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「如来が弁護してござる・・・暁烏敏・[小説]・満之・涙骨・・・」 (上記小説は最下段の過去の掲載分表記のうち2007年〜2009年掲載分をクリックしていただければ関連文章である余滴などをご覧になれます) - 2010年1月1日から - 閑話:新年明けましておめでとうございます。 初春のお慶びを謹んで申し上げます。 さて今年もあのイチロー選手とともに始まり、イチロー選手(以下イチロー)に大きなパワーをもらい、励まされながら、生きていく一年になりそうである。 それも当然だなぁー・・・。元旦の午前零時15分から6時までNHKが衛星放送第1でイチローの全安打記録(2002−2009年)を放映した。 NHKとしても異例の試みではなかったか・・・。それに耐えうる実績を残したイチローはまさに100年にひとりの逸材であることの証明でもあったが・・・。 ともかく正月早々ではあるが、正直に告白しようと思う。 昨年10月12日、NHKが放映した「おしえて イチロー選手!」という番組をビデオ撮りし、この番組をこれまで繰り返し100回以上は確実に見たのだった。 どうしてそんなに・・・という問いがありそうだが、それは一言、実に素晴らしい番組であるからである。 昨年中に放映されたイチローの9年連続200安打などの大リーグ記録達成にまつわる番組に較べイチローの本音を正直に聞くことができるからである。 イチローが日米の野球少年の質問に答える形で番組が構成されている。 自ら野球少年だった・・・彼らの胸の内が分かりすぎるほど分かるイチローだからどんな質問にも真剣に答えきっているのである。 「どうして打席にたつまでに同じ動作をするのですか?」(例のバットを眼前ですっと上げ、ピッチャーを含む敵陣を見据える動作などである・・・) 「打席にたつ前に野球とは全く関係のないこと(雑念)が浮かんでくることもあります。そんな場合、それを完全に排除してピッチャーなどに立ち向かう必要があります。つまり、集中力を高めて勝負するためなんです」(イチロー) 「これまで打席にたつとき緊張(ナーバス)したことがありますか?」 「(それは当然ある・・・)。むしろ僕は重圧に弱い。(重圧から来る緊張からか)脈が速くなったりして・・・。」(イチロー、カッコ内は木下が挿入した) 昨年3月23日のWBC決勝戦、3対3、韓国チームとの延長10回表、ツーアウト、走者2、3塁、バッターはイチロー。 フォァボウルで懸命に粘って8球目・・・。おっ!・・・センター前にクリーンヒットだ!・・・。お見事!お見事!実に見事だ(私はビデオを見るたび叫ぶのだ。もう何度叫んだか分からない・・・)。 2点をたたき出し、2大会連続優勝を呼び込んだ。 「あんな恐怖はそれまで味わったことはないし、これから先もおそらくないでしょう・・・」(イチロー) 「シーズン中もこのシーンは何回も思い出した。でもこれ以上の(恐怖を感じた)ことはなかったですね」(イチロー、カッコ内は木下が挿入した) シーズンを振り返り、イチローはこう語り、この経験があったからこそ108年ぶりの記録更新ができたという表情には確かにリアリティーがあった。 さらにまたイチローが我々を感動させたのはシーズン初めと終盤に故障で合わせて16試合欠場した上での大リーグ通算2000本安打であり、9年連続200安打の新記録であるからである。 「これまでに野球をやめたいと思ったことはありますか?」 「やめたいと思ったことはありません。(記録などを追っているときなど)もし、やめれたら楽になるだろうなどと思ったことはありますけれど・・・。けっきょく僕は野球が大好きなんですね!」(イチロー、カッコ内は木下が挿入した) イチローは歴史的存在であるにもかかわらず、この番組でみせたように極めて親しみやすさをもったナイスガイなのである。 今年もイチローの活躍に声援を送り続けたい。 (2010年元旦)
閑話:最近、とみに想う・・・。この世を生きる上でもっと大切なことは何かといえば練習に継ぐ練習による体験そのものであるということを年がいもなく想うのだ。(西嶋和夫師や吉本隆明さんのような高邁なお考えをちょいと横においてのことではあるが・・・)。 む、む、年がいもなくと書いた私だが、正直(わしゃー、まだ若いんじゃー)という気骨がある・・・。 さらにいうと、何事も体験、体 験、体験なのであるが、私は言いたいのだ・・・。この体験を踏まえて超体験というものがあるということを・・・。 超体験者としてイチローの名前が挙がるのはいうまでもない。体験と超体験の関係性は西田幾多郎の哲学用語を使かえば「非連続の連続」ということになろう。 「色即是空 空即是色」もいってみれば「非連続の連続」ですね!と西田哲学の碩学に直接電話でお訊ねしたら「そうです、その通りです」と即座に応諾のご返事をいただいたことを思い出す。 『色即是空・・・』にはここでは深入りしない。 体験、超体験のことを西田幾多郎の難解な哲学的表現である「非連続の連続」というようなものを一体なんでイチロー の話のなかに出してくるのかと怪訝(けげん)な気持ちをもたれる向きもあるだろう。 私見を述べれば次のようになる。 体験に工夫に工夫を凝らし、何回も繰り返すうち体験の内部で質的なものが変化し、最初 のころの体験の特色を踏まえつつ、より高次なにものになる・・・それが、その人柄やその人の技量として具現化、身に備わるのではないかと思う。 これがまさに「非連続の連続」であり、これを私の語彙でいうと超体験が「成る」という表現になるのである。 イチローの場合はやはり持って生まれた資質が大きいものの日々怠りない練習や試合という戦いのなかで培った努力の汗が滲みでたのが、あの「おしえて イチロー選手!」の番組であった。 元旦に感動を込めて書き記した所以(ゆえん)はこのことにもあるのだと思ったからである。 私がごとき凡なる輩、しかも齢(よわい)を重ねた世間でいう弱者たりといえどもイチローに学ぶことは無限にあると思うのだ・・・。 そう、老若男女を問わずそれぞれ持ち味は違うが、その持って生まれた資質(才能)を生かし、練習に練習を(体験に体験を)重ねれば人並み以上どころかそれ以上の力量がどんな世界でも身につき、その成果を開花 させることができるのではないかと愚案をめぐらせる。 いや!私は、はっきりとそう信じる!! イチローのような華やかな世界でなくたってどこの職場だって「非連続の連続」は平等にあり、素晴らしい人物 になれると私は信じてやまない。 2004年10月2日にも同じような文章を記してはいるが、元旦のイチローのことばに触発されたのかなにかをぜひ補完しなければと思い急遽(きゅうきょ)、認めたのだった。 (2010年1月7日)
閑話:新春恒例の「歌会始の儀」が14日、皇居宮殿で開かれた。 お題は「光」。 NHKの画面を見入った。おごそかかな雰囲気が漂い、言葉では表せないような高貴で優雅であった。 天皇陛下:「木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く 小道の真中草青みたり」 皇后陛下:「君とゆく道の果たての遠白く 夕暮れてなほ光あるらし」 宮内庁によると、天皇陛下は昨年の新緑の季節、吹上御苑内の小道を散策していた時に見た情景を詠まれたという。 皇后さまはご結婚50年を迎えられた昨年4月ごろ、暮れなずむ皇居の中を陛下と散策した時の印象を詠まれた。 皇太子さま、雅子さまの歌など皇族方の歌、召人、選者、入選者の歌が独特の節回しで披露された。 納めは天皇陛下のお歌であった。 私の印象深かった歌は・・・。 常陸宮妃華子さま:「大記録なししイチローのその知らせ希望の光を子らにあたえむ」 岡井隆さん(選者):「光あればかならず影の寄りそふを肯ひながら老いゆくわれは」 野上卓さん(入選者):「あをあをとしたたる光三輪山に満ちて世界は夏とよばれる」 この欄に記すのは恐れ多いが私の即興の歌を・・・。 「神か仏かしらねども 弱たるわれにかそけき光そそぎくる」(小説、生生流転を書きし時) お恥ずかしいかぎりなり・・・凡庸の徒の私は思った。万葉集に習うべしと・・・。 (2010年1月15日)
閑話:関西師友協会(会長井手正敬氏)の新春交礼会が22日、夕刻からホテルグランヴィア大阪で開かれ、出席した。 日ごろから、あまり熱心な会員でもないのだが、戦中・戦後を通じて陽明学に基づいた東洋思想家として勇名を馳せた安岡正篤師の教学をい学び、修する会であり、新年にあたり厳粛な雰囲気に浸れるのではないかしらんと思い、ただそれだけのことで出席したのだった。 「念頭 新たに一善事を発願すべし」 「念頭 新たに一佳書(かしょ)を読み始むべし」など年頭自警の朗読や乃木希典の「富嶽」の吟詠などがあり、新春の宴はしだいに盛り上がっていった。 会員同士の名刺交換もあちこちでみられ、2時間余の宴は華やぎながら盛況のうちに了った。 安岡師の偈を認めた色紙をいただいた。 六中観である。 「忙中・閑有り。 苦中・楽有り。 死中・活有り。 壺中・天有り。 意中・人有り。 腹中・書有り。」 意味するところは深くて広いがそれぞれの力量に応じて解し座右の銘にすべきだと思った。 「腹中・書有り。」に関して言えばあの鈴木大拙がいつでもどこでも「臨済録」を手放さなかったというが、そんなものなのだろうと想像したのだった。 まさに「新たに一佳書(かしょ)を読み始むべし」なのである。 新年にあたり、こころ新たにしたしだいである。 (2010年1月25日)
閑話:白隠・・・。 久し振りに想い出したのだ・・・。 日本経済新聞に1月中、30回にわたって元首相の細川護煕氏が「私の履歴書」を連載されたが、内容が濃く面白かったので全部切り抜き、ノートに貼り付けたのだった。 日本の家系図の中でも700年も続く指折りの古い家で護煕氏で26代目になる。読んでいて日本史の一角を窺うことができたような気がしたのも当然といえば当然のことだった。 護煕氏が影響を受けたひとりとてして鈴木大拙のお弟子の一人、古田紹欽さん(北海道大学教授)を挙げておられたが、紹欽さんには私も一度、鎌倉で家族とともにお会いしたことがあったり、氏の父、護貞さんが、この欄にもしばしば登場していただいた西田幾多郎を慕われておられたとのお話もあり、それはもう興味は尽きなかった。 さて白隠禅師(1685−1768年)のことである・・・。 護煕氏の祖父、護立さんが、白隠禅師をこよなく敬愛されたという。同禅師の「夜船閑話」(やせんかんな)を熟読、大いに啓発され、禅師が書いた書画の蒐集に力を注がれたという。 ここでは極めて思惟的ではあるが「夜船閑話」に的をしぼりたい。 というのもこの欄で2008年12月12日に「夜船閑話」と白隠禅師のことについて書いているからである。 ご興味のある方は参照していただきたいが、白隠禅師は「夜船閑話」の中で天台小止観の繋縁止に触れ、道元について語っているのである。(道元についてはこの欄の2009年10月4日、12月31日も参考にされたし) 次の通りである。 「古へ永平の開祖師、大宋に入りて如浄を天童に拝す。師一日密室に入りて益を請ふ。浄曰く、元子坐禅の時、心を左の掌におくべしと。是即ち師の繋縁止の大略なり。・・・(略)」 つまり、おおまかに訳すと・・・。 師、如浄は道元に「坐禅の時には心を左の掌の上に置くがよろしかろう」と語り、繋縁止の要諦を述べた・・・ということになろうか。 白隠禅師のことはこれくらいにして護煕氏の「私の履歴書」に戻ると29回目に氏がお書きになった次の言葉は誠に印象的であった。 「明日は御座なく候」 まさに武士道の要諦であり、仏道の本質でもあろうと感激したのである。 (2010年2月1日)
閑話:昨日午後2時ちょうどに約束通り、お客様は拙宅のイヤホ−ンを鳴らした・・・。 用向きはややプライベートにかかわるのでお客様の詳細には触れないが、一流企業の働き盛りのビジネスマンである。 現役世代の代表格のような存在を彷彿する人物で和室の部屋に通ってもらうや否や室内がエネルギーに溢れかえるような感じがするといえば判ってもらえるだろうか・・・。 そんな彼に私は手習い中の裏千家流のお点前を初めて披露、もてなしたのであった。 昨年12月19日のこの欄に書いたように念願であった「お茶」の稽古を始めて約50日が経った。この間8回(隔週土曜日=2時間)のお茶教室に連続出席し、後2回の稽古を残すのみになった。 「そろそろ、ご自分でお点前がおできになれる筈ですよ・・・」と先生がおっしゃったのは前々回くらいからだっただろうか・・・。 お茶を習おうという意欲は人一倍もちながら稽古に臨んでいるものの生来の不器用さに加え、なにかと忙しく家で袱紗捌きや茶筅通しなどの割稽古ができなかったので生徒のなかでもかなり出遅れていたのだった。 そんなものだから、昨日、彼を前にしたお点前は普通だと、冷や汗ものだろうが、一応無難にこなした。 恐らく彼は、これが私の最初のお点前とは気が付かなかった筈である。 上出来、上出来であった・・・。 彼のぶんと私のお茶を点ててお菓子も美味しくいただいた・・・。私の作法もまぁーそこそこだった。 彼との用向きの話も私のお点前がよかったのかいつになくスムーズで話は世界経済や政治の話までに及び、貴重なひと時を過ごしたのだった。 すっかり気をよくした私・・・。 「今度見えられるときもお茶をたててさしあげますからね!」 彼もまんざらでもなさそうな表情でおもわずにっこり。 やはり、お茶はよろしい・・・。「日本文化に裏打ちされた最高のおもてなし」だと思ったものだった。 (2010年2月10日)
・・・<おしらせ>・・・ 閑話休題 さて私は4月7日から大谷大学仏教学科の聴講生として「サンスクリット語入門」の科目を7月末(4−7の半期終了講座)まで学ぶ機会を得た。 こんな願ってもないような貴重なひと時が人生の半ばになってわが身に訪れるとは思ってもいなかったことである。 これまで新聞社勤務の傍ら、私なりに興味が湧くままに仏教に親しんできた。 しかし、このところ勉学上、ややマンネリ化したような時を過ごしていただけにサンスクリット語学習は、さらなる飛躍のための大きなステッピングストーンになることは間違いない。 いまから考えると、以下のようなことだが実に不思議なことではある・・・。 梵字の世界で高い評価を得ている徳山暉純さんの「梵字般若心経」(木耳社)や三井「円さんらの「やさしい梵字仏」(知道出版)のほか真言密教の大家である宮坂宥勝さんらが共同執筆しておられる「真言・梵字の基礎知識」(大法輪閣)などが私の書斎の奥から出てくるは・・・出てくるは・・・。 これは大谷大学から聴講生として合格通知が来て「サンスクリット語入門」の講義を受講しだしてから、(確かあんな本も、こんな本も買っていたはずだが・・・)と思い、書斎を探していた。 (ここですよ、ここ、ここですよ、あなたが私どもをお買いになって・・・そのままほったらかしにされていたのは・・・,ここの私どもですよ・・・まっことさみしいかぎりでした・・・)とまさに阿吽の呼吸であった。 本の方から私の方にみつけてくださいといわんばかりに飛び込んでくるようにすぐに見つかったのだ。 これは確かに私の思い入れではあろう・・・。 でも私はサンスクリット語を学ぶためにまさに機が次第に熟していたのだーーといわば確信に満ちたような感慨を覚えた。 そこで4月19日のサンスクリット語学習事始めの原稿を書いた後に思い至ったのであるが、私の人生でこんな貴重な機会を得たのだから、自身のサンスクリット語学習のさまを記録してくことにしました。 閑話の文章の間を活用してサンスクリット語学の学習で得たことなど四方山話を含めてさまざまなことを書いてまいります。 ご覧くだされば幸せです。 (4月末日)
(サンスクリット語学習事始め):「あらゆる面で多様性が指摘されるインドという国を時間的にも空間的にも統一するものがあるとすれば、このサンスクリット語という言語をおいてほかにないとすら断言できる」と畏友の一人である宮坂宥洪氏は著書「インド留学僧の記」(人文書院)で語っている。 インド古代における文法の三聖とうたわれた天才文法家、パーニニが紀元前500年ごろにサンスクリット語の文法体系を確立、揺るぎなき言語にして以来、2000年以上も形を変えずに今日まで連綿と続いている世界で最高の言語ではないか、と同氏は指摘する。 故ネール首相は次のように語っている。(宮坂氏の上記の著書より抜粋) 「インドの偉大な宝はサンスクリット語とそれによって書かれた全作品である。この遺産が存続し、我が国民の生活に影響を及ぼす限り、インドの基本的精神は保持されるであろう」 さらに18世紀後半に活躍した言語学者である英国人、ウィリアム・ジョーンズ氏もサンスクリット語についてその素晴らしさを以下のように述べている。(同上) 「サンスクリット語は、その古さがどんなものであれ、驚嘆すべき構造をもった言語である。ギリシャ語よりずっと完全であり、ラテン語より語彙が多く、このいずれの言語より、はるかに精巧に洗練されている」 と、まぁー、梵字の形の少々をうる覚えに知っている程度の私からすればもう感嘆するしかないのである。 では、このことを実感するためには自分でサンスクリット語を学ぶしかあるまいと思い立ったのは昨年暮れのことであった。 さて、どこの大学で学んだらよいだろうかと考えたが、私の近刊小説である「如来が弁護してござる」の登場人物、清沢満之や暁烏敏らが活躍したり、学んだりした京都の大谷大学が最もよかろうと判断した。 あくまでも合格すればの話ではあるが聴講生として4月初旬から週1日の授業を半年間受けることになる。 私の念願は近い将来、サンスクリット語で少なくともインドの宗教哲学書(ウパニシャド)はかならず読みたいと、いまから愉しみにしているのだが・・・それに加え文学作品を一冊読みたいと念願している。 さらには、サンスクリット語で阿弥陀如来の真言を唱えたり、般若心経を唱えることができるようになることである。 英語学習で少しは柔軟になったであろう頭脳をフルに生かしきって全力投球する覚悟である。 でもさぁー、愉しみながら、学ぶという遊び心も大切だ。 これは定年退職後、ゼロから勉強し直した英語学習で学びとった語学学習のコツであると確信している。 (2010年4月19日) (追加) ウイリアム・ジョーンズは1786年、カルカッタの学会でサンスクリット語が古典ギリシャ語やラテン語と共通の起源を持つ可能性があると指摘した。 演題は「インドについて」(ON THE HIDU’S)であった。 この研究成果は当時の西欧諸国に大きな関心を呼び起こした。とりわけ西欧の言語学会は衝撃を受けたといわれている。 上記文中に登場する氏が発見したというサンスクリット語と西欧語との関連(類似点)表を記する。 以下の通りである。
語彙が似ているだけではなく、文法面において格変化をともなう点でも似ており、しかも、サンスクリット語の方がより活用変化も複雑だった。例えば格変化は英語が3格、フランス語やドイツ語は4格、ギリシャ語が5格、ラテン語は7格だが、サンスクリット語はこれらを全て含む8格を有している。
閑話:昨年10月24日(隔週土曜日=2時間)から始まった裏千家流の「お茶」の稽古は先月27日の最終10回で無事終了した。 約20人が自分で作法に従ってお茶を点てるお点前ができるようになった。これはいつにK先生というベテランの女性講師(師匠)のお力が大きい。 さらにまた40年前の若かりし時に本格的に茶道に邁進したという私よりか1つ年上のM氏が茶席の雰囲気を盛り上げたのも幸いした。 よく訊けばかなりの方々が何らかの形でお茶の嗜(たしなみ)があったそうである。全くの未経験者は私を含め3、4人ではなかろうかと思った。 私はというと大学一年の時、大徳寺のある有名な塔頭に3カ月ほど下宿していた際、この塔頭でお茶の稽古が定期的に行われていたのだ。 それで1、2回参加した記憶があるが、私にとれば「む!こんなめんどくさいことはやっておれない!」と思いすぐ匙をなげたのであった。 それに自前の袱紗もなければ扇子だってない。着物を艶やかに着こなし茶道に励む女性やネクタイにスーツ姿で紳士然としてお茶席に端座するサラリーマンらしき男性を目の当たりにして「あほくさ!これは場違いだぜ!」と若者らしい反発心も働いた・・・。 とまれ、よしきにつけあしきにつけお茶席の雰囲気は強烈に脳裏に焼きついていたのだ。 ところがこの欄で先日も書いたように30代後半から40代の半ばにかけて禅をはじめさまざまな分野の仏教・哲学書を読みふけったときがあり、そのなかで西田幾多郎の一番弟子といっていい久松真一の「茶道の哲学」(講談社学術文庫)を手にした。 この時、決然として「おうー、これはいつかは必ずお茶を学ばなければならない・・・」と固く決意といっていいほどこころしたのだ。 それが今回の「お茶」の稽古全10回を皆勤で通すことができた大きな原動力になったと思っている。 一連の稽古の場面で最も感動的で印象に残ったのは、お茶席の雰囲気を盛り上げるお飾りの「柳の演出」だった。 床柱に高く設えられた花入れからあふれ出した薄緑の柳の枝を空間で束ね、円く輪に結び、残りの枝がたおやかに垂れ下がるのだ・・・。 私はこの趣向の見事さに思わず、こころのなかで(あっ、素晴らしい!)と叫び息を呑んでいた。 お茶席ではこれを「結び柳」と呼び、春到来を喜び、めくりめく季節の循環に畏敬するのだ。 実に充実した本番さながらのお茶席の研修会であった。 <花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや>(利休が好みし歌) (2010年3月1日)
閑話:作家、新井満さんの自由訳「般若心経」を地元の書店でなにげなく手にとり、般若心経の本は書棚を探せば4、5冊あるはずだが・・・と思いつつ多少躊躇(ためら)いを覚えながらも購入したのだった。 難しい仏教用語で記するでなく新井さんの卓越した感性でやさしく書き込まれた優れた般若心経解釈であった。 特にあとがきが良かった・・・。 新井さんのお母さんは産婆さんであったということは初めて知った。そのお母さんが生前よく新井さんに語ったそうだ・・・次のような一文には感動を覚えずにはおれなかった。 以下に記す。 「どんな赤ちゃんにも、役割があってさ・・・」 母は、入浴させたばかりの新生児を抱き上げながら、なおもつづけて、 「天才には天才なりの、凡人には凡人なりの、障害がある人には障害のある人なりの、役割がきっとあってさ。きっとあったからこそ、この世にオギャー!といって生まれてきたんだわさ、この赤ちゃん、どんな子に育つかねえ・・・」 呟くようにそう言うと、母はいかにも嬉しそうに微笑するのだった。 以上の個所であるが新井さんの「般若心経」の神髄はここにあるのではないかとも思ったものだ。 これは以前この欄で書いた文の一部を取り出し、再編集したものである。 私は新井さんに私が以前尊敬してやまなかった詩人、寺山修司と思索的観点は異なるもののある部分、似通った文学的感性を感じ取るのだが・・・。 再び新井さんに登場してもらったのはつい最近、新井さんが新聞広告記事で次のように淡々と語っていられるのに感銘を受けたからである。 以下にその一部を要約して紹介する。 「バスに乗り遅れるなということばがありますが、わたしはむしろバスに乗り遅れろです。もし時代というバスが東を向かうならば私は西に向かいます。競争相手がいませんから気楽なもんです・・・」 (2010年3月7日)
閑話:親鸞の教えに「平生業成」(へいぜいごうじょう)というのがある。南無ーー。南無ーー。身も心も阿弥陀仏にゆだねますと唱えつつ、与えられた生業(なりわい)に精進すると、そのままこの世でた直ちに救われるーー。(拙著、「如来が弁護してござる」の15頁より抜粋) つまり、このようにすれば、この身このままで来世を待つまでもなくこの世で救われ、幸せになるといういわば「生の哲学」とも言える。 「生の哲学」といえばあのドイツの詩的、芸術的哲学者、ニーチェ(1844−1900年)を思い起こすだろう。 ニーチェも来世より、この世での幸福のありかたを追求した人物であった。彼を日本に最初に紹介したのは「古寺巡礼」などで知られる倫理学者の和辻哲郎(1889−1960年)だといわれている。 それはともかくとしてニーチェの言葉を紹介しよう。 「どんな人にも一芸がある。一芸はその人だけのものである。自分の本領はなにであろうかと模索し続ける人もいる。くじけず、たくましく挑戦を続けていれば一芸がわかってくる」(人間的な、あまりに人間な より要約抜粋) 私なりに解釈した一芸とはもって生まれた個性であり、才能のことである。絵画の才能、運動の才能、勉学の才能、百姓仕事の才能等等みーんな平等なのである・・・。 3月7日のこの欄で紹介した新井満さんのお母さんがおっしゃるがごとく「それぞれ役割があってさっ!」ということになる。 この欄で尊敬の眼(まなこ)で褒めちぎっているあのイチローだってさぁー!その役割を果たしきっている達人であるともいえるだろう。 今日の文章の締めくくりとして明治時代に活躍した浄土真宗の天才、学僧、清沢満之のお孫さんである哲夫師の詩、「道」を紹介する。 「此の道を行けば どうなるのかと危ぶむなかれ 危ぶめば道なし ふみ出せば その一歩が 道となる その一足が 道である わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ」(私のウェブサイトの著書紹介のコーナーの「如来が弁護してござる」でも「道」を表記していますので参照してください) (2010年3月20日)
閑話:「昭和35年(1960年)から日記を付け始め記録する習慣になり、やがて郷土史に興味を持つきっかけとなり、地味ながら追々研鑽を積み重ね、今年で50年という節目の年を迎えた」 新著書の書き出しでしみじみとこう語るのは交野市在住の郷土史家、和久田薫さん(84 )である。 新著作の題(タイトル)は『和久田のあゆみ』。宗家の和田氏(堺市)から交野の地に移住して以来、連綿と続く和久田(東和久田、西和久田家=1572年、両家の弥栄を祈念して「久」を入れ、分家、薫さんは西和久田の11代である) 和久田さんの全面的なご協力で世に出した「交野探訪」の巻末にある年表を見ても分かるように和田姓から和久田姓になったのは、あの天才、織田信長が明智光秀に屠られた本能寺の変(1582年)のちょうど10年前のことである。 『和久田のあゆみ』は文字通り、家族(家系)史ではあるが、薫さんの郷土史家として「ふるさと交野を歩く(ひろい話3)=奥野平次さんとの共著=、「星田風土記」(札埜耕三さんとの共著)など数多くの著作のご体験の香りがそこはかとなく漂っており、家系史の枠を超えて歴史書の味わいがある。 それに和久田さんの誠実なお人柄が随所に滲み出ているところも素晴らしいし、文章も簡潔で読みやすい。 さらに和久田家が何代にもわたって培かってこられた深い仏教精神(浄土真宗=西本願寺)がこの本に凝縮されているようで読了してこころが自ずと洗われたような気がした。 だから本全体が明るくて澄明感で溢れ、からっとしているところがこの作品の真骨頂だと私は思った。 西和久田家の4代、重右衛門さん(別称、小四郎、雅号は浄喜)がご子孫に伝えた遺語がそのことを如実に物語っている。 その遺語を以下に記す。 「上みても 及むことの おおかりき 笠きてくらせ おのが心に」 六十五歳 辞世 「志ばらくと 思いの外の 長逗留 今立帰る 弥陀の御国に」 最後に和久田家の弥栄をお祈りしつつ、ご本人、薫さんのお歌を紹介しよう。 「有難や うれしや今日も 生かされて」 (2010年3月26日)
閑話:「相手を傷つけないで、自の欲望だけを満たしていく手段、方法として、人間が最後に発見したものが芸術である」の=(磯田道史この人、その言葉より、朝日新聞掲載) 確かにこう言われてみれば「なるほどなぁー」と思わず納得したのであった。あの天才陶芸家といわれた加藤唐九郎(1897−1985年)のまさに至言である。 加藤だから言い切れたのだ思うが、ちょっと頭をめぐらせれば絵画にしろ、音楽(クラシックなどだろうか)にしろ、この加藤の言葉で説明できそうだ。 でも、と私は一瞬、思ったのである。いまのような厳しい経済環境のなかで生活の糧を得るために悪戦苦闘している庶民は・・・そして一般のビジネスマンはどうすりゃあーいいんじゃろうと・・・・。 ほとんどの方々が加藤のような世界に浸り、悦楽、喜悦の世界で遊弋しながら生きていくことはまず不可能ではなかろうかと・・・。 才能の問題であると言い切られるとそれまでであるが、「なるほどそうだ!」と頷いてはみたものの、加藤のように並はずれた芸術の才に恵まれたもののみが享受できる特権的な営みであると非才な私などは諦めざるを得ないと思った。 でもである・・・。 世の中はよくしたもので我々にも美術館や展示会で加藤の優れた志野や織部、黄瀬戸の作品を鑑賞し、氏の作品の醸し出す芸術世界に触れることだけは可能である。 このような羨ましくも素晴らしい言葉を吐いた御仁の織部焼はこれなんだと思いつつ作品を鑑賞すれば興味津々ではないか・・・。 そうである・・・暇を見つけて加藤作品や本物の古田織部の作品を愛でに機会を見つけて展示会などに出掛けようではないか・・・。 私ごとだが先般、この欄で裏千家流のお茶席の講習会に皆勤出席し、お点前の作法を習得したと半ば自慢げに書いた経緯がある。 久松真一の著書「茶の哲学」の影響も確かにあるのだが、正直にいうと、昨秋、逸翁美術館(池田市)が開いた「茶の湯文化と小林一三(逸翁のこと」と題した展示会を見に行った。 そして私なりに強烈に感じとった逸翁の「茶道観」に触発されて得た一種のエネルギーのようなものがなにかにつけて怠惰な私のこころを突き動かせたと思っている。 もともと芸術的才能に恵まれた逸翁はご案内のように乙女の憧れの的であり続けている感のある宝塚歌劇団を創設したことでも知られる。 戦後の「大茶人」ともいうべき存在の一人である逸翁(小林一三)は、なんと日本文化の粋を凝縮させたといってもいいお茶席の茶器にドイツの窯を採用したという事実を初めて知った。 私はまさにいてもたってもおれなくなって逸翁の展示会に足を運んだ。 私は実物は拝見したものの、そして展示会場で展示物の名鑑も買い求めて手元に置いてはいるものの、勉強・理解不足で未だに私は「謎(なぞ)」ともいえる逸翁のこの事実に対する解明にははるかに及ばないところにとどまったままだ。 でも凡庸の徒の私にはこれでいいんだと言い聞かせている次第・・・。 いいじゃない・・・と自分を慰めるのだ・・・。 大学時代に匙を投げたお点前を一応、自分で作法に則り、実際にお茶を点てることができるようになったんだからと・・・。 加藤唐九郎や逸翁の世界を覗くのはこれから先の愉しみに残しておくことにする。今の私は芸術作品の鑑賞者としてそれ自体を堪能することにしたのである。 (2010年4月3日)
(サンスクリット語学習記ー1):私は7日に大谷大学(京都)の聴講生になった。書類選考で合格通知をもらいこの日、入学手続きを済ませた後、4時限目(14時40分ー16時10分)の聴講科目である「サンスクリット語入門」の授業に聞き耳を立てた。 先生は山本和彦准教授、40代の新進気鋭の学者である。山本准教授は大谷大学で仏教学を修された後、同大学の大学院に進学、研鑽を積み、インドのプーナ大学(サンスクリット高等研究所)でサンスクリット語をさらに修してインド思想における「解脱論」の研究に没頭された。 サンスクリット語の母音、子音をさらさらと黒板に列挙されていった。私は母音の数文字を知っているだけでこころのうちで(おっ凄い!)感嘆しながら、主要な母音、子音をノートに書き写していった。 時折、この日、いただいた教科書である「サンスクリット語文法」(宮下晴輝)を開きながら、学習の仕方などを説明された。 山本先生の初回の授業に聞き入っていたらあっという間に90分の授業は終わった。 私は家路に就きながら、いまから40年余も前の母校の大学の授業でもこんなにも真面目な気持ちで授業を受けたことはなかったなぁー・・・とやや苦笑しながらそんなことを思い出していたのであった。 授業は半期完結の科目(4−7月末)の5カ月の授業。デーブァナーガー文字を覚えたうえで簡単な文章をサンスクリット語で書きかつサンスクリット語で書かれた比較的やさしい文章を読めるようになるのがこの授業の目標とお聞きした。 でもこれを基にして後、数年独習すれば先般この欄で書いた「ウパニシャドと一冊の文学書」をサンスクリット語でそれぞれ読みこなそうという夢も努力次第ではけっして不可能ではないと思った。 帰宅途次、電車の中などで大谷大学との不思議なご縁に想いを巡らせた。というよりも自然とこころのなかに浮かんできたのであった。 私の近刊の小説「如来が弁護してござる」の主人公、暁烏敏師は、その昔、この大学の極めて優秀な学徒であった。 敏師の師匠である天才宗教家、清沢満之師は蓮如によって封印されていた歎異抄を明治初期、世に明らかにしたことでも知られるが初代の大谷大学学長である。 私の家は父方が真言密教、母方が天台宗であるが、30代後半のころの私に宗教的思惟の扉を最初に開いてくれたのは清沢満之師であった。 「如来」の何たるかを教えてもらい、それがやがて天台宗にも真言宗にも関心が広がっていったのも満之師に書物でお会いしてからのことであった。 そんなご縁のある大学で60代半ばになってよもやサンスクリット語を学ぶことになろうとは、30代、40代、50代いや新聞社を定年退職してからもついこの間まで想像もできなかったことであった。 仏縁の不思議さに改めて思いを致す昨今の私である・・・。 (2010年4月11日)
(追加) さすが宗門の名門大学である。正面玄関をふと見ると「スッタニパータ」(ブッダのことば)の一文が掲載されていた。 以下の通りである。 「ひとは信仰によって激流を渡る」 このことばの意味を詳しく知りたい方は守衛室にお問い合わせくださいーとあった。私もどんな説明が加えられているのだろうと興味を覚え、一枚の説明文をいただいた。 「苦しいとき、悲しいとき、寂しいとき、腹が立つとき、迷うとき、(略)そういうときは素直にブッダの言葉に耳を傾けてみましょう」 説明文の中にあった言葉です。 ・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・◇・・・・・ (サンスクリット学習記ー2) さて14日は第2回の授業であった。この日の昼下がり私は大谷大学の正門前に立ち、書籍類などを詰め込んだやや重たい鞄を下に置き(おう・・・、ちょうど授業に間に合う時間にこれてよかったなぁ・・・)などと思い、安堵した気分でなにげなく東の空を見上げた。 「おや!や、や・・・おう!・・・あれは確か・・・かの御山では・・・」 山の頂がぐっと天空に迫り、左右になだらかに下降する稜線を描き、美しい姿を現わしているのは・・・まさに比叡山ではないか・・・と。 あの最澄が仏教総合大学ともいえる天台宗を比叡山の頂に開いた。平安京を守護し国家安寧を図らんと延暦寺を創建した霊峰なのだ・・・。 その御山が学びの社の大谷大学の正門からかくも美しく眺望できるとは・・・。 私は言い知れぬ感動を覚え、あれが霊峰、比叡山であることをしかと確かめるため、すぐそばにある守衛室まで小躍りして行き、訊ねた・・・。 「あの御山は比叡山ですね!」 「ええ、ええ、そうですとも・・・」 おもわず感動の渦がこころのなかに広がりゆき、しばし授業を受けにきた聴講生であることも忘れ、私は数分間、霊峰を眺めていた・・・。 13世紀の鎌倉時代、浄土宗を開いた法然は天台宗に学び、親鸞もあの御山で学問を修し法然の弟子になった後、独自の道を歩み、浄土真宗を開いた。 曹洞宗の道元も天台宗を学び、日蓮宗の日蓮もそうである。 「9世紀の初めのころである・・・。最澄と空海・・・ともに入唐し、それぞれの師について仏道を学なんだ。桓武天皇に寵愛され、桓武天皇を支えたのが最澄・・・美しいあの比叡の御山が日本に仏教文化を見事に花開かせたのだ・・・。高野山に金剛峯寺を建立、真言密教を広めた空海とともに・・・」 私は霊峰を眺めながらこころのなかでしばし思い描いた・・・。 「感動の一瞬」であった。 そんな爽やかな気持ちに浸った私は山本先生の「サンスクリット語入門」の授業にすぐに入り込め、集中できかつ授業も実に楽しかった。 中学生のころより嫌いで嫌いでたまらなかったテスト・・・この日の授業の最後にあったサンスクリット語の作文テスト2題も納得して臨み、結果はともかくこころのうちで(にっこりして)山本先生に提出した。 大学の門を出てもう一度、霊峰を仰いで家路に就いた・・・。 (2010年4月15日) (追加)浄土門の簡単な年譜を記する。 1175年(承安5年) 法然によって浄土宗が開かれる。法然(1132−1212年)。 1198年(建久9年) 法然、浄土宗の根本宗典となる「選択本願念仏集」を選す。
1224年(元仁元年) 親鸞、「顕浄土真実教行証文類」(教行信証)を選述した。これに伴い、 浄土真宗が開宗なる。親鸞(1173−1262年)。 1457年(長禄元年) 真宗中興の祖、蓮如が第8代を継承。 1901年(明治34年) (浄土真宗大谷派) 清沢満之が大谷大学(当時、真宗大学)の初代学長に 就任。 2010年(平成22年) (浄土真宗大谷派) 草野顕之、大谷大学27代学長に就任。
閑話:「私を おばあちゃん と 呼ばないで 「今日は何曜日?」「9プラス9は幾つ?」 そんなバカな質問もしないでほしい 『柴田さん 西条八一の詩は好きですか? 小泉内閣をどう思いますか?』 こんな質問ならうれしいわ」 「出来ないからって いじけちゃダメ 私だって 96年間 出来なかった事は 山ほどある 父母への孝行 子供の教育 数々の習いごと でも 努力はしたのよ 精いっぱい ねぇ それが 大事じゃないかしら さあ 立ちあがって 何かをつかむのよ 悔いを 残さないために」 以上二つの詩は栃木県宇都宮市内で一人暮らしをする柴田トヨさん、98歳によって紡ぎだされた。 産経新聞の朝刊一面に毎日掲載される「朝の詩」に柴田さんが投稿した詩のうちの2題である。読者から感動の声が続々寄せられた。 これら柴田さんの40余の詩が一冊の本としてこのほど刊行された(くじけないで=飛鳥新社)。 私のようなまだまだ高齢者などと呼ばれるのに一瞬、反発を覚える世代でも柴田さんの詩には共感と感動を覚える。 私も柴田さんのお年まで生かされるなら、かくありたいと本を手にしながら何度も頷いた。ええ、私は おじいちゃんになるんだけれど・・・。 私も将来、若い世代から愚問を発せられたら、柴田さんのように詠うだろう。 「木下さん、斎藤茂吉の詩は好きですか? XX内閣をどう思いますか?」 こんな質問ならうれしいぜ」 さらにこう詠いたい。 「漢字ドリルなんぞは糞くらえ わたしゃ 論語を諳んじて 今でもすらすら書けるがな 英語もこれこれ これこれ このとおり TEOICでも高得点じゃよ どんなものだい さぁー、おまえさんには できるかな?」 「でもさぁー このように偉そうなこと いえるのも 如来さまの おがげじゃけんなー」 「この一言だけは、つけ加えることを忘れたらあかん ゆうめゆめ 忘却すること勿れ!」 と戒めている今日 このごろだ。 (2010年4月19日)
(サンスクリット語学習記ー3):今日は山本和彦先生による第3回の「サンスクリット語入門」の講義である。 今日はどんな授業になるのだろうかとわくわくしながら、さて出掛ける前にいかに予習をしたらいいのだろうと今、頭(こうべ)をめぐらせながらキーを叩いている。 前回が動詞:現在形・能動態(Present,Active)であったから、今回は名詞・形容詞の格変化(Delentions of naouns and adjectives)であろうと考えて「サンスクリット語文法」を開き該当する4−7頁を読み進んでいる。 deva(m.神)の格変化、phala(n.果実)の格変化の表などの母音ーaで終わる名詞語幹の格変化、格の用法、対格、具格、与格、奪格、属格、処格、呼格などの説明にもあらまし目を通したのだった。後は授業でより理解が深まればよしとする・・・。 さぁー今日も楽しい授業になるに違いない。3号棟の三階にある比較的大きな教室の前の席から4、5列目の窓際に近いところが私の定番の席になった。 疲れた時などこころなしか頭(こうべ)を横にそらすだけで窓外の美しい景色を堪能できるのだ・・・。 校庭内の樹木が染める新緑が優しく映える。さらに空の青のひろがりも仰ぐことができ、一瞬、心安らぐのだ。 長上場の授業を疲れることなく集中し、心地よくかつ楽しく受けることができるという私のささやかな工夫なのである。 まぁー、いってみれば、60代半ばの生徒だけに許されるちょっとした特権かもしれない。たまに見かけるが寝不足なのだろうか、若者が机にうつ伏せになるよりか、幾分はましであろう。 「サンスクリット語入門」を受講する生徒は60人ほどである。 聴講生はみたところ私だけでほとんどが1回生か2回生であろうか(後で調べて分かったことだがこの科目は2−4年生向けの授業であった)・・・。 ところでインドの大学ではサンスクリット語は一部の専門課程の学生を除くのだろうが、一般的には教養科目と考えられているという話で比較的女学生が多いと聞いた。 日本でいえばさしずめ漢文・古文の科目に当たるのだろう。 だが、宮坂氏の著作「インド留学僧の記」などによると、(もっとも宮坂氏のこの本が刊行されたのは25年ほど前であるが・・・)インドでは、サンスクリット語を履修する学生がしだいに減ってきているという。 宮坂氏は同著のなかで2000年以上も連綿とその文法などの形態を変えることなく多様なインド社会の精神的支柱となってきた世界最古の言語が今後、次第に廃れゆくかもしれないと警鐘を鳴らしておられる。 果たして4半世紀たった今はどうなっているのだろうか・・・。 宮坂氏が若かりし時、留学した名門、プーナ大学のサンスクリット高等研究所で山本先生はインド思想に加え、サンスクリット語を研鑽されたが、先生にいつかこのあたりのことをお訊ねしたいと思っている。 しかし、どんなことが起ころうとも将来、サンスクリット語が「学術用語」としての権威を失うことはおそらくないであろうと私は思うのであるが・・・。 先般、私が育った岡山の田舎に帰郷、数年ぶりになるだろうか家内を伴ってお墓参りをしてきた・・・。 先に述べたが父方が真言密教、母方が天台宗である。 すぐ目に飛び込んできたのは、どちらのお墓にも石柱の上部には「阿字観」の「阿」(あらゆる真言、サンスクリット語の元(母語)となる声字)が彫りこまれている。 さらにまたよく普段から使われている旦那、奈落、刹那、瓦、卒塔婆など文字から推測できるのだが、これらの単語もサンスクリット語に由来している。 日本の仏教文化にもサンスクリット語はしっかりと息づいているのである・・・。 うむ、今日も授業に張り切ってのぞまなくちゃーー。 ・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・午後2時40分から始まった今日の授業を通してこれからは、より真剣な姿勢でこの授業にのぞまなければ、なんら成果を得ることなしに終わってしまうだろうとの認識を深めたことが大きいい。 90分の授業の70%ほどは山本先生が黒板にさらさらと書き進められていくサンスクリット語の文章などを書き写していく作業が中心となる。 定位置の席についたものの、「おや、これはいかん!」と思い、鞄などはそのままにしてさっと身を翻し、ノートとボールペンだけを持ち、最前列近くの机にすばやく移った。 黒板の端の方のから山本先生が書き始められたサンスクリット語などの文字がはっきりと見えにくかったからであった。 つまり、いわずもがな、加齢による視力の問題があったからである。(やる気満々の私だからこそとれた行動だった・・・)と内心、思わず自分を褒めてやりたいような気分になった。 (「む、やるじゃない、このわたくしも・・・」、まぁー、40数年ほど前の大学生のころだったら、かくも前向きな行動がとれただろうかーと) 山本先生は時折、説明を加えられる。その時は耳をそばだてて聞く。でもノートにサンスクリット語などの文章を写す手を休めるわけにはいかない。 そして同時に先生のおっしゃることを理解していく必要があるのだ。従ってかなり高度で総合的な能力が要求される。初めてサンスクリット語を学ぶ私のようなものにはややハイレベルな授業である。 すこしでも授業を積極的に取り組もうという私の行動は確かにいいことだ。だが、現実問題として山本先生の授業を完全に理解しているーーといえば嘘になる。 私の場合、せいぜいよくて7割方をどうにか理解しているというのが正直なところだ。 ではどう対応していけばよいのだろうか・・・。 まず怠ることなく「予習」「復習」の反復を継続していき山本先生のおっしゃることを最大限理解し、サンスクリット語の実力を着実に高めていくことしかないだろう。 そうすることによってこそ「サンスクリット語入門」をはじめて卒業できるものだと思うのである。 この講座で得た実力をもってすれば後は自習によってもよし、または山本先生らの上級クラスを対象にした講座を受けるなどによってさらに実力を磨くことができるのだろう。 今日の授業を受けながら、こんなことにふと想いを巡らせた。 (2010年4月21日)
(追加)サンスクリット文学では第一の劇作家、詩人であるカーリダーサを挙げなければなるまい。4世紀末から5世紀前半にかけて活躍した。 彼の作品のなかでは戯曲「シャクンターラ」がことのほか有名である。シャクンターラ姫が繰り広げるドゥフシャンター王との恋愛劇(7幕)でゲーテも愛読したといわれる。 サンスクリット文学を語るとき欠くことのできない主要人物の一人である。 カーリダーサより、少し早い4世紀後半に活躍したシュードラカの作品では10幕の恋愛もの「土の小車」が知られている。
(サンスクリット語学習記ー4) 今日は、山本先生による第4回「サンスクリット語入門」の講義の日だ・・・。 前回、先生は教科書「サンスクリット語文法」の7頁に載っている1−6の文章をサンスクリット語に翻訳するところから今日の授業を始めるとおっしゃった。 で、そこを今、開いてみた。なんとかこの教科書を読みながら、事例などを参考にすれば訳すことができるかもしれない・・・。 でも今朝は10時ごろにはお付き合いのあるくだんの優秀なるビジネスマン(私が初めて裏千家流のお点前でお茶を披露した御仁)が拙宅にいらっしゃるのだ。 サンスクリット語の予習をしているゆとりがない・・・そこで自宅から大谷大学までの所要時間である約1時間30分を有効利用する以外にない・・・と即断。 そう、もし席が確保できるなら・・・京阪電車(特急か準特急)の中が最もよい・・・。枚方から京都ー出町柳間の所要時間である約35分を活用して1−6題の訳を試みたいと思っている・・・できるかなぁー・・・。 ま、できんでもよろしい・・・、山本先生のご指導を仰げばいいのだから・・・と納得した・・・。 さて今日はご披露したいことがある・・・。 私はこれまで夕刻など一日の終わりに時折、ごく普通に漢訳の般若心経を唱えていたのだが、3日前からサンスクリット語で唱えることにしたのだ・・・。 これが実に言葉では表現できないくらい素晴らしいことであることに初めて気付かされたのであった。 サンスクリット語で般若心経を唱えると、まず経の文節全体の旋律がリズミカルになるということにである・・・。 漢訳的な・・・そうです・・・よくいえば厳密無比で重厚なこれまでの般若心経の響き・・・。 それとは趣を異にした・・・そう・・・まるで詩を詠っているかのごとくほどよい軽みとともに丸みを帯びた音色に変容し、宗教的な雰囲気が次第に醸し出されてくるとでもいえようか・・・。 私の耳朶(じだ)にいまだに記憶として残っている・・・もう10数年も前になるだろう・・・テレビでインドの方がサンスクリット語で般若心経を唱えていたのを見かつ聞いたことである。 ガ ティ ガ ティ パー ラ ガ ティ パー ラ サム ガ ティ ボゥ ディ スバァー ハー=證道よ、證道よ、彼岸への證道よ、彼岸への完全な證道よ、悟りの知恵よ、霊験あれ。) ガ ティ ガ ティ パー ラ ガ ティ パー ラ サム ガ ティ ボゥ ディ スバァー ハー(サンスクリット語による般若心経の一節) ぎゃーてぇー、 ぎゃーてぇー、はら ぎゃーてぇー、はらぎゃーてぇー、ぼじーそわかー(漢字訳読みの経の一節) ここだけでも唱えてみてもお分かりいただけるだろうが、全部をサンスクリット語で唱えると、詩的でリズミカルな音域がつくりだされてゆき自ずとこころに沁みわたってくる・・・。 この旋律で詩的な般若心経の調べがまさか自分の口から出てこようとは・・・、まさか・・・うん・・・うむ・・・と感激とともに驚いたのである。 こんな感動を呼び起こししてくれたのが「梵字般若心経」(徳山暉純著)である。 この本は確か14、5年前に購入していたものをついこの間、思い出したように私の書斎の奥の方から探しだしたのだった。(正確には探しだしたというよりか、直ぐに見つかったのだが・・・) これだと比較的大きな字体でデーバァナーガリー文字(梵字)が書かれており、梵字そのものの学習もできるという大きなメリットもあるからうれしいこと限りなしなのである。 サンスクリット語の学習にも一層、弾みがつきそうだ。 さぁー、そろそろ大谷大学に出掛ける準備をしなくちゃー。 (2010年4月28日) (追加ー1) ガ ティ ガ ティ パー ラ ガ ティ パー ラ サム ガ ティ ボゥ ディ スバァー ハ=これは漢訳でも分かることだが、漢訳できないサンスクリット語のマントラ(mantra)である。つまり、真言であり、「秘密のことば」(咒文)ということになる。 日本では真言と訳して比較的短いマントラのことをいう。比較的長いものを陀羅尼と区別する場合がある。 空海(774−835年)が梵字の研究に果たした功績は大きく著書「梵字悉曇字母并釈義」はことに有名である。 これは日本人の手によって初めて著された梵字文献といわれている。 また空海は主著「般若心経秘鍵」で次のように述べている。 真言は不思議なり 観誦すれば 無明を除く 1字に千理を含み 即身に法如を証す 行行として円寂に至り、去去(ここ)として原初に入る。三界は客舎の如し、一心は是れ本居なり。 ここでいう無明とは(梵字avidya)真理に暗いこと。一切の迷妄・煩悩の根源のことである。 (追加ー2) 本日の授業は大変興味深いものが多かった。なかでもインドにおけるカースト制のゆるぎなき現実を教えてもらったのが意義深かった・・・。 1 ブラーフマナ=brahmana(いわゆるバラモンのことで聖職者) 2 クシャトリヤ=ksatriya(王族、戦士) 3 ブァイシア=vaisya(平民、商工業者) 4 シュードラ=sudra(奴隷) 以上がカーストに属する階級である。
不可触民=asprsyo(アンタッチャブル)
「私の先生にあたる方が階級を超えた結婚をなさったのですが、(残念でおありだったでしょうが・・・)ついには破局を迎えられました。そもそもインドでは恋愛結婚は無理なんですね。 そうです。お見合い結婚でないとだめなんですね。つまり、ブラーフマナはブラーフマナ同士でクシャクトリヤはクシャクトリヤ同士の婚姻となるのが現実なんですね」(山本先生) さらに山本先生はおっしゃった。 「現実にサンスクリット語を使い、話せるのはブラーフマナとクシャトリヤの2階級に属する人々だけなんですね。なんとなれば本来、サンスクリット語は家庭で学び継がれているものですからね」 これも先にこの欄で「インドの大学におけるサンスクリット語の履修学生が減少している」と書いたのだが、大学で学ぶサンスクリット語と家庭で学ぶサンスクリット語は内容は果たして同じなのか、または双方はサンスクリット語学習の上で相互に補完しているのだろうか・・・。 さらに勉強しなければと再認識したのだった。 これも今日の授業で山本先生から教わったことではあるが、カースト制の厳しい掟を示すのがある。 もし、階級同士でない結婚の下でいわば、「階級的混血児」として生まれた者は1−4のカーストの階級的社会の枠外に放逐されるのだという。 つまり、不可触民への転落を余儀なくされるというのである。 「今、インドの総人口をおよそ10億人と概算するとそのうちの20%に当たる2億人が不可触民ですからね」(山本先生) さてこの約2億人の民人は、一体、どんな生活を送っているのだろうか・・・インドにおける現実をもっと学習しなければならないと思ったものだった。 だだ気になったので私なりに調べてみると、ある情報では、最近、インドの国際化とともに都市部のディリーなどでは恋愛結婚する若者もみられるようになったという話である。 しかし離婚率も上昇しているという現実はやはり山本先生がいわれるようにゆるぎなきまでも浸透しているカースト制の精神風土はやはり、この神秘の国、インドでは恋愛結婚が諸手を挙げて歓迎されるような国になるのは程遠いのだろうか・・・。 こうした現実を認識しながらサンスクリット語を学習してこそ意味があると考えるのだ。 つまり、人間という存在が生存していくには現世においては差別は必要悪なのであろうか・・・。 このことはまさに宗教とのかかわりあいのなかで問われるべき永遠の命題である。
閑話:大リーグ10年目を迎えた今季もイチローに寄せる期待はことのほか大きい。 開幕1カ月が過ぎた・・・。いつもスロウースターターのイチローだか今季は4月から快調のすべりだしをみせている。 4月のイチローの成績がそのことを如実に物語っている。 ホームランこそ出ていないが、もう主要部門で上位に顔を出しているではないか。 アメリカン・リーグでの成績と順位は4月30日現在で以下の通りである。 打率=330(10位) 、安打=30(1位) ,得点=14(14位)、盗塁=6(7位)などである。 今日から始まる5月は元来、イチローが快音を響かせ、ヒットを量産しだす月なのだ。 イチローのプレーから今年も目が離せない・・・。 さて今回は簡略的ではあるがイチローが「100年に一人の偉大なるバッター」であることを証明しておこう。 イチローがメジャー通算2000本安打を日本人選手として初めて記録したのは昨シーズン、9月6日のアスレチック戦だった。 この記録は凄い。1402試合目での達成で大リーグで歴代2番目の早さであった。しかも10年を費やさずして2000安打を記録したのは100年を超える大リーグの歴史でイチローが初めてなのだから・・・。 それに2004年に達成した262安打は歴代1位でおそらくこの記録を打ち破る選手は当分出てこないだろう。 もし、新記録を打ち立てる選手がいるとしたらイチロー自身ではなかろうか・・・。 今年はもしかしたらその新記録・・・という予感さえ覚えるのであるが、私個人としてはここ2、3年惜しいところで首位打者を取り損ねているので3度目の首位打者をぜひ射止めてほしいと思っている。 むろん、連続200安打の記録が大切なことはいうまでもない。1シーズン200安打を10回記録(イチローのように連続ではない)しているのが確かピート・ローズのはずである。イチローは今季、この記録に間違いなく並ぶだろう。 当然のことながら10年連続200安打となるとこれは大リーグ史上不滅の記録として燦然として残る。 イチローのことだから来季も200安打を記録し、11回、11年連続200安打の想像を絶する記録に挑み、達成するだろう。 稀にみるバッティイングセンスは天性のものだろう。が、それを維持し続けることができるのはだれにも負けない日頃の厳しいまでの練習にある。 この練習に次ぐ練習を欠かさないという一点においては、あらゆる職域を超えてイチローから学ばねばなければならない。 どんな世代でも好きな、そして学びたいプロフェッショナル選手のうちでイチローがいつも1位を独占しているのはひたむきに努力を重ねるイチローを心底、敬愛しているファンが多いことの証左である。 さぁー、今日も午前11時10分からイチローの試合が始まる。インターネット観戦が愉しみだ・・・。 (2010年5月1日) (追加)イチローはさすがだ!!5打数3安打、打率を344に上げた。これで4試合連続マルチヒットとなる。 試合は接戦の末、延長12回で敗れた。明日に期待したい。
(サンスクリット語学習記ー5) 連休に入り、大谷大学は5日まで休校である。従ってこれまでの授業の復習を簡単にやっておきたい。 aからauまでの母音(Vowel)は14あり、デーバァナーガリー文字(以下梵字と称する)とともに「サンスクリット語文法」(教科書)の序章に表記されているので日々、読んだり、書いたりして覚えることが肝要であろう。 「サンスクリット語文法」は以下教科書と呼ぶことにする。 子音(Consonant)も教科書の序章にkaから子音の結合語であるhvaまで梵字とともに表記されているので日々、母音同様に覚える。 教科書1頁から3頁まで動詞:現在形・能動態(Present,Active)について説明されている。 √bhu(なる、ある)の変化 1人称 、2人称、3人称が単数(sg) 両数(du) 複数(pl)で変化することが表記されているので覚えること。 1人称bhavami 2人称 bhavasi 3人称bhavati(単数=sg) bhavavah bhavathah bhavatah(両数=du) bhavamah bhavatha bhavati(複数=pl) 1人称=私 私たち 2人称=あなた あなたたち 3人称=彼ら、それら 単数(sg)=ひとり、ひとつ 両数(du)=ふたり、ふたつ 複数(pl)=わたしたち(3人以上) それら(3つ以上) 現在語幹(Present Stem) √bhu bhava-(なる、ある) √ji java(征服する、克服する) √stha tistba(立つ) √pas pasya(見る) √vis visa(入る) √gam gaccha(行く) √ni naya(導く、連れていく) √prach prccha(たずねる) √pid pidaya(苦しめる、傷つける) 7頁にAbhyasah 1 kutra= どこへ、どこに(疑問詞)=(where) √gam(gacchati)= 行く=(go) ca =何々と and:AB ca, Aca B ca=AandB √pas(pasyati) =見る (see ) √pid(pidayati)= 苦しめる、傷つける=(affict、hurt ) √prach(prachati)= 尋ねる、問う =(ask) √bhu(bhavati)= なる、ある= (bcome) √stha(tisthati)= 立つ=(stand ) √smr(smarati)= 思い出す =(remember) 例文・演習 1 私は立つ= bhavami √stha(tisthati) 2 私たちは連れて行く = bhavathah √ni naya 3 彼らはどこにいて、そしてたずねるのか=bhavathah kutra √prach(prachat) ca 4 彼らは行き、そして連れて行く =bhavathah √gam gacchati √nii naya ca 教科書の4頁から7頁にかけては名詞・形容詞の格変化(Declention of nouns and adjectives)の解説 性(Genders):男性(m)、中性(n)、 女性(f) 数(Nubers):単数(sg)、 両数(du) 、複数(pl) 格(Cases):eight cases(8格) <格の変化> 例えば神=(deva)はsg、du, plmに従って主格=Nominative(nom.):the fist case、対格 =Accusative(acc.):second case 具格= Instrumental(inst.):the third case 与格 =Dative(dat.):the fourth case 奪格= Ablative(ab.l):the fifth case 属格= Gentive(gen.):the six case 処格= Loc.: the seventh case 呼格 Vocative(voc.)の8格に変化する。 この変化については表を参照すれば可なり。 Abhyasah 2. asva 馬=horse(m.) ksatriya =王族=クシャトリヤ(m.) grha =家=house(n.) deva=神、天の有情=god(m.) phala=果実=fruit(n.) mitra=友=fried(n.) kaka=烏=crow(m.) gaja=象=elephant(m.) jala=水=water(n.) nagara=町、都城=city(n.) putra=息子=son(m.) 例文・演習 1 私たち2人は苦しめる bhavathah √pid (pidayatah) 2 あなた方は行きそして入る bhavatha gacchotha√visayatah ca 3 2羽の烏はどこにいますか kaka kutra tisthatah (2010年5月3日) (追加) 梵字のほか悉曇(しったん)がサンスクリット語とほぼ同義に我が国では使われているようだ。 調べてみると、悉曇はサンスクリット原語、シッダンの音写であった・・・。 シッダンは「完成する」または「成就する」という意味の語根であるシッド(siddha)の過去受動分詞、シッダ(siddha)に中性名詞の単数格をあらわすmを付けた形である。 これにより、意味は「完成したもの」「成就したもの」となる。
閑話:陽気に誘われて出掛けた散歩から帰ったお昼ごろNHKテレビをつけた。 うおー!凄い・・・! 白樺の樹木から樹液が出ることは知っていたのだが・・・おう、それを飲むなんて・・・おう、それを化粧水に使っているなんて・・・おう、それを使って豚肉のしゃぶしゃぶ料理に使うなんて・・・。 目を丸くし、かつ感動混じりの驚きの声を発しながら、お昼の生番組を見たのだ。 とlころは北海道・大樹町。 日高山脈を背に太平洋をうかがう大樹町(面積=816・38Ku)は人口約6000人の町だ。 同町に住む中年のご夫婦がこの番組の主役だった。 若い女優さんとアナウンサーの男性がこのご夫婦に白樺の樹から樹液を採取してもらい、それをコップにためて女優さんが美味しそうに飲む・・・。 「まぁー美味しいこと・・・! 結構、甘いですよね」 「それは樹液にはドウ糖と果糖がふんだんにあるからなんですね」 (豚肉しゃぶしゃぶに樹液を使って・・・) 「この豚肉、結構やわらくていいですね」(アナウンサー氏) 「それはですね・・・、樹液に含まれるグルタミンサンの効果なんですよね」 ここまでくるとわたしの目は皿のように大きくなった・・・。 (へー、そんなこともあるんだ。アイヌの人々が飲料水にしていたことも分かるなぁー) 私はすっかり、この番組に吸い込まれていた。 番組の終りの方には樹液で作り、焼いた食パンまで登場したではないか・・・またソバのお汁を樹液で作ったことも紹介された。 アイヌの人々が白樺をこよなく愛し、かつ育てその樹液の恩恵に浴する・・・そう、自然の恵みとともに生活している姿をイメージしていたら、うむ、うむ、素晴らしいなぁ―と感嘆することしきり・・・。 これぞまさしく「自然と共生した理想的な生活」ではないだろうかとの想いを強くしたのだった。 自然を慈しみ、感謝しながらの生活・・・(登場されたご夫婦もきっとそうだろう・・・アイヌの方々のように)。 いい番組だなぁーと思っていたら25分間の番組はあっという間に終了した。 感動的な番組であった。(この文の会話の語りは、私がとったメモに基づき私流に表現したものです) (2010年5月4日)
(サンスクリット語ー四方山話-1) この欄(サンスクリット語ー学習記)の本文でも書いたが、サンスクリット語でインドにおける最高の哲学書群「ウパニシャド」を読みたいと・・・。 つまり、もう少し具体的にいうと、ウパニシャドとはサンスクリット語で書かれた約300以上ある書の総称であるが、サンスクリト語によらなければ読むことができない哲学書なのだ。 またウパニシャドの成立過程から釈迦以前の古代ウパニシャドはバラモン教の経典「ヴェーダ」の部分として位置づけられ、ヴェーダーンタともいわれているところも学習上、注目しなければなるまい。 ともかくウパニシャドは難解で崇高なる哲学書であるからして何の予備学習なしでいきなり習いたてのサンスクリット語で立ち向かっても、それは無謀な試みであるといえるだろう。 そこで大谷大学の聴講生になってからウパニシャドの関連本を漁ることにしたのだ。 書斎を探せば1冊ぐらいは出てきそうだと思ったのであるが、ことウパニシャドに関する限り、10数年前の私のインド理解から推測すると、あまり信用性の高いウパニシャドに関する本は買っていないのではないか・・と判断したからである。 そうこうしているうちにいい本が見つかった。 碩学、辻直四郎氏のウパニシャド(講談社学術文庫)が最もよかろうと購入、今、読み進んでいる。 そこでほかのウパニシャドの関連本も同時並行的に読み学習していくが、今後は辻氏の同著を中心に得られたことなどを(サンスクリット語ー四方山話)の中にも書き進めていこうと決めたのである。 さて今回は同著の総論に書かれている次のようなことに触れておきたい。 ウパニシャド(Upanisad)とはサンスクリット語でupa-ni-sadで意味は「近くに坐す」であり、師弟がまじかに対坐して伝授されるべき「秘密の教義」である。 その秘密の義の枢要をなす教えは「宇宙の秘義(根本原理)」を語ったものだ。 さらに輪廻転生・解脱・カルマ(業)などその教えは多岐にわたる。 これを収めたインドの哲学書群を総じてウパニシャドと呼ぶのであるが、実際は古代インドから16世紀ごろいかけて書かれたものをウパニシャドと呼ぶようになったのだ。 むろんウパニシャドは仏教以前のものからあるが徐徐に韻文、散文形式などの文体で書き加えられていったところにこの哲学の特徴があるといえる。 ウパニシャドが宇宙の真理を秘義として伝える奥義書であるといわれる所以はいかにも神秘の国(すくなくとも私はそう思っている)インドの風土にあると思われる。 宇宙の真理に至る説明などは後日に譲るがウパニシャドの哲理はだだ「梵我一如」にあるといっていいだろう。 梵とはブラフマンで我とはアートマンのことである。 (2010年5月5日)
閑話:「毎日、日が暮れては又明ける。一体地球は今迄又これから先何時迄つゞけるのだろう。その間に生まれてきた私達人間は何とカゲロウのごとき存在である事よ。いくら考えても判らない。唯(ただ)はかないものだけである事だけが感じるられるだけだ。悔いも喜びも何と果かない事よ。喜ぶこともないし悔やむ事もない様な気がする。併しこの世での私は誠に幸せ者で唯々感謝に堪えない気がする」 あの石坂泰三が晩年に吐きだした言葉である・・・。 経営人として様々な経験を経た後、巷間、語られるような「教養豊かな優れた経営者、経済人であった・・・」などという一般的社会的な評価の枠をはるかに超克し,、かつ飛翔して「宇宙的かつ人類史的世界」に触れたという一瞬を確かに持ちえた「1箇半箇たる人物」ではなかろうかと私は想い、何回も頭(こうべ)を巡らせたことがある。 石坂は若いころからカントやヘーゲル、ヒルティの「幸福論」などに親しむ一方、シェークスピア、ゲーテなど芸術文化にも関心を寄せていた人物である。 私はそんな石坂が語る冒頭の言葉に大きな関心を持ち続けてきた。 これは作家、城山三郎さんが、戦後の荒廃から復興を経て高度成長期に財界人として重きをなし財界総理(経団連会長)といわれた石坂から聞き出したものだ。 2007年2月9日にこの欄でとり上げた石坂の貴重な発言であり、私は今でも耳朶(じだ)に焼きついおり、忘れられない印象深い言葉である。 日本が繁栄し、その記念的シンボルとして日本万博が1970年(昭和45年)に大阪で開かれ、石坂はその会長として重責を果たし終え、なにかしらやすらぎを覚えた一瞬に脳裏をかすめたことを吐露したのではないかと思う。 いきなり、石坂の言葉を持ち出してなんのことやらと思われた読者もいらっしゃるだろう。 石坂のこの言葉が鮮明に蘇ったのは今日、NHKのお昼のスタジオパークという生番組に出演された元総理の細川護熙さんの言葉に耳を傾けていたとき思わずはっとした。 今年、初春、細川さんが日本経済新聞にお書きになった「私の履歴書」の一節を思いだしたからである。 「人間なんてこの広大無辺の宇宙、悠久の時の流れからすれば、とるに足らんもので(略)、肝心なことは、どう生きるかということだけだ」 細川さんが中学時代に師事し尊敬されていた木曽秀観さんが氏によく語りかけた言葉である。 木曽さんは帝王学をそしてまた人間学を中学生の細川さんにさりげなく教えられておられたのではないかとテレビの細川さんを眺めながらそう思い起こしていた・・・。 中学生の細川さんは感性にすぐれた方だからこの言葉をおそらくこころがしびれるような感覚でとらえていたはずだ。 半世紀以上も前のことを「私の履歴書」に鮮明にかつ克明に書かれておられるのだからきっとそうであろう。 「私の履歴書」でも少し、触れられてはおられたがが、名門中学で成績のことや操行のことなどで何度も父、護貞さんが呼び出された・・・という。 ついには細川さんは中学を落第されたのだ。 「好きなことには夢中になれたが、関心のないことにはそっぽを向いた・・・」ーと。 ある面、実に羨ましいかぎりではないか・・・。 私にすれば、細川さんが中学時代にみせた行動には「あっぱれ!!・・・あっぱれだ」と内心、快哉を叫びたいようなこころのうずきを感じるのである。 中学校の先生がこれは「受験」には重要なことだから、覚えておくようにーーなんていわれると、大概の生徒が血眼になる・・・そんな雰囲気が教育熱心な田舎町の我が中学校でもあったような記憶いまだに微かではあるが残っている・・・。 私は細川さんとはいうまでもないことながら生まれも育ちも違う(私は伯父に育てられていた・・・)から落第だけは絶対できないと思っていた・・・だが受験勉強一本やりの授業には辟易(へきえき)し、少年の私は思い切って一定の距離を置いていた。 その内容の一部は以下のようなことでもあった・・・。 美術や書道部活動のほか柔道部員として力を注いでいたのだ。 勉強は二の次にし、2年生の一年間、柔道に懸命に励んだ。家でも宿題なんぞ一向に構わず柔道の基本である受身の技の工夫にそれこそ明け暮れた。 何度も繰り返しやるものだから、ついには頭皮全体にうっすらと血が滲み出ていたほどだった。 その結果、確か50人近くいた部員のなかで一番強いというランクに黒帯の兄に以前から教わっていたというA君とともに2人だけ選ばれた。 私は(模擬テストなんぞ糞喰らえ!!どんなもんじゃー)とこころのうちで「快なるかな!面白い!」と欣喜雀躍していたのだった。 ささやかな抵抗ではあった。 でもである・・・・。 そんな一年間が終わろうとしていたとき3年次には高校への進学組は「自然退部せよ」という通達に対してどんな弱みがあったのかしらん、唯々諾々となんの抵抗するでもなくあっさりと通達に従ってしまった・・・。 そのころの私の行動がこの年になってもその理由がはっきりと解らないままだ・・・。 「わしは3年生になったとてやるまでじゃー」となぜ言わなかったのだろうといまだに悔しい思いに駆られることがある・・・。 「映画館に入ったらダメ」という校則があった。 「僕は片岡千恵蔵の映画を見たい。是非行かせてもらいたい!!映画鑑賞のどこが悪いのか!!」と直談判した。 すんなりと許可の類をもらって意気揚々・・・。 隣の都市に自転車を漕いで一人でえんやこらのさっ、さっ、のほいー、ほい・・・しゃー、しゃーと映画館に入り込み、映画鑑賞を決め込んでいたほどだったのに・・・。 所詮は凡庸の徒であったんだと納得しつつも、当時は、やはり将来を慮ってか、私という少年のこころもほかの少年と同じように少しくぶれて揺れていたのだろうとしか今の私にも思い当たらないのだ・・・。 無念なる・・・苦い、苦い思い出である。 私にとれば夢のない、いってみれば面白くもない中学生活になることは分かっていた筈なのに・・・。 結局、青春の始まりに違いない中学3年生という大切な1年間をだらしなく送ったことはいうまでもないことである。 この内容は今回は伏せておこうと思ったのであるが、細川さんのあまりの勇猛さについ引きずり込まれてやや長広舌してしまった。 読者のみなさん、この段落は読み飛ばしてください・・・。(この時点では大学まで進んで勉強するなぞという意思はまだ固まっていなかったのである・・・) だから、中学校時代の細川さんとはまったく事情が異なるがその気持ちはよく分かるなぁーと拍手喝さいを送りたいと思うのも当然なことである。 でも細川さんは根っからの勉強嫌いではないことは十分承知している。 私には細川さんのような人こそが真の勉強家であると私は思うのだ。 知識を得るだけなんていうのは単なる学習であって勉強とは言わないのではなかろうか・・・。 真の勉強とは与えられた一度きりのこの人生を悔いなく送るには個々人がどう生きたらよいのかを学び、学問していく・・・それこそが勉強というのではなかろうか・・・。 私は仕事なんぞは、この世を餓死することなく生活していくための手段に過ぎないのではないかとさへ思うときがある。 もっとも細川さんには一国の総理を務めなければならないという定め(運命)がおありになったにすぎないと思うし、細川さんご自身がそう感じられていたのではないかと想像する。 作家、新井満さんのお母さんの言葉(閑話の2010年3月7日を参照されたし。「それぞれ役割があってさぁー」)の通りなのである。 焼き物は門外漢であるが、一応、これでも中学時代一時、画家を志した者の糞度胸ではありまするが、今日、テレビで拝見した細川さんの焼き物はプロとして通用してあまりあるような立派な作品ばかりであると思った。 祖父、護立さんの白隠禅師の絵画発掘とその蒐集作品のように細川コレクションにきっと飾られることであろう。 (2010年5月6日)
閑話:朝早く、NHKの「俳句」の番組を愉しんだ。 実に楽しいことではある・・・。 定年後、4、5年経ったある日のこと朝早く起床したとき、なにげなくNHK教育テレビを見たら「短歌」に続いて「俳句」の番組があることを知った。 「短歌」や「俳句」はこんなに楽しいものかとつくづく感じ、それ以来できるだけ番組を見るようになった。 朝日新聞や日本経済新聞などの歌壇・俳壇の欄にも注目するようになったのである。 新聞欄のことはともかくとしてNHKの番組を見たときは「短歌」「俳句」とも入選作は全部その場で写しとる習慣になった。 さて今日は「俳句」の秀逸三句を紹介したい。 3席 ははそはの妣(はは)が十八番の柏餅 2席 珈琲の 葉っぱに包む 柏餅 (ブラジルに移民された方の歌である) 1席 生まれてより 君は五ヶ月 柏餅 私の趣味にまかせて選ばせてもらうと最もこころに響いてきたのは、妣(はは)が十八番の柏餅である。 妣(はは)とは、亡き母のことを言い表す語である。 何となく日本文化の根底をなす庶民生活の一端をうかがわせるような味がある・・・。 「海に出て 木枯 帰る ところなし」 私も記憶している山口誓子(1901−1994年)の代表的な歌のなかのひとつである。 誓子とともに番組で紹介された。 1944年(昭和19年)の句作である。この年に私は生まれているのだが、先の大戦で戦況が悪化しているころである。 生まれ年から計算すると、誓子43歳のときの作品である。 さまざまに解釈される歌ではある・・・。私は多分、おくにのために海の藻屑と消えた特攻隊員を想った歌だろうと解釈、鎮魂の意も込めて時折、口ずさむこともあった。 ただし、誓子は木枯らしそのもの(宿命)や性質、ないし存在を詠ったとしかいっておらず、今日の番組でも語っていない・・・。む、やっぱし、そうか・・・、誓子の年代などを勘案すると致し方ないのだろう・・・でも、ものわかりの悪い私はさまざまなことを観想したのだった・・・。 ご本人のテレビなどでの公、表向きの語りはともかくとして句作の時代からしてやはり特攻隊少年の悲哀を詠じたと私はみたい・・・。 (もし、そうでなかったとしたら、いわば誓子は「時代音痴」といわれてもしかたがないだろう・・・、誓子の優れた知性からみれば特攻隊少年たちのこころが分からないはずがないのだが・・・) (でも、でもである・・・。そんなややこしいことならばと一瞬、ちまちました心境になるではないか・・・。何事もシンプルでなくちゃー、番組でも誓子が語っていたあの芭蕉の句はあくまでもシンプルそのものであった。誓子はいうかもしれない。「だから木枯らしの句はあくまでも木枯らしの句です。シンプルなんですよ」と・・・。 でもいかん、いかん、いかんぞえそれでは、誓子のイクスキュースになってしまうのではなかろうか・・・いずれにしろ人のこころをちまちまさせるのはどんなものだろうか・・・ いっそのことこの句は戦争中でないときに発表すべきではなかったか・・・木枯らしを歌うなら季節さえ考慮すればよかろう・・・なにも昭和19年という時節でなくっても・・・と・・・でも、僕もいやだなぁー、こんなことにちまちまするなんてよ!)。 だからこんな場合にはやはりあの空海さんの登壇をまたねばなるまいに・・・。 <阿字の子が阿字の古里立ち出でてまた立ち帰る阿字の古里> 手前みそだがこの歌は私の近刊のエッセイ「交野探訪」に何度も書きこんでいる空海の有名な歌ある。 この空海の歌ならあの英霊たちも鎮魂されるのではなかろうかと・・・。 阿字とは宇宙の根源のことである。だれしもがいずれは阿字の古里に立ち帰るのである・・・。 (2010年5月9日) (追加)上記本文で一句の見解について偉大なる俳人、山口誓子を小賢しく批判してしまったところもある・・・。 とは言え、これによって私が誓子に寄せる私なりの高い評価はいささかも変わらないということを書き添えておきたい。 以下、私の好きな誓子の句を挙げておきたい。 1 太陽の出でて没(い)るまで青岬 2 眼のなかの秋の白雲あふれ去る 3 どこまでも水田日本は水の国 4 うしろより見る春水の去りゆくを 5 城を出し落花一片いまもとぶ
(サンスクリット語ー四方山話ー2) 私は今日もこのところ私の定番(習慣)になりつつあるのだが、山間の団地の中にある中央公園を目指し、傘を差しながらがら散歩を兼ねて出掛けた。 公園に着いたら雨はちょっと止んだようだった・・・。 そこでベンチに腰掛けて梵字般若心経を小声唱えるのである。つまり、声に出しながらサンスクリット語(梵字)の形を覚えようというこころみなのである。 公園に着くまでは両耳にはTOEICのテスト問題をダウンロードしたアイポッドのイヤホーンを付けている。 そう、この欄でも幾度も書いたが定年後、40年余も全くお留守にしていた英語の勉強を再開したのだった。 このことを大学時代の仲間にちょっと話したら、「ええ年してからに今更、英語なんて・・・」とはだれも言わなかったが、ほとんどの顔の(呆れた・・・)というような字がその表情に見え隠れしておったような記憶がある。 それでも、もう定年後、5年近くも倦まずやっているのに多少は敬意を表しだしたのか、当初のような顔を見せる大学時代の仲間はもういなくなったようである。 当初、呆れた表情を見せた連中のこころの内も(まぁ・・・分からなくはないわなぁー)と自分でも(こればっかしは仕方がないな・・・)と思いあたるところがあった。 というのも私は大学時代、英語ばっかりに夢中になっている連中を少しからかいながら言ったものだ・・・。 「君たちは英語を勉強する前に諸君らが専攻している文学や経済、経営、法律の勉強をせんとあかん」と言い続けてきた男であった。 40年も経過しても私の自説を記憶しているだろうしなぁーと思い、私もそのことをしっかりと、覚えているものだから、うぬ・・・!ここは沈黙がいいだろうとそのようきめこんでいたのだった・・・。 こうした考えは交野市内のNPOの英会話サークルに通いだしても最近までその考えは変わっていなかった。 ところがである・・・。 半年ほど前からその呪縛から突然解放されたのように英語に・・・まぁ!恥ずかしながらはまってしまっている自分に気がついたのだった。 人間というものは素晴らしいといっていいのかも知れない、変われるんですよ・・・。 で、今回はまだまだ私の英語力はたいしたことはないのではあるが・・・そんななかサンスクリット語に挑戦しだしたのだから、今回ばかしは自分自身に自分が驚いているのだ・・・。 今はサンスクリット語習得に6割の力を残りの4割を英語学習に充てている按配で、いわば語学バカといわれても致し方ないくらいになっているのだから・・・。 さてサンスクリット語のことであるがこの欄でも少しく書き込んでいる。 英国の言語学者、ウイリアム・ジョーンズは1786年、カルカッタの学会でサンスクリット語が古典ギリシャ語やラテン語と共通の起源を持つ可能性があると指摘した。(4月19日参照されたし) これはまだ不勉強なので推測ではあるが、今のカースト制の最上級に位置づけられているブラーフマナ(聖職者)はそのほとんどが2000年以上前にインドに侵攻して瞬く間に勢力と権力を握ったアーリア人系インド人であるからジョーンズ氏の発見も理解できようというものだ。 山本先生が講義で語られたようにサンスクリット語を自由に駆使できるのはブラーフマンとクシャトリヤ(王族)だけといわれたがよく考えると当然といえば当然なのである。 いわばサンスクリット語はインドにおいては「エリート語」といってもよいのではなかろうか。インド人の共通語はヒンディー語と英語である。 宮坂宥洪氏の本によると、彼は留学時代、サンスクリット語と英語で授業を受けたと語られている。 山本先生にもお聞きしたいところでもある・・・。 まぁー、こんなぐあいに問題意識を持っておればこれからの授業は山本先生の名講義と相まって益々愉しいものになることは間違いなかろう。 それに今、私は共通の起源を有する英語とサンスクリット語を同時に学習していると思えば・・・そうです・・・張り切らざるを得ないではありませんか・・・。 (2010年5月11日)
(サンスクリット語学習記ー6) 今日も愉しい授業であった。かといって途中で居眠りでもしようなら、途端に理解不能に陥ることだけは間違いない・・・。 愉しさの中にも約90分の授業はほどよい緊張の連続であるといっていいだろう。つまり密度の濃い授業が続いている。 今日は6回目の授業であった。 √labh_(得る)の変化 √labhは以下の活用語尾をつけて変化していく。 他の動詞もこれに従う。
sg ━━du━━pl ━e ━yahe ━mahe ━se ━ethe ━dhve ━te ━ethe ━nth √yaj →yaja-ti 彼は(他人のために)祭祀する。 →yaja-te 彼は(自分のために)祭祀する。 実際は特定の動詞がいずれかの語尾をとるようになっているのが原則になっている。 能動態:=(他人のための語)は代表される変化語尾(mi,si,ti,etc)と動詞√labhに代表される変化語尾(mi,sii,ti,etc.)との2種の変化語尾がある。 動詞が前者の語尾((mi,si,ti,etc)をとって活用するとき、その態を能動態(Active Parasmaipada)といい、後者(e,se,te,etc.)の場合を反射態(the middle/the reflexive:Atmanepada)という。 3・3 Abhyasah 3 idanim =今= (now )、 eva=〜だけ、のみ(限定される語の後におく)only;実に(indeed) evaを厳密に言うと以下のようになる。 (@ 〜〜のみ=限定(only)を主として意味するが、ほかにも A 実に(indeed)=強調=である場合がある。また必ず前にnaを置くと「けっして何々でない」との意味になる)。 katham=いかにして、どうして(how)、√jan(jayate)=生まれる 、生じる(be bone)、 tatra=そこに(therer )、 na=否定詞、〜ない(not)、 na va=あるいは〜ない((or not)、 √mam(manyate)=考える、を〜であると思う(think)、 √labh(labhate)=得る、手に入れる(acquire)、(obtain) 、va=あるいは=(caのように用いる。AB va)or、 √vrt(vartate)=〜がある(be)、 √vrdh(vardhate)=成長する、増える(grow) 授業では9頁のバナーガリー文表現の8つの文章の日本語訳の学習が行われた。 この後、サンスクリット語表現の3つの文章の日本語訳のテストがあった。 自分の訳が正しかったかどうかなど復習することが肝要である。 (2010年5月12日)
(追加) 今日も正面玄関を見るとこの宗門の名門大学を象徴する標語が貼られていた。 「罪障功徳の体となる こおりと水のごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」 浄土真宗の開祖、親鸞が著した『高僧和讃』の一節である。 私は前回と同じように守衛室に声を掛けて説明してある1枚の紙をいただいたのである。 「罪や障りは、そのまま功徳のもとになるのです。その関係は氷と水のようであり、氷が多ければ多いほど、溶けたときの水は多くなります。同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです」 青春の悩みは尊い。いや青春に限らず、人というものは悩まずにはおれない存在であるのかもしれない。 だかこそ功徳をいただきながらこの世を生かされ、そして生きていくことができるのだろうと思った・・・ 宗祖、親鸞の和讃をありがたく味あわせていただいた。 ふと東の空を仰ぎみるとあの霊峰、比叡山がどっかりと東の空におわしましてこの宗門大学の学生に「やよ励めよ!」とエールを送り続けているように思えたのだった。 「 青雲の そきたつ朝は 比叡が嶺を ふりさけ見つつ そのかみの 聖の胸を ゆきかひし いのちのなやみ しみみに思へ 」(大谷大学校歌の1章節)。
(サンスクリット語ー四方山話ー3) さてここではサンスクリット語で書かれたもので私が近い将来読もうとしている「ウパニシャド」に入る前に「ヴェーダ」というインド・アーリア人が編集したバラモン教の聖典に触れよう。 「ヴェーダ」は(知る)を意味するサンスクリット語の動詞の語根から作られた名詞である。 「ヴェーダ」は(知る)の意だとしたが本来は「宗教的知識」を意味するのであり、転じて「聖典」の総称を指すようになったようである。 このため「ヴェーダ」は以下の4タイプに分類するのが一般的である。 1 「リグ・ヴェーダ」(ヴェーダの中心的な部分でマントラであり、讃歌、歌詞、祭詞、呪詞を集めた部分。 2 散文で祭式の仕方を規定し、祭式を神学的に説明しているところ。 3 人里離れた森林の中で伝授される秘義や祭式の説明を加えた部分。 4 これは先にも少し触れたがヴェーダの終結部(アンタ)である。 アンタはサンスクリット語で「終わり」を意味する。また「趣旨」とも解する。 従って「ヴェーダの極致(趣旨)」と解するようになったといわれている。 とまれ、「ヴェーダ」は古来、神聖視され、人間の著書とは語られず古(いにしえ)の聖仙、リシにより、霊感を通じて「聞かされた」(シュルタ)ものととらえられたのだ。 こうしてバラアモンたちにより、ヴェーダは口伝によって伝承され、師から弟子に継承されていった。 中には奴隷階級のように本来、ヴェーダ学習の資格のない階層の人々に秘義が漏れないようにしたとの説もあるようだ。 しかし、この口伝による伝承は確実無比に暗証され継承されており、そんなところにインド文化の特徴があるといえる。 宮坂氏が著書「インド留学僧の記」のなかでもこの事実について氏は感嘆しながら語っている。 宮坂氏が伝えるところによれば現代インドにもこの強靭なる暗記・伝承という風土はいまなを息づいていることが容易に分かるような気がする。 以下、氏の文章を概略しながら記す。(宮坂氏がインドで接した市井の老大学者のことである) 「リグ・ヴェーダは1028の讃歌、その詩節の総数は1万462あるがその老大学者はこれを一字一句を間違わずに唱えていた。私が讃歌の番号を口にすると、即座にその詩節を唱えるだけでなくどんな単語でもそれが出てくる個所を言い当てることができたのだ・・・」 (2010年5月14日)
(サンスクリット語ー四方山話-4) 2010年5月3日の(追加)でも書いたことではあるが、悉曇はサンスクリット原語、シッダンの音写であり、シッダンについて次のように説明した。 シッダンは「完成する、成就する」という意味の語根であるシッド(siddha)の過去受動分詞、シッダ(siddha)に中性名詞の単数格のmを付けた形である・・・と。 だからシッダン、つまり、悉曇は「成就したもの」という意味になるのだ。 さて空海の著作に「梵字悉曇字母并釈義」があることは先に述べている。 そこで若干この本に触れておかねばなるまい。 空海は「梵字悉曇字母并釈義」で悉曇(サンスクリット)ついてこう述べている。 「この文字は如来の所作にもあらず、また梵王諸天の所作でもなく自然道理の所作なのだ。世人はこの文字を用いるけれどもその字義を知らない。若し、世人がこの文字の実義を解すれば出世間の陀羅尼の文字となる」 さらに空海は陀羅尼、つまり、悉曇(サンスクリット)文字は一字のなかに無量の経文を総摂して一法のなかにおいて一切の法を保持していると語っているのだ。 ともかく空海によって日本の「梵字悉曇学」は生まれたといってもよい。 このような悉曇(サンスクリット)に対する解釈は空海の主著である「般若心経秘鍵」でもうかがえる。 これはこの欄ですでに紹介している。 <真言は不思議なり 観誦すれば 無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を証す> このように空海の悉曇(サンスクリット)に対する解釈には首尾一貫しているものがあり、より空海の世界を知ろうとするならば、やはり、サンスクリット語習得は欠かせないだろう。 (2010年5月15日)
(サンスクリット語ー四方山話ー5) さて山本先生が講義の中でいわれたことでもあるが、インドの人口は約10億人としてその20%、2億の人々がカースト制度からはみ出しているアンタッチャブルな貧民層との見方が一般的である。 これらの人々は学術語であり、いわば「エリート語」であるサンスクリット語とは全く無縁の人々であることはいうまでもない。 私にとってサンスクリット語を学習するとは、確かに優れたインドの哲学書「ウパニシャド」を学びたいというのが第一義ではあることはこれまで述べてきたとおりであることはいうまでもない。 これは今の段階ではあくまでも推測であるが、「ウパニシャド」のなかにカースト社会外におかれたこうした人々のあるべきよう(姿)が述べられているのではないかという興味とともに期待すらしているのである。 それはともかくとして実はインド経済はこれら2億の民人らによって支えられているという現実があることをインドに関心を寄せる人なら知っておく必要がある。 CNNの報道などによると、先の米国で発生したリーマン・ショック後に進行した世界的同時不況局面でもインド経済がその影響を最小限にとどめ、不況に陥らなかったのは、どんな苦境のなかでも頑張り、働くというこれら民人の働きが大きかったのではーーと分析している。 「インドの民人らは自分にできることはなんでもやって生活費を稼ぎだす。洗濯、散髪、虫歯治療、象の貸し借りまでこれらの人々はやってのけるのです」というCNNの現地リポートもある。 インド経済の専門家のなかには彼らに対する社会保障制度が未整備なところに問題があると指摘しながらも、インドが今後成長していくためには彼らの働きとその存在は大きい、としている。 事実、インドは2010年のGNPの伸び率を7%と見込んでいるなど世界的不況のなかで順調な足取りをみせている。 今世紀半ばにはGNPで日本を追い抜き、アメリカ合衆国、中華人民経共和国に次ぐ第3位の経済大国に躍進するというのが大方の見方である。 サンスクリット語という精緻な言葉によって綴られた「ウパニシャド」など崇高な哲学を持っているブラーフマナ(聖職者)やクシャトリヤ(王族)などの指導層とこれらの民人らとが、もし将来、建設的かつ協力的関係を構築するときがくるならば、他の大国とともに世界をリードするようなインドが誕生するかもしれないのだ・・・。 (2010年5月16日)
(サンスクリット語ー四方山話ー6) そもそもウパニシャドというサンスクリット語で綴られたインド哲学最高の書は何を伝えようとしているもかについては(2010年5月5日)の(四方山話ー1)で少し触れておいたが一言で言い切ると宇宙の真理を秘義として伝えようということである。 ウパニシャドで語られている宇宙の真理は端的に言って「梵我一如」にあるということである。 この語彙ならば、多少宗教に興味を持っている向きはご存じのはずであろう。 ではどう説明するかの段になると、大概、説明の言葉に窮してしまうのが大方であろうと思える。 私とてその例外ではない・・・。そこで少しく勉強したのである。その結果、やはり買い求めていた辻直四郎氏(以下辻とだけ表記する)の「ウパニシャド」の書が良かった。 これまでの私の勉強していたことと辻の説得力のある説明とが按配よく絡み合ってきて久方ぶりに心地よい思索に耽ったのだった。 辻の解釈をもとに「梵我一如」とは何んだろうか、私なりに迫ってみたい・・・。 前述したように宇宙の真理が「梵我一如」。ここでは一応、梵を「宇宙(我)」としたい。 辻はこの梵我一如の本質を真に理解するためには相対的認識の世界から抜け出さなければ、それは不可能であると説く。 辻は同著の中で次のように記している。 「アートマン(我)の本質は、相対の世界に跼蹐(きょくせき)する者の知覚の対象足り得ない」との見解を示す。 跼蹐とは「跼天蹐地(きょくてんせきち)」の略語であるが、意味は頭が天に触れるのを恐れて背をかがめて歩き、地が落ちくぼむのを恐れ、抜き足で歩くさまのことである。 つまり、辻の言いたいのは「梵我一如」の世界は前述したような相対世界から脱して絶対的世界に遊弋しない限り、手の届かないのだーということにあろう。 辻は同書のなかでさらにこう述べている。 「梵・我が時間・空間を超越した常住の本体である以上、その実在性は疑う余地もなく、(略)実有(sat)はその一別称とさえ考えられている。梵我一切と観ずれば、梵・我のみが真実の存在であり、最高の真実である」 さらに辻は論を進めている。 「実にこの不滅者(=梵)は他に見られずして自ら見るものなり。他に聞かれずして自ら聞くものなり云々・・・」 およそのことは、ここまで辻の論に耳を傾けると誰しも納得のいくところであろうが、私は以下のようなことがこころに去来した。 つまるところ「梵我一如」とは華厳経の説く「一即一切、一切即一」と同じことではないかと・・・。 一即とはウパニシャドでいう我のことであろう。また一切が梵に当たり、宇宙そのもののことではないかと私なりに感得したのだった。 さらに仏教的に解釈すれば梵は不生不滅の存在たる法身(如来)のことだと言えるのではないかと私なりに認識を深めたのだった。 (2010年5月17日)
閑話:改めて平山郁夫画伯の絵画は「やはり、凄いなぁー」となにかしらん、こころが一瞬、揺蕩(たゆたう)たのだが、そのこころはすぐに普段味わえないような平穏なるこころに満ち足りるというこの不思議さ・・・。 ここに「平山絵画」の秘密があるのではなかろうか。 今朝は早起きし、NHKの番組にお出になった中西進さん(奈良県立万葉文化館館長)の語りに耳を傾けつつも、私の思いはひとりでに広がるばかりだった。 シルクロードを旅されつつ、秀逸なる絵画をものにされるのは当然のことながら併せて仏法への探索にあくなき執念を燃やされた。 だから画伯の絵は仏教とは不可分の形で併存、いな合体しているとみるべきであろう。 今日紹介された絵もみな私にはそう思えるものばかりであった。 悟りを求めてインドなどに旅を重ねた僧らが「仏法の説く(意味の)重たさを感得し」(中西氏)、僧らが敬虔な面持で故郷に東帰(すなわち、故国日本のことだろうか・・・)する「求法高僧東帰図」・・・。 私は思わず、自分のこころが揺蕩したのだが、すぐさま、深い・・・、深い・・・平安、平穏なこころに変わっていったのだ。 平山画伯の絵はすべて、私にとってそんな静かなる凄みを宿しているのである。 「広島生変図」・・・。 赤に染まる広島の空にあの不動明王の象をうっすらと滲ませているところなど平山画伯だけにしかなしえない奥深い「画境」に感極まった私は、はからずも嗚咽しそうになった。 平山郁夫展が奈良県立万葉文化館で開かれている。 今月30日までと聞いた。 これらの絵にじかに接すべく同館を訪れるのはいうまでもない。実に楽しみだ・・・。 (2010年5月18日)
(サンスクリット語ー四方山話ー7) 「或る絵具を或る絵具とを合わせて草花を画く、それでもまた思ふやうな色がでないとまた他の絵具をなすつてみる・・・(略)・・・いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか少し黄色味を帯びた赤とかひふものを出すか写生の一つの楽しみである・・・。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのだろうか・・・。」(正岡子規ー病状六尺) 子規は野球だけでなく絵画も好んだ・・・。つまり、多才の人であることはいうまでもない。 私はいつもこの子規の文を思い出す。 私が仙(す)まう交野市は妙見東の団地のほぼ中央にある公園・・・。 散歩がてら立ち寄った私はベンチにそっと腰を下ろし、ゆったりとした気分でおもむろに北東の空を見上げるのだ・・・。 三宅山峰に連なる・・・旗振山・・・交野山・・・山々が重なりながら京都の方だろうか、かすみながら空を走っている・・・。 今は緑・・・滴るようなその色を少しずつ違えながら・・・。 私は夜の帳が下りる半時(30分)ほど前が大好きだ。 これらの山々と空の色が少しずつ変化していく。 そして間もなく溶けあうのだ。 思わず感動する一瞬である。 私は習い立てのサンスクリット語で般若心経の調べをそんな宇宙空間にかそけく紡ぎだし、放つ、放つ、っ、っ・・・。 ガテー、ガテー、パラガテー、パラサンガテー、ボジ・・・ そんなとき思うのだ・・・(ちっぽけで微なれども、この私も生かされているんだ・・・大いなる命(梵)にささやかなれどつながっているんだ・・・)と・・・。 (いやー、実はだれもそうなんだけど・・・) 私が歓喜とともに感謝の涙を流す一瞬である。 ソワカー。 (2010年5月19日)
(サンスクリット語学習記ー7) 7回目の授業であった。充実した内容の濃い90分はあっという間に過ぎていった。 これはとりも直さず山本先生のスピード感溢れる授業についていくのに私個人としては精いっぱいであった。 生徒はギブアップして眠るか、そう・・・眠るふりをしてサボタージュしない限り、90分の内、65−70%は黒板をにらみ続けるという集注力のいる真剣さがいるのである。 山本先生がまことにさらさらとお書きになるサンスクリット語などによる文章などをノートに写しとる必要があるからだ。 ただし、かなりの能力が伴うことが前提になるのだが、予習を完璧にやっておれば自分の判断でここは写しとる必要があるか、ないしは、サモライズ(要約)して筆記するかなどの判断も自分でできる余地はあると私は思ったのだが・・・。 しかし、そういう肝心の私本人は今日に関するかぎり、満足のいく予習はできていなかった。 だから老骨のせいなどというつもりは毛頭ないのだが・・・ノートとりにほとんどのエネルギーを費やすはめになった。 おまけに今ひとつのみこめなかったのが、語末の母音+語頭の同類の母音が来た場合などの置き代えの規則だった。 教科書11頁に記載されている演習問題が授業のお決まりのテストになった。 残念ではあったが半分ほどしか解けなかった。 語末ー語頭の母音の場合の結合変化などの規則は(追加)にて記述することにした。 (2010年5月19日)
(追加) さて教科書の10〜11頁のSamdhi Rules[1] [1 ] 語末の母音+語頭の同類の母音:二つの同類の母音(長であれ短であれ)が結合するとき、それらは同類の長母音の一つに置き代えられる。 −a/−a(ただし、右のaサンスクリット語の発音上、ひだりのaとは区別するところからaの上に−をつけるのであるが、現状の私の技術ではかけないので色づけにする)+a−/a−巣>na+api>napi −i/−1+i−/1− hi+iti>h1ti −u/−u+u−/−u−> sadhu+uktam>sadhuktam 以下「7」まで置き換え規則が掲載されている。 実際に何回も紙などに書き練習し、頭にたたき込む必要がありそうである。 11頁に演習問題8例があり、演習課題を解きながら規則を覚える方法もあるだろう。 4・1 Aphyasah 4. api=even, also, though √k1p[1の下に・がつく](kalpate)〜にふさわしい(+dat.) be fit for(cl.1) gra(iro)ma =村vllage(m.) nr(rの下に・)pa=王 king(m.) manusya=人 man(m.) vana=forest(n.) bhjana=植物(n.) mukha=顔、口 bhaya=恐れ fear(n.)(+abl.gen.)
(サンスクリット語ー四方山話ー8) 色不異空 空不異色(サンスックリット語で=ローハー ンナゥ ヒリタク シュニャータ ヤー ナゥヒリタク シュニャーターヤ ナゥヒリタ ハン) 般若心経の有名な一節である。 空の概念活用の嚆矢はインド人によるものであったことは人口に膾炙されている。 空の解釈では、やはり宮坂氏の説明が手っとり早くのみ込むことができかつ合点がいきそうである。 氏は以下のように語っているが、概略しながら、紹介する。 「壺の中に水も何も無ければ壺は空だ。仏教流に言うと空(くう)である。 壺イコール空なのだから、空と無とは同義でない。あくまでも無の所有が空なのである」 さてこうした認識に立って論を進める・・・。 氏は「無がある」という考えから「無の場所」として「空」を見定めたことは人類史上、画期的であり、大乗仏教の中心概念となったのであると語る。 つまり、以下の通りである。 数学的演算の対象としてゼロの概念に到達したのは、インドが最初と考えらる。 7世紀初頭、インドの数学者、ブラーフマグプタは著作、「ブラーフマスプタシッダーンタ」(=天文書、紀元628)で数学を扱っている。 本の第18章では、ゼロを対象とする演算規則が体系的に述べられている。 任意の正または負の数をaとし、ゼロを0として、これらの規則を表せば以下のようになる。 ともかく空と関連してゼロ(0)の発見はインド人によるものなのである。 近年、インドのタタ財閥(他の機会にこの欄で関連記事を書く)のようなインド有数の財閥の活躍がみられる。 しかし、この概念のもとで実際に近代科学を築き、科学文明を築き上げたのは西洋人なのであるが、その産みの親(母)はインドであることを知らねばなるまい・・・。 (2010年5月20日)
(サンスクリット語学習記ー8) サンスクリット語習得の要諦はあくまでも山本先生の授業を熱心に受け、その都度ものにしていくことであるということは言うまでもないことである。 でもその一方で異なる教材を使って授業を補完する意味で求め、自分で学習することも欠かせないのではないかと思って一冊の本を購入した。 「サンスクリット 虎の巻」(平岡昇修)である。平岡氏は大谷大学で学んだ方だとお聞きしている。 そこで山本先生の授業に加え、私がこの本などを中心にして自習したことなどもこの欄に随時、書いていくことにした。 早速本日、同著から参考となるものを以下に記す。 まず、教科書にこれまで登場した文章に関係が深いような演習問題を取り上げてみる。 1 馬は山に向かって走る。 asvah parvatam parvatam prati dhavanti (aの上に−や´が付くケースや例えばhの下に・が付くことがしばしばあるんおだが、これは今の私のパソコン技術では表記が無理なので太字にすることにした) ▽ asvah (nom.pl) asva(m.)馬(たちは) parvatam (acc.sg)parvata(m.) (山) prati (ind)prati 〜に向かって(+acc.) dhavanti (3.pl.pres.) √dhav(ip)走る
2 村の至るところに木が生えている。 gramam sarvato vrksa rohanti ▽ gramam (acc.sg.)grama(m.) 村 sarvato (ind.)sarvatas(prep.)〜の至るところに(−o −ah) vrksa (nom.pl.) vrksa(m.)木(々が) (−ah) rohanti (3.pl.pres) √ruh(ip)生えている
3 烏が果物を食べる。 kakah phalani khadati ▽kakah (nom.sg.)kaka(m.)烏(が) phalani (acc.pl.) phala(n.) 果物(を) khadati (3.sg.pres)√khad(lp)食べる (2010年5月22日) 閑話:天皇陛下は25日、皇居内の水田でうるち米のニホンマサリともち米のマンゲツモチを合わせて100株をお植えになられた。</span> <span style="color:black"><span style="color:green"><b>瑞穂の国、日本・・・。</b></span> 昭和天皇は農家の苦労を御自ら知ろうとお始めになった。 <span style="color:black">そして今上天皇が引き継がれた。 <span style="color:brown"><b>私は小林一三(逸翁</span> <span style="color:green>大内や御手ずから青田風</b></span> この歌の号は逸翁とある。一三が逸翁と号したのは63歳のころである。 たぶんこの歌は一三が近衛内閣で商工大臣に任じられたころの歌ではなかろうかと思う。 逸翁68歳のころであろうか。 逸翁の歌にも共感できる。 実に素晴らしい皇室行事であるとつく思う <span style="color:green"><b>瑞穂の国、日本・・そのすばらしさ・・・<span style="color:blue">天皇自らがお示しになられる・・・</span><span style="color:blue">。</span></b></span> (2010年5月26日)
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