気が自然と信長公の御霊をお慰めするのですよ」と川邊住職。ところでかつて幾つもの甍を連ねていた三宅連峰の山麓にあった大伽藍の小松寺の名跡 を継いでいるということは、名刺を見た瞬間に理解できた。ありがたいことに 「法華宗信徒勤行」という経典をいただいた。そこであつかましくも帰りしなに所望して読経の仕方を教わった。「一字、一字に丹田(たんでん)に力を込めて読経すると法力(経力)が高まります」とご住職。取材だけでなく何か大切なことを教わったような厳粛な気持ちを抱いて寺を辞した。(同日)

 

原田元交野市長に哀悼:交野市にとって大切な方を喪った。元交野市長、原田誠一 さん(89)が逝かれた。交野市でお目にかかったのは1度だけだ。社会部記者時代に電話取材ながら企画記事を書く時、取材をしたことがあった。それから 何年かたって交野市に移り住んで数年経ったころ、交野市文化財事業団に交野市に関する書物を購入するため出向いた時、同事業団の理事長をなさっていた原田さんに偶然お会いしたのだ。この場面は交野物語(仮称)の中に詳しく書き込んでいる。お父上が戦後、交野市の星田地区にある妙見宮の宮司をなさっておられ、そのご薫陶を受けられたのか、その時、机に向かってしゃきっと姿勢を正 し、執筆されていたその姿が印象的であった。4、5人居られた職員の方々には悪いが、当然といえばそうなのだが、断然、威厳と貫禄をそこはかとなく漂わされておられた。20分ほどお話を伺った。交野市の緑に囲まれた妙見団地づくりに力を 注がれたお話などを伺った。交野町長も経験されており、交野市の礎を築かれた功労者である。今、ゲラ直しをしている交野物語で改めて哀悼の意を表することにし ている。告別式に参列したが、この日は日曜なれども新聞社の勤務日。途中で失 礼致しました。ご遺族の方々、関係者の方々にHP(ホームページ)でお詫び申し上げます。(2003年6月29日)

  

 

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